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2006年1月に作成された投稿

2006年1月31日

王冠を一つもらったのだけれど・・・

知のヴァーリトゥード」 は、以前から @nifty のオススメサイトである "Vippie" に認定されていたが、今週からさらに昇格して、王冠を一つ付けてもらえることになった。

アットホームページ」 というページの右側のサイドバーに、1月 30日から 2月 6日までの間、紹介されている。

「思わず引き込まれるネタの宝庫!(V)」という過分な紹介文まで付けられていて、恐縮の限りである。

まあ、こんな風に、せっかく昇格させてもらったのだから、確かに嬉しいことは嬉しいのだが、なんだか拍子抜けなのである。というのは、@nifty のポータルサイトで紹介されているのだから、そこからのリンクで辿ってくるアクセスが急増するのではないかと期待していたのだが、さっぱりなのである。

少なくとも、紹介初日の 30日に限って言えば、「アットホームページ」からのリンクでの来訪は、ゼロ。ゼロなのだ。あんまりじゃないか。

1件や 2件ぐらいのアクセスがあってもいいじゃないかと言いたくもなるが、掛け値なしに、ゼロなのだ。@nifty さん、このページ、ほとんど影響力ないぜ。もう少し、やり方を考えた方がいいと思うがな。

Strap

ちなみに、@nifty からは、王冠獲得記念プレゼントとして、こんなケータイ・ストラップが送られてきた。

Vippie 君が、ちゃんと赤い王冠をかぶっている。ただ、こんなのをケータイに付けて持ち歩きたくなるほど、私も若くない。

それよりも、くどいようだが、自分のところのポータルサイトの影響力をアップさせることの方が重要だと思うのである。

【同日 午後 3時 20分 追記】

「アットホームページ」 からのリンクが、1日半以上にわたってゼロというのは、いくらなんでもおかしいと思って、リンクのプロパティを調べてみたら、どうやら直接のリンクではなく、間になにやらバッファがかませてあるようだ。

それで、こちらのアクセス解析では、リンク元が 「不詳」 として表示されるのではないかと想像される。しかし、いずれにしても、大した数字じゃないようである。

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2006年1月30日

金の切れ目が、今こそ分かれ目?

ライブドアと新日本プロレスの共通点は、社員(契約レスラーを含む)が続々と会社を辞めているということだ。(参照 12

「金の切れ目が縁の切れ目」の世の習い。まさに奢れる者は久しからずである。ところで「切れ目」で思い出したのが「仰げば尊し」の「今こそ別れめ」という歌詞である。

迂闊なことに、私はつい最近まで 「今こそ別れめ」を「今こそ分かれ目」だと思っていた。「今こそ、それぞれの歩む道の分かれ目だぞよ」 ということだと思っていたのである。

ところが、これが大間違いだったのである。これは「こそ」という係助詞が来たら、述語は「已然形」で締めなければならないという、日本語独特の「係り結び」に則っているのであった。

元々の形は、「今、別れむ」で、意味は「今、別れよう」ということだ。この「今」に強調を表す「こそ」が付くと、「別れむ」は已然形の「別れめ」に変化する。「今こそ、まさに別れよう」という強調の意味になる。

そういえば、その通りなのだ。「金の切れ目が縁の切れ目」とは全然違っているのである。「こそ」+ 已然形で最も有名なのは、『万葉集』 の冒頭を飾る、雄略天皇御製と伝えられる長歌である。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち 
この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 
大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそませ 
われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

「われこそ居れ」「われこそませ」「われこそは告らめ」とたたみかける。もう、「こそ + 已然形」の係り結びオンパレードだ。

『徒然草』 に出てくる例では、「をりふしの移りかはるこそ ものごとにあはれなれ」というのがある。「年の初めのためしとて」で知られる 『一月一日の歌』でも、 「祝ふ今日こそ楽しけれ」と歌われる。

こうした例文を知っていながら、どうして今まで「今こそ分かれ目」だなんて思っていたのだろうか。きっと、「合わせ目」とか「縫い目 とか「結び目」とかいう言葉があるので、つい「分かれ目」と勘違いしてしまったのだろう。日本語はややこしいなあ。

ちなみに「こそ」+ 已然形の係り結びには、強調を表す以外の用法もある。「中垣こそあれ、一つの家のやうなれば」(『土佐日記』)というのは、「中垣はあるものの、一つの家のようなので」という意味だ。

この用法としては、添田唖蝉坊の演歌 『のんき節』 に「貧乏でこそあれ 日本人は偉い それに第一 辛抱強い 天井知らずに 物価はあがつても 湯なり粥なり すゝつて生きてゐる ア ノンキだね」というのがある。昔、高石友也も歌っていた。

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2006年1月29日

3ヶ月間のお祭り気分

さて、今日は旧正月、旧暦の元日である。現時点では、新暦と旧暦の差は 29日というわけだが、面倒なことに、それは常に一定というわけではない。来年の旧正月は、2月 18日と、49日間の差となる。

文字通り 「新春のお慶びを申し上げます」 と挨拶したくなる頃と言っていい。

なんでまた、来年の旧正月は、そんなに遅くなるのかというと、今年の旧暦には、7月が 2度あるからである。いわゆる、閏 (うるう) 7月というやつだ。

今年の旧暦 7月は、新暦の 7月 25日に始まり、8月 23日に終わる。普通なら、そこから旧暦の 8月が始まるわけだが、今年はそうはならない。8月 24日からもう一度 閏 7月が始まって、9月 21日まで続き、ようやく 9月 22日から、旧暦の 8月となる。

旧暦というのは、日本の季節感にかなり密着したものになっている。閏月というのも適当に設定しているわけではなく、二十四節気との関わりなどから、最も適切な時期に挟み込むのだ。だから、この流れで行くと、長い残暑が続きそうに思われる。

ところで、香港では、クリスマスの 1か月前あたりから街は派手なイルミネーションに包まれる。それはクリスマスが終わっても取り払われず、旧正月まで延々と街を彩り続ける。

来年は、11月の終わり頃から 2月の 20日頃まで、丸々 3か月にわたってイルミネーションが生き続ける。なんと 1年の 4分の 1にわたって、お祭り気分になるのだ。なかなか大したものである。

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2006年1月28日

もし、全能の神だったら

一昨日のエントリーで、「全能者(要するに「神」)を否定するロジックに対する反論」というテーマから、少し話を広げてみた。

「全能ならぬ人間は "全能の神" を試すことはできない」という前提からの展開だったのだが、もうちょっとくだけた視点から遊んでみてもいいような気がしてきた。

念のため、話の行きがかりを改めて記しておこう。全能者の否定とは、以下のようなロジックである。(「秋久のページ」より要約)

まず、全能者がいると仮定し、彼に「絶対に折れない棒を作ってください」と頼む。彼は全能だから、「絶対に折れない棒」を作ってくれたとする。次に、彼に「その棒を折ってください」と頼む。

もし彼が棒を折れば、最初の条件「絶対に折れない」と矛盾し、棒が折れなければ、彼の「全能」と矛盾する。棒が折れても折れなくても、矛盾が生じるので、全能者は存在し得ない。

今回は、「もし自分が全能の神ならば」という滅茶苦茶に不遜な条件で、こんなお馬鹿なことを言う人間にどう対応するか、考えてみた。以下、神ならぬ者のお遊びである。

  1. 「今、お前らの世話で忙しいから、後にして」と言って取り合わない。

  2. 「よくそこに気付いたね」と誉めてあげて、あとはウヤムヤにする。

  3. 「お前如きがそんなことを言うのは、一千那由多年早い!」と一喝して、ドツく。

  4. 「哀れな子羊よ、目に見えるモノは、全て夢マボロシじゃ」とうそぶいて、煙に巻く。

  5. 「何で全能の神のわしが、お前らの世迷い言にいちいち付き合わなければならんのじゃ!」とキレて見せる。

  6. 「仮定の上になりたった話は、気に食わん!」と宣言して、相手にしない。

  7. 「わしが『折れてる』と言ったら、折れとらん棒でも、折れとるんじゃ! それとも、指ツメる?」と、めっちゃ強面に迫る。

  8. 「折って見せてもいいが、それは、お前たち人間が到底生存できない次元に行かなければならない。それでもいいか?」と、逆に脅す。

  9. 「"根元的全能" は、ちゃちな "論理的絶対" を超越するのじゃ!」 と、軽い気持ちでポキンと折ってしまう。しかし、それは人間の目には折れているように見えないので、「折れてないじゃないですか」とクレームを付けられるだろうが、その時は「愚か者め!」と一喝して、それで済ませてしまう。(これは、前項のロジックの裏返し)

  10. 「絶対に折れない棒」なんていう考えを、強制的に忘れさせてしまう。

  11. そんなアホなことを考えないように、人間の頭脳から大脳を取り去る。(「バベルの塔」の時よりも酷い仕打ち)

  12. 「お前らも "全能" とはどんなものか、体験してみればわかる」 と言って、人間にも全能を与えてしまう。そして、人間どもがそれをもてあまして難儀するのを見て楽しむ。

と、以上のようなことを考えてみたが、他にもアイデアがあったら、コメント欄に書き込んでいただきたい。あるいは、大々的に展開する場合は、トラックバックでどうぞ。

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2006年1月27日

急ぐな、レクサス!

私は昨年 8月 27日付で、トヨタの新戦略ブランド「レクサス」について、「成功するにしてもかなり時間がかかる」と予言している。

その後、伝えられるのは「レクサスの販売好調」という報道ばかりだったが、結局は「販売は目標の半分にとどまる」ということに落ち着いたようだ。「ほぉら、やっぱりね」である。

私のエントリーの直後、8月 31日の Nikkeibp には、「早くも納期待ち、年内分完売の車種も」なんていう記事が載り、さらに車関連の情報サイト Response には、10月 31日付で 「販売好スタート、受注台数が目標の 2倍」という記事が載るなど、ずいぶん景気のいい話だったのである。

私としては、「おかしいなあ」と、内心穏やかではなかったのである。こういう話は、私の直感はかなりよく当たるのだが、どうやら今回ばかりはトヨタの底力の前に降参かなと思っていたのだ。

しかしそれにしては、街でレクサスの車なんて、それほどには見かけない。オーナーたちは購入したはいいが、もったいなくて車庫にしまいっぱなしなのか? それとも、発注はしたものの納品待ちで、まだハンドルを握れないとでもいうのか?

