桜の魔力
「文明」と「文化」の違いといっても、それぞれ広義と狭義があって、時と場合によって使い分けられるので、一概には言えない。
私なりに直観的な言い方をすると、「文明」の垂れ流した汚物を、きちんと後始末できるのが、「文化」である。端的に言えば、ゴミをきちんと拾うモチベーションが「文化」だ。
なんで突然こんなことを言いたくなったのかというと、この時期、桜の名所といわれるところに積み上げらるゴミの山を見て、うんざりしてしまうからである。
近頃の花見は、どうやら使い捨てグッズという「文明の利器」で成立しているもののようだ。ビールはアルミ缶、酒は紙コップで供され、食い物の容器は、ビニールパックである。そして、それらの残骸は、ほとんど持ち帰られることがない。
よくてゴミ籠からはみ出して、周囲に散乱するか、悪くすると、桜の木の下に、残飯もろとも置き去りにされる。
私は若い頃から山登りやキャンプをするので、ゴミはすべて持ち帰るということを当たり前のように思ってきた。山に置いてくるのは「ウンコ」ぐらいのもので、それも、しっかり穴を掘って埋めてくる。
自然の中に分け入る種族の中では、山登り屋は(富士山のにわか登山者を除いて)案外きちんとしたもので、中には不心得者もいるが、多くはゴミの持ち帰りは当然のことと心得ている。
それとは対照的にマナーの悪いのは、釣り師である。そりゃあきちんとした釣り師も多いが、渓流釣りのポイントなどに行くと、コンビニ弁当の残骸が、残飯とともに盛大に放り出されているのを、よく目にする。あんなことをしていては、クマの餌食になってしまいかねない。
そして、その釣り師の何十倍も不心得なのが、夜桜見物の花見客である。
まあ、年に一度の浮かれどきだからどんなに羽目を外して騒いでも構わないが、帰る段になったらそそくさとモード・チェンジをして、自分たちの出したゴミぐらいは持ち帰ってもらいたいものだ。
サッカーの日本人サポーターは、スタンドのゴミ拾いまでするという模範的な「文化」を持ち合わせているのだが、その同じ日本人が、花見となると人が変わってしまう。
どうやら「夜桜」というのは、営々として築き上げた「文化」をも破壊するほどの魔力を秘めているものらしいのだ。
桜の木の下には死体もあるかもしれないが、それをいう以前に、残飯があふれかえっているのである。
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