変痴奇論 −「的を得る」 その2
「変痴奇論」 という言葉がある。案外使われている言葉でもあるのだが、手元の 『明鏡国語辞典』 には載っていない。Goo 辞書は『大辞林』だから、かなり語数が多いはずなのだが、それでも載っていない。
読みは、素直に「へんちきろん」でいい。意味も素直に、「変ちきなご意見」である。
「変痴奇論」というのは、明治の劇評に端を発する造語と記憶する。当時の「劇」といえば「歌舞伎」で、これは元々、奇想天外さを多分に含んだ庶民劇なので、近代の小理屈で見れば、つっこみどころ満載なのである。
そこで、歌舞伎の筋や所作などを、「あそこが変だ、ここが理屈に合わない」などと、いちいちつっこんで評するのを、「変痴奇論」と言った。そこから転じて、常識の盲点を突いた論理展開をも「変痴奇論」と言うようになったもののようだ。
明治の劇評の「変痴奇論」は、「心地よいお約束をぶちこわしにする無粋」だったが、徐々に「斬新な論理展開」をやや自虐的にいうケースも加わったわけだ。
ちなみに、当サイトの今月 6日付 "「的を得る」 は、間違いじゃない" も、ちょっとした「変痴奇論」として受け取られた形跡がある。その証拠に、私のブログには珍しいほどのたくさんの賛否両論コメントがついた。
このエントリーで、私は「的を射る/的を得る」問題について、「的を得る」は、歴史的に見るとあながち間違いではなく、見方によっては、むしろ由緒正しく、より論理的であるとさえいえるとの旨を書いた。
その上で、"「的を射る」という表現のみが正しく、「的を得る」は間違い" とする根拠が崩れた以上、「的を得た」という表現に、「誤用だ」とステロタイプなつっこみをするのは止めようと主張したのである。
これ自体、ある意味「意表をついた」展開ゆえに 「変痴奇論」といえばいえるかも知れず、さらに、人によっては、明治の劇評と同様に「心地よいお約束をぶちこわす無粋」と受け取られたようなのだ。
ただ、これに対して、"「正しいとされる」 表現である「的を射る」を使うべきだ" と反論されても、それは単なる蒸し返しだ。"「的を射る」 は正しい" とするのはいい。しかし、 "「的を射る」こそが正しくて、「的を得る」は誤用だ" というセット(これこそ現代の常識なのだが)になると、「その根拠は崩れたんだよ」というほかない。
実は「的を得る」は、案外まともな文筆家(しかもそうそうたる中国文学者)だって使っているようなのだ。(以下 「練習帳問答」 より引用)
「的を得る」という表現は、日中出版 『論語の散歩道』 重沢俊郎著 (p.188 「それが的をえていればいるほど」) や、大修館書店 『日本語大シソーラス』 山口翼編の 「要点をつかむ」 という項目にもあります。また小学館の 『日本国語大辞典(12)』 にも 「まとを得る」 があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から 「よし子の質問は実は的をえていた」 を引用しています。
事情を知らないと、「あんなに有名な文筆家のくせに、(あるいは、国語辞典のくせに!)日本語を間違っている」と思いかねない。しかし、その思い込みこそが、間違いだったのだ。
ましてや、辞書に載ってなくても、現実に 100年以上にわたって、ずっと使い続けられてきた言葉だってあることだし。まさに、この「変痴奇論」とか。(参照)
"「的を得た○○」という表現は誤用" という国民的思い込みには、この際、潔くピリオドを打って、「両方ありだったんだ」と認めようということだ。その上で、「心地よいお約束」がお好きならば、「的を射た○○」という表現を使い続ければいい。
私自身は、件のエントリーのコメントに書いたように、 「的を射た○○」 というオフィシャルな言い回しは、決して心地よいと思えないので、今後使わないつもりである。かといって 「的を得た○○」 も、現実問題として、危なくて使えないから、必要な場合は 「当を得た○○」 にしようと思っている。
ただし、学校の試験では、 「的を射る」 に ○、「的を得る」 に × をつけておく方が。確実に点を取れるからね。
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