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2006年5月に作成された投稿

2006年5月31日

「雨の中の私」をめぐる冒険

「雨の中の私」という心理テストがあると知った。非行少年の家庭環境や養育歴などを探る精神分析的手法として、各地の少年鑑別所で採用されているもののようだ。

最近、雨の中の自画像を描かせると、ずぶ濡れの絵を描く子どもが増えていて、親から庇護された体験の乏しさを表すという。

このことについては、5月13日付毎日新聞の社説で、論説委員の三木賢治氏が取り上げている。「雨の中ずぶ濡れの子は、無責任な親のせいだ」という、比喩的ながらそのものズバリのタイトルだ。

このテストについて、三木氏は以下のように説明している。

とくに親子関係を通じた安全感覚があぶり出されるといわれ、一般には大切に育てられ、親に守られている子供は当たり前のように傘をさす姿を描く。一方、親から庇護(ひご)された体験に乏しい子供は、自分を防御する力が不十分なため、雨にもなすすべがなく、ずぶ濡れになる自分を描く。ストレスにさらされた痛々しい心の内の表れ、と考えられる。

また、「少子化で、補導・逮捕の人数には歯止めがかかったのに、依然として人口比が高いのも気がかりだ。非行に走る少年の割合が増えているからだ」「養育上の格差というより、親の格差というべきかもしれない」とも述べている。

この話題への反応の一つのパターンとして、「だから、愛国心だの教育基本法の改正だのという前に、人間性を重視する教育、政策が必要だ」という主張がある。なるほど、とてももっともらしく聞こえる。

しかしその主張に対して、「ちょっと待てよ」と言うのは、より自然なことだ。だって、考えてみれば、現在増加中といわれる 「雨の中でずぶ濡れの私を描く子どもたちの、その親は、愛国心を教えない今の教育基本法で育てられた世代なのだから。

今現在の状況の方に問題があるのではないかと考える方が、より自然である。

団塊の世代、そしてその少し年下の私の世代あたりまでは、戦前派もしくは戦中派の親に育てられた。我々の世代の親の多くは、無条件で子どもを愛してくれた。体罰としてぶっ飛ばすことがあっても、それは強い愛情ゆえのことである場合が多かった。

もしかしたら、「愛国心」と「子どもを愛する心」というのは、かなり同じ根っこのものなのかもしれない。

「子どもを愛する心」と「子どもに『いい暮らし』をさせるために教育ママになること」との区別がつかない人と、「愛国心」の対象となる「国」と「国家の現政治体制」の区別がつかない人との間にも、共通性があるような気がする。

「何がどうあっても、お父さんとお母さんは、お前の味方で、体を張ってでもお前を守るからね」という気持ちをもっている親の子どもは、概ね幸せである。国の場合も同じである。

ただ、自分の子どもばかりを思うあまり、子どもの個性を無視した無茶な要求をしたり、他の子どもに邪険に当たり始めたら、子どももねじくれる。これもまた、国の場合と同じである。愛するにも、見識は必要なのだ。

改めていうまでもないほど、とても単純なお話なのだが、妙な理屈をこね出すと、この単純なお話が単純でなくなる。

ちなみに私自身の場合は、親からちゃんと傘を買ってもらっても、必ずどこかに置き忘れて、ずぶ濡れになってしまう親不孝な子だった。

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2006年5月30日

議事録というもの

こう見えても、私は団体勤務が長いから、議事録を作成するのは得意である。なにしろ団体というのは、会議を開いて次の会議をいつにするかを話し合うのが主な仕事だから。

まあ、これは半分冗談にしても (つまり、半分は本当)、議事録作成のテクニックによって、団体の仕事の能率は、かなり左右される。

私なんぞは自慢じゃないが、会議の場にノートパソコンを持ち込み、論議の内容をリアルタイムで入力して、会議が終わったら、即プリンターにつなぎ、議事録をプリントアウトするという芸当を、いとも当然のごとくこなしてしまう。

しかも、その議事録は、かなりシンプルである。発言者が誰であったかなんぞは記録しない。しかも、その発言の要旨をかなり短く圧縮して、要旨のみを簡潔に記録する。各議題の結論だけはしっかりと明確にしておくので、後で読んでもわかりやすい。

なにぶん、元は業界新聞記者上がりなので、発言の要旨をなるべく短くまとめるなんていうのは、お茶の子さいさいなのである。余計な修飾語なんていうのは、一切省いて、結論だけ書き残す。

このスタイルで苦情が出たことなど、一度もない。議事録なんてものは、後で読んだものが、その会議で何が決定されたのかということさえわかればいいのだ。寄り道の径路がくどくど書いてあっても、紙の無駄で、うっとうしいだけである。

インターネットにアップしてあるいろいろな議事録をみると、とくに政府系審議会や地方公共団体の議事録なんかに多いのだが、録音された発言をテープ起こしで、ただ単に逐語訳的に文字に移したとしか思われない芸無しのものが、かなり多い。

「ご指名でございますので、議長をつとめさせて頂きますが、なにぶん、不慣れなものでございますので、委員の皆様のご協力をいただきながら、つつがなく進行させていきたいと存じますので、何卒、よろしくお願い致したいと思います」なんていう議長のほぼ無意味な挨拶を、まんま載せている議事録もある。

録音テープを何度も何度も巻き戻しながら、こんな下らない発言を聞き取って文字にするなんていう作業を大まじめにしている公務員というのは、はっきり言って給料泥棒である。

まあ、そんな類の議事録を読むと、その組織がいかに非生産的な会議をしているかというのがありありと暴露されて、それはそれで意味がなくもないのだが。

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2006年5月29日

母と子の絆は、一服盛った先にある?

先週の土曜日、高校時代の同級会に出席してきた。私の出た高校は山形県の庄内にあるのだが、関東在住の同級の連中が、年に 1度集まっているのである。

以前、外資系団体に勤務していたとき、「同級会」のことを英語で何と言えばいいのか、迷ったことがある。

私の部署のスタッフが、英国から出張してきたスタッフと夕食をともにすることになり、私は、「今日は年に 1度の同級会に出席しなければならないから、一緒に行けない、ごめんね」と言いたかったのだが、「同級会」の英語が出てこない。

苦し紛れに "high school classmate meeting" と言ったら、それはそれで十分に通じたのだが、英国人は "classmate reunion" なんていうらしいと、その時知った。"Reunion" (再結合)とは、けっこうご大層な言い方をするものである。

しかし、これはそれほどのビッグワードではないらしい。そういえば、ポール・サイモンの 「母と子の絆」 という曲の原題は、"Mother and Child Reunion" というものだ。「母と子のリユニオン」 ということだが、この場合の "reunion" は「再会」とでも訳すのが適当だろう。

この曲、感動的なテーマを歌っているのかというと、どうもそういうわけでもないらしい。歌詞を見ても、何やら抽象的かつ思わせぶりで、よくわからないところがある。

ポール・サイモンが自ら語っているところによると、この "Mother and Child Reunion" というのは、レコーディングの合間に入った中華レストランのメニューにあった料理の名前だというのである。

どんな料理かというと、鶏肉と卵を組み合わせたものだったらしい。何だ、日本の「親子丼」と同じ発想じゃないか。

そういう目で歌詞を眺めると、なるほど、そんな気もする。何しろ、歌の初っぱなが、"No I would not give you false hope" (僕は偽りの希望なんてあげないよ) というのだから。

それから、問題は次の部分である。

But the mother and child reunion
Is only a motion away

(でも、母と子の再会は、ちょっとした所作の先にある)

この "only a motion away" を、私は長い間 "only a potion away" (一服盛った先にある) と聞き違えていた。きっと、「親子丼」に気を取られすぎていたせいだと思う。

私が聞き違いをしていたのは、近頃のように、親による子殺しが頻発するような、殺伐とした時代じゃなかったし。

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2006年5月28日

コンパクトな車が好きだ

実はこのほど、車を買い換えた。最近まで、トヨタの先代「イプサム」に乗っていたのだが、マツダの「デミオ」にしたのだ。

我が家の狭い駐車場に、娘達の車を含めて 3台押し込むので、コンパクトな車にする必要性に迫られたのだが、私はどうやら、小さな車できびきび走る感覚が好みのようだ。

これまで、3列シートの RV といわれる車種に、3台続けて乗ってきた。平成元年に、三菱の初代「シャリオ」にしたのを皮切りに、同 8年頃からトヨタの「エスティマ・ルシーダ」、そして、同 13年頃から、「イプサム」と変わったのである。

当時は、家族 5人に、犬 1匹、猫 2匹を乗せて、民族大移動のように帰郷したり、ファミリー・キャンプにでかけたので、どうしても「大きな車」が必要だった。しかし、普段は自分だけで乗るので、なんとなく無駄な気もしていたのである。

1リットルあたりの燃費は、シャリオが 約 8km、ルシーダが約 6.5km、イプーが約 9km といったところだった。しかし、やっぱり私としては、リッター 10km はいってもらいたい。とくに、最近はガソリンが高いので、その思いは強まる一方である。

それに、近頃は家族で揃って車に乗って移動するということが滅多になくなってしまった。3人の娘も、それぞれ運転免許を取得してしまったし。さらに、犬が死んでしまって、ペットは猫 2匹だけになった。

こうなったら、コンパクト・カーにしない理由はない。ようやく私は、小さな車体できびきび走る感覚に立ち返ったのである。

近頃のコンパクトカーの性能というのは、なかなかのものだ。加速はいいし、高速道路でも軽い気持ちで高速安定走行ができる。

20数年前に購入したスプリンター(1200cc)が、高速道路で追い越しのために時速 115km を 10秒以上維持すると、エンジンルームのあたりから、なにやら焦げ臭い臭いがしてきたのを思えば、雲泥の差だ。

私は、これからずっと、2000cc 以上の車のオーナーになることはないだろうと、断言できる。

高校時代の同級会に出席して、夜中に帰宅。眠くてたまらないので、今日のところは、これにて失礼。

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2006年5月27日

デバイスと身体感覚

今月 13日にケータイを洗濯機で洗ってしまって、2年 2か月ぶりに機種交換(参照)をしてから、ちょうど 2週間めである。

今度の機種のデジカメ機能は、230万画素あるので、かなり使い物になる。和歌ログの写真を撮るには重宝しているが、本当に使いこなすには、まだまだ慣れが必要だ。

私のもう一つのサイト「和歌ログ」は、写真と和歌のコンビネーションで、何かを表現しようというか、はたまた、ただ単にのんびりしようというか、とにかく道楽的な試みなのだが、要は毎日毎日、写真を 1枚と和歌を 1首ひねり出さなければならないのである。

