日本語と逆上がりの関係を巡る冒険
マスコミでもブログでも、時々間欠泉のように吹き出すのが、「外国語より、まず日本語を」という主張である。最近の注目エントリーは、「内田樹研究室」の「まず日本語を」 だ。
一方、「日本人が日本語など学ぶ必要はない」という主張もあって、この間欠泉ワールドも面白いことになっている。
こうした論議を眺めていていつも思うのだが、「言葉センスのあるやつは、特別に教育なんてしなくても自然に母国語は上手に使えるようになるし、センスのないやつは、いくら教育しても、ある一定以上には行けない」ということだ。
そして、母国語を自然に上手に使いこなせるやつは、まともに学びさえすれば、外国語だって上手になる。すべては「言葉センス」のなせる技である。
いくら大学を出ても、言葉センスのないやつは、まともな文章ひとつ書けない。しかし、言葉センスさえあれば、中卒だって、すごく魅力的な文章を書ける。文章ばかりではない、言葉センスのあるやつのしゃべりは、たとえ口べただったとしても、味がある。
「外国語を学ぶ前に、まず、しっかりと日本語を」という主張は、私には「前方転回の練習をするよりも、まず逆上がりを」と言っているのと同じように聞こえる。
前方転回ができないやつは、大抵、逆上がりだって上手にはできない。逆に、逆上がりを苦もなくこなせるやつは、前方転回だって、きちんと練習すればできるようになる。「運動センス」というもののなせる技だ。
いつまでたっても逆上がりができないやつもいる。大学を出てもまともな日本語を操れないやつがいるのと同じことである。
教育さえすれば、日本語が身に付くなどと考えるのは、幻想というものだ。体育の授業をいくらやっても、逆上がりのできないやつがいなくならないのと同じである。
世の中には「逆上がりを教える名人」というのがいて、その人がつきっきりで指導すれば、大抵の人間は逆上がりができるようになるという。同じように、日本語を教える名人がいて、その人がつきっきりで教えれば、大抵はきれいな日本語が使えるようになるかもしれない。
しかしそのような「教える名人」がどこにでもいるわけではない。世の中の大半を占める凡庸な指導者は、的はずれを教えて、成果の上がらないことを嘆くばかりである。
世の中とはそういうものなのである。何事においても、達者なやつと不調法なやつが共存しているのから面白いのだ。逆上がりもできないやつがいるから、体操選手の見事な技が賞賛される。日本語がまともにできない日本人がいるから、少しはまともにこなせるやつの生きる道がある。
日本人が平均的にきれいな日本語を操れるようになっても、その分、逆上がりのできるやつが減ったら、サッカーのできるやつが減ったら、音楽をこなせるやつが減ったら、味のある絵を描くやつが減ったら、そりゃあ、つまらないのである。
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コメント
全く賛成です。
ただ、日本語がまともで無い人が英語なんてとんでもないんであって、そーゆー人は日本語もあきらめればいいのです。
語学というのは、音楽・スポーツと同様、才能のポーションが大きい分野です。
もちろん米国では乞食でも子供でも英語をしゃべると言われますが、乞食や子供が素晴らしい英語をしゃべっているかどうか?はまた別問題でしょう。
努力という事を別にすれば、「限られた才能資源の有効配分」という視点で考えれば簡単なのだと思います。
例えば、初心者級になるのは簡単ですが、中級・上級になるには幾何級数的な努力と経験が必要になる。
それなら、能力の乏しい人間が日本語の最上級を望むより、そこそこの日本語とそこそこの英語をマスターする方が、効率がいいのでは?
第一、これからの世界で、日本語だけの人間はインターネットも有効利用できません。
私の娘は、母が英語の教師であるからか、曾祖母が欧州の貴族の娘で、毎朝、各国から配達された六カ国語の新聞を読んでいたということもあるのか、個人の才能なのか、日本人学校に3年通っただけで私と一緒に暮らさなかったのに日本語は平均以上です。
英語も同様の条件だけれど(英国人学校)、英語もうまい。
その他にも母国語がある。
彼女は音楽家志望だけれど、一般的に語学は音感のいい人が適しているように思います。
目(視覚)が情報入手の80%以上であると同様、英語(またはメジャーな外国語)は情報収集のキーです。
投稿: alex99 | 2006年2月 6日 22:53
本文でリンクした内田樹さんのブログでは、真に効果的な日本語の学習は 「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文をとにかく大量に繰り返し音読し、暗誦し、筆写するという訓練を幼児期から行うこと」 と書かれています。
確かに、私もこの意見に賛成です。並みの賛成ではなく、超々大賛成です。
ただ、これは、ピアノの練習、バイオリンの練習、野球の練習、スケートの練習、武道の練習等々と、同じことだと思うのです。
退屈な反復練習を、幾分かでも 「楽しみ」 として捉えられるからこそ、才能が花開くんでしょうが、そもそも、持って生まれた才能がないと、楽しめません。苦痛でしかないでしょう。
それで、多くの人は練習を放り出すことになります。「日本語の学習」 だけはそうならずに済むということには、なりませんよね。
alex さんのおっしゃるように、音楽、スポーツ、語学は、才能のポーションが大きいんでしょうね。
投稿: tak | 2006年2月 7日 13:59