「フツーのずるさ」
さて、今日は BBS に「かっこいいお兄さん」から提示された「公案」の「フツーのずるさ」について考察してみよう。
二者択一の質問をしても、どっち付かずの「フツー」と答える子どもたち。極めて中途半端な手応えのなさ。これを「フツーのずるさ」と見る視点は、とても鋭いと思う。
さらに、BBS には「かっこ悪いお兄さん」まで乱入し、別の視点からの指摘をしてくれた。まさに、当サイトは「ヴァーリトゥード(禁じ手なし)」である。うれしいことである。
「かっこ悪いお兄さん」は、"「フツー」はずるさではなく、社会の矛盾に立ち向かう、子供達にすれば立派な知恵" という見方も提示してくれた。なるほど、そうした見方も可能だ。
彼の指摘は、以下のような裏付けを伴っている。
(いわゆる「フツー」でない)言動が個性的な子ども達は、「出る杭は打たれる」式に潰されていくか、反抗や非行や犯罪といった、メディアが非難するだけで根本的な「教育問題」に言及しないニュースに次々に登場していっている・・・
そうならないように、子どもたちは「フツー」を装う「立派な知恵」を身に付けているというわけだ。
ただ、これが「立派な知恵」かどうかは議論の余地がある。時と場合によっては、「猿知恵」だったり「狡猾さ」だったりもするからだ。それが小学校の先生である「かっこいいお兄さん」のいう「フツーのずるさ」という見方につながる。
結論をいえば、「フツー」は、本質的には善くも悪くもない。「相対的な善悪」が、人間の都合による言い方にすぎないのと同じで、「フツー」は、時と場合によって、善くも現れれば悪くも現れるというだけのことだ。
ただ、ちょっとだけ意地悪な見方をすれば、「フツー」は多くの場合、隠れ蓑である。人は個性的だと、誉められもする代わりに叩かれもする。しかし、「フツー」を装えば、とても安全なところに身を隠していられる。
「善人なほもて往生をとぐいはんや悪人をや」と親鸞は喝破した。「善人」とは、「俺は決して悪くない。悪い奴らは他にいる」と思っている「フツーの人」である。それよりも、「俺って、結構悪いかも」と己をきちんと省みることのできるヤツの方が、極楽往生を遂げやすいというのである。
「無自覚なフツー」は、「無明 = 迷い」そのものなのだ。それがわかれば、「悪人正機説」とは、昨日触れた "「知って犯す罪」より「知らずに犯す罪」の方が重い" というテーゼの、別の言い方であるとわかる。
「善人」を 「フツーの人」 、「悪人」を「フツーでない人」と読み替えてみよう。「俺、フツーじゃないかも」と、自惚れでなく、きちんと自覚できるヤツの方が、そりゃあやっぱり、ちょっとしたものなのだ。
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