「処世術」と「処世訓」
いわゆる処世術で始まって処世術で終わるというような話には、興味がない。どうすれば金が儲かり、どうすれば出世でき、どうすれば人に尊敬されるかといった話のみで、そこから先のない話は、徹底的につまらない。
それが高じて、一時は処世術に関するテーマで始まる話というだけで毛嫌いしていた。
しかし最近になって、ようやくのことで、そこまで極端ではなくなった。処世術で始まって、処世術以上のことで終わる話というのもあるのだと、理解し始めたからである。
優れた芸術家が芸術の話から説き始めて普遍的なテーマに及ぶのと同じように、企業人が金儲けの話から説き始めて、人生の機微、哲学的真理に及ぶ話も、稀にはあるのだとわかったのである。要するに、話の糸口が別なだけだ。
企業人の話が面白いか、面白くないかというのは、「処世術」で終わるか「処世訓」にまで高められているかの違いだと思う。たった一文字の違いだが、小さな違いが大きな違いである。
「処世術」 というのは、所詮は一時的なものである。「うまくやれば、当面はうまくいく」程度のものだ。一方、「処世訓」ともなると、後世にまで語り継がれるに足る普遍的な何物かを含んでいる。
近頃話題の内河健という人などは、「処世術」ということでは、かなりギリギリまでうまくやった人なのだろう。あんまり長生きしないでおけば、「先生」として尊敬されたままあの世に行けたかもしれない。そうなっても、死んで何年かしたら、ボロクソ言われるだろうが。
彼のやり方は、「処世訓」 としてではなく、「否定的教訓」 としては、とても大きなものがある。
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