鏡の像の、左右と上下の謎
ウチのサイトの BBS 「知の海を泳げ!」 に、「かっこいいお兄さん」 から、"何十年も前からの不思議。「鏡に映すと左右が反対になるのに,上下はそのまま。どうして?」" というコメントがあった。
「知の関節技」 での考察に期待してくれているようなのである。
この問題は、私なんかがしゃしゃり出なくても、いくつものサイトで手を変え品を変え、説明し尽くしてくれている。Google で 「鏡/左右/上下」 というキーワードで検索してみると、なんと、238,000件がヒットする。
しかし、その中のページを眺めてみても、「なるほど!」 と膝を打って納得するような説明には、なかなかお目にかかれない。小難しい数学理論で説明されても、多分きっちりと正しいのだろうが、私のような理数系白痴は、「ストンと体感的に納得する」 までに至らず、つまりは、「腑に落ちない」 のである。
その中でも、その名も 「aranxp: 鏡が左右を反転するのに上下を反転しない理由」というブログの説明には、私も「なるほど!」と思った。(参照)
私自身はこれまで、「それは、自分が逆立ちしないから」と、いとも直観的に、しかし、論理的考察を尽くさないままで、中途半端に納得していたが、それは、「当たらずといえども遠からず」というところだった。
ここで私なりに、より直観的な文科系のレトリックで説明するとすれば、次のようになる。
もっともわかりやすい基本ケースとして、自分の背後にある時計が鏡の中に、自分自身の像の肩越しに映った場合を想定する。
まず、想像の中だけでいいから、後ろにある実物の時計に振り返り、正対して見てみよう。これは、この問題を考察するのに忘れられがちだが、実は最も重要なファースト・ステップである。このステップを踏まないと、この先、文科系は何も理解できない。
実物の時計に正対してみれば、時計はありのままに見える。当たり前である。この当たり前をまずしっかりと確認する。
そして、次のステップとして、おもむろに回れ右 (左右/前後方向の逆転) をして再び鏡を見る。すると、鏡の中の時計の像は左右反転している。しかし、それは時計の像が裏返ったというよりは、自分自身の 「視線の方向」 が回れ右して、 「左右/前後方向」 に裏返ったのである。
これは、相対的に置き換えれば、透明ガラスに時計の絵を描き、自分自身がガラスの絵の向こう側に行って振り返り、絵を裏側から見たのと同じ結果になる。
同じことをよりわかりやすい別の言い方に翻訳すると、次のようになる。
自分が後ろを振り向けば、時計は本来なら視界から消えてしまうはずなのに、たまたまそこに鏡があるので、時計はそこに右も左もなく、ただ単純平行的に像を結んでいる。しかし、それを見る自分の視線の方向が裏返っているので、透明ガラスに描いた時計の絵を裏から見るのと同じように見えるのである。
これでも腑に落ちないという人のために、えーい、ここまできたら、最終兵器的なレトリックでダメ押ししよう。これでも理解できなかったらどうしようもないというほど、単純明快な説明である。それは、こういうことだ。
もしも、半透明の鏡があったとしよう。いわゆる「マジックミラー」でもなく、あくまでも半透明なのである。その鏡は、モノを映して像を結ぶが、なにしろ半透明だから、向こう側の景色も見えるし、映った像を裏側から見ることもできるのである。
というわけで、この半透明の鏡に映った像を、「鏡の裏側」から見てみよう。すると、あーら不思議、結ばれた像の左右は反転していない。しかしそれは、不思議でもなんでもなく、「視線の方向」 が、実物の時計を見るのと同じ方向になってしまったのだから、当たり前の話なのだ。
ところが、その同じ像をフツーに「鏡の表側」から見ると、「視線の方向」が逆転しているので、あたかも時計の裏側から見たように見えるのである。
要するに、同じものを裏表からから見ているだけなのだ。フツーに鏡を見る視線は、延長してみれば、実物を裏から見ているのと同じ方向の視線なのである。
私同様、理数系白痴の文科系諸君、どうだ、わかったか。裏返ったのは、鏡に映った時計の像ではなく、あくまでも、自分の「視線の方向」なのである。
ところで、ここまでの説明で、「上下の逆転」については、まったく触れていない。ということはつまり、鏡の像の上下が反対にならないのは、人が鏡を見るときに「回れ右」をするだけで、逆立ちしないからである。「回れ右」と同時に、逆立ちもしてしまえば、鏡に映った時計の像は、左右だけではなく、上下も逆に見えるのである。
