「世間」 にも狭義と広義があって
昨日、"「世間」 と 「ネット」 はよく似てる" というエントリーを書いたところ、ululun さんが、"虚でありながら世間は実在している" と、非常に鋭い反応をされた。(参照)
ここで、私はちょっとたじろいでしまい、「"世間" にも、狭義と広義があるようなんだけど・・・」 と言い訳したくなったのである。
本当は、こんな言い訳は昨日の時点できちんと前提として書いておくべきだったのだが、つい筆が滑って書きそびれていた。昨日のエントリーは、民俗学的な「世間」であり、いわば、「術語」に近い視点から書かれている。
それに対して、世間一般に(ほら、こんな風に)使われている広義の「世間」という言葉は、やや「社会一般」に近いスタンスもあるように思う。だから、この狭義と広義の「世間」をイコールで論じるのはちょっと危ないかも知れないとだけ、言わせてもらいたい。
ululun さんは、以下のように述べておられる。
tak-shonai氏が指摘する虚と実が綯い交ぜになった茫漠たる世間という眼差しに対して私たちは恥を感じたり、行動規範を決めたりしているんだ、という事になりそうだ。
「そんな事をしていると世間様に恥ずかしい」という時の世間は特定の誰かではないので、虚である。虚でありながら世間は実在している。
加野瀬氏が「ネットのグローバリズム」と言ったのは、実はこの茫漠たる世間そのものを指しているのではないだろうか。
「世間様に恥ずかしい」と言った場合の「世間様」は、かなり曖昧な(それだけに便利な)概念だ。時と場合と言う人によって、「隣近所」 だったり「付き合いのある範囲」だったり、はたまた「社会正義」だったりする。
ただそれでも、「世間様」という場合は、「隣近所の誰それ」や 「会社や得意先の誰それ」という特定個人は巧妙に想定の外になっている。直接話している相手に 「あんたなら、少しはわかってくれるかもしれないけど」と言外ににおわすみたいな、「甘えの構造」も少しだけ残ったりしている。
さらに、「社会正義」というような意味合いで使った場合も、倫理的にも法律的にもきちんとオーソライズされたものというわけではなく、八つぁん熊さん的な色合いの濃い「情緒的正義」である。
だから、上記の ululun さんの指摘はぎりぎりセーフの鋭さをもっている。私としては、「虚でありながら世間は実在している」というとても直観的で難解な指摘を、「共同幻想的に機能している」という意味に理解した。
「世間一般の "世間"」は、かなり重層的な意味合いのある共同幻想だ。それだけに、取り扱いに注意しないと、議論が行き違いになる危険性もある。
上記で「広義の世間」が "「社会一般」に近い" と言ったが、「社会一般」という概念そのものも、共同幻想的なものかも知れない。そこには、やはり怪しさあふれる「狭義の世間」の雰囲気が残っている。
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