トリックスターとしての 「イスカリオテのユダ」
『ユダの福音書』 の写本が発見されたというのは、キリスト教世界にとってはかなり大きなニュースだろう。何しろこれまで 「裏切り者」とされていたイスカリオテのユダが、実はイエスの「一番弟子」だったというのだから。
「パラダイム・シフト」とは、まさにこうしたことを言うのだろう。
元々私は、イスカリオテのユダにそれほどの嫌悪感をもっていなかった。それは、ユダが「裏切り」(あるいは従順な行為 ?)をはたらかなかったら、キリストの「救済」は成就しなかったとみられるからである。
十字架にかかり、死した後に復活するというのは、イエスがこの世で行った「人類救済」のストーリーのクライマックスである。つまり、イエスは十字架にかかる必要があった。そして、その肉体は一度死ななければならなかった。
しかも、それは弟子の「裏切り」というとてもショッキングな行為による、むごたらしいものでなければならなかった。そのような「死」であったればこそ、その後の「復活」がまさに栄光につつまれた、全人類の救済を意味するカタルシスとなったのである。
『ユダの福音書』によると、イエスはユダに「私の衣となっている男をお前は犠牲に捧げるだろう」と告げたという。「私の衣となっている男」 とは、とりもなおさず肉体としてのイエスである。
肉体は霊の衣にすぎないというコンセプトで、このあたりが、霊と肉体の二元論を重視するグノーシス派の影響が強いとみられる所以だろう。
これを文字通り受け止めれば、イエスは自らの魂を肉体の呪縛から解放するために、進んで十字架にかかったのである。ユダにはその十字架にかかる契機を作るように命じたのだと解釈することができる。
つまりユダの「裏切り」なしには、肉体としての「イエス」から、全人類を救済する偉大なる「魂」としての「キリスト」に「パラダイム・シフト」することができなかったのだ。
イスカリオテのユダの行為が、通説通り「裏切り」だったにせよ、『ユダの福音書』にあるように「命令に忠実にしたがった結果」だったにせよ、それによって、イエスの「救済」が成就したことに変わりはないのである。
必要なのは「救済の成就」であり、ユダはそのために「必要な役割」を演じたのだ。そして、そのことによって、ユダ自身も重い「十字架」を背負うことになったのである。ここが大切なところである。
とても生臭く勘ぐると、今回の『ユダの福音書』の発見は、国際社会でのユダヤ人の役割を肯定的にみることにつながり、シオニズムに塩を送る効果を発揮するだろう。(うっ、オヤジギャグ!)
それだけでなく、太平洋戦争における日本が自ら敗戦国となり、重い十字架を背負うことによって、アジア諸国の独立を促すことになったという視点にまで力を与えることに通じる。
十字架を背負った「悪役」は、あるいはとてつもないトリックスターだったかもしれないのだ。
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