« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »

2006年2月に作成された投稿

2006年2月28日

密室政治は遠くに

例の事件、当初は「送金指示メール問題」といわれていたが、いつの間にか「堀江メール事件」と呼ばれるようになり、最終的には「メール偽造事件」ということになりそうだ。

民主党のお粗末さにはちょっと呆れてしまったが、考えようによっては、日本の政治が少しは風通しがよくなっている証拠かもしれない。

政治が国会ではなくどこかの密室で動いていた、国対政治華やかなりし頃だったら、決してこんな怪文書が国会で真正面から取り上げられることなどなかったはずだ。

多分、密室でお互い腹の中を探り合っているうちに、本物か偽者かが見え始め、本物なら本物で何らかの取引材料となり、偽者となったら、うやむやに葬り去られていたことだろう。ある意味では、とてもソフィスティケイティッドな手法だ。

しかし、近頃ではだいぶ違ってきたようなのだ。何しろ、あんなアホなものが、いきなり国会で取り上げられてしまうのだから。古いタイプの腹芸政治家なら、なんと不調法なことをするものかと、嘆かわしく思うことだろう。

しかし、この平成の御世において、密室政治というものが色褪せつつある証拠とみれば、なんとなく喜ばしくないこともないではないか。そのおかげで、古い体質のソフィスティケイションが失われつつあるというなら、それはそれで仕方がない。

またぞろ、国会ではなく料亭で政治が動き、国民には肝心なことが何も見えない時代に戻るよりは、まだマシではないか。まあ、今でも見えないことが多いことには、それほど変わりはないかもしれないが。

ともかく、今は密室政治から抜け出そうとしている過渡期ということで、あんなお粗末が生じることにもなるのだろう。何事も慣れが肝心だ。だんだんと少しはマシな国会論戦になることを期待しよう。

人間、失敗からより多くを学べるのだもの。何度失敗しても学ばないのは、永田議員だけでたくさんだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月27日

「過去」 はソリッドなものか?

Sato-don さんのブログに、私の大分以前のエントリーの中の一文を紹介していただいた。しかも、あの「夜と霧」を書いたヴィクトール・フランクルの文章と並べてくださっている。なんともはや、面映ゆい限りだ。(参照)

引用された文章は、「過去」 というものの捉え方についてである。

引用して頂いた私のテキストは、「今日の一撃 が Cocolog に移る以前の、3年半も前のものだ(参照)。『ミー・アンド・ボビーマギー』 という歌からのインスピレーションを綴っている。その歌は、このように歌っている。

俺は取り替えたい
ボビーの体をきつく抱きしめていた
たった 1日の昨日 (single yesterday) と
俺の全ての明日という日 (all my tomorrows) を

この歌詞を踏まえて、私は、"人間は 「全ての明日と取り替えてもいいほどの、たった 1日の昨日」を作るために、今日という日を生きている" などと、妙にセンチメンタルなことを書いている。

そして、これに並べて引用してあるヴィクトール・フランクルのテキストは、以下のようなものだ 。(再引用)

過去のことになったというありかたは、もしかすると、存在一般のうちでもっとも確かな形式でさえあるのかもしれません。そのように拾われて「過去のこと」になった存在に、それこそ「うつろいやすさ」はもうなんの手出しもできないからです。

うぅむ、こうして並べられると、私の言いたかったこととフランクル博士の言葉は、一見似ているけれど、実はかなり対照的なもののように思われる。

そりゃ、ナチスの手でユダヤ人強制収容所送りにされたという、強烈な体験をもつフランクル博士の言うことなので、かなりの重みをもつ言葉なのだが、本当に "「過去のこと」 になった存在に、「うつろいやすさ」 はなんの手出しもできない" のだろうか。

「過去」 というのは、果たして 「確定」 してしまったものなのだろうか。もう一度取り出して、何度もなで回してみて、新しい意味を発見することはできないのだろうか。あるいは、まったく別のものとして、再構築することはできないのだろうか。

「過去」 というものも、それぞれの意識の中の 「クォリア」 として刻まれているものである以上、「意識」 の変容によって、変わっていくこともできる、いや、変わらざるを得ないはずだと、私は思ってしまうのだ。

私としては、「過去」 さえも、時間とともに刻々と、よりコクのあるものに変化していってくれたらうれしい。そのために、いつまでも 「過去」 をいじくり回していたいとさえ思う。

「全ての明日と取り替えてもいいほどの、たった 1日の昨日」とは、いつまでいじくり回していても、常に新しい輝きを見出すことのできる、かけがいのないクォリアだ。

今日は時間がないので、妙な思わせぶりにて失礼。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2006年2月26日

「むかつき貯金」は「むかつき借金」

「内田樹研究室」の「不快という貨幣」が、一部で注目されている。内容は結構複雑なので、正確に読み取ろうというなら、リンク先に直接あたってもらうしかない。

経済学の術語で語られているが、それはかなりメタファー的だから、既存の経済学的視点で読み取ろうとすると、多分わからなくなる。

このエントリーのテーマは「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」ということである。内田氏は以下のように説明している。

苅谷剛彦さんが 『階層化日本と教育危機』で指摘していたことのうちでいちばん重要なのは、「学業を放棄することに達成感を抱き、学力の低下に自己有能感を覚える」傾向が90年代にはいって顕著になったことである。
苅谷さんの文章をもう一度引いておこう。
「比較的低い出身階層の日本の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで、自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身につけている。低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な価値から離脱することで、『自分自身にいい感じをもつ』 ようになっているのである。」(有信堂、2001年、207頁)

要するにこうしたことについて、内田氏は「不快という貨幣」というコンセプトを用いて分析を加えているわけだ。

その内容は短くは言いづらいが、とても強引に言ってしまうと、「学びから、労働から逃走する若者」の言い分は、「俺だって、けっこうむかついてるんだからね」という、「裏返しの自己憐憫」だ。

おとんもおかんも、文句たらたらで生活に耐えている。おとんはうだつのあがらない仕事に、おかんはうだつのあがらない仕事をするおとんに、それぞれかなりむかついているように見える。そしてそれを見ているだけで、子どもだってかなりむかつく。

現代は第三次産業が肥大しているから、おとんもおかんも仕事によって何を生み出しているんだか、子どもにはよく見えない。確かなのは、彼らが仕事でむかついているということだけだ。だから「労働とはむかつくこと」だと、子どもたちは本能的に理解している。

内田氏は次のように解説する。

現代の子どもがその人生の最初に学ぶ 「労働価値」 とは何か?
それは 「他人のもたらす不快に耐えること」 である。

そして彼らは「それをいうなら、俺だってかなりむかついてる(= 耐えている)もんね」と思うことで自己正当化する。「むかつき = 労働」なら、自分だってかなりの「稼ぎ」をしているじゃないか。

だから、「いつまで寝てるんだ」とか「部屋片づけろ」とか「ちゃんと働け」とか、やいやい言われるのはかなり心外だし、そもそも、それでますますむかつくから、彼らの「稼ぎ」はさらに増える。「むかつきスパイラル」だ。

もっとも、何となく立場的弱みは感じているから、どうでもいいところでことさらにむかついて「キレてみせる」必要も生じる。それは自己主張であると同時に、悲しい自己確認作業だ。「俺って、こんなにもむかついてんじゃん、何てケナゲな俺!」

このようにして、働かない若者には「むかつき貯金」がくさるほどあるのだ。決して役には立つことのない財産だけれど。

子どもの頃、私は父に「仕事って、つらいの?」と聞いてみたことがある。その時、父はこう答えた。「そりゃあ、つらいこともあるが、一仕事成し遂げた時の喜びというのは、なかなかいいものだよ」

思えばこの一言は、父が私にしてくれた最高の教育だった。どんな仕事であれ、親がそこに喜びを感じているというのは、子どもにとって大きな救いである。自分の育つことが、親の「むかつきの代償」ではないと知れば、「負の意識」から解放される。

この救いがあればこそ、「むかつき貯金」なんてものをしなくて済むようになる。それは「むかつき借金」なのだと、あっけらかんと知るからだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月25日

「オーラ」って、どこから来るんだろう?

世の中には「化ける」ということがある。それどころか、「大化けする」なんてことまである。本当に、人が変わってしまったかと思うほどの「大化け」ということは、確実にある。

何のことかというと、例の金メダルである。荒川静香選手である。あれってきっと「フィギュアの神様」が彼女の肩の上に降臨したんだ。

私ははっきり言って、フィギュア・スケートのことなんてさっぱりわからない。単なる素人のオッサンである。その素人のオッサンが、荒川選手の演技を見て「おぉーっ!」と思った。

神々しいのである。これはきっと、神業である。

昨年末の国内選考会を見た時は、荒川選手がこれほどすごい選手だとは気付かなかった。我が家の娘たちと、「ミキティ、可愛いね」とか「村主選手、泣き顔だよね」とか言いながら、気楽で低レベルな見方をしていたのである。

その時は、我が家の娘たちは「荒川静香って、演技はいいけど、『意地悪な先輩顔』だよね」なんて、アホなことを言っていたのである。それどころか私なんて「片桐はいりかもね」なんて、アホの二乗みたいなことまで言っていたのであった (ゴメンヨ〜)。

今日になって、我が家の娘たちは「スゴイよ、荒川さん、キレイだよ。『意地悪な先輩顔』でなくなっちゃってるよ!」と、興奮していうのである。

本当に、この 2か月で荒川選手は大化けした。それどころか、このわずか 2日間でも化けていた。既に世界選手権を取っている選手に、こんなことを言うのも失礼な話かも知れないが、それでも、やっぱり大化けだったと思う。

人間って、こういうことがある。何かを成し遂げる時というのは、見た目とか雰囲気とかいうものまで変わってしまう。いわゆる「オーラ」出まくりになってしまう。

本当にあの「オーラ」ってのは、どこから来るんだろうかと、私はいとも単純に感動してしまったのであった。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月24日

「堀江メール」の目的と結果って?