実は、そのどちらでもなかった。要するに、さほどは売れてなかったのである。販売開始直後は新し物好きのご祝儀発注が膨らんだが、その後はたちまちスローダウンしてしまったようなのだ。

高級ゾーンで名を売ったブランドが、ワンランク下の大衆品(「ディフュージョン・ブランド」なんていう)を展開する場合には、マーケティングは案外楽だが、大衆品のサプライヤーが高級品に上向きシフトするというのは、かなり大変なことなのだ。

しかも、レクサス・ブランドのスタートにあたり、フラッグシップ車種となるべき LS(旧セルシオ)の開発が間に合っていない。トヨタとしては尾張人の慎重さで、比較的安めの車種から投入して動向を探ろうという思惑もあったのかもしれないが、やはりインパクトに欠けたのは否めない。

レクサスとしては昨年夏以降、イメージ構築に必死の努力をして、LS 投入後はさらに上のイメージを作らなければならない。ゴムが伸びきった状態では、かなりしんどいかもしれない。

個人的な趣味としては、地球にやさしい「エコ」な生活が求められる現在、3リットルだの 4リットルだのの大型エンジンを積んだ車に乗ろうなんていう気は、負け惜しみじゃなく、さらさらない。マーケット的には、案外辛いところだと思う。

いくら景気が回復しているといっても、レクサスの成功には、やはり時間がかかるだろうと思うのだ。

【平成18年 9月 12日 追記】

その後の経過は、「レクサスは失敗したわけじゃない」(H18.06.12) に記載されている。

 

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2006年1月26日

「全能の神」って、想定内?

Reiko Kato さんの「晴れの日もある」で紹介されていたのだが、「秋久のページ」に、全能者の存在を簡単に否定するロジックに対する反論というのが披露されている。

「全能者」とは、すなわち「全能の神」ということだろうから、要するに「あなたは神を信じますか?」というテーマにつながるだろう。

まず、「秋久のページ」で紹介されている「全能者の存在を簡単に否定するロジック」を、引用してみよう。これは、筆者が 17歳頃にクリスチャンである数学の先生から教わったものだという。

 まず、全能者がいると仮定する。彼に向かって、『絶対に折れない棒を作ってください』と頼む。彼は全能だから、『絶対に折れない棒』を棒を(ママ)作ってくれたとする。
 次に、彼に向かってこう言えばよい。『その棒を折ってください』と。
 もし彼が棒を折ったとすれば、最初の条件である『絶対に折れない』と矛盾する。逆に、棒が折れなければ、それは彼の 『全能』と矛盾する。棒が折れても折れなくても、全能は否定される。だから全能者は存在し得ない

このロジックに対して、秋久さんは、以下のように反論している。

私たち人間が、全能の神に向かって『絶対に折れない棒を作ってください』と言います。ここまでは先ほどと同じです。すると全能の神は、『人間には絶対折ることができないが、神には折れる棒』を作ります。人間には折れない棒、すなわち、人間の文明がどれほど発達しても折ることの出来ない棒です。しかしその棒は、神の文明(?)を用いれば折ることの出来るのです。
 その棒を見た人間が、全能の神に向かって『その棒を折ってください』と言います。そうすれば、神はいともたやすく自分の作った『神には折れるが、人間には折れない棒』を折ることでしょう。

この反論には、多少無理がある。「絶対に折れない棒」と「神には折れるが、人間には折れない棒」という命題自体が矛盾するからだ。「絶対」対「全能」の矛盾である。

秋久さんは、さらに、以下のように言及している。

 この話は、全能の存在を許すわけではありません。もし全能の神に向かって「神でも折ることができなお(ママ)棒を作ってくれ」 と頼めば、最初の話に従い、全能は否定されます。それでは、クリスチャンは全能の神を信じないのでしょうか?

私が今まで話をしたことのあるクリスチャンの方によると、「人間は神を試してはいけない」という事です。

なるほど、クリスチャンの信仰は徹底したものである。しかしより徹底した言い方をすれば、「人間は神を試してはいけないどころか、試すこと自体が不可能である」ということになるだろう。

もし「全能なる存在」というものがあるとすれば、全能ならざる人間(あるいは 「人間の論理」)は、それを試したり検証したりできるレベルにないのである。二次元世界の住人が、三次元世界の住人を想像することができないのと同様だ。全能なる神とは、いわば、無限大次元の存在なのだから。

それ故に、人間は神の存在を証明することができず、ただ「想定する」だけである。自ら想定して、自ら信じるのである。信仰とはそうしたものである。

ということは、人間が存在しなければ、神も存在しないかもしれないのである。その意味では、人間というのは大したものである。全能者が「想定内」なんだから。このあたりは、「全ての者に仏性がある」と喝破する仏教に近くなる。

全能なる神は、幼稚な論理で神の存在を否定したつもりになっている人間をも、その無限の愛もて摂取し、生かし続けてくれるだろう。そして、その全能なる神は、全存在をかけて想定、つまり信仰する者の中に存在するのである。

宇宙は「全能」を想定しうる者を、大脳皮質を超えたレベルで「全能者」とつなげ、無限に生かしてくれる。

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2006年1月25日

肉を食わされるのは、かなわんね

昨夜は某団体の新年懇親パーティに出席。この席には片山さつき、平沼赳夫両衆院議員も参加され、それぞれ勇ましい挨拶と、誇り高い挨拶をされたが、その内容には敢えて言及しない。大方の想像はつくだろうから。

それよりも、日本人の「食の好み」というものについて述べようと思う。

来賓の挨拶と乾杯が終わると、それぞれ、好きな料理を皿に取って食べるわけだが、最近はどのパーティに行っても、一番人気はローストビーフである。大きな肉の塊を切り分けてくれるシェフの前に、長蛇の列が並ぶ。

業界のパーティに出席するようなアグレッシブな人たちは、皆さん、お肉が大好きなようだ。今回の米国牛の輸入ストップについては、かなり複雑な思いがあるのではなかろうか。

一方、私が最近付き合っている人たちの多くは、「中年過ぎると、肉を食わされるのはかなわんね」 と言う。肉よりも魚、野菜の方がありがたいというのだ。実は、かくいう私もそんな一人である。

仕事で欧米に行くと、ステーキハウスに誘われることが多く、とくにベジタリアンというわけでもない私は、仕方なく付き合うのだが、本心は「何が悲しくて、何百グラムだかの牛の肉なんかを腹に詰め込まなきゃならんのだ」と思っている。

そりゃ、相撲取りの草履みたいな巨大なステーキでも、出された以上、私は完食する。しかし、それは食いたくて食っているというよりは、もったいないから、日本男児の誇りにかけて食っているのだ。そのくせ、私を誘った方が半分も残すんだから、困ったものだ。

そもそも、ビーフステーキとかローストビーフなんていうのは、牛より他にまともに食えるもののない、貧相な土地の食い物ではないか。ペンペン草しか生えないので、それを牛に食わして、ようやくその牛を食う。面倒な話である。

ところが、最近の牛はそうじゃないらしい。牛が人間の食物であるはずの穀物を大量に食っているのだ。「肉食は私たちをどこに導くのか?」 というページには、次のように書かれている。

NHK の番組によると、世界のトウモロコシ年間生産量約六億トンのうち、約四億トンまでが穀物飼料に使われています。その穀物飼料の一割でも人の食用に回せば、世界から餓えはなくなるというのです。もしそうした場合、肉の生産量は減りますが、それは米国人と日本人が五回に一回、肉料理を減らすだけでしかありません。

我が家は肉の割合がかなり少ない食事をしていると思うのだが、そこまでいかなくても、血の滴るようなビーフステーキへのこだわりをちょっとだけ減らせば、世界の飢餓はかなり救えるというわけなのだ。

もちろん、国際的な政治や流通の問題もクリアしなければならないだろうが、とりあえず、肉をたらふく食うということは、飢えに苦しむ何億人もの人たちの犠牲の上に成り立つ行為なのだということを、ちょっとだけでいいから認識しなければならないだろう。

「単なる個人的な好みの問題」といえども、ほかの諸問題とまったく無関係に主張できるというほど、この世は甘くないのである。そして他との関係を意識すると、個人的な好みまで変化するということだってある。

例えば、料理屋で食事をすると、刺身のつまの千切り大根を丸々残す人が多いが、私は残らず平らげる。それは、「もったいない」というよりは、あれを食わないと、何だか口の中が熱っぽくなって、すっきりしないからなのだ。

大上段に振りかぶったベジタリアンやエコロジストの社会運動よりも、私としては、「肉を食わされるのはかなわんね」 という意識に、ちょっとだけ変わればいいことだと思っている。

【2月 3日 追記】

このエントリー、あちこちのニュースサイトで、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」というタイトルで紹介され、かなりな反響を呼んでしまった。

アクセスがムチャクチャ増えたのは嬉しいのだが、私としては、「米国人と日本人が 5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」なんて、一言も言っていないのである。ただ、NHK の番組を紹介したウェブのページの引用をしただけである。

その引用だって、計算上の話を紹介しているだけで、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」なんて単純なことを言っているわけではない。

しかし、「米国人と日本人が5回に1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなるなんて、間違いだ」との反論があちこちでなされているみたいなのである。

そんなの当たり前である。政治、経済、流通の問題を抜きにして、そんな単純なことは言えない。

トラバしてくれればまだいいのだけれど、それもないんで、まあ、私としては放置しているのだけれど、「米国人と日本人が 5回に 1回肉料理を減らすと、世界から飢餓がなくなる」というタイトルは、ちょっとありがた迷惑だったような気がしている。

