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2006年4月に作成された投稿

2006年4月30日

失敗から学ばない人

新入社員の姿が目立つ。別に 「新入社員でございます」 という看板を背負って歩かなくても、新入社員は一目でわかる。

新入社員は、へまをしでかす。しでかして怒られる。しかし人はうまく行ったときよりも、失敗から学ぶのである。失敗しないのは、結局、何もしていないのと同じである。

だから、早いうちからたくさん失敗できるというのは、多くを学ぶチャンスに恵まれるということである。かなりラッキーなことと考えればいい。

しかし、いくら「失敗から学ぶ」と言っても、ものには限度ということがある。何かあるたびに、「また、アイツか!」と思われるようになるのも、考えものである。そうなると、今度は失敗すらさせてもらえなくなる。つまり、何もさせてもらえなくなるのだ。

そうならないためには、「失敗から本当に学ぶ」必要がある。本当に学びさえすれば、同じ失敗は、もしかして 2度は繰り返すかもしれないが、決して 3度は繰り返さない。3度同じドジを踏まないというのは、案外立派なものである。

しかし、世の中には「同じケース」というものは決してない。だから、まったく同じケースで、同じ失敗を繰り返すというのは、物理的に不可能だ。俗に言う「同じ失敗を繰り返す というのは、正確には「似た失敗を繰り返す」ということだ。

「似た失敗」を繰り返さないためには、ちょっとした要領がある。それは、物事を抽象化して捉える訓練をするということだ。

全てのトランザクションは個別だが、それらを抽象化して考えると、案外単純にカテゴライズすることができる。すると過去の似た経験が、適切な注意信号やゴーサインを発してくれるようになる。

三段論法とは、A=B、B=C、よって A=C ということで、この程度は、誰でも理解できる。しかし、世の中は数学通りには行かない。

A と B は似たところがある。B と C も似たところがある。だから、きっと、A と C にも共通点はあるだろうと考え、その抽象的な共通点を直観的に理解することができると、俗に言う 「一を聞いて十を知る」 能力ということになる。

しかし、世の中には、「A と B は似ている。B と C も似ている」 までは理解できても、その先の A と C の共通点を直観的に把握できる人というのは、案外少ない。「それとこれとは別じゃん」 で、はいおしまいになってしまう。

「別じゃん」 と考えてしまったら最後、自分の内部の信号装置が作動しなくなる。

A くんは、あたしをだましてもてあそんだ。B くんも、あたしをだましてもてあそんだ。だけど、C くんは、とってもやさしいから、今度こそ、きっとうまくいく。

こんな風にしか考えられない女というのが、現実にいる。かわいそうに。A くんも、B くんも、初めはとってもやさしかっただろうに。

ありゃ、新入社員の仕事の話から、ずいぶんずれてしまった。

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2006年4月29日

キリプレ和歌、発表

今日は「昭和の日」になったのかと思っていたが、それは来年からのお話で、今年はまだ「みどりの日」のままなのだそうだ。

ところで、23日に達成した本宅 「知のヴァーリトゥード」の 15万ヒットのキリプレ和歌、ようやく二首詠んだ。今回のキリプレ・ゲットは、当日のエントリーのコメント欄に書いたように、2人いるのである。

どういうわけか、本宅サイトで使っている無料サービスのカウンターが、持ち前の気前の良さを発揮してしまったようで、豊田恵子 さんと nausicaa☆ミ さんの 2人に 「150000」 の数字を表示したみたいなのだ。

というわけで、2人にキリプレ和歌を捧げるということになったのだが、プレゼントが和歌という元手のかからないものでよかった。お金で仕入れるものだったりしたら、「もう一つ買わなきゃ!」 と、冷や汗かくところだった。

「めでたさも倍ぐらゐなりおらが春」 である。もっとも、一茶が 「中くらゐなり」 と言ったのは、お正月の 「新春」 のことで、今の 「春爛漫」 の頃のことではなかったのだが。

豊田恵子 さん に捧ぐる歌

耕せば芽は出づるなり童(わらはべ)の心の既に種を宿せば
 

nausicaa☆ミ さんに捧ぐる歌

花筏流るる頃に訪ぬるは縄綯ふ如き結びなりしか

いずれも、本宅サイトのページに解説を添えて載せてあるが、当方は著作権の一部を放棄するので、お二方に限り、ほとんど自分の歌同然に、ご自由に使っていただきたいという趣旨なのである。

それだけに、私のもう一つのサイト「和歌ログ」には載せないのである。向こうのサイトは、 「クリエイティブ・コモンズ」の趣旨で著作権の一部放棄を宣言しているからだ。

つまり、「和歌ログ」に載せてしまうと、作者である私のクレジットを示しさえすれば、世界中の人が自由に使っていいということになってしまい、特定個人へのキリプレにならないのである。

元々、和歌なんていうのは、引用するにしても全文引用するしか手はないので、潔くクリエイティブ・コモンズ宣言をしているわけだ。ただ、今回のお二人は、引用以上の使い方を、ばんばんしてもらって結構、どう使おうと、勝手次第ということなのである。

それにしても、ウチの本宅サイトもアクセスが増えたものだ。23日に 15万ヒットを達成して 1週間足らずで、もう 15万 2000を越えようとしている。2000ヒットなんて、一晩で回してしまうサイトだっていくらでもあるが、当サイトは、地道にやっていこうと思うのである。

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2006年4月28日

「平熱」はクセ者

「平熱」というのはクセ者である。今月の初め頃、ちょっと風邪を引いて医者の薬をもらったのだが、「熱はありますか?」と聞かれて、「平熱です」と答えてしまった。

自宅で測ったら 36.5度だったのでそう答えたのだが、どうやら、私の平熱は 36度前後なので、「微熱」と言った方がよかったようだ。

36.5度で「平熱」のはずなのに、どうも、頭がぼんやりしているような気がしていた。ぼんやりは常のことで、決して珍しくはないにしても、いつも以上にぼんやり感が強かったのだ。

どうもおかしいと思って、風邪が治ってから測り直したら、何度測っても 35.8度と 36.1度の間を行ったり来たりしている。私の「平熱」というのは、どうやらこのあたりらしい。

そうしてみれば、36.5度は、「微妙に微熱」である。これまで長い間、体調がおかしいと感じたときに熱を測ってみて、「なんだ平熱じゃん!」 と安心していたのは、すべて微妙に間違いだったようなのだ。微妙にショックである。

他を見回すと、Sato-don さんは、平熱が 35度にもならないという(参照)。『動物のお医者さん』 の菱沼聖子さんは、体温計で計測不能なほどの低体温らしいが、それほどではないにしても、かなりなものだ。狭い部屋に Sato-don さんが何人いても、暑苦しくないだろう。

一方、かなりの高熱でも大丈夫という人もいる。「チカコブ」のアタシさんという人は、39度あっても、平然と普段通りの暮らしをしている(参照) という、剛の者であられる。

一説によると、平熱は 37度ぐらいある方がいいらしい。人間の身体にはホメオスタシス(恒常性)というものがあって、「鳥類や哺乳動物は酵素が働く至適温度である37℃付近で最も活動し易いため、この温度に体温を保とうとする」と説明されている。

確かに、最近は、低体温は免疫力が弱くなるなどという説が力をもっているようで、平熱が 36度チョボチョボなどというのは、かなり聞こえが悪い環境になっている。どうも、37度ぐらいは欲しいところのようなのだ。

ただし、これにも諸説あって、「日本人のワキの下の平均体温は37℃前後です(「臨床生理」Vol.7より)」とか、「微熱とされる37℃の体温もこの数字で平熱の範囲であるわわけです。もっともこの体温は体の表面ではなく深層部の温度です」とか、わけわからん。

考えてみれば、私はかなり健康で、その証拠に、こうやってブログを何年も毎日更新していられるのである。体温なんてことは、あまり気にしないでおこう。

「あっけらかん」 に勝る健康法なしである。

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2006年4月27日

ファッションは無駄の固まり

今年の 4月は、いかにもといった感じの新入社員が、5~6人も寄り集まって昼飯を食いにいく姿を、神田近辺でもよくみかける。

この何年も、中小企業の多い街で、新入社員がそんなに連れ立って歩く姿など、あまり見かけなかった。なるほど、少しは雇用環境が好転しつつあるのだと実感する。

彼らがいかにも新入社員とわかるのは、顔立ちがまだ青臭いからでもあるが、スーツ姿がまだ全然こなれていないということもある。それが半年もしないうちに、どこから見ても「サラリーマン」になってしまうのだから、世間というものはおそろしい。

ところで、スーツのサイド・ポケットについているふた、いわゆる「ポケット・フラップ」は、外に出しておくべきなのか、それとも内に入れておくのが正しいのか。着こなしにかんする疑問の定番だが、正解をご存じだろうか。

ポケットの中の物を入れたり出したりすると、ポケット・フラップは、自然に内側に入ってしまう。そもそも、作り自体が内側に入ってしまっても全然おかしくないようにできている。

若かりし頃、初めてスーツを買ったときだったろうか、ポケットフラップは、初めから内側に入れておくのが正しいのだと、誰かに教わった。そのために、あのような面倒な作りなのだというのである。

それを聞いて私は、内側に隠しておくためのものに、わざわざ余計な工程を費やして値段を高くしているとは、紳士服というのは何とあほらしいものかと思った。江戸時代の羽織の裏地じゃあるまいし。

まず、あのラペル(折り返した襟)からして妙だ。これは、昔の軍人が詰め襟を楽に着こなすために折り返したのが始まりで、あの会社のバッジなんかが付けられる穴は、第一ボタンホールの名残なのだという。

コートを着ないで出た秋の夜など、急に強まった木枯らしに向かって帰り道を辿りながら、このラペルの折り返しを戻してボタンで留めることができたら、首廻りと胸元が覆われて、凍えるような風を少しは防げるのにと思ったことはないだろうか。

本来できていたこうした機能を切り捨てて、デザイン優先に走ってしまったのが、テーラード・ジャケットの今日の姿なのである。

ラペルの穴は、「フラワーホール」などと称され、花を挿すためのものであって、決して会社のバッジを付けるためのものではないなどと、偉そうなことを言うファッション評論家もいる。しかし、それだってどうせ「こじつけ」だ。元々はボタン穴だったんだから、

袖口のボタンにしても、今ではほとんどが「偽装」デザインになっていて、実際にあのボタンを外して袖口を広げることのできるジャケットなんて、滅多に見当たらない。

メンズ・ファッションは、女のファッションに比べると機能的だといわれるが、よく見れば、テーラード・スーツ、とくにジャケットというのは、ほとんど無駄なデザインばかりで成り立っている。