いわゆる「堀江メール」事件、民主党が思いっきり地雷を踏んだということのようだ。

地雷の仕掛け方は、そんなに上等なものでもなかったのに、永田議員と民主党が、あまりにも無邪気に踏んづけちゃったということなんだろうなあ。その想定外の無邪気さに、仕掛けた方としても、複雑な心境かもしれない。

運転しながらカーラジオのニュース番組を聞いていると、多くの解説者が「あぁ、民主党、やっちゃったよ」という感じで、妙に冷めて突き放したモノの言い方をしていた。普通、この種の問題が持ち上がったら、マスコミは大喜びで自民党批判をするところなのに。

マスコミでは確実に、この「怪文書」の存在は事前に知られていたのだ。

「俺たちがアブなすぎて触れなかったものを、よりによって、予算委員会の質問という形で、大上段に振りかぶって表沙汰にするなんて、民主党もヤキがまわったかな」とでも言いたそうな解説ぶりだった。

変な裏読みをしてしまうと、この「怪文書」をマスコミや永田議員に持ち込んだ何者か(フリージャーナリストなどと言われているが)は、踊らされ、利用されたんじゃないかと思われる。たまたま入手したメールのコピーを、単に商売の種にしようとしたのだろう。

じゃあ、誰がその「怪文書」を作成した黒幕なのか。このあたり、あの世界周辺のドロドロさ加減が思われて、かなりげんなりしてしまう。

「怪文書」作成の基本的な目的からして、少なくとも二通り考えられる。一つは、単純に「武部追い落とし」によって小泉政権を追いつめようとしたものだ。武部氏とホリエモンの家族ぐるみでの仲良しぶりは、既に知られていることだから、何かあっても不思議はないし。

もしこの目的で作成されたのだとしたら、永田議員の無邪気すぎるやり方は、「ぶちこわし」 以外の何ものでもなかったわけだ。黒幕としては「もう少しうまくやれよ〜」と言いたいところかもしれない。

しかし逆に、これを利用して永田議員に地雷を踏ませ、形勢逆転してしまうという「ウルトラ C 技」と考えることもできる。そう考えると、地雷効果は当初の想定の 120%ぐらいだったろう。

あぁ、関わりたくない世界である。くわばらくわばら。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月23日

「ワダエミ」と「平野レミ」

安藤美姫選手のコスチューム・デザインで、ワダエミさんが注目されているが、出来映えは賛否両論あるようだ。映画とスポーツでは、デザインの勘所が違うのかも知れない。

ところでアホな話だが、私は以前「ワダエミ」と「平野レミ」の区別がつかなかった。この二人、キャラは、あんなにも違うのに。

いや、「区別がつかなかった」 と言うと、語弊がある。片や黒澤映画などで国際的な名声を博したコスチューム・デザイナー、片や、シャンソン歌手にして料理愛好家という区別は、勿論、しっかりと把握している。

片や、しっとりとした語り口の洗練されたレディ、片や、キャピキャピのお元気オバサン。この区別も、ちゃんとわかっている。

しかし、どっちが「ワダエミ」で、どっちが「平野レミ」かということになると、とても曖昧だったのだ。下手すると、コスチューム・デザイナーのしっとりレディの方を、「平野レミ」なんて言いそうになってしまうのだった (今は、大丈夫だが)。

これは「エミ」と「レミ」という名前が似ているせいもあるが、紛らわしさの根深いのは、それよりも、お二人のダンナのせいである。

ワダエミさんのダンナは、あの有名な 「ガハハおじさん」、和田勉氏である。そして、平野レミさんのダンナは、あのイラストレーター、グラフィックデザイナーの和田誠氏だ。両方とも名字が「和田さん」で、しかも、名前が一文字という共通点がある。

そしてダンナのキャラは、そりゃ傍目だけで言うのは失礼だが、どっちかというと、二組の夫婦でクロスしている。コスチューム・デザインをするしっとりレディのダンナが「ガハハおじさん」で、お元気オバサンのダンナが、ペダンティックなグラフィック・デザイナーである。

その上、和田誠氏は本業がグラフィック・デザイナーなのに、「お楽しみはこれからだ」という映画関連のベストセラーを書き、のみならず映画監督までこなしている。

平野レミさんの方が旧姓を名乗っているおかげで、少しは差別化されているが、それでも、ここまで込み入っていたら、二人の区別がつきにくい(あるいはつきにくかった)という人は、多分、世の中にいくらでもいると思う。

このエントリーに、「実は私も・・・」 といった類のコメントがいくつもついたら、私はとても励まされると思うので、隠さず遠慮なく告白していただきたい。

余談だが、シャンソン歌手であるはずの平野レミさんのデビュー曲は、『カモネギ音頭』という珍曲だったらしい。一度聞いてみたいものと、私は長年にわたって念願している。

【2024年 1月 5日 追記】

『カモネギ音頭』に関しては、この記事のコメントに「通りすがり」さんが 2021年 7月 4日にニコニコ動画で聞けるという情報を寄せてくれたが、このほど YouTube でも見つけた。こんな感じである。

 

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006年2月22日

そもそも 「グループ送迎」 というシステムがおかしい

滋賀県長浜の幼稚園児殺害事件で、「グループ送迎」という制度への疑問が、あちこちで投げかけられている。

私としては、もっともな疑問だと思う。そもそも、今どき、送迎バスのない幼稚園なんてこと自体が許し難い。私だったら、他人の子どもを車に乗せて送りたいとは思わない。

ウチの自治体では、幼稚園への通園は送迎バスということになっている。昨日や今日の話ではない。我が家の娘たちが幼稚園に通っていた時代からだから、少なくとも、10数年前からそうなっている。

送迎バスに乗り降りするためのポイントも決まっていて、そこまでは各自の親が送り迎えする。幼稚園が終わって帰宅するときに、親が迎えに来ていない場合は、その子はそのまま幼稚園に連れ戻される。顔見知りの父兄が来ているからと言って、任せたりはしないのだ。そして、改めて親が引き取りに行く。

そのくらいは当たり前の話だと思っていた。そうでないと、何か事故があったときにドロドロの責任問題になってしまうのが明らかだからだ。グループ送迎なんて、元々が無茶な話なのである。

ニュースでは、容疑者がグループ送迎に馴染めなかったことが問題みたいな言い方をされているが、そんなもの馴染めなくて当たり前だ。あの幼稚園、園長の記者会見の様子を見ても、なんとなく役人然としていて、やぁな感じである。

もし自分の子どもの通う幼稚園で、グループ送迎などという制度があって、それを押しつけられるとしたら、私なら PTA の会議に出向いて、徹底的に抗議する。その抗議が受け入れられなかったら、そんな幼稚園に子どもを預けるのは、こっちから願い下げだ。

「人情論」から言ったら、あんまりいい感じはしないが、そんなこと言っている場合ではない。古き良き時代とは違うのだ。

それにしても、私の子どもの頃は、子どもだけで歩いて幼稚園に通い、帰りは思いっきり道草を食ったものだ。呑気な時代だったなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月21日

目を大切にね

先日久しぶりに会った知人の目が 「ウサギさん状態」
になっている。「いやぁ、1日中パソコンに向かって仕事をしていると、目が疲れちゃってさあ、歳には勝てないねぇ」

 

同感である。私も若い頃と比較して仕事の能率が格段に悪くなっているが、その主な要因は「目の疲れ」だ。

40代前半までは、何か新しいことをモノにしようと思ったら、一晩中でも集中して資料に目を通し、翌日にはいっぱしの作業に入るといったぐらいことができた。それが近頃では完全に無理になった。

何ゆえ無理なのかというと、集中力が続かないのである。その集中力が続かないのは、メンタルなものというよりは、単に物理的に目が疲れて、細かい文字や図が見えなくなってしまうのだ。

悲しいかな、デスクワークの多くは、目から入って来る情報の処理である。そのインプットを司る目が疲れてしまっては、回復するまで休むしかない。

ありがたいことに、私の場合は視力が落ちているわけではないから、目の疲れさえ取れれば遠くのものが見えないわけではないし、夜目だって利く。

しかし、もっと年をとると、夜目が利かなくなるらしい。私の父は、夜道の運転は危ないからしたくないという。さらに、叔母は先年、白内障とやらの手術をした。手術後に鏡を見たら、それまでは気づかなかった自分の顔のシワの多さに愕然としたという。

困ったことに眼鏡を誂ても、目の元気な朝のうちと、相当疲れてしまった夕方以降では、見え方が違うのである。元気なうちの目で誂た眼鏡では、夕方になって見えにくくなるし、夕方に誂た眼鏡は、朝にかけるとクラクラするので、再調整してもらうことになる。

同じ眼鏡で、朝晩で微調整が聞くような仕掛けがあれば、売れるだろうにと思うが、そんなのは重くなってしまって、かえって疲れるかもしれない。下手すると、そのうち 「元気なうち用」と、「疲れてから用」の、2つの眼鏡を用意しなければならない。難儀なことである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月20日

メールの意図の伝わり方

獄中のホリエモン、喜べ! 米国の研究によると、「メールの意図が正しく伝わる確率は 5割」 しかないんだそうだ。

裁判では、証拠として挙げられる数々のメールについて、「そんなあやふやなものに証拠能力はない」と主張すればいい。「すべて検察によって意図が誤解されたもの」 だと。

しかし、実際には、この研究結果というのは、かなり眉に唾を付けて受け取る必要がある。実際に、メールの意図が正しく伝わるか伝わらないかの確率が半々だというなら、そんなアブないもの、世の中でこれほどまでに重宝して使われているわけがないではないか。

