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2006年2月16日

追憶の荻窪ロフト '75

ライブハウス「ロフト」といえば、今は下北沢と新宿ということになっているが、昔はもっといろいろなところにあった。

70年代には荻窪にもライブハウス「ロフト」があって、いかにも当時のカウンターカルチャーを感じさせる黒っぽい存在感をもっていたのだが、消え去って既に久しい。

70年代といえば、実は私だってミュージシャンの端くれをしていたのであった。バンドを組んだこともあったが、基本的には、シンガー・ソングライターだった。

どんな歌かというと、当時流行りの反戦的なプロテスト・ソングでもなく、「神田川」に代表される 「四畳半フォークソング」 でもなく、もっともマイナーな分野の、ブルース、カントリー系のオリジナル・ソングが主体だった。私のことだから、詩は案外凝っていた。

当時の仲間内では、結構評判のいい歌もいくつかあって、私の結婚式では、お祝いに私の書いたブルースのラブソングを歌ってくれたやつもいた (なぜか、新郎の私が、ギター伴奏をさせられた)。

あれは多分、1975年頃だったと思う。それまで、都内の下町あたりの小さなライブハウスをベースとして歌っていた私に、荻窪ロフトへの出演話が舞い込んだ。当時、荻窪ロフトといえば、ちっとはメジャーに近づけるという雰囲気を感じさせるところだった。

「おぉ、俺にも運が向いてきたのかな」と、私は思った。完全にソロの弾き語りで行こうか、それとも、ベースぐらいは付けようか。いろいろと考えを巡らせた。

ところが、出番まで 1か月ほどとなったある日、ロフトの方から、キャンセルをくらってしまった。ちょうど私の出演予定の日に、某メジャー・プロダクションから横やりが入ってしまったのだという。その事務所が力を入れて売り出そうとしている新人女性シンガーを、どうしてもその日に出演させたいということらしい。

ロフトのスタッフは、私にこう聞いた。
「tak(当時のステージネームは別なのだが、便宜上、これで通させていただく)ちゃんさぁ、ぶっちゃけ、お客は何人動員できる?」
「70〜80人なら、軽くいけるけど」
「それじゃ勝負になんないよ。向こうは 200人動員するって言ってんだよね」

というわけで、バックに政治力のない一匹狼シンガーの私は、無惨にも荻窪ロフトへの出番を力ずくで横取りされてしまったのである。それにしても、その事務所、あの狭い店に、どうやって 200人も詰め込むつもりだったんだろう?

この頃から、私はなんとなくミュージシャンとして歌を歌うよりも、字を書く方が性に合っているような気がしてきて、それから 3〜4年かけて音楽の道からスピンアウトしてしまうのだが、そこには、この「荻窪ロフト・キャンセル事件」が、大きく影を落としていたような気がするのである。

私から強引に出番を奪った新人女性シンガーの名は、荒井由美といった。そう、今では大御所となってしまった松任谷由実その人である。

【平成 19年 7月 4日 追記】

池田信夫氏のブログ記事「35年目の松任谷由実」で初めて知ったのだが、2007年でデビュー 35周年ということは、1972年にデビューしていたのか。ということは、私がステージを横取りされた頃は、デビュー後 2~3年経っていたわけだ。ふーん、彼女にも下積み時代があったのね。

その直後に、『あの日にかえりたい』 でブレークしたわけだが、なるほど、まこりんさんのコメントにあるように、ブレーク直前でテンション高まりまくってたのだろう。ふむふむ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

ええーーユーミンが?
すごいですね。
というか、そのまま歌やってたら、売れてたかも知れないのに。
なんかドラマティックな人生ですごいなぁ。
TVで『キャンティ物語』というのを見たんですが、ユーミンが青春を過ごした場所とかで。
takさんはそういうところとか行ってた?
こういう話また書いてください。

投稿: kumi | 2006年2月16日 05:29

私はユーミンの曲を聴くと、横Gがかかったような気持ちになります。

投稿: alex99 | 2006年2月16日 08:18

kumi, the Partygirl:

>そのまま歌やってたら、売れてたかも知れないのに。

断言してもいいけど、売れなかった。
音楽業界で売れるには、
かなりの 「マメ」 さ (マーケティング的に) が必要ですが、
私は、わがままなくせにズボラですから。

『キャンティ物語』 って知らなかったので ググッてみたら、何ぃ、六本木だと? 飯倉だと?