ところで、ポケット・フラップを内に入れるか外に出すかは、「どっちでもいい」が正解だそうだ。ただ、出すなら出す、入れるなら入れるで、両方を揃えさえすればいい。(参照 : 「のんびりとまったりと」  4月 14日付のリンクより)

なるほどね。改めてクローゼットの中の私のジャケットを確認したら、ほとんど右側だけが内に入っていた。右側のポケットの中身を入れたり出したりすることが多いからだろう。ああ、我ながら無神経なことである。

そもそも、サイドポケットは物を入れるためのものではないというのが定説なのだが、男のジャケットは女のハンドバッグ替わりなのだから、物を入れるなといっても、土台無理な話である。

試しに、安物の貸衣装のタキシードみたいに、サイドポケットを見せかけだけにして、物を入れられないようにしたジャケットを売り出してみるがいい。誰も買わないから。

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2006年4月26日

ジョン・レノンの 「メッセージ」

米国で霊能者によるジョン・レノンの「降霊」番組が 24日に放映されて、番組のプロデューサーらはジョン・レノンから「平和」のメッセージが届いたと主張しているという。

これはジョン・レノン財団やオノ・ヨーコさんの了承を得ずに制作されていて、関係者は当然ながらムッとしているようだ。(参照

ジョン・レノン財団の広報担当、エリオット・ミンツ氏はこの実験を「悪趣味で搾取的」であるとし、ジョン・レノンの生き方からはかけ離れた内容だと批判したという。当然の批判だと思う。

この番組に限らず、この世を去った著名人などの「降霊」ということで、そのメッセージを放送したり、雑誌に書いたり、書籍にしたりということは、少なからずある。とくに書店の一画を占める怪しげな宗教書や神霊関係の売り場には、そんなのが溢れている。

大昔の歴史的人物を降霊させたとか、誰それの守護霊になっているとかいうのは、まだ冗談で済ませてもいいが、最近亡くなった著名人の「メッセージ」を「降霊」によって伝えるというのは、かなり厚かましいんじゃないかと思うのだ。

まさに「悪趣味で搾取的」である。多くの人が思いを寄せている故人を「降霊」の名で独占し、しかもそれによって金銭的利益まで得るのだから。

その 「降霊」 が 「本物」 であると大まじめに主張するのなら、法律的にはその義務がないにしても、それ相応の「出演料」とか「インタビューの謝礼」とかを、遺族に申し出るぐらいの「誠意」があってしかるべきだろう。

しかし多分、多くの遺族はそんなもの受け取らないだろう。だったら、今回の場合などは、ジョンの「平和のメッセージ」とやらを真摯に受け止めて、その額を平和運動(ただし、ちゃんとした平和運動ね) にでも寄付してしまえ

なお、このエントリーは、恐山のイタコの「口寄せ」などを批判するものではない。ああいうの、私は嫌いじゃないのだ。「霊能者」と遺族との合意によるのだから、十分に美しいものである。末永く残すべき風習だとすら思う。

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2006年4月25日

マニアックな常識?

「常識力検定」 というものがある。常識力検定協会という団体が実施していて、合格率は 3級は 70%近いが,2級は 50%、1級は約 10%という難関だそうだ。

しかし、10人に 1人しか合格できない「マニアックな常識」なんて、本当に「常識」という名に値するんだろうか。

試しに同協会のサイトで、オンライン診断テストというのをやってみた。このテスト、Firefox では正常に動作しないという、ネットの世界の常識違反を犯しているので、しかたなく IE を起動して、回答を送信したところ、結果はランク A の 100点だった。

ただ、すべてが自信満々の回答だったわけではなく、四択の中から「多分これだろう」と、類推で答えたのが、一つだけある。案の定、それが正解だったわけだが、四択でなかったら、答えられなかった。だから、私の正味の「常識力」が満点というわけではないようだ。

しかしその問題というのは、2002年 5月実施の 1級問題から選ばれた「地雷禁止国際キャンペーン」の略語は何かというもので、正解は "ICBL" だそうだ。

多少英語がわかれば "International campaign" "Ban" "Landmine" を組み合わせて、自ずから正解できるが、それでも、こんなもの知らなくても、「常識知らず」とのそしりを受けることはないだろうし、日常生活でも全然困らない。

合格率が 50% という 2級までは、一応「常識力」と認めるにやぶさかではない(最近は、「常識知らず が世間の半分ぐらいはいるような気がするので)が、合格率 10%となったら、そりゃ、「常識」ではなく、「マニアック知識」に近いんじゃないか。

先日、どこだかのサイトで、「名刺交換をしたら、その名刺をどうしたらいいか」という問題があった。正解は「テーブルの上に、役職が上の者から順番に並べて置く」のだそうだ。そんなもん、私は全然気にしたことがないぞ。

強いて言えば、相手が 3人以上だった場合など、テーブルの向こうの名前と顔を一致させるために、実際に並んだ順にテーブルに置くということはある。しかし、その回答の説明によると、どうせ相手も役職順に座るので、結果的に同じ順になるということだった。

だが経験から言わせてもらうが、相手がテーブルの向こうに、いつも役職順に並ぶとは限らない。そうでないことだって、いくらでもある。世の中、そうそう「常識人」ばかりではないのだ。

それに、相手が 1人か 2人だったら、さっさと名刺入れにしまってしまうことも多い。それでどうこう言われたことなんか、一度もないぞ。それに、国際ビジネスになると、「名刺交換」なんていうセレモニアルな儀礼はあまりないから、無頓着で一向に構わない。

そりゃあ敬語の使い方や、救急知識など、本当に「常識」として知っておきたいことは山ほどあるが、どうでもいい枝葉末節にもっともらしくこだわって、「常識」として押しつけるというのは、世の中を住みにくくする元なんじゃなかろうか。

かく言う私も、先日仕事で、その道では国際的権威という某大学教授にインタビューした際に、先方が「それは的を得ている」を連発されたので、原稿を書く際には、誠に恐縮ながら、「当を得ている」に置き換えるという、世間の薄っぺらな常識に迎合した余計なお世話をしてしまったのだが。(??? と思った方は、こちらを参照)

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2006年4月24日

"Office 2007" に 「期待しない」

マイクロソフトが開発中の "Office 2007" を公開したというニュースが流れたが、もう新機能に期待するよりも、「余計なことをして既存バージョンとの互換性を損ねるのだけは、止めてくれ」 と願うばかりである。

どうせ、使いもしない機能や 「容易な操作性」 とやらをてんこ盛りにするだけだろうから。

今度の "Office 2007" では、ファイルの拡張子が ".docx" ".xlsx" ".pptx" などと、標準で末尾に "x" が付くのだそうだ。現行のファイル形式との互換性は維持されるが、Office 2000/XP/2003 で 「保存」 「開く」 を実行するには、無償提供の "File Format Compatibility Pack" が必要になるという。

何という面倒なことだ。新バージョンで作成したドキュメントを添付してメール送信した相手先が、その  "File Format Compatibility Pack" を入れていないため、「開けない」 と言って大騒ぎするのが目に見えるようだ。

「開けない」 と言って騒ぐレベルのユーザーの多くは、「Office をアップデートしてくれ」 と言っても、チンプンカンプンだろう。思いやられる。しばらくは、既存のファイル形式で保存するようにした方がいいかもしれない。

笑ってしまうのは、「Office に欲しい機能をユーザーに聞くと、10人中 8~9人は既に実現されている機能を挙げる。つまり必要な機能が見つからないことが課題になってきた」 と、マイクロソフト自身が認めていることだ。

要するに、はっきり言えば、これ以上のバージョンアップの必要性はないということではないか。

私は自宅の仕事場で使っているデスクトップでは、"Office 2003" を使っているが、いつも持ち歩いているモバイルの方にインストールしているのは、"Office 2000" である。この方が軽いし、それで不便を感じたことなど、一度もない。

それどころか、Office 98 でも、多分大丈夫だろう。問題は、それ以後のバージョンとの互換性が確保されているかどうかだけだ。その点では、これまでは少々問題があった。

ましてや、今度は拡張子が変わるほどのバージョンアップなのだから、何の問題もないとは到底信じられない。

操作性アップなどといっても、いくら 「ぱっと見」 を使いやすくしたからといって、実際に使いこなせるようになるというわけではない。

Excel だって、計算式や関数を駆使して使いこなしているユーザーはほんの一握りで、せっかく作ってあげたテンプレートをガタガタに壊され、脱力してしまうという経験はしょっちゅうだ。

Word にしても、エディターに毛の生えた程度にしか使いこなしていない人がほとんどで、インデントやアウトライン機能など、わからない人にはいくら教えてもわからない。見たところ、自動で箇条書きの番号を振られると、かえって混乱していきり立つ人の方が多い。

だから、これ以上 100年に 1度も使わないような機能など、本当に必要ないのである。

マイクロソフトのバージョンアップというのは、もはやユーザーのニーズに応えているというよりは、Linux などのオープンソース陣営との差別化を図って、自らの存在理由を確保するためのみに行われているとしか思われない。

そうした 「無用のやり過ぎ」 がある臨界点を越えたときが、マイクロソフト崩壊の始まるときだと言っておこう。それは、そう遠くない気がする。

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2006年4月23日

ブログ全盛とはいえ

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の 15万ヒットが、ほぼ確実に、今日中に達成されそうである。日曜だからといって寝坊して、昼過ぎにアクセスしたら、既に達成された後ということになるかもしれない。

キリ番をゲットされた方は、和歌プレゼントがあるので、ぜひご連絡をいただきたいということで、よろしく。

本宅サイトの 15万ヒットには、ほぼ 4年と 3か月を要したことになるが、ブログの "Today's Crack" の方は、まだ 2年にもならないのに、既に 18万ヒットをあっさりと越えてしまった。ブログは生意気である。ほどなく 20万の大台を超えるだろう。

だが、私としてはあくまでもホームグランドは 「知のヴァーリトゥード」 の方だと位置づけていて、毎日更新の "Today's Crack" だって、書き出しのリード文は、本宅のトップページにおいてある。そこで 「続きを読む」 をクリックすれば、全文が表示されるという趣向だ。

ブログの方は、譬えていえば「都心に借りたワンルーム・マンション」みたいなつもりでいる。本文の書き出し部分が、まるで引用文のようにインデントされているのは、あくまでも、本宅で書かれたことの繰り返しという意味を込めている。

近頃はブログが全盛だから、"Today's Crack" に直接訪問してくれる人が多い。ブログの方がなんとなく敷居が低いような印象を与えるということもあるだろう。

しかし、私が 「知のヴァーリトゥード」 を始めた 4年前には、「ブログ」という言葉すらなかった。毎日更新の「今日の一撃」を続けているうちに、「近頃かまびすしい『ウェブログ』というものに、ウチのサイトは類似した部分があるかな」という気がしてきたのである。