実は、この研究成果なるものは、かなり恣意的なもののようだ。報道された限りの情報では、研究は以下の手法で実施された。

この研究では、学部生のペアを 30組作り、大学構内の食べ物や天気などのテーマに関する 20の意見が書かれたリストを渡した。各ペアの一方が、これらの意見が本気か皮肉かを推測して、選んだ意見を相手にメールで送信した。受け取った方は、メッセージに込められた意味合いを推測し、同時にその判断にどのくら
い自信があるかを示した。

そもそもが、本気か皮肉か、どちらでも受け取れるビミョーな意見というのを、メールしたというのである。そして、送り手と受け手の判断が合致するかどうかというのを検証しただけと、要するにそういうことのようだ。

米国の IT 研究、とくにユーザビリティとかいった分野の論文には、こんな具合に、恣意的というか、枝葉末節的というか、極端なケースの論考というか、まあ、そうした類のものがとても多いように、私は感じている。彼らはその程度のことで、鬼の首でも取ったように、得意満面になっている。あまり上等な学問じゃない。

普通、こんな単純で子供だまし的な手法で行われた実験の結果を「メールの意図が正しく伝わるか」というテーマで発表するというのは、かなり無理があるような気がする。

本来ならば、実際に相対しての会話、固定電話での会話、携帯電話での会話、ビデオ、録音テープ、以上のケースを、淡々述べた場合と、芝居気たっぷりに述べた場合、さらに、FAX、手紙、各種印刷物などを、字体やフォントを変えて送った場合など、様々なメディアとスタイルを使って比較検証しなければならないだろう。

心配しなくてもいい。日常業務におけるとても事務的なメールのほとんどは、多分、きちんと伝わっている。送り手がある程度まともな文章を書いて、受け手がきちんと読んでいる限りは。

送り手の文章が 「ド下手」 で、受け手がきちんと読まなかった場合は、どんな場合でも、その意図はきちんと伝わらないが、それは、メールに限ったことではない。

ぬか喜びさせちゃってごめんね。ホリエモン。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月19日

23年目のつくば初心者

昨日は妻の誕生日だった。お祝いに、夕方から買い物、そして、つくば学園都市のシネコンで 「有頂天ホテル」 を見る。そして、夜 9時を廻ってから遅い晩飯。

考えてみると、妻と 2人だけでデイトというのは、子ども達が一応の大人に育った最近になって、ようやく復活した習慣である。

我々がつくばの地に引っ越してきたのは、23年前で、それまでは東京の西荻窪に住んでいた。そこで長女が生まれ、1年後にこの地に移ってきたのである。長女が生まれる前は、そりゃあ、東京在住だもの。2人であちこちに出歩いて、夜遅くまで遊んでいた。

しかし、長女が生まれてからは、そうはいかない。子育てというのは、常にどちらかが子どものそばにいるということである。2人で出かけるなんてことはできなくなる。出かけるときは、単独行か、家族揃ってのどちらかということだ。

そして、近頃になってようやく末っ子も高校を出ていっぱしになったので、2人ででかけることができるようになった。しかし、ここはつくばの地である。東京とは違う。

映画を見終えて食事をしようにも、ファミレスみたいなところしか見当たらない。それに、この地は車で移動しないとどこにも行けないところだから、酒を飲むわけにいかない。酒以外のコーヒーでも飲んでゆっくりする場所が見当たらない。

つくばの地に移り住んで 23年が経ち、ようやく「自分たちは田舎に住んでいるんだ」ということが、本当に実感として理解され始めたのである。それまでは、頭で理解してはいたが、体ではわからなかったのだ。

東京でなら、夜でも時間はつぶせる。しかしつくば近辺では、我々は 23年経っても初心者である。改めて、この辺りでの夜の時間の過ごし方というのを、開拓しなければならないと思っているのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月18日

民主党は「議員個人のキャラ」で逃げろ

昨日夜に、民主党がホリエモンのいわゆる「送金指示メール」をプリントアウトしたものを公表した。(参照

しかし、一般論としては、「プリントアウトされたメール」の証拠能力なんて、ないに等しい。だからこそ、特捜はライブドアのガサ入れで、ハードディスクごと PC を押収したのである。

この話のベースとして、そもそもその「送金指示メール」なるものが、実際に存在するのかどうかは問わない。本当だったのかも知れないし、まったくのガセだったのかもしれない。そんなもの、当事者以外にはわかるわけがない。

ただ、少なくともはっきりしているのは、民主党の軽率さと戦略的稚拙さである。これでは、大上段から振り下ろした刀で、自分の爪先切っちゃったようなものだ。

これだけの重要な問題を提起するからには、はっきりとした証拠を示すだけの準備がなければならない。そうでなければ、このメールが本物だったか否かにかかわらず、単なる「怪文書」として扱われ、名誉毀損になってしまう。

今の時点では、そのメールが実在したということの根拠とされるのは、紙ペラ 1枚である。ジャーナリストとしての視点から言えば、そんな話はまともには取り扱えない。「ボツネタ」だ。あるいは「かくかくしかじかの『怪文書』が出回っている」という客観報道で逃げる手もあるが、それだってかなり危ない。

民主党にとっての最後の逆転技は、そのメールの受取人に「命がけ」で登場してもらうことである。そもそも「危害が及ぶ」なんて、ただおびえているだけなら、こんな告発をすること自体がナンセンスである。

それでなくてもゴシップ・マスコミは、その受取人が誰なのかを探り始めて、水面下では混乱をきたすだろう。探す範囲はそう広くないだろうから、いくら隠れていたって、「危害が及ぶリスク」が軽減するわけじゃない。「民主党が守ってくれる」 なんて思っているとしたら、そりゃ、買いかぶりすぎだ。

さらに、もしメールの受取人自身が「嘘つき」だった場合、あるいは存在すらしなかった場合、 (これは「仮定」の話である。念のため)は、民主党は完全に「アウト」だ。

総合的に考えたら、民主党はこんな話に軽率に乗るべきじゃなかったと思う。裏で「出すぞ、出すぞ」と言っておいて、出さないという手の方がずっとよかった。それで自民党がうろたえたら、多分、本当なのだろうから、取り引きに使えたのに。

それとも、その軽率さは、この「疑惑」を取り上げた議員個人のキャラなのだろうか。Wikipedia、とくに「社民党議員の質疑が始まった途端折り紙を始める(動画) 」のリンクをみると、かなり笑えてしまうのだが。

民主党が逃げるとしたら、逃げ道はこのあたりかもしれないね。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年2月17日

「気配」のニュアンス

よく「春の気配を感じる」などと言うが、「気配」というのは当て字なのだそうだ。本来は、「気延ひ(けはひ)」という、なかなか雅やかで繊細なニュアンスの和語である。

日本人は「けはひ」を大切にしていて、お化粧のことも「けはい」と言った。鎌倉の「化粧坂」は、現代表記で「けわいざか」と読む。

本来、「よはひ(齢)」が「ヨワイ」に音便化したように、「ケワイ」に変化しやすい言葉だったのだが、「気配」と当て字されてしまったために、漢語みたい意識されて「支配」と同様に「ケハイ」と発音されているものらしい。

しかし、鎌倉の 「化粧坂」だけは、前述の通り「けわいざか」になっている。おもしろいものである。歌舞伎の曽我物では、「化粧坂の少将」という花魁が登場する。「化粧」と「気配」がリンクしていたなんて、最近まで知らなかった。

手元にある三省堂の 『例解古語辞典』 によると、「けはひ」 は次のような意味合いを持つ。

  1. かもしだされた雰囲気。なんとなく感じられる様子。風情。
  2. (それと確認できない対象から、闇や物越しに伝わってくる) 香り・話し声・物音など
  3. (手で触れたり、物音を聞いたりして、それとわかる) ようす。感触。
  4. (外面的な立ち居ふるまいなどから感じられる) 人柄・品格
  5. (死んだり離れたりして、実態のなくなった後も、そこにいるように感じられる) 面影、なごり。
  6. (雰囲気を生み出す) お化粧

なるほど。すべて「目には見えないもの」なのである。恩師である郡司正勝先生は、いつも「一番大切なのは、目に見えないことなんだよ」と言っていた。日本文化の根元には、「目に見えないもの」がある。

「目に見えないこと」というと、肉眼では見えないが顕微鏡や望遠鏡でなら見える「微少なもの」とか「遙か遠くのもの」というように誤解する者があるが、そんな単純なものじゃないんである。第六感以上の「直観」で理解するしかないようなものなのだ。

私は昨今の皇室典範論議にも、この「目に見えないもの」への関わり方の違いを強く感じてしまうのだ。何しろ「目に見えないもの」だから、法制化するのが難しい。このあたりが「純粋論理」の致命的弱点である。

Goo の和英辞書で 「気配」 を引いてみたら、"a sign;  an indication." と出てきた。どちらも「徴候」的な意味合いである。ここに、"nuance" (ニュアンス) という言葉も加えてみたい気がする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月16日

追憶の荻窪ロフト '75

ライブハウス「ロフト」といえば、今は下北沢と新宿ということになっているが、昔はもっといろいろなところにあった。

70年代には荻窪にもライブハウス「ロフト」があって、いかにも当時のカウンターカルチャーを感じさせる黒っぽい存在感をもっていたのだが、消え去って既に久しい。

70年代といえば、実は私だってミュージシャンの端くれをしていたのであった。バンドを組んだこともあったが、基本的には、シンガー・ソングライターだった。

どんな歌かというと、当時流行りの反戦的なプロテスト・ソングでもなく、「神田川」に代表される 「四畳半フォークソング」 でもなく、もっともマイナーな分野の、ブルース、カントリー系のオリジナル・ソングが主体だった。私のことだから、詩は案外凝っていた。

当時の仲間内では、結構評判のいい歌もいくつかあって、私の結婚式では、お祝いに私の書いたブルースのラブソングを歌ってくれたやつもいた (なぜか、新郎の私が、ギター伴奏をさせられた)。