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2006年1月24日

凡人には書けない、ホリエモンの 「社長日記」

ホリエモンが逮捕されたというニュースを聞き、初めて思い立って、彼のブログ 「Livedoor 社長日記」 というのを読んでみた。

感想。ちっとも面白くない。一緒に酒飲んでも、面白い話題なんかない人なんだろうなあと、そんなことは前々から思っていたけれど、改めてその感を強くした。

ちょっとだけ興味を持ったのは、彼の 22日の(つまり逮捕直前の)日記の、以下のテキストだ。(以下引用)

疑いをかけられている(と明確にわかる強制捜査時の捜査令状、これはもらえないしコピーもとらせてもらえないので内容は100%覚えていませんが)件につきましては私は身に覚えがないですし、報道されている件は誰がどこでどう調べたのかもわからないような代物ですので、なんともコメントのしようがありません。

ホリエモンという人のレトリックというか、思考回路というか、もっと言えば生き方というか、さらにもっと言えば世の中のなめ方というか、そんなものを知る一端となりそうな、妙に面白い文章である。

捜査令状の内容は覚えていないけれども、それに関しては身に覚えがないと言っている。覚えてないことについて、覚えがないというのは、ウルトラ D 以上の天才的に素晴らしいレトリックだ。

もしかして、「100%は覚えていないので、忘れてしまった部分に関してまで身に覚えがないと言っているわけではない」ということなら、さすがにホリエモンである。こんなところまで抜け道を用意してあるわけだ。

「報道されている件は誰がどこでどう調べたのかもわからないような代物ですので、なんともコメントのしようがありません」というのも面白い。「誰がどこでどう調べたのかもわからないような代物」であれば、なおさらきちんとコメントすべきなのだが、さすが、ホリエモンはそんな月並みの対応はとらないのである。

要するにホリエモンという人、「俺のやったことの、どこが悪いんだよ。悪くなんかないじゃんかよ。君たちの思いもつかなかった法律ギリギリの手法を、堂々と採用しただけじゃん」と言っているのである。

しかし、確かに大筋では「法律ギリギリ」だったかもしれないが、その辻褄を合わせるために、細部ではやっぱりちょっとばかり行きすぎの点もあったようなのだ。しかしそれはホリエモンにとっては、「法律ギリギリ」の延長線上にある、ヒヤヒヤもののエピソードの一つという程度に過ぎないようなのだ。

「それって、そんなに問題なことなの? だって、仕方ないじゃん、俺のやり方をすれば、必然的にそういうことになるじゃん、別に誰にも迷惑かけてないじゃん」 って感じなのではなかろうか。

この人、案外自分の中だけで生きてるみたいなのだ。人の話なんて、きっと聞かない人なんだろうなあ。

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2006年1月23日

日本はそんなに狭くない

「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」 という標語が、一時とてももてはやされた。

最近は、「エスカレーターを駆け上がる人のために、ステップの片側を空けておく必要なんかない」と言う人もいる。「せかせかせずに、ゆったりと行くのが、人間としてエレガントなのだ」というメッセージである。

似たようなメッセージはいくらでもある。新幹線がスピードアップする度に、「たかだか 10分や 15分早く着いたところで、どうなる。それよりも、窓を開けて駅弁を買いながら旅する風情が懐かしい」という人は、今でも多い。

その気持ちはよくわかる。私だって、できればあくせくせずに、何事にもゆったりと構えて生きていたい。しかし世の中、なかなかそうとばかりは行かないのだ。急がなければならない時には、何としても急がなければならない。

上述のエスカレーターに関する意見は、某ラジオ番組で聴取者からの投書として紹介されたものだ。その投書は「駅のホームのエスカレーターは、体の弱い人のためのもので、元気な者が急ぎたかったら、階段を駆け上り、駆け下りすればいい」というものだった。

この投書をした人は、電車 1本の差を争うほど、一刻も早く目的地に着きたいという、切羽詰まった事情を経験したことのない人だろう。ある意味、幸せな人である。

人間、幸せすぎると、例えば親の死に目に会いたくて、1本でも早い電車に飛び乗りたいと願う人が、同じエスカレーターに、行く手を阻まれて絶望的にいらいらしながら乗り合わせているかもしれないなどという想像力が、まるで働かなくなるのだろう。

ゆったりと行くのがエレガントなことであり、自分は何が何でもエレガントにこだわりたいと言うなら、いくらでもゆったりと行けばいい。しかし、急ぎたい者には、それなりの事情がある。ならば、急がせてあげればいいのである。

自分がエレガントでありたいがために、急ぎたい事情のある他人の道までふさぐのは、アロガント(傲慢、横柄)な態度である。

「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というが、そもそも、日本はそんなに狭い国ではない。身内の危篤の知らせを聞いて、東京から新幹線に飛び乗る者に、そんなことは口が裂けても言えまい。

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2006年1月22日

この程度でオタオタする「関東の大雪」

21日の関東は、天気予報通りに雪になった。たかだか 9センチや 10センチの積雪でも、関東では十分に「大雪」なのだ。

もっともこの雪、降り出すのも降り止むのも、当初の予報から半日ほど遅れたので、具体的な対策という点では、私ごときの個人ベースでも、ちょっとした混乱を生じさせた。

大雪前日、20日の夕方あたりまでは、天気予報が言うには、雪の振り出しは 20日夜からで、21日の昼頃には降り止むだろうということだった。

だから、21日の朝に外出する妻を車で送る予定になっていた私は、タイヤチェーンを巻いて準備をしていたのである。前日夜から雪が降り始めたら、土曜の朝は、大通りでも雪がかなり解け残っているだろうと思ったからだ。

ところが、振り出しが夜明け頃になったため、大通りはさほど雪が積もっていなくて、せっかくまいたタイヤチェーンがあまり役に立たなかった。

そして、昼過ぎに妻を迎えに行くときには、大通りはかなり雪が解けていたため、さっさとチェーンを外してしまった。雪はもう峠を越して、後は解ける一方だろうと思ったからだ。

ところが実際には、雪は昼頃からますます勢いを増して、夜の 9時過ぎまで降り続いた。夜、末娘から「駅まで迎えに来て」と電話が入ったときには、大通りもシャーベット状になっているではないか。こんなことなら、せっかく巻いたチェーンを外すんじゃなかった。

太平洋側に雪をもたらした低気圧は、予想に反してずいぶんゆっくりとした動きだったらしいのである。

天気予報は、関東に「大雪への警戒」を促した点では「総論 OK」だったが、具体的な対策のタイミングが半日ずれてしまったという点では「各論不十分」だったわけだ。

まあ、天気予報というのは、それだけ難しいということなのだな。この程度で文句を言ってたら、本当の大雪に奮闘している日本海側の人に申し訳ないから、あまりぐたぐた言わないでおこう。

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2006年1月21日

あられもないクイズ番組

19日の午後 7時台、ウチの "「小股ってどこか」 よりも大切なこと" というページに、にわかに 180件ものアクセスが集中。それが 8時台には 7件に激減した。

またどっかのテレビで、日本語クイズか何かやったのだろうと思っていたら、どうやら TBS の 「日本語王」 という番組だったらしい。

最近、この手のクイズ、ウンチクの番組が流行るなあ。

ちなみに、この番組の問題というのは、ウェブ上で知ることができる。問題用紙解答用紙正解が、ダウンロードできるのだ。注目の、「テレビ放送とインターネットの融合」 の、初期のコンセプト実現といったところかもしれない。

問題用紙を見ると、「小股」に関する問題は、最初の出題だったことがわかる。道理で、7時台の前半にウチのページへのアクセスが集中したわけだ。こんな出題である。

第1問 【こまた小股の切れ上がった】 正しい意味は?
A,目尻がつり上がっている
B,足がすらりと長く粋である
C,足首がキュッとしまっている

正解は、「B」。つまり 「足がすらりと長く粋である」 ということになっている。

まあ、私としてもそれに異論はないが、ウチのページで紹介したとおり、「小股」には諸説あって、「足首がキュッとしまっている」と言う説もかなり根強いものがある。

それに、「小股」 について論じた 10月 30日付の私のブログには、お馴染みの 「かっこいいお兄さん」から、以下のようなコメントまで付けられている。

どこかで聞いたことがある。
切れ上がる小股というのは
「目尻」 のあたりか 「口元」 「唇」 にかんするものではなかったかと。
とにかく「顔」のどこかにあるはずです。多分。

要するに、何でもありなのだ。最も一般的な答えは確かに「B」 なんだろうが、一部では、目尻とか足首とかの方で、固く信じている人も少なからずいるのだから、「B」 以外は不正解とは言いにくい。

それに、第 5問 だって異論がある。こんなのだ。

▢に入る漢字を書いてください
同▢異▢

正解は「同床異夢」というのだが、私は「同工異曲」と答えたぞ。これだって、正解なのに、無視されている。ちょっと不愉快だ。

第 15問も、ちょっと一言、言わしてもらいたくなる。こんなのだ。

「あられもない格好」の【あられもない】、正しい意味はどっち?
A,ふさわしくない
B,恥ずかしい

正解は、「A , ふさわしくない」である。「その場にはありようがない」という原義から、「ふさわしくない」ということになるのだ。

しかし、近頃の用法では、「アラレもない格好」と言ったら、「見てる方が恥ずかしくなるような格好」という意味合いの方がずっと強い。単に「ふさわしくない」という意味合いで「あられもない」という言葉を使ったら、かえって「あられもない」印象を与えるだろう。

言葉というのは、本当に難しいものなのだ。

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2006年1月20日

「けやき」の語源

日本を代表する広葉樹にケヤキ(欅)がある。日本植物学の父といわれる牧野富太郎博士は、自著 『牧野日本植物図鑑』に、"「けやけき木」− 顕著な木" というのがその語源だと記しているという。

学界の権威に楯突くのはおこがましいが、これについて、ちょっと疑問を述べたい。

(社)全国森林レクリエーション協会という団体が運営しているサイトにも、次のような解説がある (参照)。

材が強靱(きょうじん)で、狂いが少なく、木理(もくり)が美しく、長大な柱や板が得られるなど実用性が高い木です。名は、尊(とおとい)(ママ)とか秀でたという意味の「けやけき木」からついたといわれています。