それで、今月前半まではどこに行くにも、カシオの Exilim というデジカメを持ち歩いていた。性能は 320万画素、光学 3倍ズームという、今となってはありふれたレベル以下なのだが、何しろ小型なのでとても重宝していた。

ところが今度のケータイは、230万画素、光学 2倍ズームと、デジカメには劣るが必要十分な機能なので、仕事での外出などの時にはデジカメを持たず、すべてケータイで撮影することにしたのである。

初めはどうせ安物のカメラの代替なのだから、ケータイで十分と思っていた。ところが、これが全然勝手が違うのである。「弘法筆を選ばず」というが、素人カメラマンは、カメラを選んでしまうのだ。

何が違うと言って、被写体に向かってケータイをかざすという行為に、拭いがたい違和感がある。

デジカメはさすがに、「撮影する」という行為に絞って人間工学を意識しているから、片手でもある程度思い通りの撮影ができる。しかしケータイはそうはいかない。

とくに、和歌ログの写真は横位置の構図を基本としているので、ケータイを横に構えることになる。縦に構えるのなら街中でいくらでも見かけるが、横に構えるというのはなかなか見かけない。それはそもそも、ケータイを横に構えるというのが、メチャクチャやりにくいからだ。

撮影というのは、機材に頼っているようでいながら、実は、身体性に密着した作業なのだということが、しみじみわかった。だからプロのカメラマンは、いくらデジカメを使っても、ファインダーを覗き込んで撮影するという、昔ながらの身体感覚を捨てないのだろう。

そういえば私もデジカメを使い始めた当初は、液晶を使わず、ファインダーを覗いていた。液晶を眺めて撮影できるようになったのは、液晶の性能がアップした現在の機種に買い換えてからである。

ファインダーから目を離して、液晶を眺めて撮影するという感覚にさえ、慣れるのに手間がかかったのである。ましてや、真ん中で折れ曲がったケータイを横ちょに構えて被写体に向けるなどというのは、全然ピンとこない。

ケータイで取った写真というのは、だから、とてもよそよそしいのである。自分が自分の視線で映したものという気が、あまりしない。「写した」というよりは、単に「写った」というイメージなのである。

ケータイ写真に自分のきちんとした意図を投影させるためには、この一種独特な身体感覚に、かなり慣れなければならないと思っていたところ、この機種は、液晶表示の部分を 180度回転させて (というか、ねじって) 折りたたむことができるということを発見した。

つまり、こうしてソリッドにしてしまえば、普通のデジカメのような感覚に近づけることができるのである。それでも、このポジションにすると、誤動作を避けるためか、サイドについたボタンを長押ししないとシャッターが切れないという問題があり、これはこれで感覚が狂ってしまう。

そんなこんなで、ケータイで撮った写真と比べると、デジカメで撮った写真が(実は大したことないのに)、かなりいい写真に錯覚してしまうのだ。これでは、「ワープロで書くと、文体が変わってしまう」 なんてことを言う人を笑えない。

私は原稿を書くのに手書きからワープロに変わった時、それほど違和感はなかった。しかし、撮影というのは、シャッターチャンスを逃さないことなど、かなり身体感覚的な要素が大きいから、慣れるのが大変なのだろうと思う。

ただ今回の問題は、手書きから性能のいいワープロに移行して、その後、突然性能の落ちるワープロを使うことになった場合の違和感に似ているといっていいかもしれない。

ワープロを使うことに初めから抵抗がある人というのは、文章を書くという行為が、単にテキストを作成するというよりも、自筆の中に自分の身体性を投影するという意識を強く持っている人なのかもしれない。

その場合の表現とは、「テキスト」のみならず、筆跡という「イメージ」とのコンビネーションによるものということになる。だとすると、原稿が活字になった時点で、表現のかなりの部分は失われていることになるのだが。

もしかしたらワープロも将来的に、筆者固有の筆跡をも再現するという方向に向かうことがあるかしれない。「色紙作成用ワープロ」とか、あるいは、「従来のワープロ、ひいては活字文化は、オリジナル表現のかなりの部分を損なっていた」だとか。

それを実現するには、かなりのメモリー容量が必要になるだろうが。

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2006年5月26日

煙草の煙って、かなりしつこい性格のようだ

新幹線内販売員の受動喫煙、勤務時間の8割」 というニュースに、「へぇ!」 と驚いた。だって今や、喫煙車両の方がずっと少ないはずなのに、どうしてそうなるんだ?

よく読むと、喫煙車両から隣の禁煙車両内に煙が流入し、浮遊煙が基準の約 3倍になることもあるらしい。へぇ、そうなんだ。

私は以前、「音も煙も、垂れ流しということに関しては同じ」ということを書いた(参照)。スモーカーは、電車の中でウォークマン(今なら iPod かな?) のヘッドフォンから漏れてくる「シャカシャカ音」を迷惑がるくせに、自分の垂れ流す煙が迷惑の元ということには無頓着すぎるという趣旨である。

私はそこで、"「シャカシャカ音」や騒音を迷惑がるならば、自分もタバコを止めなければならない" と書いた。「音も煙も、垂れ流しということに関しては同じ」だからである。しかし、煙の垂れ流しは、音より始末が悪いとわかった。

新幹線のある特定の車両に乗った全員が iPod を最大ボリュームで聞いていても、隣の車両まではその「シャカシャカ音」は(多分)聞こえてこない。しかし喫煙車両の煙(浮遊粉塵)は、確実に隣の禁煙車両まで流れ込んでしまうというのである。

以下、「週間 OCN スペシャル」 の記事より引用

東京大学大学院の研究生らが新幹線車内の浮遊粉塵濃度を調査。喫煙車が満席だと、禁煙車内の濃度も国の基準の約3倍になると指摘した(乗降時や検札、車内販売などで自動扉が開くたびに喫煙車の煙が禁煙車に流れ込むという)。

煙草の煙は、iPod の「シャカシャカ音」よりずっとしつこいようなのである。

こうなったら、JR も全面禁煙に踏み切るのが最善だと思うのだが、航空機との競合があって、そうもいかないらしい。「飛行機だと煙草は吸えませんが、新幹線なら喫煙車両がありますよ」と言いたいようなのだ。

しかし今どきは、スモーカーでさえ「新幹線の喫煙車両は煙がモウモウでたまらん」と言う人が増えてるけど。

全面禁煙が無理ならば、禁煙車両と喫煙車両の間を、行き来ができないように遮断すればいい。喫煙車専用車掌は、ヘビースモーカーになってもらう。喫煙車両では車内販売の恩恵にあずかれなくなるが、そのくらいは我慢してもらおう。

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2006年5月25日

まだ「梅雨」じゃないらしい

数年前までは、「今年の天気はおかしいね」が決まり文句だったが、最近では「この頃の天気はおかしいね」に変わってきた。天気のおかしいのは、今や毎年のことになった。

今年も豪雪の冬と涼しい春が終わると、今度は雨続きの 5月で、「もう梅雨なんじゃないの ?」が挨拶代わりになっている。

しかし、昨日のラジオで気象予報士の森田正光さんが語っていたところによると、これはまだ「梅雨」ではなく、単に「ぐずついたお天気」としか言いようがないのだそうだ。気象の世界も、いろいろ面倒なようなのである。

知らなかったのだが、森田さんによると、気象庁が 「梅雨入り」 について言及し始めたのは、1963年のことで、しかも、正式に「梅雨入り宣言」を発するようになったのは 1986年からと、意外に最近のことなのだそうだ。

そして 5月中の梅雨入り宣言というのは、歴史上この 1963年しかなく、それ以後は、すべて 6月以降なのだという (これは多分、関東のお話だと思う)。

1963年というのは、今年のように 5月頃から雨が続いたので、マスコミにさんざん「もう梅雨なんじゃないの?」とせっつかれているうちに、気象庁もなんだか面倒くさくなったようで、つい「梅雨に入った」とかなんとか言っちゃったというのが真相のようなのだ。

しかし、それ以後は気象庁の梅雨入り宣言も慎重になり、オホーツク高気圧と太平洋高気圧のせめぎ合いによる梅雨前線が生じないと、「梅雨」 とは言わないようになったらしい。そして、今年のケースでは、オホーツク高気圧というのが、まだ発生しておらず、この付近は、まだ低圧帯なのだそうだ。

というわけで、今年のこのうっとうしい 5月は、まだ「梅雨」というには当たらないというのが、気象専門家の共通した見解ということのようなのである。

そうなると、我々素人には、「5月にこんなに雨が続いて、その上に、まだ 6月になって『梅雨』が来るのか !?」ということになり、かなりストレスなのである。

しかし、もしかしたら気象というのは自然の帳尻合わせというのをよくするもののようだから、5月のうちに十分雨は降らせたというので、6月以後は「空梅雨」ということになるかもしれない。とにかく、近頃は気象庁が「梅雨入り宣言」をすると晴れが続くというジンクスがあるぐらいだから。

とは言いながら、とにかく「この頃おかしい」お天気のことだから、何があっても不思議ではない。覚悟だけはしておこう。

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2006年5月24日

空気を読める中国人

広島から帰ってきた。往路の新幹線では、「ハイパーテンションおしゃべり」のオバサン 3人に悩まされたが、帰路では、中国人観光客の声高なおしゃべりが車内に鳴り響いた。

何の因果か、今回の広島出張は往復ともに、かなり非日常的なレベルのおしゃべりに遭遇してしまったわけだ。

広島駅の新幹線ホームに、6~7人の一団がいた。大きなキャスター付き旅行バッグを持っているので、外国からの観光客とわかる。言葉から察するに、どうやら中国人のようだ。

「やばい!」と私は思った。ホームでは、既にそれぞれの号車ごとに乗車する列が作られている。しかし、その中国人たちは、それらの列とは無関係なところに固まって、呑気な顔をしている。

中国人は列に並ぶということをしない。そして列車が到着すると、列とは関係なく我先に乗り込もうとするということを、私は経験的に知っている。そこで、列に並んでいる日本人とトラブルが発生しなければいいが。

それに中国人というのは、おしゃべりの声が大きい (参照)。車内はうるさくなりそうだぞ。広島に来るときも、ハイパーテンションなオバサン 3人組で、さんざんうるさかったのに。