あれは多分、1975年頃だったと思う。それまで、都内の下町あたりの小さなライブハウスをベースとして歌っていた私に、荻窪ロフトへの出演話が舞い込んだ。当時、荻窪ロフトといえば、ちっとはメジャーに近づけるという雰囲気を感じさせるところだった。

「おぉ、俺にも運が向いてきたのかな」と、私は思った。完全にソロの弾き語りで行こうか、それとも、ベースぐらいは付けようか。いろいろと考えを巡らせた。

ところが、出番まで 1か月ほどとなったある日、ロフトの方から、キャンセルをくらってしまった。ちょうど私の出演予定の日に、某メジャー・プロダクションから横やりが入ってしまったのだという。その事務所が力を入れて売り出そうとしている新人女性シンガーを、どうしてもその日に出演させたいということらしい。

ロフトのスタッフは、私にこう聞いた。
「tak(当時のステージネームは別なのだが、便宜上、これで通させていただく)ちゃんさぁ、ぶっちゃけ、お客は何人動員できる?」
「70〜80人なら、軽くいけるけど」
「それじゃ勝負になんないよ。向こうは 200人動員するって言ってんだよね」

というわけで、バックに政治力のない一匹狼シンガーの私は、無惨にも荻窪ロフトへの出番を力ずくで横取りされてしまったのである。それにしても、その事務所、あの狭い店に、どうやって 200人も詰め込むつもりだったんだろう?

この頃から、私はなんとなくミュージシャンとして歌を歌うよりも、字を書く方が性に合っているような気がしてきて、それから 3〜4年かけて音楽の道からスピンアウトしてしまうのだが、そこには、この「荻窪ロフト・キャンセル事件」が、大きく影を落としていたような気がするのである。

私から強引に出番を奪った新人女性シンガーの名は、荒井由美といった。そう、今では大御所となってしまった松任谷由実その人である。

【平成 19年 7月 4日 追記】

池田信夫氏のブログ記事「35年目の松任谷由実」で初めて知ったのだが、2007年でデビュー 35周年ということは、1972年にデビューしていたのか。ということは、私がステージを横取りされた頃は、デビュー後 2~3年経っていたわけだ。ふーん、彼女にも下積み時代があったのね。

その直後に、『あの日にかえりたい』 でブレークしたわけだが、なるほど、まこりんさんのコメントにあるように、ブレーク直前でテンション高まりまくってたのだろう。ふむふむ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006年2月15日

「義理チョコ」は、バブルの遺物

バレンタインデーも終わり、ふとニュースに目を通すと、OL の 7割が「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」と思っているという調査結果が出ていた。(参照

サラリーマンの 5割もそう感じているという。さもありなん。「広く薄く」チョコを配りまくるという奇妙な風習は、多分バブルの遺物なのだ。

ところで、「義理チョコ」 という言葉は、いつ頃から定着したのだろうか?

あれは多分、平成の御代になりたての頃だったと思うから、バブルにさしかかった時期である。その当時に勤めていた会社で、こんな会話が交わされた。「言うたろか事件」 として、今に語り継がれていることである。

オッサン 「○○さん、今年はチョコくれへんかったな」
OL 「当たり前ですやん、バレンタインいうたかて、チョコ配りまくっとったら、お金がいくらあっても足らんわ」
オッサン 「そうか、そういうの、どない言うか、知っとるか?」
OL 「え? 新しい言い方、ありますの? 『現代用語の基礎知識』 とか 『イミダス』 に載りそうなん?」
オッサン (したり顔で) 「おもろい言い方、あんねん。言うたろか?」
OL 「何なに?」
オッサン 「あのな、"義理チョコ" 言うねんて」
OL 「はぁーっ? 何寝ぼけてまんの。そんな言葉、何年も前から使こてますがな!」
オッサン 「え? 最近の言葉、ちゃうの?」

というわけで、オッサン、大ボケくらわせてしまったのだが、ということは、昭和 60年頃には、「義理チョコ」はこの世に存在していたわけである。(ちなみに、ここに登場した「オッサン」は、私ではないということを言い添えておく)

当時、バブルの勃興期で、日本中の産業は「ギフト需要」というバブリーな需要で膨れあがりつつあった。私の専門の繊維業界では、タオル、寝具、靴下、ネクタイ等々の小物が、ちょっとデザイナーブランドのマークを付けただけで、結構なお値段となり、それがギフト用途で売れまくっていた。

日本中が「プレゼントしたがりシンドローム」に陥っていたわけである。そうなれば、当然チョコだって黙ってはいない。それまでは「好きな人」にあげるものだったのが、会社で配りまくるものに変化してしまった。

バブルが崩壊してもこの「義理チョコ」なる習慣が廃れなかったのは、チョコの単価がそれほど張らなかったためだろう。それでもやっぱり根が「アホな習慣」だから、冷静に考えれば、馬鹿馬鹿しくなるのは当然である。

洋菓子業界には申し訳ないが、「義理チョコ」というマーケットは、長期的には縮小に向かうだろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月14日

「天皇のお婿さん」を、ちゃんと探せるか?

今回の秋篠宮妃殿下ご懐妊のニュースで、皇室典範改正問題が、ちょっとだけ沙汰止みになった。これで、小泉首相が「国賊」扱いされるリスクがかなり軽減した。

私はこの問題について、「持論」というほどの意見を持ち得ないでいる。しかし、この辺で問題を整理しておくぐらいは、必要だろう。

まず、問題を「女性天皇を容認するか」ということと「女系天皇を容認するか」に分けて考えなければならないが、その前に、「天皇制を守るべきか」という大問題もあるだろう。

この 3点について、私なりに整理してみたい。

1.天皇制を守るべきか

私は基本的に、「天皇制」という立憲君主制を支持している。精神的なレベルでの「国の中心」というコンセプトは、ある方がずっといい。

とくに、これだけ長い歴史にわたって連綿と続いてきたシステムというのは、下世話な言い方をすれば、世界に類なき「レアもの」である。それだけでも尊重されていい。

2.女性天皇を容認するか

「女性天皇」については、かなりの保守派でも容認するというのが多数意見になっているようだ。しかし、私はそれについてはかなり消極的である。

今の英国王室の皇太子、王女たちの有様を見るにつけ、母親が国家元首という特殊な家庭に育った子どもたちというのは、何らかのトラウマを生じやすいのではないかと疑っている。

ロイヤルファミリーという特殊な環境で育つ子どもたちにとっては、母親は身近な存在であってくれる方がありがたいのではないかと思うのだ。

3.女系天皇を容認するか

現在、もっとも意見の衝突しているのは、女系天皇を認めるかどうかということである。伝統尊重派は、「万世一系を守るためにも、天皇は男系でなければならない」と主張している。

これについて、「そもそも『万世一系』ということ自体に疑問があるのだから、そんなことにこだわる必要がないではないか」という意見もある。

ただ、伝統尊重派の立場からすれば、「事実としての万世一系への疑問」は、とるに足りないものだ。伝統というのは、どこに行っても、多分に建前論なのである。

しかし、いくら「建前」であっても、現実論として考えると、男系主義は「側室制度」によって保証されていたということを忘れてはならないだろう。

今の世の中で、天皇陛下だけが一夫多妻主義でいいかというと、「それはちょっと」ということになり、そうなると、女系天皇でもいいではないかということになる。二者択一で、どっちをとるかという議論になる。

民主党の前原代表は、「国民が天皇制に側室制度なんか駄目だということになれば女系天皇もやむなしだ」と、率直に述べている。実はかなり柔軟な考え方のできる人のようで、そのあたりは評価できる

とはいえ、私個人としては、女性天皇にさえ消極的なのだから、それを前提とした「女系天皇」ということになると、当然ながら、ますます消極的にならざるを得ない。

そもそも「天皇のお婿さん(あるいは、将来の天皇のお婿さん)」を探すのは、並大抵なことじゃなかろう。今の皇太子妃殿下をお迎えするのも大変だったのだから、お婿さんとなったら、なおさらのことだろう。

じゃあ、どうしたらいいんだというと、これといった名案はないのだが、かなり以前に皇籍を離れた宮家の跡継ぎに、「お婿さん」として皇籍に復帰してもらい、将来の天皇となる王子を誕生させていただくとかいった手も考えられる。

これなら、いわゆる「Y 染色体問題」も蒸し返されなくて済むだろうしね。ただ、一朝一夕に行くとも思われない。

というわけで、月並みだが「時間をかけて論議を重ねる」ということになったことには、ちょっとだけホッとしている。下世話な心配をしなくても、「神計らい」 的にうまくいくような気もするし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年2月13日

「世間」にも狭義と広義があって

昨日、"「世間」と「ネット」はよく似てる" というエントリーを書いたところ、ululun さんが、"虚でありながら世間は実在している" と、非常に鋭い反応をされた。(参照

ここで、私はちょっとたじろいでしまい、「"世間" にも、狭義と広義があるようなんだけど・・・」と言い訳したくなったのである。

本当はこんな言い訳は昨日の時点できちんと前提として書いておくべきだったのだが、つい筆が滑って書きそびれていた。昨日のエントリーは、民俗学的な「世間」であり、いわば「術語」に近い視点から書かれている。

それに対して、世間一般に(ほら、こんな風に)使われている広義の「世間」という言葉は、やや「社会一般」に近いスタンスもあるように思う。だから、この狭義と広義の「世間」をイコールで論じるのはちょっと危ないかも知れないとだけ、言わせてもらいたい。

ululun さんは、以下のように述べておられる。

tak-shonai氏が指摘する虚と実が綯い交ぜになった茫漠たる世間という眼差しに対して私たちは恥を感じたり、行動規範を決めたりしているんだ、という事になりそうだ。
「そんな事をしていると世間様に恥ずかしい」という時の世間は特定の誰かではないので、虚である。虚でありながら世間は実在している。
加野瀬氏が「ネットのグローバリズム」と言ったのは、実はこの茫漠たる世間そのものを指しているのではないだろうか。

