何故殺してはいけないか その2 「ポア論」
昨日、「何故殺してはいけないか」というエントリーで、私は、"「殺す自由」 は 「生きる自由」 を決して上回らないから" と書いた。
しかし、そう遠くない過去に、「殺してあげる」ことを善しとする集団があった。そう、「ポア」という名で、「意識を高い世界へと移し替えること」として、殺人を犯した集団である。
彼らは 「輪廻転生」 というコンセプトを前提としている。人の魂は、輪廻転生で何度も生まれ変わり、異なった経験を積み重ねることによって、より高い次元に達するという考え方である。
つまり、人の生きる目的というのは、魂を高めることなのだ。そのために、人はただ一度の人生だけでは足りず、何度も生まれ変わる。
私も仏教を信じるもののはしくれとして、輪廻転生のコンセプトは信じている。だから、「肉体の死」は「魂の死」ではないと考えている。魂はいつまでも生き続ける。そして、何度も新しい肉体の衣をまとって生まれ変わる。
「ポア」というのは、真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)の教義からすると、「悪業を積み続ける魂を救済するために殺害すること」 と説明され、麻原彰晃の説くところによると必ずしも罪ではないばかりか、魂の救済に通じる行為であるとされた。
真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)は、「小乗(ヒナヤーナ)」、「大乗(マハーヤーナ)」より、さらに高次元の仏道であるとされている。だから、小乗仏教でも大乗仏教でも罪とされる殺人を、時と場合によっては推奨すらするのだ。
しかしこれは「究極の余計なお世話」である。仏は衆生に決して「悟り」を強要しない。それは白隠禅師の説かれたように、衆生は既に「仏」であるからだ。既に成道し、悟りを得た「仏」なのだ。それ故に「覚者」である衆生に、仏は「迷う自由」を与えている。
衆生は、とことん無明の道を彷徨い、地獄の底まで落ちる自由をもっているのである。地獄の底の辛酸を経験した覚者の悟りは、苦もなく優等生的に悟ってしまった覚者の悟りより、ずっと「コク」のある味わい深いものだろう。
その醍醐味を味わう自由を、「ポア」という行為は奪ってしまう。「生きる自由」とは、「迷い、そして悟る自由」である。人並み以上に迷ったからといって、親切ごかしに殺されてはたまらない。
「仏にあっては仏を殺し、親にあっては親をも殺す」と、禅宗では語られるが、それはあくまでメタファー(比喩)である。肉体に血を流させる殺し方というのは、決定的に想像力の欠如した手法である。
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コメント
そう!
あくまでメタフォアーなのですよね。
それを、現実になそうとする。
それがオウム。
抽象的な概念を実践して見せる
そのために、「空中浮遊」などという虚構を産出さなければいけなくなる。
投稿: alex99 | 2006年4月14日 03:44
alex さん:
あれは、オウムの幼児性なんですよね。
幼児レベルの魂のおっさんに、
「魂を救済するため」 なんて言って殺されたんでは、
殺された人が気の毒です。
「空中浮遊」 なんていうのは、
スピリチャル・レベルで経験している人が、
いくらでもいることです。
見え見えの写真を撮るほどのことじゃありません。
(結跏趺坐のままジャンプするのは、私でもできます)
投稿: tak | 2006年4月14日 09:19