「けやけし」という古語は確かにある。しかしそれを単純に「尊い」とか「秀でた」とかいう意味だとするのは、ちょっと疑問なのだ。

なにしろ上記のサイトは、日本語表記からして怪しい。「尊(とおとい)」との誤表記は、「尊(とうと)い」と添削しておく。本来は「尊(たふと)し」 だから、現代表記でも「とおとい」ではなく「とうとい」で、最後の「い」が送りがなである。

「けやけし」という語を、手持ちの三省堂『例解 古語辞典』で引くと、次のように説明されている。

けやけし <形ク 4.5> (原則として、悪い意味において普通ではなく、きわだっていて注意を引くような状態について用いられる) 特別だ。異様だ。特にきわだっている。ひどく目ざわり、耳ざわりだ。

どうも、元々はあまりいい意味ではなかったようなのだ。

Goo 辞書(三省堂提供「大辞林 第二版」)では、以下のようになっている。

けやけ・し

(形ク)
(1) 普通と違っている。尋常でない。異様だ。
「末代には、―・き寿もちて侍る翁なりかし/大鏡(昔物語)」
(2) 目に立つ。きわだっている。
「下文字―・く置きてしかるべく侍らん/去来抄」
(3) ひときわすぐれている。すばらしい。[日葡]
(4) はっきりしている。
「人の言ふほどの事―・く否びがたくて/徒然 141」

(2)の「目に立つ。きわだっている」という意味の用例は、「ことさらに目立つように書く」というようなことだろうし、(4)の「はっきりしている」という意味の用例も「遠慮会釈なく言い放つ」というようなことだ。いずれにしても、無条件にいい意味というわけではない。

(3) だけが単純に「ひときわすぐれている。すばらしい」という意味になっているが、これは、日葡辞書から引いたものらしいので、後世の使い方とみられる。

「凄い」という言葉の意味も、本来は「恐ろしい」とか「気味が悪い」とかいうものだったのが、現代では「すばらしい」という意味でも使われるようになったのだから、「けやけし」にも似たようなところがあったのだろう。

だからといって、ケヤキの語源が「尊い木、秀でた木という意味の " けやけき木"」から来たというのを、そのまま無条件に信じるのも、なんだかなあという気がする。

何で私がこんなことを疑問に思ったのかというと、23年前の引っ越し当初には、我が家の階段の踊り場からきれいに見えていた筑波山が、川向こうの家の庭のケヤキが大きく育って邪魔するものだから、近頃、とんと見えなくなってしまったからである。

それで、ケヤキというのは、目障りなほど大きな木 − 「けやけき木」という意味なんじゃないかという考えが、ふと浮かんでしまったのだ。(どんなに目障りかは、私の別ブログ "Wakalog" の画像を見ればわかる)

「全国有名仏壇店ネット」というサイトの 「お仏壇の材質 欅について」 というページには、次のようにある。

しかし国内各地にケヤという方言があるので、あるいは何か違った意味があるのかもしれない。

ただし、これは「けやない」で「大したことがない」という意味になることが多いので、「けやけし」と同根の言葉と見てもいいだろう。

同じページに、次の注目すべき記述もある。

またケヤキの名称は近代の言葉であって、古くはツキと称し万葉集にはすべてツキの名称で出ている。例えば高市黒人の歌で 「とく来ても見てましものを山城の高のつき群 (むら) ちりにけるかも」 などがある。現代でも和歌や俳句ではツキと呼ばれている方が多い。「吹流しすがしや観 (つき) と粒び立つ」 (秋桜子) といった句もある。

とすると、もしかしたら、この木が「ケヤキ」と呼ばれるようになったのは、「けやけし」という言葉に単純な良い意味が定着してからなのかもしれない。だとすると、あの世の牧野博士には 「とんだ言いがかりを付けて、ごめんなさい」と謝らなければならない。

でも、まだ確証はないから、軽々しくは謝らないでおくことにする。

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2006年1月19日

ホリエモンとオジャマモン

何度も書いていることだけれど、私はホリエモンという人は好きじゃない。ただし、好きじゃないからといって、まともな批判にもならないような感情的鬱憤を書こうとも思わない。

しかし、世の中のエスタブリッシュメントの中には、気に入らない存在は叩いてしまえばいいと思ってる人が多いみたいなのだ。

それにしても、今回のライブドアへのガサ入れへの反響はすごい。テクノラティ・ジャパンで「ライブドア」をキーワードに検索してみると、18日の夜中頃は、1分に 3件ほどのペースでこの件に関するブログが書かれているのがわかる。

ヒューザー小嶋社長(当人は「オジャマモン」と呼ばれたがっている)の証人喚問に、狙い済ましたように大々的に特捜を投入し、しかも、マスコミの飛びつきそうなおいしい情報を少しずつ小出しにしていく手法は、ホリエモンを出汁にしてオジャマモンをかばっているようにしか見えない。

ライブドアとヒューザーでは、これまでの政界での餌付け作業に雲泥の差があったのだなと想像させるに十分な仕打ちである。今回は、宮崎勉の死刑判決確定程度では、オジャマモンの隠れ蓑には足りないと判断されたに違いない。

そりゃ、あれだけ短期間のうちに会社を急成長させたのだもの、法律すれすれや、半歩や一歩踏み越えたようなことを、ホリエモンがまったくしてないわけはない。しかし、それは他の会社だって五十歩百歩だろう。

似たもの同士の横並びが、大抵の場合見逃してもらえるのは、「目に余るやんちゃ」をしないからである。公道で制限時速 10km/h オーバーなら絶対に捕まらないようなものだ。しかし、クラクションを鳴らしっぱなしで 50km/h オーバーで走ったら、確実に捕まる。

特捜があれだけ動いたのだから、風説の流布だとか粉飾決算といった程度のことで済むとも思えない。今回のケースでは、情報を小出して話題を長引かせているようなところがあるから、まだ何かが出てくる可能性がある。下手したら脱税みたいなところまで話が膨らむかもしれない。

ただ、エスタブリッシュメントにしてみれば、どこの馬の骨かわからないホリエモン程度の存在は、このまま抹殺してもいいぐらいに思っていただろうが、株式市場の大混乱という予想以上の影響に、少し戸惑っているところかもしれない。

本当に完全に引導を渡すところまで行ったら、さらに混乱するだろう。ここ 2日間で、市場はかなり過剰反応して見せたから、それはもしかしたら、ライブドアにとってはちょっとだけ助け舟になるんじゃなかろうか。

日本の株式市場は、「ヤクザな新興 IT 企業」がちょっとお灸を据えられただけで大混乱するほどの質的変化を、いつの間にか遂げていたんだなあ。

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2006年1月18日

文科系ブログのアクセスアップには

世の中にはブログランキングというものがあって、そこでのランクが、アクセスに一定の影響を及ぼすようなのだ。

そのブログを読んだ読者が、ランキングへのリンクをクリックすると、一票を投じたことになり、その分だけランクが上がるらしい。ふぅん、結局ランキングサイトが儲かる仕組みか。

こう言っちゃなんだけど、ランキングが上位のブログを覗いてみても、それほど面白いのばかりというわけではない。ランキングサイトへのクリックを上手に誘導しているだけのサイトというのも、ずいぶん混じっている。

だから、私はブログランキングを利用して面白いブログを探そうとは、あまり思わない。ブログ運営者から見ても、ランキングから来た読者がそのまま固定読者になってくれるとは、それほど期待できないだろう。

というわけで、私は自分のサイトのアクセスアップに関する方策を、あまり講じていない。本宅サイトの 「知のヴァーリトゥード」 では、サイトをスタートさせた初期から「かんたん相互リンク」というのをやっているが、相手のあることだから急にも止められず、ずるずる続けているだけだ。

実際問題としてアクセス分析でリンク元を辿っても、「かんたん相互リンク」 から来てくれるアクセスなんて、1日に 1件ぐらいのもので、全くない日だってずいぶんある。あまり有効なアクセスアップ・ツールとも思われないから、当然力も入らない。

このブログ、"Today's Crack" の方も、とりたててアクセスアップにつながるようなことは何もやっていない。ランキングにも参加していないし、RSS や アンテナに自動登録されるバナーを置くなんてこともしていない。

私の読者の多くは、RSS だの、「はてなブックマーク」だの、ちょっと込み入った仕組みになると、あまり興味を向けないようなのである。一方、それらに興味をもつ層の中で、私のブログに関心を持ってくれるような人も、極めて少数派のようだ。

私とて「はてなアンテナ」程度ならかなり有効に使っているつもりだが、それすら私の固定読者にはあまり馴染み深いとも思われない。リンク元を辿ると、アンテナで巡回してくれている人というのは、本宅、ブログを合わせて 30人ぐらいのものだ。固定読者全体の、15%程度に過ぎない。

ましてや、はてなブックマークからは、5人程度、はてな RSS からは、たったの 1人である。

どうやら、私のサイトの読者の多くは、かなり「文科系度」が高いような気がするのである。システムを活用するより、単純に「お気に入り」にブックマークして、頻繁に覗いてくれているという人たちである。考えようによっては、最もありがたい読者である。

いずれにしても、私のサイトはきちんと毎日更新されているので、アンテナや RSS なんかで押さえておく必要性は薄い。毎朝覗いてくれれば、よほどのことがない限り、ちゃんと最新記事を読むことできるのだから。

そんなわけで、私としても、あまり効果の大きいとも思われない新システム方策への対応に時間を割くというのは、なんだか馬鹿馬鹿しいことのように思われるのである。

そんなことより、内容のレベルアップを心がけながら、きちんと毎日更新するとことの方が、ずっと効果があると思うのだ。これこそ文科系ブログのアクセスアップの王道だと信じている。数字は後から付いてくるのだ。

てなことを言いながら、テキトーな私のことだから、そのうち暇ができたら、ランキングなんぞにチャレンジしてみないとも限らない。まあ、本当に暇ができたらだけど。

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2006年1月17日

なんと、ノロウィルスだったらしい!

