ブログと蕎麦屋の共通点
ブログの世界というのも、移り変わりが激しい。以前にも書いたが、ブログの平均寿命は 38日やそこらということらしい。(参照)
それほどでなくても、長い間毎日巡回していたブログが、突然更新されなくなり、何ヶ月かの放置のあげく、いつの間にかサイト自体が消滅してしまっているというのも稀ではない。
祇園精舎の鐘の声ばかりではなく、ブログの世界も、人の世の諸行無常の様相をそのまま反映している。まさに哀れなものである。
突然だが、蕎麦好きというのは、蕎麦屋の店構えを見ただけで、うまい蕎麦を食わせる店かどうか、即座に見分けることができる。本当に、ごく当たり前にできる。
ほんのたまに、まったくそれらしくない店構えのくせに立派な蕎麦だったり、逆に見かけ倒しだったりすることもあるが、多分、9割以上の確率できちんと見分けることができる。
それと似たようなもので、いい味を長く続けてくれそうなブログというのも、ちょっと読んでみただけで、なんとなくわかるような気がしてきた。まだ、うまい蕎麦屋を見分けるほどの確率ではないが、近頃大分、この嗅覚じみた感覚も研ぎ澄まされてきたような気がする。
なんというか、蕎麦屋の店先の雰囲気というのが、その店主の趣味をそこはかとなく表現しているようなもので、ブログの第一印象というのも、その管理人の志向性をかなり反映している。まず感じられるのは、「身体性」といったようなものだ。
面白いブログというのは、言葉が自然にあふれ出ている。無理矢理にこねくり上げたような、硬直した言葉じゃない。いわば、言葉が身体性に沿っているが故に、心地よいのである。
毎日巡回したくなるブログというのは、主義主張が共通しているというよりも、この身体性の共通したブログだという気がする。
ブロガーの身体性とは、「日常的に表現する身体」である。べつに芸術家の身体性である必要はない。年に何度か渾身の蕎麦を打ってみせる偏屈な職人よりも、毎日それなりの蕎麦を食わせてくれる蕎麦屋の方が、ありがたいようなものだ。
いい味の長続きするブログというのは、言葉に心地よいリズムがある。一方、リズムのないブログというのは、毎日毎日、決まり切ったトーンで書かれているブログである。読む前から結論が分かり切っているのはまだいいとしても、レトリックまで見え透いてしまうのは、つまらない。
リズムのないブログというのは、言葉が身体性に沿っていないか、筆者の身体性自体が硬直しているかのどちらかだ。
身体性も蕎麦打ちも、季節や環境で変わるのが当然なのだ。変わらない文章というのは、要するに、書き手の身体性が鈍いのである。読む方も退屈するが、書く方も疲れるだろうなあ。
書いてるうちに疲れが消えてしまうようなテキストというのは、多分、読む方にも心地よいんじゃあるまいかと思うのである。
というわけで、私もせいぜい「疲れないテキスト」を志向して、このブログを続けていきたいと思っているわけなのだ。もし、読者がここまで読んで、どっと疲れるようなら、私のテキストもまだまだだということだ。
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コメント
takさん、ブログの寿命を左右する要因には、ブログのテーマというのもあるのではないでしょうか。
私は「家づくり」なんてテーマではじめてますが、実際に家ができてしまうとすっかりネタに苦労してしまうわけです。
それでもまだぽつりぽつりと続けていますが、家づくりブログの大半は内容が面白かったとしても寿命は限られているようです。
そのほかにも、ダイエットブログとか、就職活動ブログとか、寿命が限られていそうなものはありますよね。
投稿: garaika | 2006年4月16日 14:32
garaika さん:
なるほど。
時限立法みたいなテーマもありますね。
達成されてしまうと、それでおしまいというわけですね。
その後の様子を書くというのも、ちょっとモチベーション的に苦労しそうだし。
投稿: tak | 2006年4月16日 21:10