ほどなく、のぞみ号がホームに到着し、ドアが開いた。3~4人の人が降りて、列の先頭が乗り込もうとすると、案の定、大きなキャスター付きバッグをゴロゴロと転がらせて、3人の中国人がどっと割り込んできた。

幸いにも、その列に並んだ日本人はかなり穏やかで、何の問題もなく彼らを先に乗り込ませた。いや、穏やかというよりは呆気にとられて、何が起きたのか理解できなかったという方がいいかもしれないが、とにかく、トラブルは発生しないで済んだ。

それに割り込んで来たのは、6~7人の一団のうちの 3人だけで、残りは列の一番後ろに付いて、ごく普通に乗車したようである。指定席なのだから、何も我先に急いで乗り込むことはないと、わかっていたようだ。これが自由席の車両に並んだ列だったら、どうなったかわからないが。

つまり、中国人の一団のおよそ半分は、「空気を読む」ことを知っていたわけだ。「どうやら、ここでは列を作って整然と乗り込む習慣があるようだ」と察したのである。しかし残り半分は、そんなことには無頓着に、いつものようにどっと入り口に殺到したというわけだ。

そして、新幹線の車内でも、この「空気を読めない」3人の声高なおしゃべりが鳴り響いたのであった。しかもこの 3人は、通路を隔てた座席に別れて座ったので、とにかく大きな声でしゃべるのである。

彼らは大阪で下車してくれたので、車内はほどなく静かになり、ほっとしたのだった。

中国人のおよそ半分を占めるらしい「空気を読める層」が、今後増加してくれることを望まずにはいられない。それが国際平和を守ることになると、私は確信する。

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2006年5月23日

ハイパーテンションおしゃべり

昨日から広島に来ているが、朝の新幹線で、東京から京都までの 2時間以上、間断のないおしゃべりを続けるオバサン 3人組がいた。

機関銃のごとき早口 3人が、競い合うようにピシャリピシャリと警句を連発しあう。周囲にはうるさくてたまらないが、見方を変えれば、男には決して真似のできない見事な芸当だ。

話の内容は、聞く気がなくても嫌でも聞こえてくる。旦那を家において、女同士 3人の気晴らし旅行をしているようで、日頃の鬱憤を思う存分語り合っているのである。

もし、私の妻が毎日毎日あんな調子でものすごいおしゃべりを仕掛けてきたら、私は 3日経たずに神経衰弱になると思う。だから多分、あのオバサンたちは、家庭ではおしゃべりの衝動を抑圧し、耐えに耐えているのだろう。

その鎖の解き放たれた新幹線の座席では、3人とも、ここぞとばかりにしゃべる。とにかくしゃべる。彼女らにとっては桧舞台のようなものだから、何しろ気合が入っているのである。

ただでさえおしゃべりなのに、さらに気合を入れているのだから、ものすごい相乗効果である。3人とも、自分の発する辛らつな警句に、間髪をおかずに警句で応えてくれる相手がいることが、うれしくてたまらないようだ。水を得た魚とは、まさにこのことである。

ただ、あれはもう「会話」 と呼べるようなものではない。いわば「おしゃべりの阿修羅道」である。おしゃべりの目的は、何かを掘り下げるということでは、さらさらない。ただひたすら「おしゃべりによる高揚感」を維持し、さらに高めることにあるようだ。

だから、ハイな状態を維持するためには、おしゃべりの内容はハイパー・ダイナミズムで変わっていく。どんなきっかけでどんな話題になるのか、傍では到底付いていけない。まあ、付いていったところで、どうなるというものでもないが、嫌でも聞こえてくるのだから、仕方がない。

京都でこの 3人が降りると、車内は台風が過ぎ去ったように、一挙に静かになった。彼女らは、旅行の間中、哲学の道でも祇園でも大原でも、どこででもただひたすら「ハイパーテンションおしゃべり」を続けて、すばらしい気晴らしをするのだろう。

周囲はたった2時間で、すっかり疲れてしまったが。

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2006年5月22日

「ソフトバンクモバイル」 への抵抗感

私は現在、ボーダフォン・ユーザーである。最初はドコモだったのだが、家族割引が大きいという理由で J-phone に変え、それから自動的にボーダフォンということになった。

それが、今度はまた自動的に「ソフトバンクモバイル」になるのだそうだ。私は 「ソフトバンク」 を選んだ覚えなんてないのに。

まったく複雑な気分である。私がソフトバンクに好印象を持っていないのは、昨年 6月 10日のエントリーで書いた通りである。できることなら、「ソフトバンク」 なんていうブランドのケータイは持ちたくないと思うのだ。

前回、J-phone がボーダフォンに変わったときですら、ちょっとした違和感があったのだ。この違和感というのは、日本のユーザー全体にあったもののようで、ブランドが変わった途端に、ボーダフォンは日本市場で一人負け状態を現出したのだった。

私はこの間の事情を、"ボーダフォンは 「いじめられっ子の転校生」" という視点で分析したことがある。この「いじめられっ子の転校生」が、何と急に、態度のでかいガキ大将に変身してしまったのだ。おじさんもビックリである。

まったく対応に困ってしまう。ボーダフォンは家族で使っているから、今さら乗り換えるのも面倒だ。ただ、ケータイは最近、洗濯機で洗ってしまって買い換えたばかりだから、しばらくは自分の使っている機種には「ソフトバンク」というブランドは付かない。

問題は、1年か 2年経って機種変更した時に、新しく入手する機種に "Softbank" というブランドが印字されているであろうことである。私はそれを見るたびに不愉快な思いがするだろう。

まあ、今後 1~2年のうちに、最も面倒がなく、最も不愉快な思いをしなくてすむ対応策を考えるとしよう。

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2006年5月21日

トップページを見ただけで嫌になってしまうサイト

トップページを見ただけで嫌になってしまうサイトというのが、以前は結構あったけれど、最近では、少なくとも有力企業のサイトはウェブデザインがかなり洗練されてきている。

ところが、「ほ~むぺ~じ日記」からのリンクで知ったのだが、NHK オンラインは、今どき珍しく、トップページを見ただけで嫌になる。

ページ幅が 1024ピクセルの固定で、動かしようがない。今どきは左側に 「お気に入り」 のバーを表示する人が多いだろうから、端から端まで表示できない。横スクロールの必要なトップページなんて、それだけでアウトである。

私はウィンドウを画面一杯に最大化する習慣がないから、サイドバーなしでもアウトだ。それに、IE ではそうならないが、Firefox でみると、真ん中の 「ただ今放送中」 という枠の中まで、横スクロールが必要になっている。ご丁寧なことだ。

とにかく、コンテンツが単に横に広がっているだけではない。真ん中の 「ただ今放送中」 を境に、左右にスプリット状態になっているので、こちらの視線までスプリットされてしまいそうだ。視線の誘導がなっていないという以前に、最初から、どこに焦点を合わせていいかわからない。

このページをデザインした人は、とにもかくにも「バラエティ豊かな NHK のコンテンツ」を表現したかったのかも知れない。しかし、このサイトを見る限りは、「バラエティ豊か」というのは、「分裂状態」と同義語なのではないかと思えてしまう。

それにしても、このトップページをみて、内部で「おいおい、もうちょっとなんとかならんのか?」という声がでなかったのか、不思議でならない。NHK という組織は、ちょっと信じられないところがある。

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2006年5月20日

分類は魔物

いろいろな仕事の処理には、「分類」ということがつきまとう。会社の組織にしても、仕事の割振りは「分類」そのものだし、商品の整理にも、「分類」のコンセプトは不可欠だ。

私は以前から「分類は魔物」と言っている。どんなにうまくできた方式で分類しても、必ず分類しきれないものが生じるのだ。

以前、某電機メーカーで、ラジオ事業部とテープレコーダー事業部の両方でそれぞれ「ラジカセ」を作ったため、「ラジカセ」という商品が 2つのカテゴリーに分類されていたという話を聞いたことがある。

ファッションの世界でも、いわゆる「中間アイテム」や「折衷アイテム」が生まれるのは毎度のことだ。

以前は、ブレザーよりずっとライトウェイトだが、アウターとして着用するのでブラウスでもないという意味で、「ブラウザー」なんていうアイテムが流行ったことがある。今は完全に死語だが。

最近聞いて、こけそうになったのは、スカートとスパッツを組み合わせた「スカッツ」という商品だ。多分「ブラウザー」同様、一般化する前に廃れるだろう。こんなもの、既存のカテゴリーでは分類しようがないし、新項目として登録するまでもない。

正確に分類しようとして、細かいカテゴリー分けにすると、必ずどれにも当てはまらない「その他」というアイテムが増加する。これでは困るから、じゃあどれかに当てはまるように、大まかな分類にすればいいかというと、今度は大まかすぎて中身がよくわからないことになる。

それでは困るというので、再び分類を細かくしようとすると、勢い「あれもこれも」ということになり、細かくなりすぎて、またしても「その他」ばかりが増えるという堂々めぐりになる。

だから、それぞれの目的に添うように、カテゴリー分類の細かさの匙加減を調整することになるのだが、それがなかなか難しい。それに、長い間には必ず辻褄の合わないことが出てくるもので、その都度、また新たなカテゴリーを新設せざるを得ない。

私は、このブログのエントリーのカテゴリーを、非常に大雑把に捉えている。ココログでは、自分なりのカテゴリーを登録できるのだが、私は敢えてそんなことはしていない。既存のカテゴリーに、無理矢理押し込んでいる。

独自の細かい分類をしようと思えばできるのだが、そんなことをしていたら、どんどん新しいカテゴリーを加えていかなければならない。このブログに関しては、そこまでする意味をあまり感じないのである。

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2006年5月19日

酒田に来ると、食べ物が美味すぎる!

ああ、いかん。今、酒田の実家に来ているのだが、ここにいると何を食べてもうまくて、つい食いすぎてしまう。太らないか心配だ。

買い物に出かけると、その辺の普通のスーパーで買う魚が、とてもイキが良かったりする。野菜が新鮮だ。果物がうまい。酒もうまい。適当に買うものが、みんなうまい。

昨日の昼は、近所のラーメン屋、満月に行って、かの有名なワンタンメンを食した。12時から 1時の間に行っても満員に決まっているから、かなり我慢して 2時近くになってから、満を持して行ったのである。

ここのワンタンメンの、適度の透明感とコクと旨味が渾然一体となった魚貝系スープは、私の体内の血中濃度とまったく違和感がなく、体内にしみこんでくるような気がする。それに、透き通るようなエレガントなワンタンは絶品だ。

1日 24時間のうち、10時間以上は空きっ腹だった高校の頃から、私はここの店のワンタンメンがご贔屓だった。当時は単に、ラーメンだけでは足りないから、ワンタンをプラスしたワンタンメンを注文していただけなのだが、そのワンタンメンが、そんなにすごいものとは知らなかった。

高校を卒業して東京に出てからというもの、私は「まともなワンタンメン」を食すことができなくなったのである。高校時代は当たり前だと思っていた満月のワンタンメンは、実は世界に誇るワンタンメンだと知ったのである。

だから、酒田にきたらなんとしても満月のワンタンメンは食わなければならない。

酒田に来る途中には、西川町の一松の蕎麦がある。今回は 「かんざらしそば」 というのを食べた。この店に入ったのが、午後 4時を回っていて、かんざらしそばが二人分残っていなかったので、二八そばにサービスとして付けてもらったのである。ここのご主人は、とても気前がいい。

このかんざらしそばは、色の白い一番粉で打ったもので、蕎麦粉 10割なのにツルツルした感触。噛んでみるとものすごくギュッとしまった感じのコシ、モチモチ感がある。こんなそばは初めて食った。

ご主人は、「そばの香りは 別製の十割そばの方があるけど、これはこれで、おもしろいでしょう」 という。なるほど、そばの世界は奥深いものである。

ここのおススメは、天ざるである。うまい蕎麦屋の天ぷらは、往々にしてたいしたことなかったりするものだが、ここのご主人は以前に本格的な板前の修行をしただけあって、天ぷらも絶品だ。今回の天ぷらは、海老天二本に、山菜づくし。大満足だった。

外食が大満足な上に、素材がいいから、妻の作る料理もおいしくて、つい食べ過ぎる。ああ、帰ったら運動しなければ。

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2006年5月18日

作文も、演技さ!

Partygirl の日記 からのリンクで、活字中毒 R さんの "「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘" という記事を読んだ。なかなか「言えてる」お話だ。

小学校の作文教育が、客観的記述より、「僕は、わたしは、こう思いました」という主観的記述に偏っているという指摘である。

活字中毒 R さんは、「はじめてわかる国語」(清水義範著・西原理恵子・絵:講談社文庫)の中から一部引用しておられる。清水氏と、古今の「文章読本」について分析した『文章読本さん江』という著書のある斎藤美奈子さんとの対談の一部である。

斎藤さんは、「国語教育といっても、なかば道徳教育ですから、それがもう1つの問題ですよねと仰っておられます。言われてみれば確かにその通りで、現在の「国語」、とくに「作文」というのは、「わかりやすくて簡潔な文章を書く技術」というよりも、「どんなことを考えたか?」で評価されることが多いですよね。

こうした文脈の中で、「感想を書くのは苦手だけれど、主観を極力排して事実を的確にまとめる才能を持っている人」というのは、「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」のプレッシャーのうざったさに耐えかねて、国語嫌いになってしまいがちというわけだ。

小学校の教師は、生徒が文字にした「事実そのもの」の雄弁さには致命的に無頓着だが、ただ一言、「感動した」と書き添えさえすれば、「大変よくできました」のハンコを押してくれる傾向が強い。

私は中学校の時に、教師のメンタリティをリサーチしたことがある。作文や読書感想文で、どんなまとめかたをすれば点数がよくなるかという調査だ。

それは、ある時「淡々と事実のみを書いた作文」を提出した際に、「それで、その時どう思ったのか?」というお約束の指導を受けたのがきっかけである。

「どう思ったかを書け」というのだから、それならばと、次の機会には思ったことを淡々と書き連ねて提出すると、今度は「中学生らしい覇気にかける」と評された。

私は確かに「中学生らしい中学生」ではなかったかもしれないが、そんなことはこっちの勝手である。それにそんな「覇気一杯」の文章を恥ずかしげもなく書けるという方が、感性どうかしてる。

しかし、そこで考えを一転させて、ちょっとリサーチをしてみようと思ったのだ。

次の作文提出の機会には、役者が演技するようなつもりで、いかにも優等生という模範的な感想、要するに「心にもない、覇気一杯の美辞麗句」を書いてみた。すると案の定、「金賞」を受賞した。

思うに、世の作文や読書感想文のコンクールの「金賞」なんて、ほとんどそんなものだろう。文章よりは、演技のコンクールである。

中学校の作文レベルの金賞を取ろうと思ったら、そりゃあステロタイプの極みにちょっとだけスパイスをまぶせばいいだけのことである。だから、「リサーチ目的の演技」のつもりで、狙って書きさえすれば、案外簡単に取れてしまう。

私は「優等生的作文」はそれっきりにして、あとはひたすら「書きたいこと」だけを書くことにした。おもしろいもので、一度金賞を取ってしまうと、そこから先は何を書いても「おもしろい独自の視点」なんて言ってもらえるものである。

「まともな文章」を書くには、コツがある。一度「優等生的言辞」を連ねていい点数を取ってみて、その時の「気持ち悪さ」をありありと記憶するのである。それから先は、その感覚を注意深く避けさえすればいい。

活字中毒 R さんは、"もしかしたら、全国紙にときどき載っている「ヘンな記事」というのは、「感想を書くのが得意」=「国語が得意で、新聞記者になってしまった人のものなのかもしれません。" と書いておられる。

なるほど、「優等生的言辞」を「気持ち悪い」ともなんとも思わない感性が、変なバイアスを通過して新聞記事なんかになったら、そんなもの読まされるのは迷惑というものだ。

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2006年5月17日

5月後半は、超ハードスケジュール

さあて、5月下旬はかなり忙しいスケジュールをこなすことになる。ハード・ウィークスだ。リポ D でも飲みながら、頑張ろう。

今日は妻と早朝に車で出発。いつものように、酒田の実家で、母の介護をする父の応援だ。金曜夜に戻り、それから月末までは、1日の休みもない過酷な日々を送ることになる。

週末、多分深夜に自宅に舞い戻り、土曜は朝から某研修会に出席、夕方から飲み会。睡眠不足のまま、日曜朝は、町内会の一斉草刈りにかり出される。それが終わると、シャワーを浴びるのもそこそこに、午後からは某講演会の手伝い。夜遅く戻って、翌日の出張準備。

週明けて、22日の月曜早朝に、広島の出張取材に出発。この歳になって、新幹線で 4時間以上も移動するのは、けっこうしんどい。バタバタと取材日程をこなして、翌火曜日夜に戻る。帰りの新幹線の中で、ある程度原稿をまとめないと、月末が辛くなるだろう。

水曜、木曜は、ずっと某業界団体事務局の仕事。金曜日は一日がかりで、たまった原稿を一気にやっつける。ここできっちり始末を付けないと、あとは地獄の様相になりそうだ。

27日の土曜日は朝から夕方まで某研修会に出席、その後、高校時代の同窓会に駆けつけ、多分、痛飲することになる。それから二日酔いと睡眠不足でフラフラになりながら、翌日曜日は某団体の会議。それが終わると、夕方からまた飲み会。

多分、この 27、28日あたりがヤマ場になりそうだな。ここを乗り越えれば、あとは何とかなりそうだ。

5月最終週が明けて、29日、某団体の会議。それが終わると、細々とした事務関係の処理に忙殺される。30日は終日某業界団体の仕事で、31日は月末締め切りの原稿最終仕上げ。

おぉ、こうしてみると、本当に 1日たりとも休みがない。びっしりと詰まっているじゃないか。その中で、「今日の一撃」と「和歌ログ」の毎日更新もきっちりこなすつもりだから、体力勝負の 5月後半になりそうだ。

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2006年5月16日

ビートルズ以前と以後

kumi, the Partygirl の 「映画で見るロックの歴史 part1」 に思わずコメントしてみて、ふと気付いたことがある。

私はビートルズを境にして、その前のロックンロールはカタカナで聞こえ、ビートルズ以後のロックは、英語で聞こえるのだ。これはもう、「使用前/使用後」 以上の大変な違いだ。

私はビートルズをリアルタイムで聞いた世代である。

アメリカのビルボード誌のチャートでトップ 5 を独占するという大変なブレイクを見せたのが、東京オリンピックの開かれた 1964年。私が小学校 6年生の年で、この頃は、まだ「抱きしめたい」がカタカナで聞こえていた。「アウォナホージョーヘン」 である。

しかし、翌年に中学生となり、英語を学ぶようになると、だんだん様相が違ってきた。「アウォナホージョーヘン」が、徐々に "I wanna hold your hand" に聞こえてきたのである。これは、革命的なことだった。ビートルズの歌が、「意味のあるテキスト」 になったのだから。

それ以前のロックンロールも、自然に耳に入っていた。しかし、それらは小学生の私にとっては、すべてカタカナでしかなかった。単なる「音」であり、「テキスト」ではなかったのだ。

エルビスは 「ユエンナツバラハウンドッ」と歌っていたし、ニール・セダカは「チューチューチュレーナ、シャッキンダナチュラ」と歌っていた。そこに意味があるとも思わなかった。

しかし、ビートルズは違っていたのである。ロックのリズムに「意味」を載せて歌っていたのだった。「アウォナホージョーヘン」ではなく、「お前の手を握りたい」 と歌っていたのだった。

もちろん、私の耳がすべての歌詞を聞き取っていたわけではない。そこには「歌詞カード」という重要なメディアがあった。レコードを買うと、歌詞カードが付いてきたのである。それに、音楽雑誌を買えば、歌詞と楽譜まで付いていた。さらに、「楽譜集」 というのまである。

この「歌詞カード」というのは、なかなかくせ者で、ビートルズの歌に限らず、レコードに付いてきた歌詞と、雑誌に載せられた歌詞と、楽譜集に載っている歌詞が、すべて微妙に違っていたりした。

そもそも元々のレコード「輸入盤」 には、歌詞カードなんてものは付いていなかった。歌詞カードというのは、日本のレコード会社が、その辺の外国人にバイト代を出して聞き取らせていたものらしい。

南部訛りやリヴァプール訛りの機関銃のように繰り出される歌詞が、全てまともに聞き取られていたわけではない。だから、今から思えば「???」と思うような歌詞カードだって少なくなかった。

それでも、ビートルズが「言葉としてのメッセージ」を発しているということを発見したのは、私にとっては大きな事件だった。私が英語に対して特別なコンプレックスもなく、自然に勉強して身に付けることができたのは、このビートルズ体験のおかげといっていいと思うのだ。

近頃では、J-Pop というものが盛んで、わざわざ英語の歌なんて聞かなくても、十分に「ロックしてる」感覚を味わえる。しかしその分、今の若い人は気の毒である。J-Pop にポコポコ挟み込まれる「英語」は、「意味」というより「音」でしかなかったりするから。

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2006年5月15日

アンチ収納論

片付け・不用品・部屋片付けの心得とポイント」 というサイトが見つかった。このサイトによると、部屋片づけの際に最も多く出るのは、「本・雑誌」 「ビデオテープ」 「衣類・布団」 「手紙・請求書・明細書」 「趣味の収集品」 で、このベスト 5 で 80%になるという。

なるほど、さもありなんである。

「片づけ」というと、「収納」とほぼイコールで語られることが多いが、それに関しては、私はかなり疑問に思っている。

収納スペースにきれいに整理されてしまい込まれたものというのは、要するに、「普段は使わないもの」というのが多い。「普段は使わない」というのは「滅多に使わない」とほぼイコールで、さらに「10年に 1度も使わない」ともかなり近かったりする。

このような、要するに「ほとんど使わないもの」が貴重な収納スペースにきっちりと整理されてしまい込まれていると、人はその部屋の住人を「収納上手」と誤解しがちである。

しかしよく見渡してみると、「ほとんど使わないもの」が、「開ければすぐに取り出せる」という一等地的なスペースにきちんと整理されているおかげで、「普段よく使うもの」にしわ寄せがいってしまい、その辺に適当に放り出されていたりすることもある。

さらに、しょっちゅう使う物が、机の上にゴチャゴチャに積み重ねられたりしていると、探し出すのに結構手間取ったりする。

だから、私はいつの頃からか、「きっちりと整理して収納する」という作業を、いっそきれいさっぱりと諦めたのである。

なまじ 「きちんと整理して収納」なんてことをしてしまったら、捨てるに捨てられないのである。とっくに捨ててしかるべきものが、後生大事にきれいに整理されて収納されていると、今もっとも現役で活躍しているものの居場所がないのである。

それでなくとも、モノなんてのは、うかうかすると溜まりに溜まって収拾がつかなくなるのだから、溜まらないように、片隅にごちゃごちゃに置いとけばいい。

ただし、横に積み重ねてはダメだ。いったん横にされたモノは、金輪際立ってはくれない。いつまでも寝転がって居座るだけとなる。だから、縦にして並べておくのだ。そうすれば、端から徐々に邪魔になって、適当な頃合いにごっそりと捨てることになる。

このサイクルを円滑にするために、決して「収納」なんてことをしてはならない。とにかく、モノはいつでも捨てられる状態にしておかなければならない。いかにも「邪魔くさい」場所に、目に付くようにしておいて、いかにも捨てたくなるような雰囲気を漂わせるのだ。

てなことを言いながら、納戸や引き出しの奥に、捨て損なったガラクタが一杯溜まっているのが、痛恨なのだが。

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2006年5月14日

「金持ち吸い」とは、ちゃんちゃらおかしい

煙草の吸い方に「金持ち吸い」と「貧乏吸い」というのがあるのだそうだ。「金持ち吸い」というのは、吸い殻を長く残したままで消してしまうことらしい。(参照

私は煙草を止めてもう 30年近くになるが、吸っていた頃は、フィルターぎりぎりまでだったから、いわば「極貧吸い」だったな。

私が煙草をフィルターぎりぎりまで吸っていたのは、ケチっていたからということも確かにあるだろうが、それ以上に、これはもう性分なのである。

メシを食うときだって、私は米粒を 1粒だって残さないし、蕎麦をたぐっても、ざるの上に切れ端 1本も残さない。ラーメンを食っても、スープまで全部すする。とにかく、残すのが嫌いなのだ。 「もったいない」のである。

ワンガリ・マータイさんの提唱をまつまでもなく、私は "Mottainai" 精神を煙草の吸い方にまでもちこんでいたのだが、よく考えてみると、かけるコストと消費する酸素の方がより「もったいない」ので、さっさと止めたのだ。

以前の上司に典型的な「金持ち吸い」をする人がいた。彼は煙草に火をつけて、2口、3口プカプカとふかすと、それでもう灰皿にこすりつけて吸い終えてしまうのである。何のために煙草に火をつけたのかと思うほどだった。

しかしその彼の性分が「金持ち的」であったかというと、実は正反対だった。彼は平気で他人の煙草をもらってというか、勝手に取り出して吸ってしまうのである。自分の煙草はあまり吸わない人だった。

だから、吸い殻の長さで金持ちだの貧乏だのいうのは、ちゃんちゃらおかしいのである。いっそ、吸うならちゃんと根元まで吸えと言いたい。

長いままの吸い殻が灰皿に溜まると、部屋全体がムッとするほど煙草臭くなってしまうが、フィルターだけなら、臭いが少ない。それに何より、後始末が楽だ。

飯粒を 1粒も残さず、蕎麦を短い切れ端まで 1本も残さずに食うのは、残飯が出ないだけでなく、食器洗いも楽になるからだ。

亡くなった柳家小さんは、蕎麦を食う芸が天下一品だった。小さんが 「時蕎麦」 を演ると、寄席の近くの蕎麦屋は満員になったというぐらいである。

その小さんが、ある雑誌のインタビューに答えて、ざるの上に蕎麦を残すと、乾いた時にこびり付いて取れにくくなるから、切れ端まで残さず食うのは、洗い場への思いやりなのだと教えられたということを言っていた。

だから、正しい蕎麦食いは、最後の一切れまで丹念につまんで蕎麦猪口に入れ、蕎麦湯と一緒に飲み干してしまうのである。割り箸を立てれば、簡単につまめる。これは、飯粒でも同じことだ。

煙草の吸い殻を長く残したままにするのは、多分、金持ち、貧乏に関わらず、灰皿の始末を自分でしないタイプの人である。

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2006年5月13日

ケータイを洗濯機で洗ってしまった

2年 2か月ぶりにケータイの機種交換をした。バッテリーのもちが悪くなっていたので、もう半年以上も替えたいとは思いながら、面倒くさくて先延ばしにしていたのである。しかし、遂に替えざるを得なくなったのだ。

不覚にも、スウェットパンツのポケットに入れたまま、洗濯機で洗ってしまったのである。

昨日は予定外の上天気で、それを逃すと雨模様が続くというので、急遽、家の周囲の雑草の刈り取りをした。鎌をふるってかなりの量の草を刈ったので、大汗をかいたのである。それで、昼前にシャワーを浴びたのだ。

草刈りの最中にはいていたスウェットパンツは、土まみれになったので、脱衣所に脱ぎ捨てておき、それを妻が洗濯機に放り込んだ。まさか、そのポケットにケータイが入っているとは気付かずに。

シャワーですっきりし、お昼にそうめんをさらさらっと食べて、コーヒーを飲み、さあ仕事を始めるかとパソコンに向かった途端、階下で妻が 「あらぁ、大変!」 と素っ頓狂な声をあげた。脱水を終えて洗濯機のふたを開けたら、ケータイが転がっていたというわけだ。

機種交換は半年も前からしようしようと思っていたのだから、それはそれでいい。しかし、問題はメモリーが生きているかどうかだ。私はケータイに関してはそれほどのヘビーユーザーではないが、電話帳代わりのメモリーには、200件以上の電話番号が登録されているのだ。

近くのボーダフォン・ショップに持っていくと、カウンターの中のおねえちゃんは、「電源さえ入れば、データは取り出せるんですが」 と言う。しかし、その電源は押しても引いても入らないのである。

バッテリーを取り出して、接触部をティッシュペーパーでごしごし拭いてもだめだ。「ドライヤーで乾かしてもだめかなあ」 と言うと、冗談と思ったらしく、笑われてしまった。心の底からのシリアスな発言だったのに。

しかし、さすがに相手はプロである。「もし、前の機種が残っていれば、そこから取り出せるかもしれません」 と、希望を持たせることを言う。私はすがる思いで自宅にとって返し、引き出しの奥を探った。

すると、見覚えのある古い機種が出てきた。それも、2つも出てきた。片方は J-phone、もう片方は Vodafone のロゴ (後から送られてきたシールを貼ったものだ) がある。やれうれしやと、私は Vodafone の方をひっつかんで、ショップに飛んでいった。

カウンターのおねえちゃんは、「2年以上も放っておくと、中のデータが消滅しているかもしれませんが・・・」 などと、さっきとはうって変わった恐ろしいことを言いながら、ケーブルを接続してパソコンを覗くと、破顔一笑、「あぁ、ありました、ありました」 と叫んだ。

よかった、これで、200件からの電話番号を、いちいち手入力する手間が省けた。

しかし、新機種に移し替えられたメモリーを眺めてみると、最新のデータとは、微妙に違っているような気がするのである。もう潰れてしまった会社の番号が入っているのに、新しい取引先や知人の番号がなかったりする。

やはり、微修正は必要なのである。しかし、その差分の全貌はなかなか明確に見えてこない。必要になった時にその都度調べて入力し直すしかないようなのだ。

それでなくとも、ケータイというのは Windows とは違って、機種交換する度に、マニュアルを首っ引きしながら操作方法を新たに覚えなければならない。その上に、微妙に不正確なメモリーを抱えているとなると、しばらくはストレス状態が続くことになる。やれやれだ。

私がケータイを替えたと知ると、我が家の娘たちが入れ替わり立ち替わり、「ねぇねぇ、新しいケータイ、見せて」 とやってくる。

それにしても、若い娘というのは、どうしてこんなにケータイが好きなんだろう。私は親指シフト・キーボードは好きだが、ケータイの親指入力は神経衰弱になりそうなので、御免こうむりたいと思っているのに。

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2006年5月12日

ファッションとウェブは、水と油

ululun さんBBS で、ウェブ化・ネット化されていない業界の代表格として、ファッション業界を挙げる記事を紹介してくれた。

「ファッション」 は、「医療」「政治」「宗教」をしのいで、その筆頭に挙げられている。「されていない」とは言い過ぎだと思うが、確かにその度合いはものすごく低い

私のビジネス上のバックグラウンドは繊維・ファッション業界なので、この問題については、いつも意識せざるを得ない。本当に、ファッション業界というのは、ウェブとの親和性がものすごく低いのである。

上記の記事は、ファッション関連の媒体が雑誌に片寄っていて、ファッション雑誌は腐るほどあるのに、ファッション・ウェブが極端に少ないということを言っている。確かにその通りである。

これに関して、ululun さんは、ファイブフォックス(あの「コムサ」の会社)が自社のホームページすらもっていないことに「興味がある」とおっしゃっている。

ファッション雑誌に相当するファッション・ウェブが少ないことと、ファッション企業があまりウェブの世界に積極的に関わっていないということは、多少別の問題だが、根っこの部分は共通していると思う。

それを語るキーワードは「テキスト」だろうと思う。今回は、「ファッション人間におけるテキスト感覚の欠如」という仮説を語ってみたい。

ファッション人間の代表格、デザイナーにインタビューを試みると、彼ら/彼女らの多くは、自分を表現する 「テキスト」 を持ち合わせていないことがわかる。「作品を見てもらえばわかる」というのが、その常套的なコメントである。

確かに、ファッション・デザイナーなのだから、第一義のメディアが「作品」であるというのは当然だが、それらはあくまでも「商業デザン」なのだから、「テキスト」でフォローする方法論がないのは寂しい。

欧米のデザイナーの多くはこのあたり、かなり意識していて、自分のデザイン・コンセプトを言葉として(つまり「テキスト」として)説明するのは、当然の義務と思っているようだ。しかし多くの日本人デザイナーは、そのことにほとんど無頓着である。

このことを前提とし、翻ってウェブの現状をみてみよう。誤解を恐れずに言えば、ウェブは ("Web 2.0" はどうだかしらないが)、ほとんど 「テキストの世界」 なのである。検索エンジンの要は、「キーワード」であり、それは画像検索においてすら例外ではない。

ありていに言って、現状のウェブの世界は、ファッション人間にとってとても違和感があり、入りにくい世界なのだろう。「見てもらえばわかる」が通じないのだから。「見てもらう」までには、否応なくテキストの世界をくぐり抜けなければならない。

ウェブの世界に居心地よく定住するには、そのコンセプトをキーワードに置き換えなければならないのだが、彼ら/彼女らは「テキスト感覚」が欠如しているので、「ピタピタ」とか「テレンテレン」とか、感覚的なオノマトペに頼るのがせいぜいのところだ。

それならいっそ、それでもいいのだが(ファッション雑誌なんか、それで押してきてる部分がある)、 それで開き直る技量もなかったりするので、テキストの世界を自由に泳ぐのは、荷が重すぎる。

それで、「ファッション」における「テキスト」の構築という役割は、ファッション雑誌が果たしている。さまざまな「キーワード」「キャッチフレーズ」を提案し、それに適合する商品を見繕ってきて、画像として紹介するのが、ファッション雑誌の役割だ。

ということは、ファッション人間は「テキスト」の世界においては、徹底的に「受け身」でしかない。自ら能動的に「テキスト」の切り口で表現するということに関しては、赤子同然である。

ファッション業界のウェブ・ページは、やたらと Flash が多い。ファッション企業のウェブサイト作成を請け負うと、トップページに重い Flash をもってくることを要求されたりする。

いくら、Flash は今どき流行らないと言っても、彼らは、テキスト表現が苦手なので、画像(しかも押しつけの強い画像)をもってくるほかないのである。それで面目躍如だと思ったりしている。いきなりスキップされるなんて、よもや思っていない。

こうして、現実世界ではオタクはファッション人間にさげすまれる一方だが、ウェブの世界ではファッション人間の方がオタクに呆れられる側にまわるのだ。両者は、それほど水と油の世界なのである。

このギャップを埋めるには、ファッション人間の感覚を「テキスト」にきちんと翻訳できる能力のある人間が、コーディネーターの役割をしっかりと務めなければならない。ファッション雑誌編集者には、この能力のある人材がいるだろうが、彼らが ウェブを作れるかといえば、それはまた別の問題だ。下手したら、二重の通訳が必要になる。

なお、当然ながらテキストで、さらにウェブででも自己表現のできる貴重なファッション人間も、決していないわけではないということを、最後に付け加えておく。

【平成 19年 7月 19日 追記】

アパレル業界がwebに手を出さない理由」 という興味深い記事を見つけた。東京コレクションに出ているデザイナーの中で、公式サイトを持っているデザイナーが少なく、あってもフラッシュばかりで、使い勝手が 「?」 なものが多いということがわかる。

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2006年5月11日

アダルトサイトからリンクしてもらった

ココログの "Today's Crack" が、昨日の夕方からほぼ 5~6秒に 1ヒットというアクセス・ラッシュになったので、何事かと思ったら、光栄にも、「動画普及委員会」 というアダルトサイトからリンクしてもらっていたのだった。

このサイトの「今日のサイト紹介」という欄で、一番上に紹介されていたのである。

アクセス分析で、このサイトから大量のアクセスがあるとわかり、どんなサイトかと飛んでみて、一瞬、目を疑った。エッチ系の動画を紹介しまくるサイトだったからである。

「アダルトサイトからのリンクなんて、何かの間違いじゃないか?」 と思ったが、試しに画面をちょっとスクロールしてみたら、なんと、堂々と当ブログへのリンクがあったのだ。アダルトサイトも、まんざら捨てたものじゃない。

「おっぱい命」だの、「ナースがM字開脚」だのという刺激的なタイトルの中に、当ブログの 5月 8日付 "「渋滞学」ってのは、面白そうだ" というエントリーへのリンクがあるのは、かなり面映ゆいものである。

しかも、「ここのサイト面白いです。他にも色々知的なトピックがありますー」 という、もったいないコメントまで付けてくれている。面映ゆさが増幅されるではないか。いやはや、硬軟取り混ぜたサイトで、ありがたいことである。

このエントリーは、ほかにもいくつかのニュースサイトからリンクしてもらっているが、この「動画普及委員会」から飛んでくるアクセスは、他とは比較にならないほど多い。さすがアダルトサイトである。基本的なアクセス数が圧倒的に多いのだろう。

VTR にしろ、DVD にしろ、衛星放送にしろ、新規のメディアの普及には、アダルト・コンテンツが常に先頭ランナーになるというのはよく言われるが、インターネットにおいても、アダルトサイトの力というのは、かなりのものがあるようだ。今回、改めて認識を深くした。

ちなみに、今回のリンクは 「今日のサイト紹介」 というぐらいだから、多分、1日限りで切り替わるのだろう。もったいないから、記念にスクリーンショットを保存させて頂いた。

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2006年5月10日

「最も長い単語」を巡る冒険

"Which is the longest word in English?" (英語で一番長い単語はなぁに?)という有名ななぞなぞがあって、その答えは、"smiles" ということになっている。sとsの間が 1マイルあるからだという。

しかし、インテリの中には、その 3倍も長い単語があると主張するものがある。

それは "beleaguered"(「包囲する」 の過去分詞)である。単語の中に league という言葉が含まれているが、これは古い英語の距離の単位で、1リーグは、約 3マイルに相当するのだという。メジャーリーグとかいう場合の意味とは別の話だ。

3マイルはメートル法では約 4.8キロメートルだから、1リーグは、日本の 1里(約 3.9キロメートル)よりちょっと長い。

1 マイルの mile という単位の語源は、milia passuum(千歩の長さ) というラテン語だそうで、だとすると、1マイルは約 1,600メートルだから、西洋人の歩幅は  1.6メートルもあるということになる。短足の私がそんな大股で千歩も歩いたら、股関節がどうかしてしまう。

1歩を左右の二跨ぎとすれば、ローマ・マイルの約 1,500m となるという説もあるので、これなら納得できる。へぇ、ローマの 1マイルは、ちょっと短かったのか。

ところで、距離の単位を調べてみると、由旬(ゆじゅん)というのが出てきた。古代インドの単位で、時代によってその長さはまちまちだというのが、さすがインドである。2002年現在では、1由旬=約 6.6キロメートルとされているらしい。

元々は、帝王の軍隊が 1日に進む行程だそうで、地獄の距離の単位などと称されているらしいが、1日でたったの 6.6キロメートル進むのが「地獄」というのは、あまりにも軟弱である。もしかしたら、「1日」はなく「1時間」の間違いかもしれないが、それにしても、ちょっとした早足程度だ。

ただ、1由旬が約 9マイルに相当するという時代もあったらく、それだと、約 15キロメートルになる。軍隊の装備を背負って、1時間で 15キロメートル行くのだとしたら、確かに地獄だ。

それから、「公式な最も長い英単語」は、"pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis" だそうだ。日本語訳は「珪性肺塵症」 という。こんなに短くて済むのは、漢字の威力というものだろう。

ちなみに、日本語には "beleaguered" なんてのよりも、ずっと長い単語がある。それは「伊万里焼」だ。伊 と 焼 の間が、1万里(39,000キロメートル)もある。

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2006年5月 9日

詩人は改札口でしゃがむ

吉行理恵が亡くなったというニュースに、ちょっと驚いた。そして、書棚にあったはずの『吉行理恵詩集』を探したのだが、どうしても見つからない。

どこに消えてしまったのだろう。あれは、古本屋に売り払うような本でもないし、誰かに貸したままになっているのかもしれない。

私が吉行理恵の詩を読んでいたなどというと、意外に思う人もいるかもしれない。「あんなナルシスチックな少女趣味は似合わない」とかね。しかし、一時はいくつかを暗唱できるほど読んでいたのだ。

もう 30年も前に買った本だから、誰に貸したのかも、覚えていない。いつも思うのだけれど、いい本ほど貸したら戻ってこない。だから、貸すときはあげてしまうつもりでいなければならない。

一番好きだったのは、「改札口で」という詩だ。ここに引用しようと思ったが、いかんせん、今となっては、全部は覚えていない。詩集が行方不明になってしまったので、確認することもできない。

薄暗い改札口に
私はしゃがんでしまいました
何となくかさばった
紙袋を抱え込んで

どこまでも空は 澄んでて
豆の花の咲き乱れてる
子羊のいる場所 (ところ) へ
私はでかけるつもりでした

(中略)

ふいに 切符の買い方が
わからなくなってしまったから

薄暗い改札口に
私はしゃがんでしまいました

発車電鈴(ベル)の鳴響いてるのを
聞かないわけではなかったけれど……

初めから切符の買い方を知らないような、深窓の令嬢というわけではない。いつものように出かけるつもりだった。ところが、なんなくこなしていた「切符を買う」という行為が、急に遠離っておぼろになってしまう。

それで、薄暗い改札口にしゃがんでしまうのである。自分を取り巻く空間感覚が変わってしまったのだ。いつもの日常じゃない。そうなったら、しゃがんでしまうしかないではないか。

そんな中で立っていられるとしたら、それは偽物の自分である。偽物になりたくなかったら、いくら甘ったるいナルシシズムと誹られようと、しゃがむしかない。弱々しげに見えるが、実は断固としてしゃがみこむのである。

ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまっても、それに気づけない人は、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら通り過ぎてしまうだろう。私は、しゃがんでしまえる人の感受性を信頼する。

書棚から彼女の詩集が消えてしまっていることを知って、私も一瞬しゃがみそうになった。そして、知らぬ間に消えてしまっていること自体が、吉行理恵の詩のようだと思った。

(詩は、翌日改めて詩集を買い求め、引用した)

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2006年5月 8日

「渋滞学」 ってのは、面白そうだ

今年は大型連休といわれただけに、高速道路の渋滞はかなりのものだったようだ。私もちょっと水戸方面の行き帰りだけで、常磐道でかなりの渋滞に巻きこまれた。

東京大大学院工学系研究科の西成活裕助教授は、「渋滞学」 という学問に取り組んでおられるそうだ。かなり面白そうである。

記者会見資料には、「渋滞学」 の内容が、以下のように述べられている。

車や人を粒子とみなすと、それらは自分自身で動くことのできる自己駆動型の粒子である。この粒子が集団になると渋滞が発生する。なぜ渋滞が起こるのかを新しい物理的アプローチで研究する渋滞学 を紹介する。

どうやら、物理学、数学のみならず、複雑系の理論まで応用されていて、なかなか興味深い分野のようだ。東京新聞などには、次のように紹介されている。(参照

車を自己駆動粒子として数学的、統計物理学的に解いたところ、最高速度が時速百キロの高速道路では、車間距離が四十メートル以下になると渋滞することが確認された。四十メートルなら十分以内で渋滞状態へと移行する。実測データとも一致した。

ただし、車間距離が四十メートル前後には、渋滞に至るかどうか「微妙な状態」が存在することも新たに分かってきた。「そのような状態では、車間は結構詰まっているが、時速七十キロや八十キロと、それなりの速度で走っている。しかし一台がちょっとブレーキを踏むだけで、たちまち渋滞になる」

なるほど、「微妙な状態」から「渋滞」に移行するには、それなりのクルーシャル・ポイント(決定的瞬間) があるのだな。

私の経験でも、すいすい動くでもなく、かといって渋滞というわけでもない「微妙な状態」に遭遇することは案外多い。こうした状態でも、上手なドライバー同士なら、渋滞に陥ることなく、微妙なままで、それなりにさくさく動くことになる。

しかし、連休などでは、普段運転しなれないドライバーが多く高速道に繰り出すから、変なところで余計なブレーキを踏みがちだ。こうして、渋滞に陥ってしまうクルーシャル・ポイントが、容易に作り出されてしまうのだろう。

確かに、渋滞の団子状態をやっとこさ抜け出してみると、その先は何のことなくスムーズに動いている場合も、かなり多い。

そんな時、「あの渋滞は何だったんだ?」と思うが、それは、あの団子状態の先頭にいた誰かが、期せずして「クルーシャル・ポイント」を創出してしまっていたのだね。

渋滞に限らず、悪気じゃなくてもみんなに大迷惑をかける人というのは、いくらでもいるのである。世の中は、そんな人の集まりなのだから、理屈通りに行かなくて当たり前なのである。やれやれだ。

そんなことでイライラする方は、私の本宅サイトの 「浮世で心地よく暮らすには」 というコラムでも読んで、鬱憤を晴らしていただきたい。

さらに、「このほかたとえば、緩やかな上り坂で速度が落ちると、車間距離が詰まり、後続車に連鎖的に伝わり、渋滞する。こうした自然渋滞が本質的で、全体の三割を占める」 と、西成助教授は述べておられる。

私は 「自然渋滞」という言葉が嫌いだった。「自然に渋滞するような道路なんか、作るんじゃない!」と思っていた。しかし、こうしてみるとある意味、「自然に起こる渋滞」というのも、確かにあるようなのである。考えを改めなければならないようだ。

ちなみに西成助教授は、渋滞の中では追い越し車線よりも走行車線を走る方が、比較的スムーズに走れるということを、実験データで証明されている。

しかし私の経験では、こんなのは、渋滞の中だけではない。いわゆる「微妙な状態」にある片道 3車線の高速道路では、一番左側の走行車線がもっともスムーズに走れる。詳しくは、本宅サイトの "高速道路と「キープレフト」" を参照されたし。証拠写真をたっぷり入れて説明してある。

ただ、この情報が行き渡ってしまうと、せっかくのノウハウが効かなくなってしまう虞れもあるのだが、まぁ、いいか。

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2006年5月 7日

"Re" って、何の略?

以前にも書いたことなのだが、「今日の一撃」 がココログに移行する以前の話なので、改めて書いておこうと思う。

"Re" という語の意味である。そう、メールの返信や、BBS のレスに付けられる符号だ。これは、一体何の略なのか、どう読むべきかという、重箱の隅的な話である。

実は、これにはいろいろな説がある。"Return" の略だという人もある。しかし、メールの返信なら少々それらしい気もするが、BBS のコメントのレスにもつくのだから、あまりドンピシャリの説明とも思えない。

それでは "response" の略かというと、そうでもないらしく、さらに "reply"の略というのも違うようだ。いずれにしても、これら「返信」という意味にとらわれると、少し見当外れになる。実は、「~に関して」ということを表しているのだ。

私自身、外資系の団体に勤めていた 1980年代から、さんざん "Re: ~" というタイトルの文書を書いた。その頃は、ずっと "regarding ~" の略だと思っていた。「~について、~に関して」 といったような意味合いである。

周りの同僚も、多分皆そう思っていたようで、声に出す場合は "regarding" と読む者が多かった。

もう一説には、"in reference to ~" の略とも言われている。意味としては "regarding ~" とほとんど同様だ。

ところが、よく調べてみると、 "re" というのは他の単語や熟語の省略形でもなんでもなく、それ自体で一つの単語だったのである。

The Random House Dectionary で引くと、法律や経済の世界の述語となっていて、意味は "with reference to" ということになっている。"in reference to" とほとんど同じ意味だ。どうやら元はラテン語の前置詞か何からしい。

ちなみに、読み方は [rei] とか [ri:] とか発音するようだ。そのまんまでいいのである。

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2006年5月 6日

1人殺すも 10人殺すも

ululun さんが 「煩悩即道場」 で、妙な質問について考察しておられる。(参照

「一方では1人が、もう一方では10人が死にかけていて、どちらか片方しか助けることができません」 という状況において、「あなたはどういった行動をとりますか?」 という質問だ。回答は四択となっている。(参照

四択は、以下の通りである。

・ 10人を助ける(1人は助けられません)

・ 1人を助ける(10人は助けられません)

・ 両方を助ける(どちらも助けられません)

・ どちらも助けない

四択のうち、どれを選んでも最低 1人は見殺しにすることになる。最大値は 11人の見殺しだ。

どうせ誰かが助からないのなら、死ぬのは最低限の 1人に留めようという意識からだろう。寄せられた半分以上は、10人を助けて 1人を助けないという回答になっている。最大多数の最大幸福というか、最小少数の最小不幸を求めた結果だ。

この質問の意図は何だろう。「命の重さ」 を考えようということだろうか。しかし、まともに答えようとすればするほど、「命の軽さ」の方が印象付けられてしまう。

私はこの質問を見て、反射的に 『無門関』 の第五則、「香嚴上樹」 という公案を思い出した。

断崖上にある樹の枝に口だけでぶら下がっている。その時、下の方から「祖師西来の意如何 (達磨大師は何故に天竺から中国に坐禅の修行を持って来たのか)」と問う人があった。答えなければ、禅の礼儀を破ることになり、口を開いて答えれば、谷底に落ちる。さあ、どうするかというものだ。

こういうのを「両刀論法」という。言葉の上では、どっちを選んでも致命的という論法だ。この論法の罠にはまらないためには、その土俵から一歩外に出さえすればいい。

土台、質問自体が机上の空論である。「10人を助ける」と答えた人が、実際の切羽詰まった状況で、本当に 10人助けられるという保証は全くない。だから、禅問答における正しい答えは 「馬鹿者め!」 と言って、頭をピシャリとぶつぐらいのことでいいのかもしれない。

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2006年5月 5日

「にじよじ」のまつや

最近、とんと酒が弱くなってしまった。どこに行くにも車を運転することが多いので、酒量が減っていた上に、サラリーマンを辞めて、付き合い酒まで減ったせいだと思う。

元々それほど酒に強い体質というわけでもなかったので、日常の「鍛え方」が鈍ると、自然に酔いの廻りが早くなる。

20代から 40代まで、私も結構酒を飲んでいた。案外行儀のいい酒飲みで、やたらと朗らかにはなるが、酔って他人に迷惑をかけたことは、ほとんどない。

一部記憶の飛んでいる部分もあるが、その間に無茶をやらかしたということもないはずだ。酔いつぶれた友人の世話をした覚えはいくらでもあるけれど。だから私の酒酔い勘定は、大幅黒字である。

私が一時酒を結構いけたのは、ひたすら鍛錬の成果である。何度も吐くほど飲んで鍛えたのだ。しかしその場合でも、トイレでこっそり吐いて、廻りには気付かれないようにしていた。

遺伝とか血統的なことを言えば、私の父方は完全な下戸で、母方は大酒飲みである。

父の家系は全員、本当に酒を飲めない。父は辛うじてお猪口 1杯なら美味いというが、2杯飲んだら、心臓バクバクで死にかねない。一転して、母方の親類はやたらと飲む。いくら飲んでも顔色が変わらないというほどの酒豪が多い。

私はその中間を取って「そこそこに飲む」程度である。いや、元々は父方 7分に、母方 3分程度のミックスで、どちらかといえば酒には弱い方だったと思う。せっかく鍛錬で補っていたのに、近頃、地金が出てきてしまっているのだ。

先日午後 4時前ごろに、神田のまつやに行った。老舗の蕎麦屋である。6時に仕事上で人に会う約束があり、その日はまともな昼飯にありつけなかったので、小腹ふさぎに、もり 1枚たぐっておこうと思ったのである。

近頃、「にじよじ」 という言葉がある。午後 2時から 4時の間に、ちょっと蕎麦屋酒を楽しもうかというような時に使われる。元々は、亡くなった杉浦日向子さんが言い始めた言葉だ。

間の悪いことに、 「にじよじ族」 のオアシスともいうべきまつやに入ったのは、その 「にじよじ」 の真っ最中だった。見回すと、もり蕎麦 1枚なんていう客は少数派で、皆いかにも美味そうに酒を飲んでいる。もう少しで誘惑に負けそうになった。

しかし、今回はぐっと堪えたのである。以前の私なら 2時間近くあれば十分に酔い覚ましができた。しかし今の私は、その自信がないのである。下手したら、仕事上のミーティングに赤い顔して行きかねない。

これからは仕事が一区切り付く前に「にじよじ」のまつやに行くのは、止めとこう。ちょっと誘惑が強すぎる。

 

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2006年5月 4日

新市長選挙

私の住んでいる地域も、この度の「平成の大合併」とやらで、隣の村と一緒になって、肩書きだけはめでたく「市」になった。

暫定的に、以前の町長が首長代行みたいな地位にあるらしいが、今月 14日に新市長選挙が行われることになっていて、今月 7日の告示前から宣伝カーがかまびすしい。

告示前だというのに、宣伝カーが候補予定者の名前をスピーカーでこんなにも発信し続けていられるのは、これは「選挙運動」ではなく、「〇▽後援会」 とか 「□△さんを市長に推薦する会」とかの活動という建前であるかららしい。

昨日も住宅地の一番奥まで宣伝カーが進入してきて、ちょうど我が家の前でストップし、大音響でがなりたてる。あまりうるさいから、せっかく心地よい春風を取り入れていた窓をこれ見よがしにピシャリと閉めたら、慌てて移動していった。

あまり反感を買わないように「うるさがられたら、即、移動」というマニュアルでもあるかのようだ。ということは、あからさまにうるさがられるまでは、どんどん候補予定者の名前を売り込めということなのだろう。

ならばこちらも宣伝カーが来るたびに、早めに「あからさまに」うるさがるそぶりを見せればいいということだな。生活の邪魔をされないためのノウハウとして、よく覚えておこう。

それにしても、7日の告示から 14日の選挙まで、たった 1週間の選挙期間しかないというのは、公職選挙法で規定されているのだが、実情にそぐわない気がする。

市長選挙ごときに、あまり金をかけないようにするためなのだろうが、実際は既にこんなに金がかかってるし。それに、期日前投票を行うにしても、それができる日程は、事実上、4~5日に限られるし。

早めに告示してくれれば、その間の選挙運動は法律できっちりと制限されるから、「後援会」や「推薦する会」の野放しの運動よりは、うっとうしさが抑えられるだろうに。

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2006年5月 3日

メタファーとロジック

本宅サイト「知のヴァーリトゥード」 でとりあげた「どうして鏡に映ると左右が反転して見える?」というテーマに関して、響 (ひびき) さんという方が、理系の視点から説明してくれている(参照) 。

今まで見た理系の視点からの説明の中で、最もシンプルでわかりやすい説明だと思う。これなら、文系の私も納得だ。

同じ X軸、Y軸、Z軸 を用いて説明するのでも、彼の説明はとても簡潔だ。

左右も上下も反転などしない。
鏡方向をZ軸とするなら、それが反転するだけである。

(中略)

反転するのは前後だけです。

要するに、たったこれだけである。これだけでわかりにくいなら、上記のリンクから彼のブログに飛んで、図をご覧頂けばいい。納得である。

しかし「視線の方向が裏返っただけ」という私の説明と、彼の 「鏡方向をZ軸とするなら、それが反転するだけである」 という説明は、よく考えてみると、同じことを言っている。彼の規定する「Z軸」というものを、私は「視線の方向」と呼んでいるというだけだ。

これは、どちらの言い方が馴染みやすいかという問題に過ぎないような気もする。ただ、それで済ませては面白くも何ともないから、ここでは「馴染みやすさ」の要因というものを、少し探ってみようと思う。

私にとっては、「視線の方向」という言い方がとてもしっくりくる。単なる鏡像以上のことまで言及するための、哲学的第一ステップのような雰囲気すら漂うのも、気に入っている。

しかし響さんにとっては、「Z軸が反転するだけ」という言い方が、余計なニュアンスを取り去った純粋論理に近いもので、その方がずっとクリアな感じがするのだと想像する。

私のレトリックはある程度「含み」を持たせることによって、他のことを語る場合のメタファー(暗喩)として用いやすいという要素を、意識的・無意識的に関わらず、求めているところがある。文系の文系たる所以である。

それに対して響さんの説明は、恣意的な要素を省き、「鏡像という抽象的事実そのもの」にフォーカスしている。余計な含みを持たせたら、「事実そのもの」が曖昧になってしまうとみることも、確かに妥当だ。

極論すれば、メタファーとして語るかロジックとして語るかということに尽きるだろう。同じ事を語っても、こうした違いがある。そして違いがあるからこそ、世の中は面白い。

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2006年5月 2日

巨人戦の視聴率

今シーズン開幕後の 4月の巨人戦視聴率が、過去最低の 12.6%(関東地区)にしかならないらしい。(参照

そりゃそうだ。野球中継なんて、今や世の中の 4分の 1しかいない「オジさんのコンテンツ」で、さらに、巨人ファンはそのまた半分程度しかいないのだ。妥当な数字じゃないか。

「巨人、大鵬、玉子焼き」といわれた時代じゃあるまいし、野球以外にもいくらでも見るべきものがある。

ウチには妻が 1人と、娘が 3人いる。この女 4人は、野球なんて全然興味がない。ルールすら知らない。彼女らは野球シーズンが始まると、見たいテレビ番組が減るので、不満たらたらなのである。

あまりテレビを見ないラジオ派の私も、野球シーズンはシーズン・オフにやっていた面白い番組が軒並み終わってしまい、どこにダイヤルを回しても同じ巨人の試合をやっているので、つまらないことこの上ない。

つまり我が家は、100%「野球なんて見たくない、聞きたくない」派なのである。

我が家が極端な例だとしても、「野球を見たい、聞きたい」派が家族の半数以上という家庭は、そんなにないだろう。大抵はオヤジ一人がナイター中継のテレビの前で、だらだらとビールなんぞ飲んでいるだけである。

オヤジが残業で遅くなれば、家族はせいせいして野球以外の番組を見る。ナイター中継は、多くの家庭で「邪魔者扱い」なのである。野球関係者はその現実に気付かず、まだ「国民的スポーツ」だなんて思っている。

とくに今年は、春先の WBC で、野球ファンまでお腹一杯になってしまった。さらに、巨人が強すぎるものだから、もう秋の結果が見えてしまって、しらけている。

強すぎる巨人を作ってしまった関係者は、マーケティング感覚が決定的に欠如していると思う。

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2006年5月 1日

ぐうたらの先走り

ウチのサイトは、土日、祝日には、ガクンとアクセスが減る。会社の PC でアクセスしてくれる人が、とても多いみたいなのだ。

普通の休日でも減るのだから、年末年始や GW は、帰省や旅行でパソコンに触れられない人が多くなるので、さらに減る。で、こちらとしても、「力まない更新」をしようと思う。

これまで、「力の入ったエントリー」を書き上げて、夜中の日付の変わる頃にアップロードし、「ありゃ、そういえば、今日は土曜日だった」なんて気付くことが、かなりあった。土曜日というのは、なぜか平均すると当サイトで一番アクセスの少ない曜日なのだ。

私はこれで、妙にウケを狙いたがるところがあって、客足の少ない土曜日に「ここ一番」みたいなエントリーをアップしてしまうと、なんだか損したような気になってしまうのである。「月曜日までとっとけばよかった」なんてケチな考えを起こすのだ。修行の足りないことである。

で、アクセスの少ない GW なので、いっそ、その修行の足りなさを遺憾なく発揮して、ぐうたらな更新をしてしまおうと思っているわけである。なにしろ、こうして書き始めているくせに、ネタのことまでは、まだ考えが及んでいない。

せっかくアクセスしてくれた貴重な読者には、はなはだ恐縮なのだが、たまには、こんなぐうたら更新があってもいいだろうぐらいに、寛大に思って頂ければ幸いである。なにせ、ゴールデンウィークだし。予報によれば、天気もいいようだし。

で、仕方ないから、ちょっと得意の旧暦ネタにふろうと思う。新暦では今日から 5月だが、旧暦では、まだ卯月(4月)の 4日である。旧暦が皐月(5月)になるのは、今月の 27日だ (と、当たり前のことで苦しい前フリにする)。

てことは、このところ、旧暦と新暦の差が、1か月ないのである。1か月半ぐらいの差があることも普通なのに、今年の 5月は、たった 27日遅れで旧暦が新暦を追いかけている。

実は、これでは差が詰まり過ぎなのだ。それで、今年の旧暦は、文月(7月)を 2度繰り返すことになっている。いわゆる、閏 (うるう) 7月だ。その間に、新暦をどんどん先に行かせてしまうのである。

それで、2度の 7月でもたついた旧暦が ようやく葉月(8月)に入る頃には、新暦はもう 9月 22日まで進んでいて、ちょうど頃合いの間隔になる。

こうでもしないと、来年の旧正月が早くなりすぎて、寒の真っ直中になり、「新春」の名に値しないことになってしまう。閏月のおかげで、来年の旧正月の元旦は、新暦でいえば、立春もとっくに過ぎた 2月 18日になり、まさに「新春」と呼ぶにふさわしい頃合いとなる。

こんなこともあって、私は新暦の元旦に届く年賀状に、「賀春」とか「迎春」とか「新春のお慶びを申し上げます」とかとは、絶対に書きたくないのだよね。だってそれは、旧正月の台詞であって、寒の入りを前にして言うことじゃないだろう。

しまった、今気付いたが、このネタは、今年の 12月頃の「旬」の時期まで取っておけばよかった。ぐうたら更新をするはずだったのに、土曜日に力んだ更新をする以上の先走りを演じてしまった。

でも、ちょうどいい落ちになったし、それに、今日は一応月曜日だし、まあ、いいか。

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