「世間様に恥ずかしい」と言った場合の「世間様」は、かなり曖昧な(それだけに便利な)概念だ。時と場合と言う人によって、「隣近所」 だったり「付き合いのある範囲」だったり、はたまた「社会正義」だったりする。

ただそれでも、「世間様」という場合は、「隣近所の誰それ」や 「会社や得意先の誰それ」という特定個人は巧妙に想定の外になっている。直接話している相手に 「あんたなら、少しはわかってくれるかもしれないけど」と言外ににおわすみたいな、「甘えの構造」も少しだけ残ったりしている。

さらに「社会正義」というような意味合いで使った場合も、倫理的にも法律的にもきちんとオーソライズされたものというわけではなく、八つぁん熊さん的な色合いの濃い「情緒的正義」である。

だから、上記の ululun さんの指摘はぎりぎりセーフの鋭さをもっている。私としては「虚でありながら世間は実在している」というとても直観的で難解な指摘を、「共同幻想的に機能している」という意味に理解した。

「世間一般の "世間"」は、かなり重層的な意味合いのある共同幻想だ。それだけに、取り扱いに注意しないと、議論が行き違いになる危険性もある。

上記で「広義の世間」が "「社会一般」に近い" と言ったが、「社会一般」という概念そのものも、共同幻想的なものかも知れない。そこには、やはり怪しさあふれる「狭義の世間」の雰囲気が残っている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月12日

「世間」と「ネット」はよく似てる

ululun さんのとこの「煩悩即道場」界隈で、「ウェブと世間」の話が盛り上がっている。

この論議、元々は "H-Yamaguchi.net" の "ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか" あたりに端を発しているのかもしれないが、正確に辿ってみる根性を持ち合わせていないので、よくわからない。

この話、ちょっと重層的なのだが、「世間は "リアル" 」で、「ネットは "リアル" じゃない」とかいうけど、しかして、そのテーゼをそんなに簡単に認めていいの? ってなあたりの疑問が底流にあるんじゃないかと、私は極めて短絡的に直観している。

そこで、私のいつもの言いぐさを展開させていただくと、「"ネット" と "世間" はよく似てる」 ということだ。

私は一昨年の夏、「世間話の怪しい新鮮さ」というエントリーを書いていて、その中で以下のように述べている。

民俗学では、「世間話」というのは中世以後に出現したことになっている。諸国を渡り歩く遊行の民が語り伝えた話である。

つまり、中世以前は世の中に「世間」は存在しなかった。隣近所や集落程度では「世間」ではない。もうちょっと遠く、姿が曖昧になるあたりが 「世間」 である。

中世以前は、そうした「世間」というほどの距離は、普通の人々の暮らしの中であまり意識されなかった。人との付き合いは、隣近所、せいぜい集落単位に限られる。つまり、意識レベルが「世間」という距離感まで到達し得なかったのだ。

顔を見ただけでどこの誰だかわかるような範囲は、プリミティブな共同体である。「世間」というのは、そうした氏素性のはっきりした範囲ではない。

こちら側の常識がある程度通じるという意味では、まったくエイリアンの世界ではないのだが、わずかな差異の中に、突如意表をつかれる要素も潜在している。そうしたえもいわれぬ距離を保ったあたりが「世間」というものである。

共同体の外からやってきて、知らぬうちに去っていってしまうような、一種怪しいところのある人物が持ち来たってまことしやかに語ったのが、「世間話」の始まりである。だから、「世間話」というのは、いつだって少々怪しい。

ね、「ネット」と「世間」て、よく似てるでしょ。

現代社会では、隣近所とか親戚付き合いとかいったゲマインシャフト(共同社会)の要素が希薄になり、その変わり、「ゲゼルシャフト」(利益社会)の要素が大きくなったと言われるが、実は、気の毒なことに、その狭間で一番希薄になってしまったのが、「世間」である。

しかし、よくしたもので、「世間の復権」あるいは、「第二の世間」として、ネットが興隆している。「世間」も「ネット」も、「リアル」と「バーチャル」 の皮膜の間にあると思うと、付き合いやすい。

「皮膜の間」 に関しては、ちょっと乱暴かもしれないが、直観的理解のできる人は、近松門左衛門の「虚実皮膜論」を参照のこと。

今日は時間がないので、この程度の思わせぶりにて失礼。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月11日

地球は神の創造でも、「神の国」は NG?

米国のキリスト教保守派が、地球温暖化ガス排出削減法の制定などを政権に求めるキャンペーンに乗り出したと伝えられる。(参照

彼らは、「神の創造物である地球を守り、温暖化による海面上昇で被害を受ける貧しい人々を救うため、早急に行動が必要」と、崇高な主張をしているという。

昨夜、ラジオを聞きながら仕事をしていたところ、TBS の「アクセス」という番組で、このニュースが取り上げられ、「トークパーソナリティ」をつとめる二木啓孝(ふたつぎひろたか)氏 =「日刊ゲンダイ」ニュース編集部部長が、この主張を「おぉ、正しいじゃないですか」と高く評価していた。

二木氏は、米国のブッシュ大統領の強力な支持基盤である宗教保守派の中から、京都議定書批准を渋る政権に異議を唱える主張が出てきたことを喜んでいるのだろう。私だって、それは喜ばしいと思う。だが「ちょっと待てよ」と、へそ曲がりを言ってもいいだろうか。

氏は今回の「神の創造物である地球」を大前提とした主張を、手放しで「正しい」と認めながら、6年前の森喜朗発言「日本は天皇を中心とした神の国」には、ヒステリックなほどの批判をされている。

私なんぞは、森氏の「神の国発言 は、別段問題とも思わなかった。「天皇を中心とした」という部分は、憲法にも「象徴天皇」が規定されているのだから、それほどいきり立つほどのこともなかろうし、「神の国」にしても、彼の信心から出た言葉なら、それでいいじゃないかと。

そもそも、この「神の国」発言自体が、広範な大衆に向かって声高に主張されたわけでもなく、内輪の集まりの中の発言だったのだし、あんなにまで鬼の首でも取ったように、集中的な非難を浴びせる必要があったのだろうかと思うのだ。

それに、仮に「日本は天皇を中心とした神の国なんかじゃ、ぜーんぜんないのよ」という結論にもっていったところで、それによって、どんな具体的な利益がもたらされるというのだ。そんなことに、あんなにまでヒステリックになる必要があったのだろうか。

まあ、このあたりは人それぞれの受け取り方があるから、私の考えが正しいと他人に押しつけるつもりもない。とくに、先の大戦と関連づけて問題視する考えも、ある程度は理解できる。ただ、言葉尻だけを捉えてヒステリックになるのは見苦しいということだけは、強調しておきたい。

そして、その言葉尻を捉えてヒステリックな批判論陣を張ったその人が、今回の「神の創造物である地球」発言に限っては、全然言葉尻にとらわれず、ころっと認めて「おぉ、正しいじゃないですか」とラジオで発言するというのは、節操的に如何なものかと思うのである。

「地球が神の創造物」であると認めるならば、その上に乗っかる日本だって「神の国」ということにしてもいいだろうよ。世界中の国が、それぞれ神に祝福された「神の国」でいいではないか。

まあ、私のこのエントリーもかなり「言葉尻を捉えている」ことに変わりはないけれどね。「言葉尻捉え返し」ということで読み飛ばしていただければ幸いである。

あ、そういえば、今日は建国記念の日じゃないか。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月10日

これこそ「文明の衝突」 − 「雪だるま」と「スノーマン」

札幌市の雪まつりの一環で、雪だるまを大量に作ってギネスブック登録を目指したイベントが今年、中止に追い込まれた。(参照

ギネス社から 「スノーマンしか認めない」と回答があったためだという。だから私は 3年前から言ってたでしょ。「雪だるま」と「スノーマン」は別物なんだって。(参照

そもそも、雪だるまは二段重ねだが、スノーマンは三段重ねなのである。理想的なスノーマンというのは、直径の比率が 3:2:1 の雪玉を、下から三つ重ねるのだ。

それは、Google で Snowman のキーワードでイメージ検索してみればわかる(参照)。ご覧の通り、西洋のスノーマンは三段重ねで、その上、手もあれば、ニンジンの鼻まで付いている。

二段重ねの雪だるまで、三段重ねのスノーマンのカテゴリーに挑戦しては、ハナから楽なハンディキャップマッチで、ズルしてると思われ、まともに取り合ってもらえないのも仕方のないことだろう。

私は昨日のエントリーで、「ムハンマド風刺画問題」は「文明の衝突」というより「経済問題」だと書いたが、この「雪だるま問題」こそ、まさに「文明の衝突」というにふさわしい。

その後も、"SNOWDARUMA" の新分類まで提案して飽くなき挑戦を続けたが、まともな返事すらもらえなかったという。

これは、ギネスブック認定委員にイスラム教徒がいて、「禅仏教の聖者である達磨大師を、こともあろうに『解けて流れりゃみな同じ』の雪で偶像化するとは、許し難い冒涜」として即座に却下されたためだ (もちろん、ウソです)。

惜しむらくは、関係者には、"SNOWDARUMA" ではなく、"Snow Dharma" と表記してもらいたかった。そうすれば、ギネス側も出来の悪い冗談とは思わずに、少なくとも返事ぐらいはくれたかもしれない。

「ダルマ」は "Dharma" として国際語なのである。ジャック・ケルアックの小説に "The Dharma Bums" (邦題 『禅ヒッピー』)というのがある。