もう少しで 17日の更新を忘れるところだった。このところ忙しくて、なかなかまともな記事を書く時間が取れないでいたところ、妻が「ノロウィルス」とやらでダウンしてしまったので、ますますバタバタしてしまった。

ノロウィルスというのが、こんなにも身近に迫っているとは知らなかった。

ノロウィルスというのは、老人がかかると死んでしまう懼れもあるという認識しかなかったので、まさか単なる「腹に来た風邪」というのがノロウィルスとは、気付かなかった。

三日前の夜あたりから、妻が「お腹が苦しい」と言い出したので、休ませていたのだが、昨日医者に行ったら「これは胃腸風邪でしょう」と言われたそうなのである。

それだけなら、「ああ、そうですか」で済むところだが、「いわゆるノロウィルスです」と付け加えられて、初めて「へぇ!」と驚いてしまったらしい。まさか、自分がかかるとは思わなかったみたいだ。

改めて聞いてみると、あちこちで流行っているらしい。この時期に腹痛や下痢があったら、ノロウィルスを疑うのが当然ということのようだ。

考えてみると、我が家の次女が、昨年の今頃、ひどい下痢にかかって 3日近く寝込んだ時に、「ノロウィルスだったりしてね」「まさかぁ」なんて冗談のつもりで言っていたのだが、実際、そうに違いなかったのだろう。

認識不足とはコワイものだ。ただ、この認識不足は、普段が健康だから病気の情報に興味がないからで、ある意味ではありがたい話である。

妻は今、順調に快方に向かっている。

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2006年1月16日

知のヴァーリトゥード 4周年

私の本宅サイト、「知のヴァーリトゥード」 は、平成 14年 1月 16日に、「知の海に跳び込め」 というタイトルで、スタートした。だから、今日は 4周年ということになる。

この 4年のうちで、1周年目は、17日になってから思い出したように書いただけで、他の年はてっきり忘れてしまっている。

4年目にして、ようやくサイト立ち上げ記念日にこんな記事を書いている。我ながら、ぼうっとした話である。

サイトを立ち上げた頃には、ブログなんてものはこの世になかった。だから、コラムはすべて本宅のサーバ内にある。日替わり更新はなかなか面倒な作業だった。

そのうち、ウェブログなどという言い方で、ジャーナリスティックな性格のサイトが話題になり始め、「ふん、私はそんなんじゃないよ」と思っていたが、ついに 平成 16年 4月から、更新の簡便さに負けて、ココログを使い始めたのである。

それでも、自分のホームグラウンドは、ココログのブログではなく、本宅サイトの方だと思っているので、今後ともよろしくお願いしたい。

【平成 20年 1月 18日追記】

「この 4年のうちで、1周年目は、17日になってから思い出したように書いただけで、他の年はてっきり忘れてしまっている」と書いたが、よく調べてみたら、2周年目は、1週間遅れでそれらしきことを書いているのを発見した。

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2006年1月15日

トイレの蓋はジェンダーフリー

ベンザブロック」 という風邪薬がある。このベンザシリーズの歴史は古く、Wikipedia によると、高度成長期前夜の 1955年から販売されていることになっている。(参照

さもあらん。洋式便器が普及して以後だったら、風邪薬に「ベンザ」なんて名前を付けようとは、誰も思わなかっただろう。

感冒薬のベストセラー、「ベンザ」が産声を上げた年、日本には素朴な活気が満ちていた。その頃、ほとんどの家のトイレには和式の男性用小便器と大便器があり、「ベンザ」と聞いて「便座」という熟語を思い浮かべる人なんて、誰もいなかった。

いつ頃からだったろうか、日本の住宅から男性用小便器が消え始めたのは。昭和 40年代前半に東京の団地に住んでいた親戚の家には、既に和式の男女兼用便器しかなかった。あの、トイレの床に段差があって、男の小用は、フロア下段に立ってするタイプである。

そして、今どきのトイレは、洋式に席巻されてしまっている。そして、遂に感冒薬「ベンザ」は、「ベンザエース」とか「ベンザブロック」とかいうサブブランドにしないと、妙な連想を呼びかねないという、想定外の事態になってしまった。

日本の「素朴な活気」の時代は、終わって久しいのである。

何でこんなことを書いているかというと、当ブログの昨年 12月 29日のエントリー「男の座り小便」が、思いがけない反響を呼んでしまったからである。

私が 「男の座り小便」 という妻の提案を受け入れたことに関して、banan さんが女性の立場から肯定的なコメントを寄せてくれた。

しかしその後、garaika さんから、男性用小便器を介した 「立ち」 文化をすたれさせてはならないとのコメントがあり、さらに、まるさん から、男性機能の低下の1つの要因に「座り小便」があるとの情報とともに、「あるじを尊重する心は、あるじがつかうものを尊重することで表現される」との、garaika さんの文化論に通じるご意見をいただいた。

これに対して、banan さんは、「男性が家で小用を足す時間なんて会社その他で外に居る時間に比べたら本当に少ない」と、男性機能低下という問題に関する、現実論に立脚した反論も寄せられた。

煎じ詰めれば、これは「便器を汚さないためには座り小便がいい」という視点と、「立ってする男の小便は、それ自体、文化である」という視点との衝突である。

この問題にきっぱりとした結論を下すだけの材料を、私は持ち合わせていない。だからどっち付かずである。ただ、マチョイズムとフェミニズムの対決という、ありがちな構図だけは避けたい。

以前、誰だか忘れたがフェミニズム系女性評論家(いずれにしても、上野、田嶋両女史のうちのどちらかだったと思う)の、トイレをみれば、その家庭が家父長的かそうでないかがわかるというような、新聞のほぼ一面を埋める文章を読んだことがある。

くどくどした部分を省いて手短に言えば、便座が上がって、男の小用がしやすいような形がデフォルトになっているのが家父長的家庭のトイレで、便座の降りているのが、ごく普通かフェミニズム的家庭のトイレだというのである。

だが、それって、穿ちすぎじゃないか? 単に最後にトイレを使った人の形跡が残っているだけだったりするんじゃないか? それに、洋式トイレで、ただでさえ男の小便がないがしろにされているのだから、せめて便座ぐらい上げといてくれという、切ない願いという解釈だってできるんじゃないか?。

ちなみに、我が家のトイレ作法は、使い終えたらきちんと蓋まですることになっている。これなら、フェミニストが来ても妙な邪推はされないから安心だ。

そうか、私は「和式と洋式 − 便器の形の考察」というページで、"洋式便器の蓋は 「パーソナルな容器」(つまり、「おまる」)だった頃からの名残" で、"盲腸みたいなモノ" などと推論してしまったが、現代では、トイレのジェンダーをニュートラルに保つという新しい機能があるのだな。

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2006年1月14日

フォークソングとノスタルジア

神田に 「フォーク酒場 昭和」 というお店ができたそうだ。60-70年代のフォークソングをフィーチャーしているそうである。そうなると、私の守備範囲になると思う。

神田は仕事でもよく行く街なので、近いうちに行ってみようと思うが、あまり無条件にノスタルジアが勝ちすぎてたら、やだなあ。

自分で言うのも何だが、私とフォークソングの関わりというのは、案外半端じゃない。1971年の中津川フォークジャンボリーに参加したという、筋金入りなのである。もっとも、あれで「いわゆるフォークソング」というものが嫌になったのだが。

当時のフォークソングは、良くも悪しくも「政治的」だった。そうしたのは、いわゆる「団塊の世代」である。

私は団塊の世代の最年少より 2歳年下だから、ことの行きがかり上、先輩たちに倣って、フォークソングを歌うからには「反体制」でなければならないと思っていた。

しかし「自称反体制」のフォークソング・ファンというのは、かなり思想的に不自由な人たちで、多くは音痴な歌を歌い終わると、すぐに全共闘世代好みの不毛な議論をしたがるのだった。

私だって、議論そのものは嫌いというわけじゃないが、あの連中の雰囲気にはどうも付き合いきれなくて、「いわゆるフォークソング」 ¥から足を洗って、ロックだのブルースだのに顔を向け始めたのである。

私は今でも十分に自分は 「反体制」 だと思っている。それは政治的に左とかいう意味ではない。左翼でありさえすれば反体制だという幻にはウンザリしている。

フォークソングで言えば、例えば、加川良の歌は金輪際聞きたくないが、なぎら健壱なら聞きたいと思う。おおつかまさじは聞きたくないが、西岡恭蔵なら聞きたい。といっても、西岡恭三の歌はもはやライブでは聞けないのだが。

岡林の今の歌なら聞きたいが、昔の歌は、単に「歴史資料」だと思っている。そして、吉田拓郎や井上陽水やかぐや姫というのは、また全然別のお話である。

本当にノスタルジックなフォークソングというなら、キングストントリオブラザーズフォアピーター・ポール・アンド・マリー (PPM) のコピー・バンドで迫るという方が、私としてはノレる。

私はこうみえても、PPM のピーター・ヤーロウのパートなら、今でも、ツーフィンガー、スリーフィンガーのギターも含めて、10曲以上はこなせると思うぞ。それに、ウッディの曲なら、恥ずかしげもなく sing out してもいい。

ああ、今日のエントリーは、リンクを張るだけで疲れた。

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2006年1月13日

「していただきたがり」の、エゴイスティックな現代人

最近、とても気になる言い間違いがある。つい昨日も、ラジオの公開番組で、某スーパーの店長が 「本日もたくさんのお客様が来店していただきまして ・・・」 とやっていた。

それを言うなら 「お客様が来店してくださいまして」 、あるいは 「お客様に来店していただきまして」 だろう。

このパターンの主語と述語の不一致が、最近やたらと多い。10回聞いたら、7回は間違えているといってもいい。

「学校の先生方が、この問題で各方面に呼びかけをしていただきまして・・・」
「自治会の役員の方々が、多大なる努力をしていただいたおかげをもちまして ・・・」
「ボランティアの方々が、大いにあちこち駆け回っていただいた成果で ・・・」

すべて、主語と述語が不一致になってしまっている。それを聞く人たちも、別段違和感を感じていない様子なのが、私にとってはものすごい違和感だ。

言うまでもないが、正しくは、以下のようになる。

「学校の先生方が、この問題で各方面に呼びかけをしてくださいまして・・・」
「自治会の役員の方々が、多大なる努力をしてくださったおかげをもちまして ・・・」
「ボランティアの方々が、大いにあちこち駆け回ってくださった成果で ・・・」