そうこう思っているうちに、毎日更新には、ブログの方が便利ということがわかって、それまで自サイトでまかなっていた「今日の一撃」のコンテンツのみを、ココログで運営することにしたわけだ。

だから、私は「生粋のブロガー」ではない。単に都合がいいから借りているだけの話である。本気でゆったりとしてもらうには、本宅に来て頂く方がいい。いろいろな部屋も用意されてるし。

本宅の方に愛着があるのは、デザインを自分の思い通りやっているからでもある。ブログは、いくらテンプレートがあろうと、どうしてもお仕着せ的なデザインから抜け出られない。ウチの本宅トップページなんか、あれでも案外凝ったデザインなのである。

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2006年4月22日

ビニール傘は天下の廻りもの

Reiko Koto さんの「晴れの日もある」に、「傘はフリーウェア」 というエントリーがあった。なるほど、誰のものだかわからない忘れ物の傘は、社会の共有物とみなせるかもしれない。

500円以下のビニール傘は、大抵は「間に合わせ」 買われたもので、買った人も「ずっと使い続けよう」という気はあまりない。

傘が「フリーウェア」というのは、言い得て妙である。拍手ものだ。

私は一昨年夏に、「傘のジレンマ」というエントリーを書いている。できれば、一つの傘を大切にして長く使い続けたいものと思うのだが、それはなかなか大変だというお話だ。

何しろ傘は消耗品である。すぐに骨が折れたり柄が曲がったりして壊れてしまう。修理すればいいのだが、傘が壊れるのはたいてい大雨の真っ最中である。となると急遽新しいのを買って、壊れたのは捨ててしまいがちだ。

その上、傘はとにかく置き忘れやすい。以前、それなりの値段の高級な傘にすれば、愛着がわいて容易には忘れないものだという話を真に受けて、かなりの高級品を買ったが、愛着がわく前に一週間も経たないうちに、どこかに置き忘れて来てしまったというのは、前述のエントリーに書いたとおりである。

「傘はいいものを持ちましょう」というのは、傘業界の陰謀である。実用的には、ビニール傘で十分だ。

傘のマーケットにも、ヒエラルキーというものがある。何万円というブランド品から 500円以下のビニール傘まで、値段はいろいろだ。さらに、100円ショップに行けば、本当にビニール傘よりもまともな 100円傘がある。

これらの中では、2~3000円以上の、一応まともな傘は、持ち主も所有権を主張したくなるだろうが、500円以下のビニール傘は、「誰のものでもない、みんなのもの」ということにしてしまってもいいじゃないかという気が、確かにする。どうせ、どれも同じようなものだし。

どこかを訪問する途中、急に雨が降ってきたので、コンビニや KIOSK で 500円(最近は 400円というのが多いか?)のビニール傘を買ったとする。そして帰りに晴れていたとしたら、その傘は気前よく置いてきてしまえばいい。というより、私なら自然に置き忘れてしまう。

こうして、何日か後に急な雨降りになった時、傘の持ち合わせのない人が遠慮なく使ってくれるように、暗黙のうちに所有権を放棄するわけだ。

そうこうしているうちに、自分もそのうちにどこかを訪問して、急に雨が降ってきた時など、「あぁ、どうぞ、そこにあるビニール傘を、どれでもお使いください」と言ってもらえるだろう。そんな時は、遠慮なく使わせてもらおうではないか。

そして、またどこかに置いてくればいい。というか、忘れてきてしまえばいい。

「俺はよく行く得意先には、大抵置き傘がある。都心一円に、10万円分ぐらいの置き傘がしてある」とうそぶく営業マンがいた。しかしそれは、「置き傘」なんかではなく、単にそこに置き忘れてきたというだけの話なのだった。

ビニール傘の所有権放棄という暗黙の了解がきちんと認知されて、何の気兼ねもなく使い回しができるようになれば、なかなか便利なことになる。10万円も使わなくても、至る所に置き傘を用意してあるようなものだ。

というわけで、電車などで置き忘れられたビニール傘を拾ったら、遺失物係に届け出たりせずに、自分で使ってしまう方がいい。真正直に届けてしまったら、引き取り手もなく、遺失物保管所なんていうところで死蔵されてしまう。

「ビニール傘は天下の廻りもの」である。時々、急な雨で自分でビニール傘を買うのは、公共財産の充実に貢献しているのだと考えれば、ちょっと気持ちがいい。

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2006年4月21日

ユーザーにとっての 「便利」 とは?

米国の百貨店、サクス・フィフス・アヴェニュー(SFA)の上得意になると、コンシェルジュが、その客の手持ちのワードローブと組み合わせできる服を上手に選んで勧めてくれる。

アマゾンでも、買い物をした商品に関連した「いかにも」 という品物が見繕われて、「こんなのもいかが?」と、購入を勧められる。

検索エンジンもまた、同様の志向性を示しているようだ。

20日から始まった 「Search Engine Strategies 2006」で、ヤフーの井上俊一検索事業部長が、同社の今後提供する検索サービスのイメージ、「ソーシャルサーチ」の概念について講演したという。(参照

ヤフーは「ユーザーの持つ知識や知恵が集まるコミュニティの集合体である『ソーシャルメディア』を目指しており、その知識を整理して他の人にも提供するサービスこそが『ソーシャルサーチ』だ」と解説した。

例えばこうした一環で提供される「マイランク」というのは、個々のユーザーの志向性に即したランキングで、検索結果が表示される仕組みであるらしい。同じキーワードで検索しても、そのユーザーに合った結果が表示されるというわけだ。

SFA のコンシェルジュも、アマゾンの「オススメ商品」も、「マイランク」も、ユーザーにしてみればとても便利なシステムには違いない。しかし、よく考えるとちょっと背筋の寒くなるところもある。

SFA の顧客は、ワードローブの中身まで、百貨店に知られているのである。アマゾンの顧客は、買い物をすればするほどどんな分野に興味を抱いているかを特定される。そして、ヤフーのユーザーも、興味の対象という情報をがっちり握られてしまう。

これらはちょっとした個人情報である。商業主義的に利用したら、ものすごい利用価値がある。「ユーザーにとっての便利」さと称されるものは、ベンダーにとってみれば、その何倍も都合のいい情報なのだ。

私は百貨店にたんすの中身まで知られたくはない。一企業に、どんな商品に興味を持っているかなんて知られたくない。「余計なお世話」はまっぴらだ。

インターネット検索をする度に、システム側に個人情報が蓄積されるような検索エンジンを、一体誰が好んで使うものだろうか。

私はあるサービスを利用するときは、いつでも「ニュートラルな個人」でありたい。「いつものヤツ」で通じるのは、行きつけのメシ屋と飲み屋ぐらいで十分だ。

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2006年4月20日

本宅サイト、15万のキリ番間近

今年の初め頃には、多分 6月頃になるだろうと思っていた「知のヴァーリトゥード」の 15万ヒットが、どうやらこの週末か週明けにでも達成されてしまいそうな勢いなのである。

いつものように、キリ番をゲットした方には、和歌などという、今どき珍しいプレゼントを捧げる予定になっている。(参照

和歌を捧げられるなどというのは、今どきではまったくレアな経験になるはずなので、キリ番をゲットされた方は、ぜひメールや BBS などでお知らせ頂きたい。なにしろ、元手のかからないプレゼントだから、遠慮はご無用である。

今年の初め頃は、本宅サイトのトップページのアクセスは、ユニークで 120内外、PV 200程度のものだった。ところが、「世捨て人の庵」というサイトで紹介していただいたのをきっかけに、近頃では、ユニークで 250、PV 400ほどになってしまった。このうち、定連さんのアクセスは 200ぐらいとみられる。

本宅のトップページを素通りして、直接ブログの "Today's Crck" に来るアクセスは、ユニークで 350ぐらいある。しかし、この 350のアクセスのすべてが常連というわけではなく、特定のテーマを Google などで検索して見に来る場合も多い。ブログの定連さんもやはり 200ぐらいとみている。

だから、「今日の一撃」を定期的に見に来てくれる定連さんは、今のところは、合計 400~500人ぐらい (毎日来てくれる方だけとは限らないので) だと思っている。ありがたいことである。サイト開設当初の、1日のアクセスが 1桁だった頃と比べれば、天国のようなものだ。

原稿料をもらって書いている記事に、何万の読者があろうとも、単なる物好きで書いているこちらのテキストの、確固たる何百名かの読者の方がありがたい気がするのは、不思議なものである。

ちなみに、ブログの方のアクセスはかなりの変動があって、ちょっとニュースサイトなどに紹介されてしまうと、平気で 2000や 3000ぐらいいってしまう。例の "「的を得る」は、間違いじゃない" を書いた直後なんかはすごい勢いで、3月 9日には、6601 PV という記録を樹立した。

その前後 5日間を合わせたら、2万 PV ぐらいになるのだが、いくら徒花(あだばな)的なヒットがあっても、その多くが常連として残ってくれるというのは期待できない。徒花は徒花である。

その意味でも、私はブログの "Today's Crack" よりも、「知のヴァーリトゥード」 を、あくまで「本宅」と位置づけたいのである。私の記事は、ブログに掲載されるだけではないので、本宅に来てもらう方が、包括的に紹介できる。

そして、それに劣らず大切に思っているのが、別宅の「和歌ログ」だ。藤原正彦氏が『国家の品格』で、「論理より情緒」なんてことをもっともらしく言う前から、私は「歌を詠む心」というのを、自分の生命線と位置づけているので、こちらの方もぜひよろしく。

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2006年4月19日

サラ金はとても優しい

一般マスコミでは 「消費者金融」 ということになっているらしいが、ここは個人的なサイトなので、依然として「サラ金」といわせていただく。ATOK でも、一発で変換されるし。

いわゆる「グレーゾーン」という利息の廃止に、サラ金は反対しているらしい。「闇金融」に流れやすくなるというわけだ。

サラ金側の論理では、利息を法的な上限金利(年 15~20%)以内に抑えると、貸し付けの際の審査を厳しくせざるを得ず、そうなると、審査を通らなかった人が悪質な「闇金融」に行ってしまうというのである。

貧乏人が「闇金融」の犠牲になるのを防ぐために、自分たちは十字架を背負いながら、プチ悪質な「グレー金融」をしているという論理である。なんと優しいことである。

友人が以前、サラ金の取り立て電話をするというアルバイトをしたことがあって、それによると自宅だろうが勤務先だろうが、どんどん電話するそうだ。「丁寧な言葉遣い」で、「十分に恫喝的なこと」を言うらしい。

