詩人は改札口でしゃがむ
吉行理恵が亡くなったというニュースに、ちょっと驚いた。そして、書棚にあったはずの『吉行理恵詩集』を探したのだが、どうしても見つからない。
どこに消えてしまったのだろう。あれは、古本屋に売り払うような本でもないし、誰かに貸したままになっているのかもしれない。
私が吉行理恵の詩を読んでいたなどというと、意外に思う人もいるかもしれない。「あんなナルシスチックな少女趣味は似合わない」とかね。しかし、一時はいくつかを暗唱できるほど読んでいたのだ。
もう 30年も前に買った本だから、誰に貸したのかも、覚えていない。いつも思うのだけれど、いい本ほど貸したら戻ってこない。だから、貸すときはあげてしまうつもりでいなければならない。
一番好きだったのは、「改札口で」という詩だ。ここに引用しようと思ったが、いかんせん、今となっては、全部は覚えていない。詩集が行方不明になってしまったので、確認することもできない。
薄暗い改札口に
私はしゃがんでしまいました
何となくかさばった
紙袋を抱え込んでどこまでも空は 澄んでて
豆の花の咲き乱れてる
子羊のいる場所 (ところ) へ
私はでかけるつもりでした(中略)
ふいに 切符の買い方が
わからなくなってしまったから薄暗い改札口に
私はしゃがんでしまいました発車電鈴(ベル)の鳴響いてるのを
聞かないわけではなかったけれど……
初めから切符の買い方を知らないような、深窓の令嬢というわけではない。いつものように出かけるつもりだった。ところが、なんなくこなしていた「切符を買う」という行為が、急に遠離っておぼろになってしまう。
それで、薄暗い改札口にしゃがんでしまうのである。自分を取り巻く空間感覚が変わってしまったのだ。いつもの日常じゃない。そうなったら、しゃがんでしまうしかないではないか。
そんな中で立っていられるとしたら、それは偽物の自分である。偽物になりたくなかったら、いくら甘ったるいナルシシズムと誹られようと、しゃがむしかない。弱々しげに見えるが、実は断固としてしゃがみこむのである。
ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまっても、それに気づけない人は、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら通り過ぎてしまうだろう。私は、しゃがんでしまえる人の感受性を信頼する。
書棚から彼女の詩集が消えてしまっていることを知って、私も一瞬しゃがみそうになった。そして、知らぬ間に消えてしまっていること自体が、吉行理恵の詩のようだと思った。
(詩は、翌日改めて詩集を買い求め、引用した)
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コメント
「ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまう」って、想像すると怖いことなのだけど、しゃがんでいいのですね。しゃがんでじっとして、また立ち上がることができるんですよね。
吉行理恵さん、お兄様に再会できたでしょうか。ご冥福をお祈りします。
投稿: Sato-don | 2006年5月11日 00:54
Sato-don さん:
>「ある時突然、空間感覚ががらりと変わってしまう」って、想像すると怖いことなのだけど、
子供の頃って、案外頻繁にあったような気がするんですよね。
しゃがんだり、寝込んだりしましたよ。^^;)
ウチの長女は、杉並から今のつくばに引っ越してきた頃、
まだよちよち歩きだったんですが、
文字通り、完全に空間感覚が狂ってしまったようで、
しゃがみこむ時期が長くて、心配したりしました。
復活まで1年ぐらいかかったような気がします。
あれって、かなりのダメージだったんだろうな。
立ち直ってくれてよかった。
大人でも、たまぁにありますよね。
足元ガラガラ的感覚。
遠慮なくしゃがんだ方が、きちんと復活できるんだと思います。
投稿: tak | 2006年5月11日 12:01