主語になっている人は「してくれた」方で、「していただいた」のは自分である。ところが主語の方を「していただいた」ということにして、それで丁寧な言い方をしたような気になっている。

「してくださいまして」というより 「していただきまして」 という方が、明らかに間違っているのにしっくりくるというのは、人間が深層心理としてエゴイスティックになっている現われではないかと思うのだ。

現代人の多くは、いつでも自分を潜在的な主語にしてしまいがちで、そして、かなりの 「していただきたがり」 になっているのである。

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2006年1月12日

冬物は売れても、ウォームビズは不透明

読売新聞が 「ウォームビズ、寒波で不発、ネクタイ業界がっかり」 と、ちょっとわかりにくいストーリーを記事にしてくれている。

要するに、消費者は寒さのために厚着はしているものの、環境省が推進する「暖房を抑えて省エネを」という運動には結びつかず、冬物商戦も不透明ということらしい。

だから言ったでしょ。私は 11月 1日付の記事で、ウォームビズについて、「こんなもん、成功するだろうか」と、疑問を呈し、今月 8日の記事でも、ちょっと皮肉を述べている。

環境省には「この寒さでは暖房を我慢するのは無理」との声が寄せられているというが、それもおかしな話である。ウォームビズの趣旨は、暖房の温度設定を上げすぎず、20度にしろということだ。それは、暖冬だろうが厳冬だろうが関わりないお話である。

本来関係ない外気温の低さを持ち出して、室内暖房の設定温度を金輪際下げたくないというのは、要するに、ウォームビズはやりたくないと言っているのと同じである。

クールビズは、ネクタイの束縛から解放されるという、とても明確な訴求ポイントがあった。いまさらネクタイに逆戻りするウォームビズなんて、あまりそそられない。つまり、そういうことだ。

百貨店などの冬物商戦も、昨年同期よりはずっといいが、ウォームビズのプロモーションによるというよりは、単に、寒さと景気回復のおかげである。三越本店の広報も、「売り場で『クールビズにしたい』と尋ねてきたお客様は多かったが、『ウォームビズにしたい』という相談はほとんどない」と言っているという。

つまり昨年夏のクールビズのヒットは、省エネの謳い文句を隠れ蓑とか免罪符のように利用した「ネクタイの呪縛からの逃亡」にすぎなかったと解釈すれば、概ね納得がいく。男たちの積年の怨念の賜物なのだ。

その証拠に、ウォームビズで起死回生を狙ったネクタイ業界は、「結局、ネクタイの売上高にはほとんど影響なかった」と明かしているというではないか。

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2006年1月11日

中国の御用マスコミになれと?

新年になり、生臭い政治関係のエントリーは減らそうと思っていたのだが、こればかりは呆れてしまったので、やはり書いてしまおう。

既にあちこち (当欄末尾参照) で批判されているが、「中国、日本政府に報道規制要請・日中関係改善に向け」 というニュースである。関係改善を臨むならば、こんな非常識は言わないことだ。

すべての独裁政権は、まずジャーナリズムを自分の統制下に置いて、「御用マスコミ」 にしようとする。日本のマスコミの多くは 「小泉政権の独裁的体質」 を批判するが、それが言えるだけ、まだマシだ。

中国外務省の崔天凱アジア局長は 9日の日中局長級協議で 「日本のマスコミは中国のマイナス面ばかりなぜ書くのか。日本政府ももっとマスコミを指導すべきだ」 と述べ、日本側に中国報道についての規制を要請した。(Nikkei Net より引用)

「日本のマスコミは中国のマイナス面ばかり書く」 との批判だが、客観的に見れば、決してそうは思われない。日本のマスコミは中国に対して概ね好意的である。中国出張帰りのビジネスマンの多くが、(影でこっそりと) 「あんな国はもうこりごりだ」 と言っているのとは、かなりのギャップである。

それだけに、日本のジャーナリズムを (今以上に) 中国の御用マスコミにしろと言わんばかりの子供じみた主張は、驚きを通り越して切ないものがある。中国 (韓国も似たところがあるが) の対日批判の多くは、こうした非常識を臆面もなく言える発想による文脈の一環であることを、過不足なく認識しておきたい。

ちなみに朝日新聞は、今回の問題に関する記事の末尾に、次のようなお約束コメントを付け加えている。

中国が報道規制にまで言及するといったいびつな日中関係が続けば、小泉政権後に関係改善をはかる手だても失われかねない。(asahi.com より引用)

これは、単なるお約束コメント以上の、重要な意味合いを含んでいる。文脈からすると、日本のマスコミ上で (非現実的な?) 「中国脅威論」 がにわかに台頭しているために、中国としても、報道規制まで言い出さざるを得なくなったというストーリーになっているのだ。

「中国側にそこまで言わせてしまういびつな日中関係にしてしまった、日本側の姿勢が問題」 いう 「朝日的ステロタイプ」 に、無理矢理帰結させているのである。

「日本側の姿勢が問題」 ということについての是非は、ここではあえて触れない。より具体的な問題が、このコメントに内包されているからだ。

私が問題にしたいのは、朝日新聞が 「報道規制」 という中国の不作法な要求に対して、最後の最後で 「そこまで言うのも無理もない」 と言わんばかりの理解を、さりげなく示しているということだ。

日頃 「政府のマスコミ操作」 なんてことには、無条件に反発するはずの朝日が、中国の言うことだと、とたんにこんな態度になる。確実に自分の首を絞めるであろう、その妙な物分かりのよさ、よく覚えておくことにしよう。

なお、この問題に関しては多くのエントリーがあるが、以下のブログでもそれぞれの視点から批判されている。(トラックバックさせていただいた)

bearzonic blog時事ブログ グースの勿忘草 セキュリティ&コンサドーレ札幌

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2006年1月10日

怪しい電話アンケート

昨日の昼頃、電話がかかってきたので出ると、相手は 3秒ぐらい何もしゃべらない。無言電話かと思って切ろうとすると、突然録音らしき声が聞こえてきた。

「こちら、ライフガードジャパンです。電話アンケートを行っております。自動音声の質問にお答え下さい」 ・・・こりゃ、怪しすぎるぜ。

すぐに電話を切ってしまったのだが、後から考えると、切らずにいたらどんな展開になったのだろうかと、興味が湧いてきた。もう少しだけ我慢して付き合ってみてもよかったような気もする。いずれにしても、まともに答える気は毛頭ないけれど。

というわけで、少し気にかかって、「ライフガードジャパン」 のキーワードでググってみたが、該当はゼロ。そんなところだろうと思った。多分、個人情報収集を目的に、適当にでっち上げた社名だろう。

こんな電話アンケートなんてものに下手に答えてはいけない。多分、最後に「お礼の品をお送りしますので、住所とお名前を教えて下さい」なんてことになり、実際に送られてくるのはお礼の品ではなく、訳のわからない DM の山ということになるのがオチだろう。

たとえ住所氏名を教えなくても、電話番号とリンクしたデータが残るだけに、かなり有効な個人情報になってしまう。それどころか、セキュリティ関係のアンケートを装って空き巣に入る下調べをするんじゃないかなんて、深読みまでしたくなってしまう。

もっとも、ここまでの IT 投資をするとしたら、よほど大がかりで組織的な空き巣狙いということになって、そうなったら、いわゆる「空き巣狙い」のイメージからはほど遠くなってしまうが。

そもそも、こんな怪しいアンケートにまともに答える人なんて、いるんだろうか。いるとしたら、よほど疑いを知らない純朴な人である。田舎に年老いた両親がいるなら、絶対に乗らないように言っておく方がいい。

一定の地区の電話番号をずらっとあたって、「答えの返ってきた電話番号」のリストを作るだけで、詐欺師にとってはかなり魅力的なデータになるだろうと思う。それは、「信じやすいカモのリスト」 ということだから。

そうしたデータを入手したら、カーナビに電話番号を打ち込んでそこの家に行き、適当なことを言ってだませば、水揚げの効率は格段にアップするかもしれない。でも、よい子のリフォーム詐欺さんは、絶対に真似しないようにね。

【3月 17日 追記】

ライフガードジャパンという会社、後からいろいろなことがわかってきたので、このエントリーのコメントとしても書いておいたが、改めて 3月 17日付のエントリーとして、まとめてみたので、ご参照のこと。

 

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2006年1月 9日

寒波が一休みというが

日本海側の雪は、ようやくピークを越したと伝えられる。先月から 1か月近くもガンガンに雪を降らせ続けた超強力寒波も、ようやく少し息切れしてくれるようだ。

自衛隊員の知り合いに聞いたら、今年はかの「三八豪雪 (昭和 38年 1月の豪雪)」以来の体制で臨んでいるらしい。

昭和 38年といえば、東京オリンピックの前年で、私は小学校 5年生だった。当時は大抵、今よりずっと雪が降って、私の田舎の酒田市でも、3月になるまでは根雪にすっぽりと埋まっていた。

その中でも、確かに大変な大雪の降った記憶がある。当時はまともな防寒靴もなかったから、ゴム長で通学していたが、そのゴム長の口から雪がどんどん入ってきて、中がグッポングッポンになった記憶がありありと蘇る。冷たかったなあ。それでも、しまいにゃ裸足になって、雪の中を走り回っていた。

あまりの豪雪で、自衛隊が火炎放射器で雪を溶かす作戦に出たと聞き、「それはすごい!」と期待したが、やってみたらほとんど効果がなかったというニュースが流れて、ガックリと気が抜けたのも、ありありと覚えている。やはり自然の猛威というのは、簡単に立ち向かえるものではない。

その次に有名なのが、「五六豪雪 (昭和 56年の豪雪)」だ。この時は、私は東京に住んでいて、妻が長女を身ごもっていたので、正月も大事をとって里帰りしなかったような記憶がある。父が電話で「もう雪の捨て場所がない」と嘆いていたのを覚えている。

近くの国道 7号線で、車が何百台も雪に埋まって立ち往生し、近くの人がボランティアで大量の炊き出しを振る舞って命を救ったという美談が生まれたのも、この年だったはずだ。庄内人は、人が困ってるとほっとけない人たちなのだ。

今回の大雪は、この過去 2回の「豪雪」の記録を凌いでいる。積雪というのは、積もれば積もるほど圧縮されて、高さはあまり稼げなくなるから、積雪量が過去の記録を上回っているというのは、数字以上にどえらいことなのだ。

私の田舎は、積雪量はそれほど大したことがないが、何しろ、あの羽越線特急をひっくり返したほどの強風による地吹雪が名物だ。寒波がこれ以上続いたら、いくら何でも田舎の父母が心配になるところだった。

先月中頃、実家の引っ越しをなんとかできたというのも、こんな豪雪の年にしたら、奇跡みたいなもんである。

この寒波の一休みが、できるだけ長く続いて、そのうちになし崩し的に春になってもらいたいものだ。

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2006年1月 8日

厳冬の経済効果だって?