なお、リンク先のニュースは時が経つと消えてしまうので、さわりのみ、以下に引用しておく。

札幌市の観光団体が実行委をつくり、ギネス挑戦を始めたのは 02年。「新潟県十日町市が雪だるまを約 6000個つくって申請した」 との話を聞いたのがきっかけだった。1年目は 5487個で申請を見送ったが、2年目は 1万2379個をつくり申請した。

ギネス社からの回答は 「1時間に何個のスノーマンをつくるかという分類はあるが雪だるまではダメ」。スノーマンは高さが 1メートル以上、鼻がニンジンで手があるなどと定められている。ところが札幌の雪だるまは約 70センチ、スノーマンとは認められなかった。

十日町市の雪だるまも承認されないと知り、その後も 「SNOWDARUMA」 の新分類で申請するなど挑戦を続けたが、回答すら来なくなってしまったという。

「雪だるまでの登録は無理」との結論に達したのは昨年 5月。「文化の違いはいかんともしがたかった」(実行委)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 9日

「文明の衝突」 よりも 「経済の衝突」 だ

今回の「ムハンマド風刺画問題」は、一節には「文明の衝突」と言われていて、確かにそうした側面もあるにはあるが、最も大きいのは、やはり 「経済問題」 だと思うのだ。

ムスリムを擁護する立場の人は、異口同音に 「本来のイスラム教は暴力的ではなく、平和を愛する教え」 と強調している。

確かにそうなのだと思う。そんなに暴力的な宗教がこれほど世界的に広まるわけがない。ならば、どうしてこれほどまでに、暴力的抗議の渦が世界に広がっているのか? それは、湾岸産油国が典型的なのだが、イスラム社会における経済的な内部矛盾による不満の鬱積が大きいと思うのだ。

一般論として、人間は文明論的な軋轢ではあれほどまでに暴力的になることはない。歴史的な「宗教対立」と見えるものも、よく見れば本質的には「経済対立」であり、より率直にに言えば「欲望のぶつかり合い」である。今回の騒動も、やはりそう見るのが筋だろう。

私はイスラム圏に旅行したこともないし、ムスリムの知り合いがいるわけでもないから、その方面について知識が豊富なわけではない。しかし、中東諸国というのは矛盾に満ち満ちているらしいと、素人目にも直観する。

私のバックグラウンドの一つは、繊維業界ジャーナリストとしての経験である。私がこの業界に足を踏み入れた頃、世界はオイルショック直後で、オイルダラーが大きな顔して飛び交っていた。日本の合成繊維の最大の輸出先が、中東諸国という時代だったのである。

中東諸国が買い漁っていたのは、日本の合成繊維ばかりではない。何を隠そう、ヨーロッパのオートクチュールの最大の顧客も、中東の石油成金の(大勢の)妻たちだったのだ。

ここで、「あれ、どうして?」と思わない方がおかしい。あの、肌の露出度の大きいオートクチュール・ドレスが、どうして中東の女性に売れるのだ? イスラムでは、女性の肌の露出を厳しく諌めているはずではなかったか。

その回答はこういうことだそうだ。彼女らは、豪勢な自宅では大勢の召使いたちの手前、敬虔なイスラム教徒らしい服装に身を包んでいる。しかし、ひとたび自家用ジェットでモナコあたりの社交界に出かけると、御法度のはずのカクテルだって飲むし、肌も露わなオートクチュールでゴージャスに変身してしまう。

日本人は本音と建前の差が激しいなどと言われるが、中東に比べたらちゃんちゃらおかしい。可愛らしいぐらいのものである。逆に、日本人は本音と建前の意識的な使い分けがきちんとできない(要するに「開き直り」が下手)ので、これほどまでに外交下手なのだ。

湾岸産油国では、富が著しく偏在している。その富の源泉は、「掘れば出てくる石油」という、楽してたまたま所有している資源である。こんな「おいしい」財産は、他にない。

こうして、サウジアラビアの王族のように、石油利権を握った者だけが膨大な財産を手にし、国内では基本的にまともな生産活動を奨励していないので、若者たちは手に職もなく、ただ貧窮して街をうろつくだけとなる。

貧しい若者たちの「金寄こせ」の動きが、やはり金の欲しい宗教界と結びつき、独占された国内の富の黒幕である欧米資本を目の敵にして台頭したのが、イスラム原理主義という一面がある。

だから、今回の抗議行動から発した暴動の最大の要因は、「文明の衝突」というよりは「経済の衝突」であり、もっと具体的には、彼らの社会の内部矛盾、そして、その背後でせせら笑う欧米資本ということになるわけだ。

欧米対中東の関係は、「業の絡まり合い」みたいなもので、お互いが原理主義的に(昨日のエントリーで触れたように、ヨーロッパ側も「表現の自由原理主義」じみている)こだわり合っていては、どう見ても解決にはほど遠いのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年2月 8日

単純な「表現の自由」より命の方が大事

私は時々、「健康のためなら死んでもいい」という健康オタクのジョークを持ち出すのだが、今、ヨーロッパのジャーナリズムは 「表現の自由ためなら死んでもいい」といわんばかりの、意地をかけた奮闘ぶりである。

例の 「ムハンマド風刺画問題」 の様相だが、はたして命をかけるほどのことだろうか?

「玄倉川の岸辺」の玄倉川さんは、「偶像と神」のエントリーへの私のコメントに応え、"「イスラム原理主義」と「言論の自由原理主義」の対立" と指摘されている。

それはまさに私も感じていたところで、ヨーロッパのジャーナリスト達の一部(あるいは多く …… まさか全部ではあるまい)は、まさに、異教徒の因習的圧迫に抗して言論の自由を守ろうと崇高な闘いを挑む革命的戦士といった幻想を抱いているのではないかとすら思える。

問題となった風刺画を最初に掲載したデンマークの日刊紙 Jyllands-Posten(ユランズ・ポステン)は、よせばいいのに、「表現の自由のために 他紙への転載を許可してしまったらしく、既に 32カ国の新聞がそれを紙面で直接紹介してしまった。

これでは、余計な衝突を煽っているのと同じである。まさに "「イスラム原理主義」と「言論の自由原理主義」の対立" という構図である。イスラム原理主義は、「表現の自由のために」問題の風刺画を描いた漫画家の命まで狙うだろう。

漫画家ばかりではない。フランスの France Soir (フランス・ソワール) 紙は、この風刺画を転載したために爆弾テロの予告を受け、一時全社退避の騒ぎになった。

私は、"「表現の自由」 も大切だが、そのために命まで落としては元も子もない" と考える者である。「ジャーナリストの風上にも置けない」 と言われるかもしれない (一応、私はジャーナリスト活動もしている) が、「命の次に大切なのが自由」と本気で思っているので、勘弁してもらいたい。

この問題で、内田樹氏は 「原理主義と機能主義」 というエントリーで興味深い指摘をしておられる。(以下引用)

大陸の欧州諸国が「言論の自由」「表現の自由」という大義名分を掲げて、相次いでマホメットの戯画を掲載したのに対して、英国の新聞はこれを自粛し、英国のイスラム系団体もイスラム教徒に自制を求め、騒乱を回避した。
英国人は 「言論の自由」 を少しだけ制限することで、当面のガバナンスを確保したのである。

内田氏は、こうした英国の態度を 「原理主義」 に対置して 「機能主義」 と呼んでいる。さらに引用させていただく。

「これこれでなきゃダメ」 というのが原理主義である。
「使えるものがこれしかないなら、これで何とか折り合いをつけよう」 というのが機能主義である。手持ちの限られた材料と手段で最高のパフォーマンスを達成するにはどうしたらいいのかということに知的リソースを集中できるのが機能主義者である。

そして内田氏自身は、ご自分が機能主義者であると宣言しておられる。そうした意味では、私も機能主義者の端くれと言っていいかも知れない。

日本のマスコミも、風刺画の紹介は自粛している。これを「機能主義」と呼ぶか、「事なかれ主義」と呼ぶかは微妙だが、この姿勢を私は評価したいと思う。余計な対立の構造の中に踊り込む必要はない。

これこれの刺激を与えればいきり立つと決まっている相手に、その通りの刺激を与えてしまうのは、賢明なやり方ではない。かといって、譲歩し続けるばかりでいいというわけでも、もちろんないのだが。

対立に至るのはあっという間だが、和解するには長い時間がかかる。押したり引いたりしながら、根気よく和解の努力をしなければならない。少なくとも、和解への姿勢をきちんと示し続けている間は、決定的な衝突には至らない。

上記の 2パラグラフは、風刺画問題ばかりでなく、靖国問題にも共通した私の考えである。

【同日昼 追記】

玄倉川さんは、上記でリンクしたエントリーのコメント中に、"他者への敬意を欠いた「自由の絶対神聖化」はどうも好きになれません" と述べておられる。

私も昨日のエントリーでは、件の風刺画を "「表現の自由」 に名を借りた 「侮辱行為」"  と書いたが、今回のエントリーでは、この方向の言及が欠けていると、反省している。昨日のエントリーを読んでいない読者は、私がムスリムや中韓を蔑視していると誤解してしまうかもしれない。

「他者への敬意」 は当然持つべきことであると、遅ればせながら表明させていただく。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年2月 7日

洒落で済まない、ムハンマド風刺画問題

いわゆる 「ムハンマド風刺画問題」 が、泥沼化しつつある。

初めは「表現の自由」に名を借りた「侮辱行為」だと、単純に捉えていて、件の新聞がきちんと謝れば済むと思っていたのだが、どうやら、そんな簡単な話ではないようだ。「洒落」で済むかどうかという、文化的衝突らしい。

そもそもの発端は、デンマークの日刊紙 Jyllands-Posten(ユランズ・ポステン)が、最近イスラム系移民への配慮で、マスコミの表現の自主規制が行きすぎていないかと、問題提起しようとしたものであるらしい。