それで埒があかない場合は、結局は「や」のつく業界の出番になるらしいと言っていた。堪らんなあ。

そういえば 20代の頃、広告関係の仕事で、一度だけサラ金の看板を請け負ったことがあった。現金で支払うというので受け取りに行き、ロビーで待っていると、周りは生活に疲れ果てた顔のオッサンばかりで、重苦しいことこの上ない雰囲気である。心が暗くなる。

そこへ、 滅茶苦茶場違いの異邦人がひょっこり紛れ込んできた。千葉のピーナッツ売りのおばちゃんである。ドアをあけるなり、まるでサイクルの違うのほほんとした調子でこう言った。

「こんちはぁ、千葉のピーナッツ売りだけんど、ピーナッツ買ってくれんかねぇ」

ロビー内の重苦しい雰囲気は、一瞬、バランスを失い、私はこけそうになった。

カウンターの中のおねえさん何人かが、お互いに困ったように顔を見合わせ、ついに一番先輩風が立ち上がり、深々とお辞儀をして、こう言った。

「ただ今、勤務中でございますので、そういったものは、結構でございます」

しかし千葉のおばちゃんは、その程度のことでは諦めない。カウンターの奥の若い支店長風に向かってさらに言う。

「そっちのお兄さん、いらんかねぇ」

それまで、なるべく目を合わさないようにもじもじしていた奥の支店長風は、遂に意を決したように立ち上がり、カウンターを出るとそのおばちゃんのところまで、つかつかと歩み寄り、さっきのおねえさんよりもさらに丁寧なお辞儀をして言った。

「まことに申し訳ありませんが、私ども、ただ今勤務中でございますので、そういったものは、本当に結構なんでございます」

今度はおばちゃんが呆気にとられた。どっちが異邦人だかわからなくなったのだ。一瞬の間をおき、毒気を抜かれたように「あぁ、そうかねぇ」と力無く言って去って行った。

なるほど、サラ金というのは、表面的には慇懃無礼なほど丁寧な言葉遣いをする業界のようなのである。

その後、わずかな代金を受け取るまで、私はさらに 20分ぐらい待たされた。私はサラ金に行って金を借りるのではなく、貰って来るという、レアな経験をしたのである。

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2006年4月18日

ドイツに行って、まず大切なこと

私の最初に行った外国は、ドイツである。たったそれだけのことで、私は単純なことに、ドイツには好印象をもっている。

だが、ドイツ語はさっぱりわからない。「ありがとう」 と 「おはよう」 「こんにちは」 「おやすみ」、三つまでの数、そして 「男」 と 「女」 しかわからない。ただ、一応はそれで足りる。

最初にドイツに行ったとき、知人に「ドイツのトイレは、日本のように男女を示すようなアイコンはほとんどなくて、字で書いてあるだけのが多いから、間違っても女性用トイレに入らないように」とアドバイスされた。

彼が言うには、「男性用には『ヘーレン』、女性用には『ダーメン』と書いてある。『入ぇれん』と『駄~目ン』で、戸惑ってしまうが、『ヘーレン』の方が男性用だから、そっちに入るように」ということだった。ふむふむ。

まだ若干 25歳の私は、フランクフルト空港に到着し、ホテルに荷物をおいて、レストランで昼食を取った。そしてそのレストランで、トイレに行きたくなったのである。

そのレストランのトイレは、地下 1階にあった。おもむろに階段を下りると、まったく同じようなドアが二つ並んでいて、確かに、片方に "Herren" とあり、もう片方に "Damen" と書いてあった。それ以外に、絵で男女を示すようなアイコンはまったくない。まさにシンプルで無骨なゲルマン流である。

私はうれしくなってしまった。「おぉ、確かに聞いたとおりだ。『入ぇれん』と『駄~目ン』だ!」

しかし、次の瞬間、私は肝心なことを忘れていることに気付いた。どちらが男性用で、どちらが女性用なのか、すっぽりと記憶から消え去っているのである。

これは面白いどころではない。慌てて階段を駆け上り、たまたまそこに居合わせたウェイターに聞いた。ドイツ語なんてわからないから、咄嗟の英語である。

"Which is men's room, herren or damen?"

ドイツという国は、けっこう英語が通じる。これはとても幸いなことであった。彼はとても真剣な顔で、人差し指を突き出して、2度繰り返した。

"Herren, herren!"

それは当然ながら、 "r" の音を舌の奥の方を振るわせて発音する見事なドイツ語だった。2度繰り返すことで、「間違っても女性用のドアを開けてはなりません!」 ということを明確に伝えてくれたのである。

私は思わずドイツ語でお礼を言った。"Danke!" そして、また階段を駆け下りた。これこそ、私が国際人になった一瞬であった。

で、ここで改めて確認しておこう。今年、ワールドカップでドイツに行ったら、トイレは、男性は「入ぇれん」の方に、女性なら「駄~目ン」の方に入ること。そして、男性の場合は、朝顔の位置がかなり高いところに付いているので、背の低い人は爪先だって用を足すこと。

以上。今日のテーマは、馬鹿馬鹿しいが、とても大切である。

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2006年4月17日

がんばれ、讃岐うどん!

「松阪牛」 という商標は OK だが、「さぬきうどん」は認められないみたいというのは、なんとも気の毒なことではないか。

地域名と商品名を合わせた商標登録を積極的に認める「地域団体商標制度」が今月から始まったのだが、そこにはいろいろな軋轢や矛盾があるようだ。(参照

「さぬきうどん」が地域ブランドとして認められない公算が強いのは、あまりに知名度が高すぎるからということらしい。

新制度では、「地名+商品名」でも、一般的に使われる「イセエビ」や「サツマイモ」などは申請できないという。全国各地で作られている讃岐うどんもこれにあたる可能性が高いとみられるのだ。

しかし、「イセエビ」や「サツマイモ」と 「讃岐うどん」を同列にするのは、いささか気の毒だろう。さぬきうどん協同組合の大峯茂樹理事長は「全国的な知名度は我々の努力の成果。それを利用して粗悪品を作る者がいるから登録できないなんておかしい」と怒っているという。当然の腹立ちだろう。

美味しい伊勢エビを食うのに三重県に行こうとか、本格的焼き芋を食いたいから鹿児島に行こうとかいう人はいないが、「本場の讃岐うどん」を食いたいと思ったら、やっぱり香川県まで足を伸ばしたいと思うのが人情だろう。ということは、立派な地域ブランドではないか。

香川県以外で作られる「讃岐うどん」は、 「讃岐風うどん」というべきだろう。特許庁さん、それくらいのことは考えてやっていいんじゃないかなあ。

地域ブランドではないが、以前、「シャネルスーツ問題」 というのがあった。シャネルスーツというのは、ココ・シャネルが最初にデザインした、女性用の襟なしスーツで、以後同ブランドのラインナップでは、定番的存在になっている。

しかし洋服のデザインなんて、真似ようと思えばすぐに真似られるので、シャネル以外のフツーのメーカーが似たデザインの洋服を作って、その名も「シャネルスーツ」としてバンバン売り出した。シャネル社は、それに対して断固たる態度を取ったのである。

「『シャネルスーツ』 と呼べるのは、我が社の商品だけ」と宣言したのだ。それで日本のメーカーは「シャネル風スーツ」などと言いつくろおうとしたが、それも頑として認めようとしなかった。

「シャネル」が登録商標である以上、「シャネル風スーツ」というのだって、やっぱり浅ましい。「ゼロックス風コピー機」なんて言ったら、それだけで負けじゃないか。

ブランドというのは、それほど重要なものである。香川県以外の製麺会社が「讃岐うどん」の名称を使うのは、そりゃあこぎな「のれんへのただ乗り」というものだ。多少譲っても、「讃岐風うどん」がせいぜいだろう。

ちょっと分野は違うが、「東横イン」という名称のホテルを、「ちょっとずっこいなあ」とか「志が卑しいんじゃないか」とか言う人が多いのと同じ感慨を持ってしまうがなあ。

がんばれ、讃岐うどん!

【4月 23日追記】

「新鮮空気」 の冬花さんが、まるでこの記事に呼応するように 「香川へ。さぬきうどんを求めて」 というエントリーを書いておられる。麺好きの私としては、写真をみるだけでムラムラしてくる。

これを見ても、りっぱな地域ブランドだと思うがなあ。

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2006年4月16日

ブログと蕎麦屋の共通点

ブログの世界というのも、移り変わりが激しい。以前にも書いたが、ブログの平均寿命は 38日やそこらということらしい。(参照

それほどでなくても、長い間毎日巡回していたブログが、突然更新されなくなり、何ヶ月かの放置のあげく、いつの間にかサイト自体が消滅してしまっているというのも稀ではない。

祇園精舎の鐘の声ばかりではなく、ブログの世界も、人の世の諸行無常の様相をそのまま反映している。まさに哀れなものである。

突然だが、蕎麦好きというのは、蕎麦屋の店構えを見ただけで、うまい蕎麦を食わせる店かどうか、即座に見分けることができる。本当に、ごく当たり前にできる。

ほんのたまに、まったくそれらしくない店構えのくせに立派な蕎麦だったり、逆に見かけ倒しだったりすることもあるが、多分、9割以上の確率できちんと見分けることができる。

それと似たようなもので、いい味を長く続けてくれそうなブログというのも、ちょっと読んでみただけで、なんとなくわかるような気がしてきた。まだ、うまい蕎麦屋を見分けるほどの確率ではないが、近頃大分、この嗅覚じみた感覚も研ぎ澄まされてきたような気がする。

なんというか、蕎麦屋の店先の雰囲気というのが、その店主の趣味をそこはかとなく表現しているようなもので、ブログの第一印象というのも、その管理人の志向性をかなり反映している。まず感じられるのは、「身体性」といったようなものだ。

面白いブログというのは、言葉が自然にあふれ出ている。無理矢理にこねくり上げたような、硬直した言葉じゃない。いわば、言葉が身体性に沿っているが故に、心地よいのである。

毎日巡回したくなるブログというのは、主義主張が共通しているというよりも、この身体性の共通したブログだという気がする。

ブロガーの身体性とは、「日常的に表現する身体」である。べつに芸術家の身体性である必要はない。年に何度か渾身の蕎麦を打ってみせる偏屈な職人よりも、毎日それなりの蕎麦を食わせてくれる蕎麦屋の方が、ありがたいようなものだ。

いい味の長続きするブログというのは、言葉に心地よいリズムがある。一方、リズムのないブログというのは、毎日毎日、決まり切ったトーンで書かれているブログである。読む前から結論が分かり切っているのはまだいいとしても、レトリックまで見え透いてしまうのは、つまらない。

リズムのないブログというのは、言葉が身体性に沿っていないか、筆者の身体性自体が硬直しているかのどちらかだ。

身体性も蕎麦打ちも、季節や環境で変わるのが当然なのだ。変わらない文章というのは、要するに、書き手の身体性が鈍いのである。読む方も退屈するが、書く方も疲れるだろうなあ。

