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2006年5月 9日

詩人は改札口でしゃがむ

吉行理恵が亡くなったというニュースに、ちょっと驚いた。そして、書棚にあったはずの『吉行理恵詩集』を探したのだが、どうしても見つからない。

どこに消えてしまったのだろう。あれは、古本屋に売り払うような本でもないし、誰かに貸したままになっているのかもしれない。

私が吉行理恵の詩を読んでいたなどというと、意外に思う人もいるかもしれない。「あんなナルシスチックな少女趣味は似合わない」とかね。しかし、一時はいくつかを暗唱できるほど読んでいたのだ。

もう 30年も前に買った本だから、誰に貸したのかも、覚えていない。いつも思うのだけれど、いい本ほど貸したら戻ってこない。だから、貸すときはあげてしまうつもりでいなければならない。

一番好きだったのは、「改札口で」という詩だ。ここに引用しようと思ったが、いかんせん、今となっては、全部は覚えていない。詩集が行方不明になってしまったので、確認することもできない。

薄暗い改札口に
私はしゃがんでしまいました
何となくかさばった
紙袋を抱え込んで

どこまでも空は 澄んでて
豆の花の咲き乱れてる
子羊のいる場所 (ところ) へ
私はでかけるつもりでした

(中略)

ふいに 切符の買い方が
わからなくなってしまったから

薄暗い改札口に
私はしゃがんでしまいました

発車電鈴(ベル)の鳴響いてるのを
聞かないわけではなかったけれど……

初めから切符の買い方を知らないような、深窓の令嬢というわけではない。いつものように出かけるつもりだった。ところが、なんなくこなしていた「切符を買う」という行為が、急に遠離っておぼろになってしまう。

それで、薄暗い改札口にしゃがんでしまうのである。自分を取り巻く空間感覚が変わってしまったのだ。いつもの日常じゃない。そうなったら、しゃがんでしまうしかないではないか。

そんな中で立っていられるとしたら、それは偽物の自分である。偽物になりたくなかったら、いくら甘ったるいナルシシズムと誹られようと、しゃがむしかない。弱々しげに見えるが、実は断固としてしゃがみこむのである。

ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまっても、それに気づけない人は、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら通り過ぎてしまうだろう。私は、しゃがんでしまえる人の感受性を信頼する。

書棚から彼女の詩集が消えてしまっていることを知って、私も一瞬しゃがみそうになった。そして、知らぬ間に消えてしまっていること自体が、吉行理恵の詩のようだと思った。

(詩は、翌日改めて詩集を買い求め、引用した)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

「ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまう」って、想像すると怖いことなのだけど、しゃがんでいいのですね。しゃがんでじっとして、また立ち上がることができるんですよね。

吉行理恵さん、お兄様に再会できたでしょうか。ご冥福をお祈りします。

投稿: Sato-don | 2006年5月11日 00:54

Sato-don さん:

>「ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまう」って、想像すると怖いことなのだけど、

子供の頃って、案外頻繁にあったような気がするんですよね。
しゃがんだり、寝込んだりしましたよ。^^;)

ウチの長女は、杉並から今のつくばに引っ越してきた頃、
まだよちよち歩きだったんですが、
文字通り、完全に空間感覚が狂ってしまったようで、
しゃがみこむ時期が長くて、心配したりしました。
復活まで1年ぐらいかかったような気がします。

あれって、かなりのダメージだったんだろうな。
立ち直ってくれてよかった。

大人でも、たまぁにありますよね。
足元ガラガラ的感覚。

遠慮なくしゃがんだ方が、きちんと復活できるんだと思います。

投稿: tak | 2006年5月11日 12:01

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