そこで、表現の自由を身をもって示すために、12人の漫画家に「あなたにとってムハンマドとは」というテーマで風刺画を描いてもらい、それを掲載した。

どんな風刺画なのか見たいと思えば、さすがにインターネット時代だから、あちこちのサイトで見ることができる。中でも "Face of Muhammed" なんかは、問題が超アンチ・イスラム的視点で整理されていて、西欧のネット右翼(?)のこの問題への関わり方が窺われる。

このサイト、世界中で件の風刺画をそのまま紹介した国と、抗議して騒動を起こした国を地図上で色別にして紹介し、言外に衝突を煽っている。よしゃいいのに。

12枚の風刺画は、西欧的なセンスでざっと見れば、確かにそんなひどいものではない。思わずクスっと笑えるようなユーモアのあるものも、いくつかある。普通のヨーロッパ人は、これらの絵の何がそんなにいけないのか、理解できないのだと思う。

しかしそうした意識は、厳しく偶像崇拝を禁じ、預言者ムハンマドを絵に描くこと自体が大変な冒涜なのだという、ムスリムの「文化」と激しく衝突する。爆弾の形をしたターバンをかぶって恐ろしい形相をした絵に至っては、その衝撃度はかなり大きいはずだ。

片方は「洒落」のつもりでも、もう片方には「洒落で済まされない」ものになる。この場合、「洒落を解する」ソフィスティケイティッドな方が、意識的にも無意識的にも相手を見下してしまいがちなのが、ますます問題をこじれさす。

「洒落では済まんぞ」と言って見下されてしまった方の対応で、古今東西を通じて最も有効なのは、すさまじく切れまくることだ。今回、多くのムスリムがその手に出たのは、当然と言えば当然である。

元々は、人口増加がストップしたヨーロッパ社会が、3K 的な仕事をさせるために、移民を積極的に受け入れてきた経緯がある。しかし、一度勢いのついたベクトルは拡大し続け、それによってもたらされた社会構造の急激な変化に、人間の心が追いつかなくなってしまった。

ただでさえ失業率の高い社会で職の奪い合いが生じるので、元々のヨーロッパ人には、とくに貧困層を中心に具体的な不満が蔓延する。こうした不満を煽ると、反動的な極右勢力に有利に働くのは、いつの時代も変わらない。

今回の一連の抗議行動で、シリアのデンマーク、ノルウェー両大使館が放火された。いくらなんでもこの暴力行為はやり過ぎだ。「そら見たことか。イスラムは、暴力的な宗教だ」という論調が勢いを増し、ヨーロッパの極右勢力には「おいしい」話になってしまうのが残念だ。

昨年の中国での日本大使館襲撃は、ペンキを投げつける程度で済んだが、火を放つに至っては、まさに「洒落では済まされない」レベルになってしまっている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 6日

日本語と逆上がりの関係を巡る冒険

マスコミでもブログでも、時々間欠泉のように吹き出すのが「外国語より、まず日本語を」という主張である。最近の注目エントリーは、「内田樹研究室」の「まず日本語を」 だ。

一方、「日本人が日本語など学ぶ必要はない」という主張もあって、この間欠泉ワールドも面白いことになっている。

こうした論議を眺めていていつも思うのだが、「言葉センスのあるやつは、特別に教育なんてしなくても自然に母国語は上手に使えるようになるし、センスのないやつは、いくら教育してもある一定以上には行けない」ということだ。

そして母国語を自然に上手に使いこなせるやつは、まともに学びさえすれば外国語だって上手になる。すべては「言葉センス」のなせる技である。

いくら大学を出ても、言葉センスのないやつは、まともな文章ひとつ書けない。しかし言葉センスさえあれば、中卒だってすごく魅力的な文章を書ける。文章ばかりではなく、言葉センスのあるやつのしゃべりは、たとえ口べただったとしても、味がある。

「外国語を学ぶ前に、まず、しっかりと日本語を」という主張は、私には「前方転回の練習をするよりも、まず逆上がりを」と言っているのと同じように聞こえる。

前方転回ができないやつは、大抵、逆上がりだって上手にはできない。逆に、逆上がりを苦もなくこなせるやつは、前方転回だって、きちんと練習すればできるようになる。「運動センス」というもののなせる技だ。

いつまでたっても逆上がりができないやつもいる。大学を出てもまともな日本語を操れないやつがいるのと同じことである。

教育さえすれば日本語が身に付くなどと考えるのは、幻想というものだ。体育の授業をいくらやっても、逆上がりのできないやつがいなくならないのと同じである。

世の中には「逆上がりを教える名人」というのがいて、その人がつきっきりで指導すれば、大抵の人間は逆上がりができるようになるという。同じように、日本語を教える名人がいて、その人がつきっきりで教えれば、大抵はきれいな日本語が使えるようになるかもしれない。

しかしそのような「教える名人」がどこにでもいるわけではない。世の中の大半を占める凡庸な指導者は、的はずれを教えて、成果の上がらないことを嘆くばかりである。

世の中とはそういうものなのである。何事においても、達者なやつと不調法なやつが共存しているのから面白いのだ。逆上がりもできないやつがいるから、体操選手の見事な技が賞賛される。日本語がまともにできない日本人がいるから、少しはまともにこなせるやつの生きる道がある。

日本人が平均的にきれいな日本語を操れるようになっても、その分、逆上がりのできるやつが減ったら、サッカーのできるやつが減ったら、音楽をこなせるやつが減ったら、味のある絵を描くやつが減ったら、そりゃあ、つまらないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 5日

雪女は実在した

いつもの冬なら、いくら 「寒波襲来」 などと言っても、半月と続かず、息切れしてしまうのだが、この冬は、昨年 12月頃からかれこれ 2か月近くも冷え切ったままだ。

近頃は暖冬のおかげで、春の選抜甲子園野球で北海道・東北勢も活躍していたが、今年は全滅かも知れない。

最近は正月頃に田舎に帰っても、学校のグランドには雪がなく、野球部が元気よく練習しているという風景を何度もみた。しかし、この冬に限っては、グランドで練習どころではない。春の選抜は、「ぶっつけ本番」みたいなものだ。

一昨日あたりから、またしても冬型の気圧配置が強まって、日本海側は軒並み大雪になっている。そのとばっちりをまともに受けたのが、私の妹だ。

寝たきりの母の介護をする父の応援のために、一昨日の朝に東京の自宅を発ち、羽田から飛行機で庄内空港に向かったのだが、酒田の上空で、厚い雪雲の中を何度も旋回するばかりで、一向に着陸できない。ついに、羽田に引き返してしまった。

それならばと、東京駅から上越新幹線に飛び乗った。新潟までは難なく着いたのだが、そこから先が猛吹雪で大変なことになる。

先だって強風で脱線転覆して有名になった「特急いなほ」に乗り換えて酒田に向かったが、一向に進まない。途中で何度も止まりながら、山形県に入る直前の新発田駅で「運行断念」ということになってしまった。

3時間待ったあげく、JR の手配した特別バスに乗って北上したが、日が暮れての吹雪の国道 7号線は、命知らずでもなければあまり運転したくないような状況になる。のろのろと進むうちに、前方でダンプカーがスリップ事故を起こし、1時間以上も立ち往生。

ようやく酒田駅前についたのが、夜明け前の 4時頃だったという。マイナス 5度の中で、タクシーの列に並ぶ。本来ならば、自宅まで歩けない距離ではないのだが、妹の言うには、「夜も明けないのにあの地吹雪のなかを歩いたら、遭難しそうだった」ということだ。大ご苦労だったわけだ。

この妹、昨年末も酒田から東京に帰るのに、羽越線が特急いなほの事故で不通だったので、高速バスで仙台まで行くのに、峠越えで大変な難儀をしている。「雨女」ならぬ「雪女」のようなのだ。

今日の酒田は、最高気温がマイナス 2度になると予報が出ている。一日中氷点下だ。春の来るのを待つばかりである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 4日

「語呂合わせ」 にも美学が要るのだ

数字に弱い私は、自宅の電話番号、ケータイ番号、車のナンバーなどなど、4ケタ以上の数字は、すべて語呂合わせで覚えている。

一方では、数字を写真で撮ったように覚えられる人もいる。友人に、200件以上の電話番号を記憶しているのがいるが、それは数字そのままで頭に焼き付けられているらしい。

私にしてみれば、日本語というのは語呂合わせがしやすいという点で、非常にありがたい言葉である。語呂合わせがなければ、鎌倉幕府の成立も、アメリカ大陸の発見も、何も覚えられなかった。

ところが、数字をそのままで頭の中に焼き付けてしまう才能のある者にとっては、語呂合わせというのは、面倒くさいもののようなのだ。1192年と、そのままで覚えられるものを、わざわざ 「いい国作ろう鎌倉幕府」 なんて言い換えて、それを改めて 1192年と翻訳するというのは二度手間で、まだるっこしく思えるらしい。

こうなると、脳みその構造の違いとしか言えない。私は数字そのままでは覚えられなくて、一度「意味のある言葉」に置き換えて、初めて記憶回路の関門を通過させることができる。

例えば、「さんぜんろっぴゃくじゅうはち」と「3618」が、うまくリンクしないのだ。どうしても「寒いわ」なんて語呂合わせしてしまう方が、たやすく記憶に入りやすい。

一方、数字をそのままで覚えられるというのは、「さんぜんろっぴゃくじゅうはち」とか、「寒いわ」とかではなく、「3618」そのものを、意味以前の、あたかも画像のようなものとして、まさにカメラで記録するが如く、直接記憶に「焼き付け」てしまうもののようなのだ。

うらやましい才能というほかないが、もしかしたら私のように「3618」を、何も考えることなく、瞬間的に「寒いわ」に置き換えてしまうことができるというのも、もしかしたら才能なのかもしれない。どちらが優れているというようなことではないということだ。