書いてるうちに疲れが消えてしまうようなテキストというのは、多分、読む方にも心地よいんじゃあるまいかと思うのである。

というわけで、私もせいぜい「疲れないテキスト」を志向して、このブログを続けていきたいと思っているわけなのだ。もし、読者がここまで読んで、どっと疲れるようなら、私のテキストもまだまだだということだ。

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2006年4月15日

息抜きに楽屋裏さらし

私は持久力がないのだろうか。4日も続けて(私にしては)ヘビーなテーマで書いてしまったので、もう疲れちまった。

そういえば、パチンコだって集中力が 20分と続かないので、まともに勝った覚えがない。そろそろ、軽い話題に切り替えないと、「毎日更新」 が続かなくなりそうだ。

それにしても、我ながら大したものである。これで、2年と 4か月、正真正銘、毎日更新を続けているではないか。それ以前だって、「ほぼ毎日更新」というのを 21か月続けている。足したら、ほとんど 4年以上も「今日の一撃」を書き続けているのである。

よくまあ、それだけ書くことが見つかるものだ。しかも、毎日更新はこのブログだけじゃない。「和歌ログ」なんて、平成 15年 12月の立ち上げ以来、掛け値なしに一日も休んでいないじゃないか。

こりゃ、決して「持久力がない」というわけじゃなさそうだ。きっと、メリハリをつけてヘビー感覚とライト感覚を交互に繰り返してきたからこそ、これだけ続いているに違いないと、今さらながら気が付いた。

というわけで、このブログの中身も、そろそろライト感覚に切り替えないと、力尽きてしまいそうである。振り返ってみると、今までだってちょっと気張ったテーマが続くと、幾日もしないうちにアホなテーマに移行している。なるほど、無意識のうちにバランスを取ってきたのである。

ちなみに、昨日は「アイフル全店に業務停止命令」というニュースに、ちょっと驚いた。先日のエイプリルフール・ネタは、時代の雰囲気的に、案外タイムリーだったかなと、ちょっといい気分になっている。

あのネタは、真に受けてしまった人がかなりいたようで、エイプリルフール冥利につきるというところである。昨年のネタも結構なヒットだったから、こうなると、来年にプレッシャーがかかってしまうところだ。

私はプレッシャーには結構強い方だけれど、こればかりは、期待されてしまうと騙しづらいから、来年の春までには、このことはきれいさっぱり忘れてもらいたいと、強く強くお願いしておこう。

(こんなことを言うと、ますます逆効果かもしれないけれど)

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2006年4月14日

羽越線脱線事故・外伝

これまでにも、田舎自慢はさんざんしているので、あまり度重なると嫌味になるかなと、ちょっと保留状態にしていたのだが、やっぱり止むに止まれず書くことにする。

昨年暮れの羽越線特急脱線事故の際の、JR 東日本社員の奮闘ぶりである。4月 8日付の毎日新聞夕刊(参照)に掲載されている。

事故現場に急行した警察、消防隊が目にしたのは、猛烈な地吹雪の中、自ら重傷を負いながら、献身的に、そして文字通り懸命に乗客救助に奔走する乗務員(運転士、車掌)、そして、たまたまその特急に乗車していた非番の JR 東日本社員 6人の姿だった。

6人の JR 東日本社員は、休暇で帰省し、新潟の勤務先に戻るところだったという。だから、運転士と車掌を加えた 8人は、おそらく全員、新潟から秋田にかけての日本海側の生まれだ。そのど真ん中が、私の田舎、庄内である。

そして、この 8人のうち、7人は現在も通院中だという。

運転士は血を流しながら、救助隊に「私は大丈夫。早くお客さんを!」と叫んだということが、警察内部の雑誌には記されている。他の社員も、腰の骨を折るなどの重傷を負いつつも、必死の救助作業にあたっていた。

私は事故直後のエントリーで、「中越地震の際にも触れたことなのだが(参照)、北陸・東北の日本海側の人たちの、不運な災害、事故に遭っても、決して恨み言を言わずにただ静かに耐えている姿には、頭が下がる」と書いた。(参照

犠牲者の家族が、決して恨み言を言わなかったのは、人間の誠(まこと)を信じているからである。乗務員たちが献身的に救助作業にあたってくれたことを、誰に聞かなくても知っていたからである。

なぜなら、この地域の人たちは、そうした人たちだからだ。自らを犠牲にしてでも、他に尽くすということを、実際に、しかも当然のごとくやってしまう人たちなのだ。私は、こうした地域に生まれたことを誇りに思う。

一応、毎日新聞の該当ページにリンクをはったが、新聞社のサイトでは、古くなった記事はどんどん削除されてしまう。だから、多分この記事もいずれ削除されてしまうだろう。

しかし、削除されるには惜しい渾身の記事である。これを書いた斎藤記者の感動が伝わってくる。その意味で、このコラムでは異例のことだが、敬意を表して以下に全文引用させていただく。

羽越線脱線事故:JR非番社員、傷負いながらの救出劇

 「私は大丈夫。早くお客さんを」と叫ぶ運転士、自ら大けがをしながら雪の中から手だけ出ていた女性客を救出した社員……。37人が死傷した昨年12月の山形県庄内町のJR羽越線特急「いなほ」脱線転覆事故で、乗務員2人と帰省などで同乗していたJR東日本新潟支社員6人の事故直後の行動が、JR東日本の調査で分かった。猛烈な地吹雪の中、それぞれが負傷者の救出や避難誘導に奔走する様子が浮き彫りになる。8人のうち7人は現在も通院中だ。【斎藤正利】

 事故当日は日曜日で、支社員6人は帰省後、勤務先に戻る途中、事故に遭遇した。今回明らかになったのは、JRが事故直後に、収容された病院などで聞き取ったものだ。

 運転士(29)は、運転室の搭載機器が顔を直撃して右まぶたを切った。真っ暗になった運転室で非常用スイッチを操作。業務用携帯電話で新潟支社輸送指令に「列車が脱線した」と緊急連絡を入れ、運行中の列車の停止や救急車の手配などを要請した。

 車掌(26)は二重衝突を防ぐための無線スイッチを即座に作動させ、携帯電話で「激しい揺れで緊急停止」と指令に報告した。2人は手分けして乗客の安否確認に走り回り、転覆車両内の乗客に毛布や車内カーテンを引きちぎって配布するなどした。

 最初に現場に到着した山形県警の警察官は、6号車で救出作業中の運転士の様子を、「頭から出血しており、声をかけると『私は大丈夫です。早くお客さんを助けてあげてください!』と言っていた」などと警察内部の雑誌に記した。

 支社の6人のうち5人は小屋に激突し「く」の字に曲がった先頭の6号車に乗車しており、いずれも「一瞬、体が宙に浮き、強い衝撃で座席や床にたたきつけられた」と語っている。

 腕や太ももを強打するなどして3カ月入院する重傷だった新幹線保線センター員(49)は、雪の中から手だけが出ている女性客を発見。腰の骨を折るなどした信号通信課員(48)と協力し、窓ガラスの破片が散乱する雪を血で赤く染めながら救出した。

 腰を強打するなどし3カ月入院した保線課員(50)も輸送課員(29)とともに、雪に埋もれた女性客を助け出した。顔を強く打つなどして重傷を負った保線技術センター員(47)は気を失った。意識回復後も動くことはできなかったが、周辺の乗客に声をかけるなどした。

 昨年4月のJR福知山線脱線転覆事故では、JR西日本の運転士2人が負傷者を救助せずに立ち去り、厳しい批判を浴びている。

毎日新聞 2006年4月8日 15時00分

改めて、犠牲者の冥福を祈る。奇しくも、この記事の掲載された日は、花祭り、お釈迦様の誕生日だった。

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2006年4月13日

何故殺してはいけないか その2 「ポア論」

昨日、「何故殺してはいけないか」というエントリーで、私は、"「殺す自由」 は 「生きる自由」 を決して上回らないから" と書いた。

しかし、そう遠くない過去に、「殺してあげる」ことを善しとする集団があった。そう、「ポア」という名で、「意識を高い世界へと移し替えること」として、殺人を犯した集団である。

彼らは 「輪廻転生」 というコンセプトを前提としている。人の魂は、輪廻転生で何度も生まれ変わり、異なった経験を積み重ねることによって、より高い次元に達するという考え方である。

つまり、人の生きる目的というのは、魂を高めることなのだ。そのために、人はただ一度の人生だけでは足りず、何度も生まれ変わる。

私も仏教を信じるもののはしくれとして、輪廻転生のコンセプトは信じている。だから、「肉体の死」は「魂の死」ではないと考えている。魂はいつまでも生き続ける。そして、何度も新しい肉体の衣をまとって生まれ変わる。

「ポア」というのは、真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)の教義からすると、「悪業を積み続ける魂を救済するために殺害すること」 と説明され、麻原彰晃の説くところによると必ずしも罪ではないばかりか、魂の救済に通じる行為であるとされた。

真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)は、「小乗(ヒナヤーナ)」、「大乗(マハーヤーナ)」より、さらに高次元の仏道であるとされている。だから、小乗仏教でも大乗仏教でも罪とされる殺人を、時と場合によっては推奨すらするのだ。

しかしこれは「究極の余計なお世話」である。仏は衆生に決して「悟り」を強要しない。それは白隠禅師の説かれたように、衆生は既に「仏」であるからだ。既に成道し、悟りを得た「仏」なのだ。それ故に「覚者」である衆生に、仏は「迷う自由」を与えている。

衆生は、とことん無明の道を彷徨い、地獄の底まで落ちる自由をもっているのである。地獄の底の辛酸を経験した覚者の悟りは、苦もなく優等生的に悟ってしまった覚者の悟りより、ずっと「コク」のある味わい深いものだろう。

その醍醐味を味わう自由を、「ポア」という行為は奪ってしまう。「生きる自由」とは、「迷い、そして悟る自由」である。人並み以上に迷ったからといって、親切ごかしに殺されてはたまらない。

「仏にあっては仏を殺し、親にあっては親をも殺す」と、禅宗では語られるが、それはあくまでメタファー(比喩)である。肉体に血を流させる殺し方というのは、決定的に想像力の欠如した手法である。

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2006年4月12日

なぜ殺してはいけないか

川崎市の事件で、「理由なき殺人」 ということが話題になっている。今井容疑者は、「殺したいから、やった」と供述しているという。

当局はさらに明確な動機を探るべく取り調べを継続しているというのだが、それは多分、無駄なことだ。彼は本当に、単に「殺したいから殺した」というだけのことなのだろう。

以前、テレビ番組で少年犯罪について激論が交わされた中で、一高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」との問いを発したというのが話題になった。