ユーミンって、八王子の呉服関係のお嬢様らしいから、
そんなところに出入りしてたんだろうけど、
わたしゃ、全然無縁でした。

私の出没してたのは、国分寺から両国あたりまでの
中央・総武線沿線と、
亀有とかの下町ね。

投稿: tak | 2006年2月16日 11:34

alex さん:

>私はユーミンの曲を聴くと、横Gがかかったような気持ちになります。

??
わかるような、わからないような、
でも、なんとなくわかるかもしれません。

360cc時代の軽自動車のアクセル踏みっ放しで、
首都高のカーブを突っ切るみたいな感じでしょうか。

横方向に危うく振られながら、
一瞬、昔の景色が見えるみたいな。

投稿: tak | 2006年2月16日 11:43

人に歴史ありですね。感慨。ってわけで、久しぶりにコメントしてしまいます。

> 向こうは 200人動員するって言ってんだよね

この強気さ。ユーミンって、売れる前からユーミンなんですねぇ。
75年といえば、その年の年末にユーミンは「あの日に帰りたい」で大ブレイクするわけですけれども、
まさしくブレイク前夜でいきっていたユーミンサイドの一エピソードという感じですね。

> 私の出没してたのは、国分寺から両国あたりまでの中央・総武線沿線と、亀有とかの下町ね。

江戸の町民文化の系譜をくむ下町文化に造詣の深い当時のカントリー・フォーク系というとなぎら健壱さんをわたしは想起してしまいますが、なぎらさんみたいな歌を歌っていたんですか?

投稿: まこりん | 2006年2月16日 21:53

まこりんさん:

>まさしくブレイク前夜でいきっていたユーミンサイドの一エピソードという感じですね。

言い得て妙。

>なぎらさんみたいな歌を歌っていたんですか?

わたしゃ、江戸っ子じゃないんで、ああいう歌は無理ですね。
どっちかというと、もっとメンフィスの田舎 (ニューオリンズまでは南下せず、シカゴまでは北上しない) の雰囲気のある、音楽でした。

投稿: tak | 2006年2月17日 12:02

私にはユーミンの歌は、音痴スレスレのような気がして。
それで、あのような、分かったような分からないような、コメントになってしまいました。

投稿: alex99 | 2006年2月18日 00:15

alex さん:

>私にはユーミンの歌は、音痴スレスレのような気がして。
>それで、あのような、分かったような分からないような、コメントになってしまいました。

ははぁ、なるほど。
深読みしてしまいました。

確かに、「音痴」 じゃないけど、
ピアノ 1台、あるいはギター 1台だけの伴奏で歌わせたら、
ちょっと 「御詠歌」 じみてるかもしれません。(とくに低音域)

ユーミンのヒット曲の多くは、「アレンジの勝利」 という側面があります。

投稿: tak | 2006年2月18日 11:45

ロフトの平野と申します。

たまたま、このページに行き着きました。

そうですか?そんなことがあったんですか?
全く知りませんでした。

当時は荻窪ロフトのブッキングはあの長門芳郎(今や日本のロックを作った人と言われている)君達でした。

ユーミンの日とのダブルブッキングだったんですか?

本当に申し訳ありありませんでした。

もう35年以上前のことでしたね。

投稿: yu_hirano | 2010年3月29日 14:01

yu_hirano さん:

ありゃ、関係者の方からこんな丁寧なコメントをいただけるとは、夢にも思いませんでした。

かえって恐縮に存じます m(_ _)m

今となっては良き思い出です。

投稿: tak | 2010年3月29日 22:39

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