フォークソングとノスタルジア
神田に 「フォーク酒場 昭和」 というお店ができたそうだ。60-70年代のフォークソングをフィーチャーしているそうである。そうなると、私の守備範囲になると思う。
神田は仕事でもよく行く街なので、近いうちに行ってみようと思うが、あまり無条件にノスタルジアが勝ちすぎてたら、やだなあ。
自分で言うのも何だが、私とフォークソングの関わりというのは、案外半端じゃない。1971年の中津川フォークジャンボリーに参加したという、筋金入りなのである。もっとも、あれで「いわゆるフォークソング」というものが嫌になったのだが。
当時のフォークソングは、良くも悪しくも「政治的」だった。そうしたのは、いわゆる「団塊の世代」である。
私は団塊の世代の最年少より 2歳年下だから、ことの行きがかり上、先輩たちに倣って、フォークソングを歌うからには「反体制」でなければならないと思っていた。
しかし「自称反体制」のフォークソング・ファンというのは、かなり思想的に不自由な人たちで、多くは音痴な歌を歌い終わると、すぐに全共闘世代好みの不毛な議論をしたがるのだった。
私だって、議論そのものは嫌いというわけじゃないが、あの連中の雰囲気にはどうも付き合いきれなくて、「いわゆるフォークソング」 ¥から足を洗って、ロックだのブルースだのに顔を向け始めたのである。
私は今でも十分に自分は 「反体制」 だと思っている。それは政治的に左とかいう意味ではない。左翼でありさえすれば反体制だという幻にはウンザリしている。
フォークソングで言えば、例えば、加川良の歌は金輪際聞きたくないが、なぎら健壱なら聞きたいと思う。おおつかまさじは聞きたくないが、西岡恭蔵なら聞きたい。といっても、西岡恭三の歌はもはやライブでは聞けないのだが。
岡林の今の歌なら聞きたいが、昔の歌は、単に「歴史資料」だと思っている。そして、吉田拓郎や井上陽水やかぐや姫というのは、また全然別のお話である。
本当にノスタルジックなフォークソングというなら、キングストントリオ、ブラザーズフォア、ピーター・ポール・アンド・マリー (PPM) のコピー・バンドで迫るという方が、私としてはノレる。
私はこうみえても、PPM のピーター・ヤーロウのパートなら、今でも、ツーフィンガー、スリーフィンガーのギターも含めて、10曲以上はこなせると思うぞ。それに、ウッディの曲なら、恥ずかしげもなく sing out してもいい。
ああ、今日のエントリーは、リンクを張るだけで疲れた。
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