この問題について、大方は「人を殺してはいけないから、いけないんだ」と、自然科学の公理のようなものと捉えているので、改めてこうした質問が発せられたことに、大きなショックを感じたもののようだ。

私は以前、ululun さんのブログで、人を殺してはいけないのは、"「殺す自由」は「生きる自由」を上回らないから" とコメントしたことがある。(参照

これはとても抽象化した言い方なので、少し説明を加える必要があるだろうと思っていたのだが、いつの間にかそのコメントをしてから 1か月以上経ってしまった。

人間は他人を殺す能力を持ち合わせている。だから、大抵の人にとって殺人は可能である。この「可能である」ということを、仮に「人は殺す自由をもっている」と表現することにしよう。

しかし一方で、人には元々「生きる自由」というものがある。そして厄介なことに、「殺す自由」と「生きる自由」は、両立し得ない。

「盗む自由」があるとする。盗まれた者に対して、盗んだ者は返却するなり賠償するなりして、償いをすることができる。つまり「盗み」は「まったく取り返しのつかない罪」 というわけではない。

しかし、殺した者は殺された者を生き返らせることができない。「殺す自由」を行使して「生きる自由」を奪ってしまうと、殺された者の自由を回復することは不可能だ。つまり「殺人」は、「完全に取り返しのつかない罪」なのである。

こうしたことを、私は "「殺す自由」は「生きる自由」を決して上回らない" と表現した。だから「殺す自由」というのは、保持してはいるけれど、原則的には行使してはならないものなのである。

「行使してはならない自由」というのは、「自由」の名に値しない。だから、"人には「殺す自由」はない" と言い換えることも可能であり、一般的には、そう言った方が明確だと考えられている。ただ、それは三段論法の最終結論である。

件のコメントに付け加えて、私は以下の場合は、態度を保留するとしている。

「崇高な覚悟の自殺 - 切腹」 などの 「介錯」
「安楽死」
「正当防衛」(相手がこちらの「生きる自由を奪おうとしたので)
「戦争」(一応は、納得済みでの殺し合いなので)

つまり、以上の 4つのケースについて、私は「殺人」を単純に「罪」と決め付けることに躊躇している。要するに、どう考えていいか、まだわからないのである。これらの場合は、非常に限定的な「殺す自由」があるかもしれない。

「死刑執行」 を挙げなかったのは、それは「殺す自由」というよりは、制度で強制的に定められた「果たすべき業務」とみる方がいいからだ。それだけに人は、絞首刑やギロチンなど、直接には手を下さず、最終的には「重力任せ」の手法を開発して、葛藤から逃れようとしている。

いずれにしても、個人的には、そうした 「限定的な自由」 を行使しなければならないようなケースには、遭遇したくないと念願している。

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2006年4月11日

トリックスターとしての「イスカリオテのユダ」

『ユダの福音書』の写本が発見されたというのは、キリスト教世界にとってはかなり大きなニュースだろう。何しろこれまで「裏切り者」とされていたイスカリオテのユダが、実はイエスの「一番弟子」だったというのだから。

「パラダイム・シフト」とは、まさにこうしたことを言うのだろう。

元々私は、イスカリオテのユダにそれほどの嫌悪感をもっていなかった。それは、ユダが「裏切り」(あるいは従順な行為 ?)をはたらかなかったら、キリストの「救済」は成就しなかったとみられるからである。

十字架にかかり、死した後に復活するというのは、イエスがこの世で行った「人類救済」のストーリーのクライマックスである。つまり、イエスは十字架にかかる必要があった。そして、その肉体は一度死ななければならなかった。

しかも、それは弟子の「裏切り」というとてもショッキングな行為による、むごたらしいものでなければならなかった。そのような「死」であったればこそ、その後の「復活」がまさに栄光につつまれた、全人類の救済を意味するカタルシスとなったのである。

『ユダの福音書』によると、イエスはユダに「私の衣となっている男をお前は犠牲に捧げるだろう」と告げたという。「私の衣となっている男」 とは、とりもなおさず肉体としてのイエスである。

肉体は霊の衣にすぎないというコンセプトで、このあたりが、霊と肉体の二元論を重視するグノーシス派の影響が強いとみられる所以だろう。

これを文字通り受け止めれば、イエスは自らの魂を肉体の呪縛から解放するために、進んで十字架にかかったのである。ユダにはその十字架にかかる契機を作るように命じたのだと解釈することができる。

つまりユダの「裏切り」なしには、肉体としての「イエス」から、全人類を救済する偉大なる「魂」としての「キリスト」に「パラダイム・シフト」することができなかったのだ。

イスカリオテのユダの行為が、通説通り「裏切り」だったにせよ、『ユダの福音書』にあるように「命令に忠実にしたがった結果」だったにせよ、それによって、イエスの「救済」が成就したことに変わりはないのである。

必要なのは「救済の成就」であり、ユダはそのために「必要な役割」を演じたのだ。そしてそのことによって、ユダ自身も重い「十字架」を背負うことになったのである。ここが大切なところである。

とても生臭く勘ぐると、今回の『ユダの福音書』の発見は、国際社会でのユダヤ人の役割を肯定的にみることにつながり、シオニズムに塩を送る効果を発揮するだろう。(うっ、オヤジギャグ!)

それだけでなく、太平洋戦争における日本が自ら敗戦国となり、重い十字架を背負うことによって、アジア諸国の独立を促すことになったという視点にまで力を与えることに通じる。

十字架を背負った「悪役」は、あるいはとてつもないトリックスターだったかもしれないのだ。

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2006年4月10日

早けりゃいいってもんじゃなかろう

近頃にわかに英語教育の早期化に関する是非論が話題になっている。

小坂文科相が「インターネットの約 9割は英語。近隣諸国でも積極的に取り組んでいる」と言えば、石原都知事が「国語の教育こそちゃんとすべし」との持論を展開。互いに一歩も引かないバトルの様相だ。

自分の経験から言えば、中学校 1年から英語を習うというのは、結果論としてちょうどよかったかなと思っている。別に英文科に進学したわけでもなく、留学したわけでもないけれど、フツーの会話ならあまり苦労しない。

とくに英語を専門的に勉強したわけでもないけれど、以前勤務していた外資系団体の内部試験では、「英検準一級レベルの実力」のお墨付きをもらっている。「外国の現地法人に赴任して、管理職として外国人の雇用者を使いこなせるレベル」だそうだ。「へぇ!」である。

元々小学校 5年生ぐらいから英語に対する興味はものすごくもっていたが、それでも、学び始めるのが 2年早かったからといって、その分、今より英語能力が高まっていたかといえば、甚だ疑問だ。

小学校 5~6年というのは、かなりいろいろなことを考えるようになる時期で、この時期に日本の文学作品というのをかなり読んだ覚えがある。人間の時間的リソースは限られているから、同時期に英語なんていう興味津々のエサを与えられたら、きっとそっちに食らいついていただろう。

その分、読書に親しむ時間はかなり削られていたはずだ。あの頃、英語なんか教えられなくて幸いだった。

どうせ小学校 5~6年の英語なんて言うのは "Good Morning." "Thank you very much." "My name is ****." に毛の生えた決まり文句ぐらいのものだろうから、そんなのは後になってすぐに覚えられる。

中学校に入ってからほんの数時間で覚えられるものに、小学校高学年の貴重な時間を百何十時間も割くというのは、やはり馬鹿馬鹿しい気がするのである。

それに、こう言っちゃあなんだが、小学校の先生程度のレベルで、へんてこりんな英語を教えられてしまった日には、悲劇である。一生取り返しがつかないことになる。何しろ、中学校の英語の先生の実力だって、かなり怪しいレベルで、それ故に英語嫌いを大量発生させているのだから。

ざっと大まかに言って、英語教育早期化推進派は、国際的な共通語は英語なのだから、早くから親しむべきだと言っている。それに対して反対派は、口先だけの薄っぺらな英語なんかできるようになっても、その内面に表現すべき何物ももたなければ意味がないと言っているのだ。

要するに、スタンスが違うのである。スタンスが違うけれど、私は後者の方が筋が通っていると思う。いくら英語教育の開始を早めたって、英語嫌いを発生させるのが 2年早まるか、"Oh, yes" "Me too" としか言えない日本人を大量発生させるかのどちらかになりそうな気がする。

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2006年4月 9日

小沢一郎って、本当に大物?

共同通信の実施した世論調査によると、「小沢民主党に期待する」との回答が、過半数の 57.4%に達したそうだ。(参照

とはいいながら、「政権交代が実現すると思わない」との回答が 72.7%に上ったというのだから、「期待の程度」がうかがい知れる。「ご祝儀程度」の期待というところなのだろう。

この人に関しては、幹事長とかいった楽屋裏のポストで腕力をふるうタイプで、自分で表舞台に立ってしまうと、ロクなことにならないというイメージをもっている。過去の歴史がそう物語っている。

それだけに、自分でも「日本は変わらねばならない。私も変わる」と、イメージチェンジを強調したのだろうが、60歳を過ぎた人間が、そんなに簡単に変われるものだろうか。

と、最初にクサしてしまったが、私は政策理念的には、小沢一郎という人にはある程度共感している。というか、彼のいう「普通の国家」という理念には、総論的には反対することが難しいという、それだけのことなのかもしれないが。

要するに、小沢一郎という人のもつ「大物イメージ」というものに、私はとても疑問をもってしまうのだ。「大物」というには、人間的魅力というのが伝わってこないのである。案外、小泉さんなんかよりずっと 「真面目ないい人」なのかもしれないが。

実は 「大物」なんかじゃなく、田中派から竹下派に続く歴史の中で、じいさんたちに可愛がられて、楽屋裏の重要ポストをあてがわれ、背後のじいさんたち(とくに金丸さん)の威光で、強引に物事を進めた経験があるというだけのことなんじゃあるまいか。

あの頃の世の中は、政治の世界に限らず、実力者といわれるじいさんのお気に入りになれば、大抵のことはできたのである。「お前の好きなようにやってみな。何かあったら、わしが出てって口きいてやるから」ってなもんだ。

こうした構造があって、周囲としても、下手に逆らうとややこしいじいさんが出てきてやっかいなことになるとわかっているから、逆らわなかったのである。

だから、後ろ盾の効かない表舞台に立ってしまうと、物事をスムーズに進めるための方法論というのを持ち合わせていないのではないかと思うのだ。この人、じいさんを相手にするのは得意でも、年下を相手にするのは、基本的に下手なんだろう。

しかし、今や、じいさんのほとんどはあの世に行ってしまって、苦手な年下ばかりの世の中になったのだ。以心伝心で通じる相手を引き寄せて、手下にしてしまうという手法は、もはや通用しない。

