仏道修行は広く深い
私はこう見えても「家事をする夫」である。炊事、洗濯、掃除、ボタン付け等々、一通りの家事は、そつなくこなせる。
とくに、食器などの洗い物は、我ながら感心なものである。私は食事が終わると、ほぼオートマチックに自分の使った食器を流しに運び、ささっと洗ってしまうことが身に付いている。
そのうちに、家族の食べ終わった食器がどんどん流しに運ばれてくるが、それらも私は躊躇することなく洗ってしまう。そればかりではない。私が炊事すると、作り終えた時には、同時に鍋釜も洗い終わっている。その段取りのよさは、はっきり言って妻の数段上である。
禅の公案をまとめた 『無門関』という書物の第七則に、「趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)」というのがある。
唐代の名高い禅僧、趙州和尚が、道場の新参者の僧に指導を請われたということが書かれている。
新参僧 「ご指導をお願いします」
趙州 「粥はもう食ったか、それともまだか?」
新参僧 「もう頂きました」
趙州 「そうか、それじゃ、茶碗を洗っておいで」
これだけの問答のうちに、新参の僧は、深く悟るところがあったというお話である。要するに、当たり前のことを当たり前にやれということと伝えられている。(その 「当たり前」 というのが、かなり曲者といえば曲者なのだが)
とりあえず、私も禅宗の坊主の孫なので、自分の使った食器は、さっさと洗ってしまおうと、いつの頃からか心に決めたのである。大げさにいえば、これも仏道修行である。
ところが、私の知人のご主人は、夕食後にさっさと食器を洗うことを、とても嫌われるというのである。芸術家である彼は、夕食後はゆったりとお酒を楽しみたいので、台所からカシャカシャと食器を洗う音がするのは堪らないのだそうだ。
ふぅむ、いろいろなライフスタイルがあるものである。
私は食事の後はさっさと食器を洗うのが、仏道修行であると思っていたが、彼の妻は、さっさと済ませたい食器洗いを先延ばしにして、夫に気持ち良くお酒を飲ますことを優先しておられる。
これは自分の都合だけでワシワシと洗い物を済ませるより、もっとレベルの高い仏道修行といえるかもしれない。「当たり前」以上のことをしておいでなのである。
仏道というのは、広く深いものである。
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