第一生命経済研究所というところが、厳冬の経済効果は 6500億円超で、年間 GNP を 0.1% 押し上げると発表したそうだ。(参照

数字にしてみたらそうなるのかもしれないが、大雪にあえいでいる日本海側の人たちからすると、「何というノー天気なことを」と、ちょっと反感を買ってしまうかもしれない。

こういうことは、大きな声で発表したところで、「よくぞ言ってくれた」ということにはならないんじゃなかろうか。そっと目立たないように言ってくれればよかったのに。

消費増加の要素が「暖房器具や冬物衣料などの売れ行きが伸びることと、光熱費の増加」というのでは、あまりハッピーな話ではない。喜んで金を払うのと、仕方なく支出するのを一緒くたに「経済効果」と言ってしまっては、消費者感情を逆なでする。

ましてや、「寒波で外出が手控えられ、交通費や通信費の支出が減少するなどのマイナス効果もある」とか「冬の間の過剰消費で、2月以降は逆に消費が抑制される可能性もある」とかいうのなら、「経済効果」を謳う発表の仕方、いわゆる「ストーリーづけ」にも疑問が残る。

衣料支出という点では、私は昨年 11月に、「ウォームビズ」はそれほど期待できないんじゃないかという記事を書き、 "もしかして需要があるとすれば、レディスの「ウォームビズ」である" と述べている (参照)。

これはまだ現在進行形の話なので、統計的な数字は出ていないが、あちこちのブログを見ると、「ウォームビズでオフィスが寒くてたまらない」(かなり変な言い方だが)として、保温性肌着を買いに走っているのは、主に女性たちのようだ。

寒い寒いとはいいながら、オジサンたちは依然としてオフィスでは暑がりである。元々、冬場でもジャケットを脱いで腕まくりして仕事をしていた人も多いのだから、都会のオフィスで暖房温度をちょっと下げたぐらいでは、「ちょうどいい」ぐらいのものかもしれない。

それにしても、大雪の地方の人たちの苦労が思いやられる。いくら忍耐が血肉となったような人たちでも、老齢となったら身に応えるのである。

この寒波が早く息切れしてくれることを祈る。

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2006年1月 7日

正しい「生玉子かけご飯」

TBS ラジオ「ストリーム」に、日本人の行動のスタンダードを探るという趣旨の「えびしゃけ」というコーナーがある。

このコーナーの昨年最後のテーマは、「卵かけごはんは、卵を混ぜてからかける?それとも、ごはんにかけてから混ぜる?」というものだった。(参照

「えびしゃけ」 というタイトルは「海老の尻尾やシャケの皮を食べるか、否か」ということで、日本人のちょっとした行動パターンを、聴取者の反応を元に探るというのが狙いである。

卵に関しての結果は私の予想通り、

  • 卵を混ぜてからかける・・・69%
  • ごはんにかけてから混ぜる・・・31%

ということで、やはり「卵を混ぜてからご飯にかける」派が、ほぼ 7割近くに達した。かくいう私も「混ぜてからかける」派である。

ただしこのテーマは、単にこれだけで済ませてしまうのは甚だ心残りである。もっと追求したいことがある。

それは、「卵を混ぜてから醤油を入れる」か、「醤油を入れてから卵を混ぜるか」ということである。実際に番組を聞いていたところでは、「醤油を入れてから卵を混ぜる」という人が少し多かったような気がする。

しかし、私は断然 「卵を混ぜてから醤油を入れる」派である。その理由は、その方がずっと卵と醤油がしっくりとミックスされる感覚があるからだ。醤油を入れてからかき回しても、いつまでも分離されている気がする

だから私にとっての正しい「生玉子かけご飯」は、玉子を割って器に入れ、よくかき混ぜてから醤油を入れる。そして、それをおもむろに暖かいご飯にかけて食べるのである。これが一番美味しいやり方だと思う。

お気づきだろうか? 私は正しい「生玉子かけご飯」と表記した。TBS ラジオのウェブページでは「卵かけごはん」となっているが、このテーマ、正しさにこだわったら、表記と言葉遣いからして 「生玉子かけご飯」 なのである。

"卵" と "玉子" の使い分けに関しては、「生物学的には "卵"、食材としては "玉子" 」というのが一般的のようだ。あるいは、「生の場合は "卵"、料理されたら "玉子"」という説もある。

「生玉子かけご飯」に関しては、「醤油を入れる」というプロセスを経た以上、生であっても「生玉子」という名の立派な「料理」であり、それ故に、「生玉子かけご飯」と表記されるべきだと信じるのである。

私は週に一度ぐらいの割で、朝食として無性に 「生玉子かけご飯」 を食べたくなる時がある。これは最高に洗練された朝のメニューの一つである。

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2006年1月 6日

箱根駅伝の功罪

正月 2日、3日の箱根駅伝の中継には見入ってしまった。日テレにとっては、今や正月のお昼の、最高のキラー・コンテンツである。

しかし、スポーツ・ジャーナリストの古内義明氏によると、箱根駅伝は功罪相半ばしており、とくに最近の男子マラソンの低迷の大きな原因となっているという。

まず、前提としておさえておくべきことは、1980年代以後、日テレが箱根駅伝を中継するようになってから、このレースが関東の大学にとっては、受験者を増やすための最高のマーケティング・ツールになってしまったということである。

だから大学、とくに新興勢力の大学は、全国の高校から長距離の有望選手を推薦入学させて、箱根駅伝対策を行う。何しろこのレースでトップ・グループに入って走りさえすれば、数時間に渡って大学名がテレビに出まくるのだから、宣伝効果抜群である。

そのため大学陸上部は、日頃から箱根駅伝に最適化した練習を行う。つまり、20キロ程度の距離を効率的に走るための練習である。42キロ余りを走るマラソンとは、練習の質が違う。

さらにレースを走る学生の意識としても、マラソンでオリンピックに出ることより、箱根駅伝で上位に食い込むことの方が優先されてしまう。箱根駅伝で名前を売って、後は一流企業に就職できればいいというような気になってしまう。

5日の TBS ラジオで聞いた古内氏の指摘はだいたい以上のような内容で、かなり納得させられてしまった。

考えてみると、女子陸上には箱根駅伝に匹敵するようなイベントはない。だから、学生時代に燃え尽きてしまうようなリスクは相対的に小さい。有森裕子や高橋尚子などの選手は、学生時代にはあまり注目されておらず、使い減りしていない。

どうも、甲子園野球で燃え尽きてしまう高校球児と同じような現象が、大学陸上の長距離界にも存在するようなのだ。大学の長距離陸上選手の全体的な器を、オリンピック・マラソンのレベルから箱根駅伝のレベルに(言っちゃ悪いけど)矮小化してしまうムードというのは、確かに問題だろう。

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2006年1月 5日

「正しい餅」は、丸餅でなきゃ

日本列島雑煮文化圏図」というものを発見した。日本全国の雑煮のあり方 - 丸餅か角餅か、どんな汁かを概観した地図である。

一見して、石川〜岐阜〜三重〜和歌山を通る線を境に、東が角餅、西が丸餅文化圏であると見て取られる。しかし我が故郷、酒田は東日本で珍しい丸餅文化を堅持している。

子どもの頃は、自分の家では餅つきはしなかったが、親戚の家で 3〜4軒分の餅をついた。実際に臼と杵で搗き上げる餅を、ポンポンと千切ってもらい、それを子どもたちが総出で丸めるのである。

千切られた餅を、単に手のひらでクルクルと丸めればいいようなものだが、そうではない。餅の周囲から中心に向かってぐいぐい寄せて、真ん中に「へそ」を作り、最終的にくるくるっと丸めるのだ。

そばやパン生地をこねて、最終的に丸くまとめるときも、同じような手順を踏む。どうもこうすると余計な空気が抜けて、きっちりとまとまるようだ。

こんな風にして「餅は丸いもの」 と思って育ったので、東京に出て角餅を初めて見たときは、「手抜き」以外の何物でもないと思った。今でも、「正しい餅」はやっぱり丸くなければならないと信じている。その証拠に、鏡餅は丸いじゃないか。

我が故郷が角餅主流の東日本の中で、スポットのように点在する数少ない丸餅文化の土地の一つなのは、江戸時代に西回り航路の終着港として栄えた歴史があるからだろう。日常的に上方文化が入ってきていたのだ。

今でも私は、関西文化への親和性が強い自分の体質を自覚している。関西人の中に混じって話をしていると、さすがにもろに関西弁がうつったりはしないが、アクセントは自然に関西流になっている。生まれた土地の言葉に元々上方の影響があるので、それが蘇るのだ。

とはいえ、酒田の雑煮は汁は東日本流のすまし汁で、関西に多い白味噌仕立てではない。それに、餅を一度焼いてから汁に入れるという方式も、東日本流だ。だから、もろに上方流というわけではなく、折衷的な文化である。

だから私は、浅草に行っても京都に行っても、どちらにも十分に馴染んでしまう自分を発見するのだが、やはり一番ほっとするのは、自分の生まれた庄内の土地なのである。

【2022年 1月 2日 追記】

冒頭で紹介した「日本列島雑煮文化圏図」というページは既に消滅してしまったようなので、似たような情報を探したところ、Twitter の進土素丸さんという方の tweet が見つかった(参照)。図入りでわかりやすく紹介されている。