こうなったら、ここ数年の後ろ盾のない世界でこの人が何を学んだのか、お手並み拝見ということになるのだろう。

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2006年4月 8日

皿の数は、多すぎない方がうれしい

先月 23日の 「仏道修行は広く深い」というエントリーでも書いたが、私は食事が終わったらすぐに食器を洗う人である。

だから、洗う食器は少ない方がうれしい。「一汁一菜」とまでは言わないが、「一汁一魚一菜」ぐらいがいい。それ以上だと、皿洗いの面倒が思いやられて、うっとうしくなる。

どうやら、私は 「食を楽しむ」という発想が薄いようなのだ。そりゃあ、美味しいものを食べたいという欲求は人並み以上にあって、料理の良し悪しの区別はしっかりとつけられる。しかし、いくら美味しくても、ちまちまとした小皿でどっさり並べられると、うんざりするのである。

そういうのは、年に数度の「ハレ」の食事で十分だ。年中食わせられたら、まさに食傷である。日常の食事は、皿の数は多すぎない方がいい。

「ウチの亭主は、おかずが 3皿以下だと機嫌が悪い」などと話す女性がいる。それを聞くと私なぞは「そりゃあ、面倒な」と同情したくなるが、当人は、暗に自分の料理の手際よさを自慢しているようでもあるので、余計なお世話のようなのだ。人それぞれである。

ただ、皿の数の多いのを喜ぶ亭主は、まず自分で皿を洗うことのない人である。まず酒を飲んで、その後にチマチマとしたおつまみ風の総菜をつまみ、そのままいい気持ちで寝てしまうというのが典型的パターンだ。

私の父は下戸で、お猪口 1杯は美味しいが、2杯飲んだら、心臓バクバクで死にそうになるという人なので、我が家には食事前に亭主が酒を飲むという習慣がなかった。元々、父は禅寺の生まれなので、そんな発想すらなかったようだ。

そんなわけで、食事というのは粛々と済ませて、さっさと後始末をし、後は各自読書をするなり、ラジオで落語を聞くなり、縫い仕事をするなり、好きにするというのが、身に付いてしまっている。だから、後始末はさっさと済ませられるにこしたことがない。

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2006年4月 7日

『国家の品格』 は、なるほど 「ベストセラー」 だ

最近あちこちのブログで話題になっている、藤原雅彦著 『国家の品格』 という本を読み始めた。講演を筆記したものをもとにしているので、やたら読みやすい。

下手すると、取手 - 上野間の常磐線の往復(約 90分)のうちに読み終えそうだったので、敢えて途中でカバンにしまったほどだ。

というわけで、今、第六章まで読み進み、最後の「第七章 国家の品格」というクライマックスを残している。一気呵成に読んでしまえばあっという間に読み終えそうだが、なんだか途中で「もう、いいや」という気になってしまったのである。

なるほど、「ベストセラー」というのは、こうあらねばならぬという要件を満たしているような気がするのである。

私は、世の「ベストセラー」という本をほとんど読んでいない人である。最近では、『バカの壁』というのも買わなかった。店頭でちょっと立ち読みして、「あぁ、今さら読むほどのことじゃないな」という気がしたので、買わなかったのだ。

一目見て、その内容に反感をもったとかいうのではない。もし反感をもったのだとしたら、逆にその反感をもつような内容の本が何故にそれほどまでに売れるのかを知りたくて、反射的に買ってしまっていただろう。

そうじゃないのだ。反感どころか、私は共感してしまったのである。その上で、「別に目新しい情報じゃない」と判断したのである。「この程度のことなら、とっくに知ってる」と。

今回の『国家の品格』というのは、「ちょっと自分も読んでおこうか」などと思いこんでいたために、さっさと買ってしまったのだが、本来ならばちょっと先に立ち読みして、『バカの壁』と同じような判断を下しておけばよかったような気がしている。

これが「ベストセラー」を作り出す人間心理というものだと、後で気が付いた。「自分と共通点を見いだせる人たちの多くが読んでいるようだから、高い買い物でもないし、取り敢えず買って読んでみようか」と思わせるのが、ミソである。

買って読んでみれば、別に新しい情報とか、斬新な切り口とか、はっとするような視点とか、そんなようなことが書いてあるわけじゃない。あちこちで言われているようなことをとても手際よくまとめると、こうなるということが書いてある。

自分で手際よくまとめられない人にとっては、格好の「入門書」になるだろうから、オススメしておいてもいい。しかし、これを読んだだけで、「そうだよね、本当にそうだよね、目からウロコが落ちたよね」と、感動するかなあというと、口ごもってしまう。

まだ最後の一章を読み残しているくせに、したり顔なことを書いてしまった。エラソーに聞こえたら、ゴメン。

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2006年4月 6日

「花散らし」 の艶っぽい元々の意味

気象予報士の森田正光さんが、「花散らし」の元々の意味というのを力説していた。最近でこそ「花散らしの雨」とか「花散らしの風」とか言うが、本来は別の意味なのだと。

広辞苑には、「3月 3日を花見とし、翌日若い男女が集会して飲食すること」という語義しか載っていないそうだ。

日本古来の言葉だから、「3月 3日」というのは、もちろん旧暦のお話である。今年の旧暦 3月 3日は、新暦でいえば 3月 31日だった。「花散らし」は西日本、とくに北九州で盛んな行事だったというから、確かに、桜の咲いて散る頃だ。

なんだ、元々は「花見の宴会」 のことだったのかと、単純に考えてはまずい。ここで少しも疑問に思わないというのは、あまりにもフォークロア的なアンテナが鈍すぎる。

3月 3日に花見をする。それはそれでいい。しかし、翌日に改めて飲食をするというのである。現代の花見は、「花見」と「飲食」をワンセットで行うのだが、「花散らし」という行事においては、この二つを別々に行ったのである。問題はそこにある。

初日に「オフィシャル」な花見をする。そして、翌日に「なおらい」的に飲食をともにする。そして、その間には夜がある。この行事に参加した若い男女は、その夜、家に帰ったのだろうか。

結論から言おう。帰るわけがないではないか。帰って出直すのなら、2日間にも渡るイベントを行う意味がない。帰らなかったのである。帰らなければ、何があったのか。そりゃ、決まりきっている。

多分、そこには歌垣的な光景が繰り広げられたのだろうと、私は考える。集団的な求愛の場になったのだろう。現代の合コン以上の盛り上がりだったと思われる。

なるほど、「花散らし」とはよくぞ言ったものである。日本語は、よくよく奥が深いのである。

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2006年4月 5日

「他人事」で「たにんごと」?

ずっと気になっていた日本語に「たにんごと」というのがある。「他人事」をそのまま読むとこうなるのだが、本来は「ひとごと」だろう。

「人事」と表記すると、「じんじ」と読みがちなので、区別のために「他人事」と表記するようになったのだろうが、いつのころからか「たにんごと」と、まんま読むようになった。

手元の 『明鏡国語辞典』で「ひとごと」を引くと、【人事(〈他人〉事)】という表記が出てくる。Goo 辞書の『大辞林』(第二版)でも同様だ。しかし、ATOK 16 では、「ひとごと」と入力すると 「人ごと」 というのがデフォルトで出てくる。

試しに Google で検索すると、「他人事」が 2,800,000件、「人ごと」が 877,000件、「ひとごと」が 285,000件で、「他人事」が圧倒的に多い。しかしこのケースでは、筆者が「ひとごと」と入力したのか「たにんごと」と入力したのかは、わからない。

ちなみに、「人事」となると 60,400,000 件と、桁外れになるが、多くは「じんじ」と読む用例なので、この場合の参考にはならない。

NHK の放送文化研究所のサイトに、これに関するかなり納得できる説明がある (参照) ので、以下に引用してみよう。

伝統的な語・ことばは 「人事(ひとごと)」 [ヒトゴト]とされ、多くの国語辞書が 【ひとごと】「人事」 を採っています。また、これについて国内の主な新聞社や通信社も、「ひとごと」 または 「人ごと」 の表記 (表現) を認めているだけで、「たにんごと」 「他人事」 については認めていません。このような状況の中で、NHKでも平成12年 (2000年) 2月に放送用語委員会でこの件について改めて審議しました。その結果、「タニンゴトということばは誤読から発生したもので、原則として使わない」 ことにし、従来通り 「表記は○ひと事 ×他人事 読みは○ヒトゴト ×タニンゴト」 と決めています。

このページでは、「たにんごと」 という読みが生じた背景について、以下のように述べている。

《もともと 「他人 (たにん) のこと」 を意味する語・ことばには 「ひとごと」 という言い方しかなく、この語に戦前の辞書は「人事」という漢字を主にあてていた。ところが 「人事」 は 「じんじ」 と区別できないので 「他人事」 という書き方が支持されるようになり、これを誤って読んだものが 「たにんごと」 である。》

なるほど、納得できる。近代になって、「人事」というのが組織内の人員配置を意味するようになってから、「ひとごと」と読む「人事」は肩身が狭くなってしまったので、「他人事」という表記が発明されたもののようなのだ。

ところが、「他人事」はどうやら戦後に一般化した表記で、歴史が新しいため、どうしても「たにんごと」と読みがちだ。誤解を避けるために新たな誤読を生じたという、なんともフラストレイティングなサンプルだ。

今や Goo 辞書にまで 「たにんごと」 という項目が加えられるという事態になってはいるものの、これはここ 50年ぐらいに出現した読み方で、なるほど、こなれが悪いはずである。

私としては、やはり「ひとごと」の読みで行きたいなあと思っているが、表記をどうするかはとても悩んでしまう。「人事」は「じんじ」と区別がつかないので避けたいし、「他人事」では誤読を生じがちだ。

そうなると、「人ごと」か「ひと事」なのかもしれないが、どうにもおさまりが悪い。どうしたらいいのだろう。現代日本語の大きな課題のような気がする。

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2006年4月 4日

結構難易度高い「初対面バトン」

最近、ちょっと疲れ気味で、頭が鈍くなっていて、ネタに困っていたところ、あらら姫さんから 「初対面バトン」 なるものが廻ってきたので、これ幸いと受けてみることにする。

ところが、このバトン、ちょっと難易度の高いバトンのようなのだ。下手に答えると、興醒めになりそう。頭鈍くなってるのに、ヤバイ。

【初対面バトン】

  • Q1. 初対面で特に気をつけていることは?

    必要以上にしゃっちょこばらない。必要以上にへらへらしない。

    仕事柄、初対面の人に会うことが多いので、相手をリスペクトして話を聞くこと。相手があまり話をしない時でも、雰囲気で話させてしまう。
     
  • Q2. 初対面で話す小話をひとつ教えてください。

    いきなり、小話なんて話す人、いるんかなぁ?