ただその場合、人は「逆さまになったのは自分の方であって、時計の像が逆さまになったわけではない」と、頭の中で余計な翻訳をしてしまうかもしれない。そんなことはどっちでもいいのに。ましてや、「回れ右」した時に自分の「視線の方向」が逆さまになったという重要ポイントについては、まったく無意識だったくせに。
そういうわけで、以上の考察は、2つの教訓を含んでいる。
1つは、ものの見え方というのは、「自分がどう見るか」という「視線」にかかっているということ。あるのはただ「視線」のみである。
2つ目は、人間の視線というのは、かくも重力を前提とし過ぎていて、「左右」は簡単にひっくり返るが、「上下」という観念には、容易には逆らい難いものがあるらしいということだ。
この問題に関しては、x軸、y軸、z軸なんていう七面倒くさい概念を使わなくても、文科系の日常的な言葉だけで、これだけの説明ができるのである。文科系の論理というのも、大したものなのだ。
もう少し時間ができたら、「知の関節技」 で、もっと詳細にきちんとレビューしたいと思っている。
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コメント
うーん、私は、左右反転はものすごく当たり前な気がして疑問に感じたこともありません。
逆立ちという発想は、なんでそう思うのかが
不思議で・・・
で、マジックミラーでなくても、薄い紙に時計を描いて、それを裏から見たらどうかなぁ。
実感としてわかるんではないかと。
投稿: kumi | 2005年12月 3日 08:03
kumi:
>うーん、私は、左右反転はものすごく当たり前な気がして疑問に感じたこともありません。
それこそ、素直でよい子の態度です。
>で、マジックミラーでなくても、薄い紙に時計を描いて、それを裏から見たらどうかなぁ。
実感としてわかるんではないかと。
あはは (^o^) それでも、バッチリと実感できますね。
ガラスなんか使う必要なかったか。
投稿: tak | 2005年12月 3日 08:35
遠くにいる宇宙人に向けて地球から映像を送ったとします。
宇宙人は上下と左右をさかさまに再生してしまいました。
上下の方向は重力に因るため、さかさまにすると物の動きが不自然になってしまい、宇宙人はすぐ間違いに気づきました。
しかし左右の方向はさかさまになっても映像に何の矛盾も無いため、宇宙人がそれに気づくことはありませんでした。
とかいう話が『左と右の科学』(ナツメ社)に載っていました(たぶん)
ちなみに私も鏡の件は疑問に思ったこと無いですねぇ。
むしろ、何で疑問に思うのかを疑問に思っていました。
自分の右側にある手は鏡の中でもちゃんと右側にあるし、上側にある頭は鏡の中でもちゃんと上側にあるし・・・。
右側にあるものが右側に、上側にあるものが上側に映っている以上、上下はおろか左右も逆になってはいないはず。
単に左右という区別が「自分の向いている方向によって決まる」というあいまいさを持っているために生じる問題ですよねぇ。
投稿: hrk | 2005年12月 3日 21:07
「我が青春の思い出ネタ」なので、思わず一気に記事にしてTBさせていただきました(笑)
で、今コメント読んで、hrkさんのひとことが自分の長文エントリを言い尽くしているとわかり、脱力。失礼しました...
そういえば、このことを夢中になって考えていたとき(高1くらいかな)、母親に「なに馬鹿なこと言ってるの」という目で見られた思い出が。母も「疑問に思うのか疑問」だったのでしょう。
投稿: つきっつ | 2005年12月 4日 00:13
hrk さん:
>単に左右という区別が「自分の向いている方向によって決まる」というあいまいさを持っているために生じる問題ですよねぇ。
右だの左だのと言うとややこしくなるんで、単に (重力方向はそのままで) 「裏返ってるだけ」 と思えば簡単なことですね。
投稿: tak | 2005年12月 4日 17:40
>hrkさんのひとことが自分の長文エントリを言い尽くしているとわかり、脱力。失礼しました...
私の言い方の、「視線の方向」 と共通する視点ですね。
>そういえば、このことを夢中になって考えていたとき(高1くらいかな)、母親に「なに馬鹿なこと言ってるの」という目で見られた思い出が。母も「疑問に思うのか疑問」だったのでしょう。
「疑問」 とまでは行かなくても、「自分の言葉ですっきり説明できない」 というのは、やっぱり寝覚めが悪いですよね ^^;)
投稿: tak | 2005年12月 4日 17:47