尊厳死ということ
富山の病院の外科部長が 7人を「安楽死」させていたというニュースは、法律問題を少し離れてみても、かなり面倒な問題だ。
私は今月 9日のエントリーに「百まで生きてどうする」というタイトルで、この長寿社会においては、「いかにしてつつがなく死ぬか」が問題になると書いている。
私は医療に関してはまったくの素人なので、完全な素人考えとして言わせてもらうのだが、「如何に手を尽くしても快方の望みがなく、延命的措置を施さなければ死ぬことが確実な病人」というのはどう扱うべきなのか、これからは大きな問題になると思う。
下手すると、「病院で呼吸だけはしている」という人間が、この世にあふれかえらないとも限らない。
私個人について言えば、延命措置に頼って生き続けるのは御免こうむりたいと思っている。そうなったら、さっさとあの世に行ってしまいたいものだ。
「お迎えが来たら、さっさとこの世にさよならしたい」というのは、案外多くの人に共通した願いだと思う。だからこそ、かの外科部長は、一見 「オートマチックな措置」 に見えるほどに、当然のごとく人工呼吸器を取り外させてしまったのだろう。
もし自分がそうしたケースの遺族だったと仮定したら、「親族を殺された」として、その外科部長を強く恨むだろうかというのは、かなり疑問だ。そりゃあ、かなり複雑な思いが残るだろうが。(誤解のないように付け加えるが、これは自分に限ったケースとして想定している)
問題なのは、そうやって個人の権限で「オートマチック」に延命措置を停止させることを認めてしまったら、大変なことになるということだ。その個人が、病人の生死を決める「神のような存在」になってしまうからだ。
いくら「八百万の神」の国とはいえ、あちこちの病院ごとにそれぞれに我の強い「神」がいたのでは、かなわない。
それだからこそ、日本尊厳死協会という会でも、"自分らしい 「死に方」" という問題について、かなり慎重な態度を示している。話は面倒になるが、いくら面倒になってもしかたのないことだ。
それに、死に行く当人が「早くあの世に行きたい」という意志をもっていたとしても、その家族や親類縁者が「まだまだ息だけでもしていてくれ」と熱望したら、なかなか死なせてもらえないだろう。家族のエゴとまでは言わないが、なかなか難しい問題だ。
延命措置というのは、考え方によっては「余計なお世話」である。しかし、医療行為のほとんどは「必要な措置」というのは当然のことで、どこから先が「余計なお世話」になるのかという線引きは、これまたとても難しい。個人の考え方や時代によっても違うだろうし。
ただ、私に限っては「余計なお世話」をされるのはとにかく嫌いなので、何十年先になるかわからないが、とにかくよろしく頼む。
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コメント
"自分らしい 「死に方」" …難しいですね。わたしの知っている故人はみごとに"彼らしさ"全開でした。前の晩にエビ天と、デザートのラ・フランスのシロップ漬け一瓶(ひとくちじゃなく)食べて「おいしい」と言って逝っちゃいました。
末期がんだった彼の治療は、本人・ドクター・家族納得で延命措置はしませんでした。そういう「うらやましい」死に方ができたのは、彼が彼らしく精一杯生きたからだと思っています。
投稿: Sato-don | 2006年3月27日 22:59
Sato-don さん:
うぅむ、見事な往生ですね。
>末期がんだった彼の治療は、本人・ドクター・家族納得で延命措置はしませんでした。
そういうことがきちんと可能だったという情報は、多くの人にとって支えになると思います。ありがとうございます。
ちなみに、私の母は、重度のリューマチの寝たきりで、寝返りも打てず、その上、認知症に失語症で、言葉も発することができません。
それでも、眠っているか機嫌がいいかのどちらかで、生きているうちから、常に極楽往生しているみたいです。
こういうのを、まさしく 「恍惚の人」 というんでしょうね。
周りはちょっと大変ですが、何かしてあげると喜んでくれるので、まあ、お世話のしがいがあるというかなんというか。(ある意味、得な人です)
こういう幸せってのも 「あり」 なんだろうと思います。
投稿: tak | 2006年3月27日 23:24