    こんなの、どう?

    「ある日、ピカソの家に泥棒が入って、ピカソ自身がその泥棒の似顔絵を描いてくれました。その絵を捜査に使うのと、即座に売り飛ばすのと、どちらが賢明でしょう?」

    「ピカソの絵じゃ、何捕まえるかわかんないよね」 なんて答えてくれたらいいけど、「ピカソは、デッサンも一流だったからね」 なんてマジに反応されたら、どうしよう。
     
  • Q3. 初対面ですぐ打ち解けられますか?

    案外人見知りだから、ちょっと時間がかかるけど、それでも、結局は打ち解けるぞ。
     
  • Q4. 一目ぼれは多いほうですか?

    大学に入って一目ぼれしたのが、現在の妻なのだ。
     
  • Q5. 初対面の相手と話して、うまくいった想い出のエピソードを教えてください。

    その昔、業界紙記者時代、米国のとあるパーティで、たまたまその道では知る人ぞ知る権威に出くわし、「あれま、私はなんてラッキーなんでしょ」 と思わず口走ったら (もちろん、英語でだぞ)、向こうがかなり気をよくして、ずいぶん率直にいろんな質問に答えてくれて、いい記事が書けたことがあったな。

    それからもう一つ。やはり米国で、ちんぴら風の黒人のアンチャンに、「金くれ」 と迫られた。「金やる理由なんかない!」 と突っぱねたら、「俺は腹減ってる。それが理由だ」 と減らず口を叩くので、「俺だって、腹減ってるんだ!」 とブチ切れたら、それ以上は迫ってこなかった。

    人間、腹が減ると、短気になりやすい。でも、今はもうトシだから、こんなヤバイ切れ方はしない。
     
  • Q6. では気まずかったエピソードを教えて下さい。

    あまり気まずかったというのはないけれど、後で考えて、もっと上手な対応があったかなあと思うような時は、かなりあるなあ。

    ものすごく頭の固い人にどう接するかは、かなり難しい。公式通りに接すると、失点はないけれど、その代わり、相手の印象にも残らない。ちょっとだけ 「破格の用法」 を交えるのがコツなんだけど、そのあたりの匙加減が難しいのだよね。
     
  • Q7. 【2006新生活特集】あなたがほしいプレゼントは?

    温泉一泊旅行券。後腐れなく消えてしまうモノがいい。
     
  • Q8. このバトンを回す5人を選んでください。

    えぇと、いつものように適当に転がしとくので、拾いたい人は拾ってください。
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2006年4月 3日

「暫金時隊」だって

川崎のマンションの、小学生が投げ落とされて殺された事件などを聞くにつけ、米国並みに、子どもは一人で外に出してはいけないという世の中になったのかと、嘆かわしい。

もはや、学校帰りにのんびりと道草を食って、日の暮れる頃にようやく帰宅するというのは、遠い昔のお話になってしまったのだろうか。

そんな風に思っていたところ、TBS ラジオの朝の番組で、南足柄市の「暫金時隊 (しばらくきんときたい)」というのが紹介されていた。

これは、市民一人一人が郷土のヒーロー「暫金時」になって、南足柄を犯罪のない町にしようというボランティアの運動だそうだ。小学生の下校時に辻々に立って声をかけたり、町をパトロールしたりしているらしい。

このボランティア活動の成果で、昨年 1年間の同市の刑法犯罪は、40%も減少したというから、確かに効果があったのだろう。

ラジオで紹介されているのを聞くと、下校時の小学生に積極的に声をかけている。最近では、小学生の方からも積極的な反応があり、市民生活にかなり溶け込んでいるようだ。なかなかいい雰囲気が感じられる。

ただ、私のような「道草大好き少年」にとっては、ちょっとうっとうしいオジサンということになるのじゃないかと、余計な心配をしてしまう。あちこち寄り道しようとする度に、「何してんの?」とか、「早くお家にお帰り」なんて、いちいち声をかけられたら、うんざりするかもしれない。

それでも「変なオジサン」にロングコートをはだけて変なモノを見せつけられたり、連れ去られたり、殺されたりするよりはマシということだろうか。やれやれ、やっかいな世の中になったものだ。

それにしても、この TBS の番組でレポートを担当した若い女性、「暫金時隊」の名前の由来の説明がとてもおぼつかなかった。

「『しばらく、しばらく』と言いながら、悪者をやっつける歌舞伎の登場人物」と、「郷土の英雄、サカタキントキ」を結びつけたネーミングなんだそうだ。

「『しばらく、しばらく』 と言いながら」 と言うのは、ちょっとなぁ。間の抜けたオッサンみたいじゃないか。「しばぁらぁくぅ~、しばぁらぁくぅ~」と言ってもらいたかった。それに、「サカタキントキ」にもがっくりだ。「さかたのきんとき」と、どうして言えないかなあ。

言うまでもないことだが、坂田金時は、まさかり担いだ「足柄山の金太郎」の長じての名前であり、渡辺綱(わたなべのつな)らとともに、源頼光の四天王と称された。

そして、その息子の 「坂田金平(さかたのきんぴら)」 は、親父以上の強力無双の豪傑で、キンビラゴボウの名のもとになった。一節には、金比羅歌舞伎とも関係あるとされる。

このあたりになると、そもそもかなり怪しげで、私は「きんぴら」、大好きである。

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2006年4月 2日

桜の魔力

「文明」と「文化」の違いといっても、それぞれ広義と狭義があって、時と場合によって使い分けられるので、一概には言えない。

私なりに直観的な言い方をすると、「文明」の垂れ流した汚物を、きちんと後始末できるのが、「文化」である。端的に言えば、ゴミをきちんと拾うモチベーションが「文化」だ。

なんで突然こんなことを言いたくなったのかというと、この時期、桜の名所といわれるところに積み上げらるゴミの山を見て、うんざりしてしまうからである。

近頃の花見は、どうやら使い捨てグッズという「文明の利器」で成立しているもののようだ。ビールはアルミ缶、酒は紙コップで供され、食い物の容器は、ビニールパックである。そして、それらの残骸は、ほとんど持ち帰られることがない。

よくてゴミ籠からはみ出して、周囲に散乱するか、悪くすると、桜の木の下に、残飯もろとも置き去りにされる。

私は若い頃から山登りやキャンプをするので、ゴミはすべて持ち帰るということを当たり前のように思ってきた。山に置いてくるのは「ウンコ」ぐらいのもので、それも、しっかり穴を掘って埋めてくる。

自然の中に分け入る種族の中では、山登り屋は(富士山のにわか登山者を除いて)案外きちんとしたもので、中には不心得者もいるが、多くはゴミの持ち帰りは当然のことと心得ている。

それとは対照的にマナーの悪いのは、釣り師である。そりゃあきちんとした釣り師も多いが、渓流釣りのポイントなどに行くと、コンビニ弁当の残骸が、残飯とともに盛大に放り出されているのを、よく目にする。あんなことをしていては、クマの餌食になってしまいかねない。

そして、その釣り師の何十倍も不心得なのが、夜桜見物の花見客である。

まあ、年に一度の浮かれどきだからどんなに羽目を外して騒いでも構わないが、帰る段になったらそそくさとモード・チェンジをして、自分たちの出したゴミぐらいは持ち帰ってもらいたいものだ。

サッカーの日本人サポーターは、スタンドのゴミ拾いまでするという模範的な「文化」を持ち合わせているのだが、その同じ日本人が、花見となると人が変わってしまう。

どうやら「夜桜」というのは、営々として築き上げた「文化」をも破壊するほどの魔力を秘めているものらしいのだ。

桜の木の下には死体もあるかもしれないが、それをいう以前に、残飯があふれかえっているのである。

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2006年4月 1日

サラ金 CM のサブリミナル効果

サラ金 CM のサブリミナル手法が、JARO (日本広告審査機構) の調査で明らかになり、今後こうした手法を一切使わないようにとの指導を、非公式に受けていた。

このサブリミナル手法、視覚効果ではなく、聴覚的な錯覚を利用した非常に巧妙なもので、なかなか気付かれなかった。

この事実は、どういう圧力がかかったのか知らないが、現在までニュースにはなっていない。しかし、このサブリミナル手法に初めて気付いて JARO にたれ込んだのが私の友人だったといういきさつがあって、その詳細を知ることになってしまった。

かねてから某巨乳系女性タレント(敢えて名を秘す)の隠れファンだった私の友人 F は、彼女の登場するサラ金 CM を、密かに毎回楽しみに見ていた(もう、オタクなんだから!)のだが、昨年夏のある日、妙なことに気付いた。

CM の最後のお約束コメント、「ご利用は計画的に!」が、「ご利用は継続的に」に聞こえたのだ。不思議な気がしたが、同時間帯で同じ CM が繰り返された時は、確かに「計画的に」と言っているので、単なる空耳と思っていたそうだ。

しかし翌週の同じ番組をみると、やはり「継続的に」と言っているように聞こえる一瞬があった。それで次に同 CM が繰り返された時には、全身を耳にして聞き入ったが、問題なく「計画的に」と言っているのだった。かなりミステリアスである。

あまりの不思議さに眠れなくなってしまった彼は、ビデオに録って確認しようとしたが、1度目は、CM をスキップする設定のままだったという、いかにもというドジで失敗。2度目にきちんと録画した際には、すべて問題なく「ご利用は計画的に!」だった。

それでも疑問が晴れず、オタク特有の執拗さで翌週の同じ番組も録画して再生してみると、確かに「ご利用は継続的に!」と聞こえるバージョンが、1度だけ発見された。

F は、録画した DVD のコピーを JARO に持ち込んだ。彼は広告雑誌の編集者なので、JARO に知り合いが多かったのである。微妙な問題だけに、JARO は極秘プロジェクトチームを編成して調査した。

その結果明らかになったのは、CM 撮影の際に、その巨乳系タレントが何度も 「ご利用は継続的に!」 と口走ってしまって、NG を連発。業を煮やした CM ディレクターがふと思いついて、10回に 1回のローテーションで NG バージョンを放映することにしたということだった。

この CM ディレクターは JARO の調べに対し、「"継続的に" と言っている彼女の口元の方が、よりセクシーでクラっと来るので、お蔵入りはもったいないと思い、つい出来心を起こしてしまった。サブリミナル効果については、思いもよらなかった」 と話したという。

JARO の指導により、その後のバージョンでは「ご利用は計画的に」というメッセージは専門のナレーターに任せ、さらに字幕にして放映している。

ちなみに、件の CM 撮影は、昨年の 4月 1日に行われたそうだ。そうか、なるほど。

【4月 2日 追記】

言うまでもないことですが、エイプリルフール・ネタということで、よろしく。

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