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2005年12月26日

マーケティングにおける 「多様化幻想」

マーケティングのセミナーに行くと、現代は「多様化の時代」であると説かれる。さら 「今や "十人十色" どころか、"一人十色" の時代」などと力説する先生もいる。

こうしたお説の請け売りを、あちこちで吹聴するお偉方も多いが、恐縮ながら、「多様化」をあまり真に受けると、かなり危ない。

「多様化、多様化」と唱える方々は、自分の言っていることに一片の疑問も持たないのだろうか? 本当に、この世は多様化していると信じているのだろうか? 個性的な連中があふれかえっているとでも見えているのだろうか?

試しに周囲を見渡してみるといい。確かに完全に画一化されているというわけではないが、内実は見事に均質化された連中が多いではないか。この程度で「多様化」だの「一人十色」などと見えるのは、よほど前時代的な基準に照らし合わせているのではなかろうか。

本当は多様化しているのではなく、内部が見事に均質化したグループが、複数存在するだけである。こうした社会では、本当に個性的な人間になってしまうと、受け皿となる「グループ」がないので、当人がかなり強くないと生きていけない。

マーケティングの視点から世の中が多様化していると見えるのは、サプライヤー側としては、本当は効率のいいマスプロダクションで押していきたいのだけれど、なかなかそうはいかなくなって、苦労が増えたから、一見多様化していると見えるだけだ。

マーケティングの世界でよく言われることに、「日本の消費者は目が肥えている」というテーゼもある。これも真に受けてはいけない。そんなに目が肥えているなら、どうして高級ブランドの偽物がこんなに出回るのだ。

本物と偽物を見分ける目があればいいという問題ではない。ことさらな有名ブランドによりかかって自己表現したいという妙な価値観自体が、根本的な問題なのである。かくして、「多様化」しているはずの時代に、ルイ・ヴィトンが一人勝ちしてしまう。

いわゆるマーケティングというのは、基本的には「通俗社会学」の上に成立しているのだと認識しないと、勘違いをしてしまうことになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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