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2006年1月 4日

男のファッションと 「私の中の乙女」

「煩悩即道場」の ululun さんが、「男がファッションの事を(あまり)考えたくない理由」 というエントリーを書いておられる。(参照

彼はその中で 「メンズファッションを否定する男性の中身は乙女である」という大胆な推論を述べておられるのだが、これは、かなりの慧眼ではないかと思うのだ。

この、かなり直観的な、しかもメタファー要素たっぷりのレトリックに何事かと思う方も、彼の "所謂マニュアル本に書かれた「こうすれば、こうなる」を試しても自分の中の乙女が満足出来ないからと言って諦めてはいないだろうか" という言辞を吟味すれば、感じるところがあるかもしれない。

かくいう私も、最近妻から「もう少し、着るものに気を遣ってもいいんじゃない」と意見される日々である。「昔は、もう少しちゃんとした格好してたじゃないの」

そう。今や、ファッションに気を遣わないオジサンの典型(?)と化した私も、昔はそれなりに、ファッション人間の端くれだったのだ。なにしろ、繊維関係の業界紙の記者として、アパレル関係を担当していたのだから、少なくとも知識だけは人後に落ちない。

1980年代前半からのほぼ 10年は、毎年の東京コレクションを最前列のプレス席で取材して、レポートを書いていたぐらいのものである。凄いだろ! カタカナのファッション用語なんて、その辺の今どきの女の子よりずっと詳しいのだ。

それに、コレクション会場に出入りしても、それなりに恥ずかしくないような格好はしていたのだ。今とはエライ違いだ。

年間にデザイナー・コレクションを何十本も取材していた頃は、見たばかりのショーを、頭の中でさながらビデオのごとく再生しながら、レポート記事を書けた。その脳内ビデオは、2日後ぐらいにはフェイドアウトして、要所要所しか残らないのだが、それでも、我ながら大したものだった。

その私が、妻(彼女も元はファッション・デザイナーの端くれである)にもっとファッションに気を遣えと苦言を呈されるまでに零落してしまったのは、ululun さんのいうところの「自分の中の乙女」によるところが大きいのではないかと、忽然と気付いたのだ。

私はある意味、ファッションにはお腹一杯になってしまったのである。それに、ファッション業界でそれなりに「我こそはファッション人間である」みたいなことを言う男のほとんどが、実はチンケなオッサンにしか見えないことに、「私の中の乙女」は絶望してしまっているのである。

「ファッションに気を遣いまくっているチンケなオッサン」より、「ファッションに気を遣わないように見えるいっぱしのオッサン」でいる方が、「私の中の乙女」は安心していられるのである。これは、形を変えたナルシシズムかもしれないのだが。

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2006年1月 3日

住所録による故人の追悼

毎年、年末から年始にかけては、「筆まめ」で管理している住所録データの、かなりの部分を更新することになる。

引っ越し、結婚(離婚もあるし)や、それから悲しいことだが死亡などで、データは毎年かなり変わってしまう。年賀状シーズンに、それをまとめて更新するのである。

引っ越しの知らせが届いたら、何はなくとも住所データを更新しなければならない。元のままでも、先方が郵便局に届けを出していれば 1年間は転送してくれるが、それ以後は送り返されてきてしまう。

結婚で名字が変わった場合も、さっそく更新する。最近は旧姓のままで通す人も多いが、そうでない場合は、やはり新しい名字で年賀状を出すべきだろう。

しかし、故人となってしまった人のデータを削除してしまうのは、何だか悲しくて、ついそのままにしておくことが多い。「削除する」 の文字をクリックしてしまったら最後、その人との結びつきが終わってしまうような、柄にもないセンチメンタルな気がしてしまうのだ。

そのせいで、私の住所録には、この世にはもういない人のデータが溜まり溜まっていたのである。死んでから 5年以上経つのに、まだハードディスクの中で生き長らえている人も、1人や 2人ではなかった。

しかし、昨年末、私は心を決めて亡くなった人の名前を住所録から削除してしまったのである。デジタル・データが消えてしまったところで、私の心の中に残るその人の記憶や感謝の気持ちが消えてしまうわけではない。そう考えることにした。

新年になって、私の住所録データの件数は、約 11% 減少した。減少分のすべてが、死亡によるものではなく、自然に縁遠くなってしまった人の分も多いが、それでも、やはり亡くなった人の比率は大きい。

データを削除するたびに、その人の生前の顔を思い浮かべ、改めて追悼する気持ちになっていた。

ところで、平成の大合併が進行しているため、私が 7年来使用している 「筆まめ Ver. 9.0」 の郵便番号データは、完全に古くなってしまったようだ。合併が一段落したら、今年の秋頃に、8年ぶりで Ver. 17 にアップグレードしてみようと思う。

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2006年1月 2日

PRIDE へのいちゃもん

大晦日から元日にかけて、「Today's Crack」 に 「あけおめメール」 というキーワードで Yahoo で検索したアクセスが急増した。

調べてみると、Yahoo では、昨年の 1月 6日のウチのエントリー が、なんと 140万件中、2番目の位置に表示されているではないか。何でこんなに上位なのか、理解に苦しむ。

それほど重要なテーマでもなく、気張って書いた記事でもないのに、あまりに評価されすぎると、何だかこそばゆい。

翻って、同じキーワードで Google で検索してみると、まずヒット数が 989件と圧倒的に少なく、その中で、私のブログは、少なくとも上位 100件中には見当たらない。大分下の方にあるようで、今度は、ちょっとむかつく。

まあ、いろんな基準があるんだろうということで納得する。どんなランクになろうとも、テキストとしての記事の本質的価値が左右されるわけではない。

と、ここまでは、前フリである。こんなに長い前フリになったのは、大晦日のテレビで格闘技を見たので、その影響である。本当は、格闘技の勝敗の判定基準に、妙なファクターを混ぜて欲しくないということに話を進めたいんだった。

大晦日の PRIDE は、予想通り、K-1 を遙かに上回る内容だったと思う。ただし、昨日のエントリーでもちらっと書いたことだが、「疑惑の判定」 もあったのだ。

近藤有己 対 中村和裕 と、ヴァンダレイ・シウバ 対 ヒカルド・アローナ の 2戦。両試合とも決定打を欠き、判定に持ち込まれた結果、中村とシウバが勝利を収めた。しかし、私にはどうみても、近藤とアローナの方が試合をコントロールしていたとしか思われなかった。

勝者とされた中村は、高田道場の所属、シウバはブラジルのシュートボクセ所属である。この二つのジムは、高田道場の桜庭や中村が出稽古(と言っていいのかな?)に出かけるほどの友好関係にあるようで、いわば、PRIDE の主流派と言っていいのだろう。

つまり、この 2試合の判定は、露骨なホームタウン・デシジョンであると、私は衆目に触れるテキストとして残しておきたいのである。今後、高田道場とシュートボクセ所属の選手と闘う相手は、一本取るか、大差の判定にでも持ち込まない限り、勝てないのではないか。

この「疑惑の判定」を演出した主犯ジャッジは、マット・ヒューム だと、サモアの怪人さんは、ご自身のブログ で指摘しておられる。この名前をよく覚えておこう。

仮にも「真剣勝負」を売り物にする限りは、こうしたポリティックな要素を廃してもらいたいと、声をあげておかければならないと思い、新年早々恐縮だが、マニアックないちゃもんを、敢えて書かせていただいた。

それから、もう一つ。K-1 の方は、ビデオ録画しておいたやつを、余計な CM、前フリ、入場パフォーマンス、それから(悪いけど)永ちゃんの歌を飛ばしたら、3時間番組を 40分で見終えちゃったぞ。

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2006年1月 1日

コマイヌサン 「ア」、コマイヌサン 「ウン」

謹賀新年。いろいろあった平成 17年が終わって、またまた、いろいろあるであろう平成 18年の始まりだ。願わくは、「いろいろ」の中身が、いいことの方が多いように。

ところで、戌年である。日本中のペット犬諸君は、年の初めは、ますます猫っ可愛がりされるんだろうか。犬なのに。

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私は年賀状に案外凝ってしまう方で、今年の年賀状もオリジナル画像でがんばった。ただ、その辺の犬の写真なんて使ってもつまらないので、多少は意表を突いたつもりで、神田明神の狛犬の写真にした。昨年の秋のうちから、準備しておいたのである。

日本の神社というのはうまくできたもので、鳥居を過ぎると狛犬がいる。酉年の後に戌年になる比喩のようである。

酉というのは、結界にいるものという説がある。長鳴鳥が、夜と朝との結界に鳴くというのもそこから来ているらしい。神社の鳥居というのも、聖なる領域を俗界から分けるためのもので、そこに鳥がいると考えたらしい。そして、その奥に狛犬がいる。

もっともその紀元は、インドで仏像の前に 2頭の獅子(ライオン)像を置いたことだといわれている。日本に伝わってきて、神社にも置くようになったが、日本人は獅子を見たことがないので、馴染み深い犬っぽい姿になってしまったという説がある。

狛犬というのは、大抵、片方が大きく口を開け、もう片方は口を結んでいる。これで「阿吽」を意味するのだという。口を開けている方が「阿」で、閉じている方が「吽」である。

昔の国民学校初等科 1年の国語の教科書には、"コマイヌサン 「ア」、コマイヌサン 「ウン」" と書いてあったらしい。例の冒頭に 「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」 とあった、通称 「アサヒ読本」 である。

Goo 辞書によると、「梵 a-hum の音訳。『阿』は悉曇 (しつたん) 字母の最初の音で開口音、「吽」は最後の音で閉口音」 とある。

さらに、密教では次のように考えられている。

阿: 宇宙の初め、万物の根元、悟りを求める菩提心
吽: 宇宙の究極、最終的智徳、悟りにより到達する涅槃

神社の拝殿で礼拝するのは、阿吽の奥義に向かっての所作ということになる。その奥義というのは、何も本殿の中に閉じこめられているわけではなく、人間の中にもあるものである。

話は変わるけど、PRIDE のジャッジ、おかしい! 近藤とアローナは勝ってた。

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