そういえば、8万3431ケタの円周率の暗唱に成功した千葉県の原口證 (あきら)さんも、独自の語呂合わせ(当人は「翻訳もどき」と言っているらしいが)で、世界記録を作ったのだという。

確かに語呂合わせも才能と言えば言えるかもしれない。例えば、前述の「3618」にしても、「見ろ、嫌」というよりは「寒いわ」としたいという、一種の美学が働くのである。このあたりには、多少こだわりたいと思うのだ。

円周率の語呂合わせでは、「身一つ世一つ生くに無意味いわくなく身ふみや読む似ろよさんざん闇に泣く」が有名だが、私としては「産医師異国に向こう」系を取りたい。しかし、それにもバリエーションがある。

「産医師異国に向こう産後薬なく産婦みやしろに虫さんざん闇に鳴く」よりは、「産医師異国に向こう産後厄なく御文や読むに虫さんざん闇に鳴く」の方が、風情の点で数段上を行くと思うのである。

数字の語呂合わせとはちょっと違うが、私は月の古名を「睦きさや 宇佐見不破名が 裃し」(むつきさや うさみふわなが かみしもし)と、五七五で覚えた。元はいわずとしれた「睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走」である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年2月 3日

「テトロン」という名称のベタな由来

今日はトリビア・ネタ。「テトロン」という繊維があるのをご存じだろう。これはポリエステル繊維の日本での商標の一つである。

衣料用の合成繊維として最もよく使われているのがポリエステルで、女性のドレスやブラウスなどは、シルクでなければ、あとはほとんどがポリエステルと言ってもいいぐらいだ。

ポリエステルを最初に工業生産したのは米国のデュポン社で、1953年から「ダクロン」の商標で展開している。日本では 1958年に、帝人と東レが共同で、ICI 社から技術導入し、「テトロン」 の商標で展開開始した。

察しのいい人なら、ここまで読んだだけで、「なーんだ、そうか!」 と思うだろう。「なんて、ベタなネーミングなんだ」 と。

そう、帝人と東レの合成繊維だから、「テトロン」なのである。これ以上説明したら、野暮になってしまうので、はい、これでおしまい。

「テトロン」があまりにもポピュラーになったので、日本の繊維業界では、ポリエステルの別名として「テトロン」を使うようになってしまった。ステープラーのことを「ホッチキス」というようなものである。

だから、日本の繊維業界では、「TC」と言ったら、トラベラーズチェックではなく、ポリエステル/コットンの混紡を指す。「TC 65/35」などと言ったら、ポリエステル 65%/コットン 35% の混紡素材である。

ただ、最近は「テトロン」という名称は手垢が付きすぎてダサダサのイメージになってしまったため、当の帝人、東レでも、この商標を表に出したマーケティングはしたがらなくなってしまった。

米語では(イギリスではどう言うか知らないので、あえて米語という)「ナイロン」を複数形にして "nylons" というと、女性のストッキングのことである。パンストは、pantyhose という。これは、かなり英語に強い女性でも、案外知らなかったりする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 2日

toto は 「くじ」 から 「ギャンブル」 に脱皮できるか?

サッカーくじ "toto" がますます酷いことになって、当初の目的だったはずのスポーツ振興助成金どころではなくなっている。

こうした状況をみて、「そら見たことか。私は元々、toto には反対だった」 と、鬼の首を取ったように言う人がいるが、それはちょっとだけズルいんじゃないかと指摘しておきたい。

確かに、toto は、呆れてものも言えないぐらいの惨状に陥っている。売上げは、初年度の 平成 13年が 604億円で、以後、14年 408億円、15年 203億円、16年 156億円と右肩下がりを続け、17年も 150億円を切りそうだという。

ちなみに、toto 開始前には、関係者は 1600億〜2000億円の売上げを見込んでいたというのだから、お笑いぐさだ。売上げ予測の 10%にも達しない事業なんて、この世で成立するはずがない。

これでは、「スポーツ振興」 のためではなく、単に独立行政法人日本スポーツ振興センターの理事と職員が給料をもらうためだけに、toto は存在するということになる。

しかし、この不振にも原因がある。最大の原因は、「toto は面倒くさくて当たらない」 ということだ。当たる確率を 「宝くじ並み」 に設定したというが、宝くじなら、確かに滅多に当たらないが、少なくとも面倒くさい予想まではしなくてすむ。

大した情報もくれずに 13試合もの結果を予想させるなんて面倒を強いるくせに、当たらないこと宝くじ並みというのでは、そんなもの、誰だってやる気がしない。150億円も売れたことすら驚きだ。

なんでこんなに 「労多くして当たらない」 方式にしているのかというと、toto のスタートにあたって、「射幸心を煽らない」 という免罪符を、文部科学省が必要としたからである。

「健全なスポーツをギャンブルの対象にするな」 という建前的反対論を唱える良識派に対抗するために、「ギャンブルじゃない、『くじ』 なのだ」 と、苦しい言い訳をせざるを得なかったのだ。

そもそも 「ギャンブル」 と言おうが 「くじ」 と名を変えようが、どっちも、元々射幸心から発したものに違いはないのである。こうした類のものが、射幸心を煽らずに商売になるはずがない。宝くじだって、ああまで露骨に一攫千金の射幸心を煽るから売れるのだ。

つまり、toto の開始時から日本スポーツ振興センターは、「射幸心を限りなく薄めた売れないくじ」 を展開せざるを得ないという自縄自縛に陥っていたのだ。そんな絶望的な事業を拙速にスタートさせてまでも、新しい天下り先を確保するために。

こんないきさつがあるのだから、スタート前から toto にハンディキャップ・レースを強いた立場の良識派が、「そら見たことか、だから私は元々反対だったのだ」 と迫るのは、あまりにもエラソーだなあと思うのである。

この人たちが toto に無茶な重荷を背負わせなかったら、もしかしたらうまくいって、スポーツ振興助成金だって、コンスタントに拠出されたかもしれないという可能性だって、まんざら否定しきれないと思うのだ。(元々お役人のやることだから、必ずうまくいったはずとは、決して言わないが)

そんなこんなで、いよいよ日本スポーツ振興センターとしても、「射幸心を煽らない」 なんて呑気なことは言っていられなくなったようだ。心機一転、「より買いやすく、当たりやすいくじ」 を売り出す方針のようである。ホームページも、まさに明日からリニューアルされるそうだ。

「スタートしてしまえばこっちのもの」 ということなのだろうが、それに気付くのが、ちょっと遅すぎたんじゃなかろうか。果たして toto は 「くじ」 から、本来の姿であるフツーの 「ギャンブル」 に脱皮できるのだろうか?

誤解のないように言っておくが、私は決して toto ギャンブル化推進派というわけではない。廃止するならさっさと廃止すればいいし、スポーツ振興助成金を出すために、あくまでも続けるというなら、きれい事は言わずに堂々とギャンブルにすればいいと言うだけのことだ。

中途半端が一番いけないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 1日

立春に(限らず)卵が立つ

昨日朝の TBS ラジオで、詩人の荒川洋治氏が 『中谷宇吉郎随筆集』 を紹介していた。中谷氏は、雪博士として有名な科学者だ。

この随筆集の中に、「立春には卵が立つ」 という中国の故事から「人類の盲点」というところまで論を進めたものがある。なかなか興味深い話なのである。

この「立春には卵が立つ」というのは、中国の古書「秘密の万華鏡」(この書名については、確認したわけではない)に載っていることだという。

これにインスパイアされたのかどうか知らないが、昭和 22年の 2月に、日本の新聞各社が、本当に立春に卵が立ったという記事を、写真付きで報道したのだそうだ。

これについて、某学者は「立春には気温が低いので、卵黄が下に沈んで重心が低くなるためではないか」などと、さももっともらしいコメントを寄せたらしい。

しかし、このコメントは、実験に基づいたものではなく、単に頭の中でこねくり上げたものでしかなかった。中谷博士の偉いところは、さっさと軽い気持ちで卵を手にして実験してみたところである。

で、中谷博士の結論は、卵は立春に限らず、立てようと思えばいつでも立つということなのであった。

Egg

世の中では「コロンブスの卵」というエピソードがあって、卵の下をコツンとつぶして立てるというのが、さも大発見のように扱われている。

これは、卵というのはそこまで裏技を使わなければ立たないという既成観念に立脚している。しかし、この既成観念はウソだったのだ。ストロング・スタイルで迫っても、立てようと思えばちゃんと立つのであった。

あの有名な「コロンブスの卵」というのは、実はナンセンスだったのである。(まあ、「コロンブスの卵」の場合は、ゆで卵であるということで、一律には論じられないかも知れないが)

それを中谷博士は、「人類の盲点」と表現した。「人間の眼に盲点があることは誰でも知っている。しかし、人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである」と述べているのである。

詳しく言えば、卵の重心が、卵の立つ平面に接するわずかな面積の上に落ちればいい。その許容角度は、約 1度であるらしい。

というわけで、私も実験してみた。卵は本当に、立春でなくても案外簡単に立つのであった。ここに紹介した写真は、私がわずか 1分足らずで立てた卵である。

【同夕刻 追記】

私のもう一つのブログ "Wakalog" に、もう少し風情のある背景で、卵を同時に 2個立てた写真をアップしておいた。写真のできは、そっちの方がいいので、興味のある方はご覧いただきたい。 Click !

【平成 21年 1月 9日 (思い出したように) 追記】

2年後のまさに立春に、もう一度卵を立てた。写真としては、これが一番リアルに表現されていると思うので、興味のある方は、こちらを Click !

【平成 21年 2月 4日 追記】

3年後の立春にも卵を立てた。写真としてはこれが一番できがいいので、この写真に限り知的所有権を放棄してどなたでもダウンロードして使っていいことにした。使いたい方はいくらでもどうぞ。(ただし、クレジットは入れてね)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »