「雨の中の私」をめぐる冒険
「雨の中の私」という心理テストがあると知った。非行少年の家庭環境や養育歴などを探る精神分析的手法として、各地の少年鑑別所で採用されているもののようだ。
最近、雨の中の自画像を描かせると、ずぶ濡れの絵を描く子どもが増えていて、親から庇護された体験の乏しさを表すという。
このことについては、5月13日付毎日新聞の社説で、論説委員の三木賢治氏が取り上げている。「雨の中ずぶ濡れの子は、無責任な親のせいだ」という、比喩的ながらそのものズバリのタイトルだ。
このテストについて、三木氏は以下のように説明している。
とくに親子関係を通じた安全感覚があぶり出されるといわれ、一般には大切に育てられ、親に守られている子供は当たり前のように傘をさす姿を描く。一方、親から庇護(ひご)された体験に乏しい子供は、自分を防御する力が不十分なため、雨にもなすすべがなく、ずぶ濡れになる自分を描く。ストレスにさらされた痛々しい心の内の表れ、と考えられる。
また、「少子化で、補導・逮捕の人数には歯止めがかかったのに、依然として人口比が高いのも気がかりだ。非行に走る少年の割合が増えているからだ」「養育上の格差というより、親の格差というべきかもしれない」とも述べている。
この話題への反応の一つのパターンとして、「だから、愛国心だの教育基本法の改正だのという前に、人間性を重視する教育、政策が必要だ」という主張がある。なるほど、とてももっともらしく聞こえる。
しかしその主張に対して、「ちょっと待てよ」と言うのは、より自然なことだ。だって、考えてみれば、現在増加中といわれる 「雨の中でずぶ濡れの私を描く子どもたちの、その親は、愛国心を教えない今の教育基本法で育てられた世代なのだから。
今現在の状況の方に問題があるのではないかと考える方が、より自然である。
団塊の世代、そしてその少し年下の私の世代あたりまでは、戦前派もしくは戦中派の親に育てられた。我々の世代の親の多くは、無条件で子どもを愛してくれた。体罰としてぶっ飛ばすことがあっても、それは強い愛情ゆえのことである場合が多かった。
もしかしたら、「愛国心」と「子どもを愛する心」というのは、かなり同じ根っこのものなのかもしれない。
「子どもを愛する心」と「子どもに『いい暮らし』をさせるために教育ママになること」との区別がつかない人と、「愛国心」の対象となる「国」と「国家の現政治体制」の区別がつかない人との間にも、共通性があるような気がする。
「何がどうあっても、お父さんとお母さんは、お前の味方で、体を張ってでもお前を守るからね」という気持ちをもっている親の子どもは、概ね幸せである。国の場合も同じである。
ただ、自分の子どもばかりを思うあまり、子どもの個性を無視した無茶な要求をしたり、他の子どもに邪険に当たり始めたら、子どももねじくれる。これもまた、国の場合と同じである。愛するにも、見識は必要なのだ。
改めていうまでもないほど、とても単純なお話なのだが、妙な理屈をこね出すと、この単純なお話が単純でなくなる。
ちなみに私自身の場合は、親からちゃんと傘を買ってもらっても、必ずどこかに置き忘れて、ずぶ濡れになってしまう親不孝な子だった。
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