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2006年5月27日

デバイスと身体感覚

今月 13日にケータイを洗濯機で洗ってしまって、2年 2か月ぶりに機種交換(参照)をしてから、ちょうど 2週間めである。

今度の機種のデジカメ機能は、230万画素あるので、かなり使い物になる。和歌ログの写真を撮るには重宝しているが、本当に使いこなすには、まだまだ慣れが必要だ。

私のもう一つのサイト「和歌ログ」は、写真と和歌のコンビネーションで、何かを表現しようというか、はたまた、ただ単にのんびりしようというか、とにかく道楽的な試みなのだが、要は毎日毎日、写真を 1枚と和歌を 1首ひねり出さなければならないのである。

それで、今月前半まではどこに行くにも、カシオの Exilim というデジカメを持ち歩いていた。性能は 320万画素、光学 3倍ズームという、今となってはありふれたレベル以下なのだが、何しろ小型なのでとても重宝していた。

ところが今度のケータイは、230万画素、光学 2倍ズームと、デジカメには劣るが必要十分な機能なので、仕事での外出などの時にはデジカメを持たず、すべてケータイで撮影することにしたのである。

初めはどうせ安物のカメラの代替なのだから、ケータイで十分と思っていた。ところが、これが全然勝手が違うのである。「弘法筆を選ばず」というが、素人カメラマンは、カメラを選んでしまうのだ。

何が違うと言って、被写体に向かってケータイをかざすという行為に、拭いがたい違和感がある。

デジカメはさすがに、「撮影する」という行為に絞って人間工学を意識しているから、片手でもある程度思い通りの撮影ができる。しかしケータイはそうはいかない。

とくに、和歌ログの写真は横位置の構図を基本としているので、ケータイを横に構えることになる。縦に構えるのなら街中でいくらでも見かけるが、横に構えるというのはなかなか見かけない。それはそもそも、ケータイを横に構えるというのが、メチャクチャやりにくいからだ。

撮影というのは、機材に頼っているようでいながら、実は、身体性に密着した作業なのだということが、しみじみわかった。だからプロのカメラマンは、いくらデジカメを使っても、ファインダーを覗き込んで撮影するという、昔ながらの身体感覚を捨てないのだろう。

そういえば私もデジカメを使い始めた当初は、液晶を使わず、ファインダーを覗いていた。液晶を眺めて撮影できるようになったのは、液晶の性能がアップした現在の機種に買い換えてからである。

ファインダーから目を離して、液晶を眺めて撮影するという感覚にさえ、慣れるのに手間がかかったのである。ましてや、真ん中で折れ曲がったケータイを横ちょに構えて被写体に向けるなどというのは、全然ピンとこない。

ケータイで取った写真というのは、だから、とてもよそよそしいのである。自分が自分の視線で映したものという気が、あまりしない。「写した」というよりは、単に「写った」というイメージなのである。

ケータイ写真に自分のきちんとした意図を投影させるためには、この一種独特な身体感覚に、かなり慣れなければならないと思っていたところ、この機種は、液晶表示の部分を 180度回転させて (というか、ねじって) 折りたたむことができるということを発見した。

つまり、こうしてソリッドにしてしまえば、普通のデジカメのような感覚に近づけることができるのである。それでも、このポジションにすると、誤動作を避けるためか、サイドについたボタンを長押ししないとシャッターが切れないという問題があり、これはこれで感覚が狂ってしまう。

そんなこんなで、ケータイで撮った写真と比べると、デジカメで撮った写真が(実は大したことないのに)、かなりいい写真に錯覚してしまうのだ。これでは、「ワープロで書くと、文体が変わってしまう」 なんてことを言う人を笑えない。

私は原稿を書くのに手書きからワープロに変わった時、それほど違和感はなかった。しかし、撮影というのは、シャッターチャンスを逃さないことなど、かなり身体感覚的な要素が大きいから、慣れるのが大変なのだろうと思う。

ただ今回の問題は、手書きから性能のいいワープロに移行して、その後、突然性能の落ちるワープロを使うことになった場合の違和感に似ているといっていいかもしれない。

ワープロを使うことに初めから抵抗がある人というのは、文章を書くという行為が、単にテキストを作成するというよりも、自筆の中に自分の身体性を投影するという意識を強く持っている人なのかもしれない。

その場合の表現とは、「テキスト」のみならず、筆跡という「イメージ」とのコンビネーションによるものということになる。だとすると、原稿が活字になった時点で、表現のかなりの部分は失われていることになるのだが。

もしかしたらワープロも将来的に、筆者固有の筆跡をも再現するという方向に向かうことがあるかしれない。「色紙作成用ワープロ」とか、あるいは、「従来のワープロ、ひいては活字文化は、オリジナル表現のかなりの部分を損なっていた」だとか。

それを実現するには、かなりのメモリー容量が必要になるだろうが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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