« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月に作成された投稿

2006年6月30日

「告白」 … 今どきの恋愛事情

幸か不幸か、妻との関係が決して悪くないので、それにあぐらをかいたまま、この 30年近くも「恋愛」ということに関しては、アンテナを尖らせていなかった。

しかし、漏れ聞くところによると、今どきの恋愛事情は、ずいぶん面倒なことになっているらしいのである。

最近、「告白」という言葉がやたらと飛び交うのだが、これはどうも「恋愛業界用語」化しているらしく、要するに恋愛対象の相手に「好きです」とオフィシャル(?)に宣言するという意味で使われているようなのだ。

「エキサイト 恋愛結婚」 によると、今どきは恋愛における「告白」ということの重要性が非常に増大しているらしい。下記のように、とくに女性にとっては、正式な「告白」というセレモニーがないと、「付き合っている」という実感がないようなのだ。(参照

Q. 「付き合ってる」と言えるのはどこから?

3回以上デートしたら      18票      2.4%
告白があってから          613票    82.3%
手をつないだら               12票      1.6%
キスをしたら                  27票      3.6%
お泊りしたら                  34票      4.5%
その他                           40票      5.3%

ある意味、デートだの、手をつなぐだの、キスだのお泊まりだのは、あったとしても、それほど重要なファクターじゃないということだ。まあ、わからないでもないけど。

女性の場合ほどに圧倒的数字ではないが、男性においても「告白があってから」 というのが 3分の 2以上を占めている。(参照

問題は、それだけではない。「告白」だけでも不十分と認識されているケースも出てきている。大手小町というサイトに、次のような 「質問」 が寄せられている。(参照

相手から告白をされ、両思いであることがお互いに分かりました。
でも、告白のときに「好きだよ」と言っただけで「付き合おう」とは言われていません。
手をつないだり、ご飯を食べに行ったりはしたのですが、これは付き合っているのでしょうか?

これに対する反応としては、「付き合っていることにはならない」というものがかなり多い。「中学生とか高校生ならともかく、両思いだからって、付き合っている事にはならないと思います」なんていうのが典型的だ。

ふぅん、最近の恋愛というのは、かなり「きちんとした手続き」というのが重視されているのだな。「好きだ」という告白だけでは足りず、「付き合ってください」というオファーの確認までが求められつつあるようだ。

この問題について、最近の若い子たちとじっくり話したことがないので、あまりステロタイプなことを言ってもナンセンスになるだけだろうけれど、それでもなんとなく「マニュアル化された恋愛」なんて、オジサンじみたことを言ってみたくもなろうというものである。

私なんぞは、どうにも説明できない心情とか、宙ぶらりんな状況とか、自分でもコントロールできない思いとか、突き進みたい欲求と後戻りしたい欲求の相剋とか、そんなような、あいまいなものを全部含めた連続的なプロセスを、「恋愛」 というのだと思っていた。

これでも昔はいろいろあったのだけれど、こんなに面倒な手続きが求められるのだったら、恋愛だの「モテ」だのから身を引いてしまう「オタク」の心情も理解できそうな気がする。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月29日

歌舞伎座の開演時刻

昨日のお昼の TBS ラジオで、永六輔さんが、歌舞伎座の開演時刻について話をしていた。昼の部 11時、夜の部 4時という開演時刻は、やっぱり勤め人にはつらい。

どうして 1時半、6時半とかにならないのか。夜の部を 6時半開演にして休憩時間をひっつめれば、10時半には楽々終えられるのに。

確かに、江戸の昔は、歌舞伎は朝から始まって夜になる前に終わるものだった。つまり、芝居見物は、一日がかりでするものだった。これは、要するに、昔は照明が発達していなかったから、明るいうちに上演する必要があったということだ。

今はそんな必要はないのだから、勤め人が仕事を早めに切り上げて、5時か 5時半にオフィスを飛び出し、地下鉄で東銀座まで飛んでくれば、6時半の開演に間に合うといった設定にしてくれれば、とても助かるのだ。

現状では、昼の部は 11時に開演して、3時頃に終わり、夜の部は 4時に開演して 9時半頃までかかる。しかし、この間、昼飯時と夕飯時に、ほぼ 40分ぐらいの長い休憩時間があって、そのおかげで、開演時刻が早まっている。

そして、ここまで述べたとたん、永さんは「あぁ、そうか!」と自分で納得されたようだ。つまり、歌舞伎座の中の食堂のために、昼飯時と夕飯時の前の中途半端な時間に客入れをしてしまっていることに気付かれたのである。

うぅむ、勤め人が芝居を見にくいのは、劇場内の食堂の既得権保護のためであったのか。(ブツブツ……)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月28日

音節を無視した歌?

一部のブログや BBS で、6月 5日付朝日新聞朝刊の投書欄に載ったという、大嶽静男氏 (名古屋市瑞穂区 82歳) のテキストが、静かな話題になっている。

「君が代は日本語の音節を無視した歌」というものだ。残念ながら朝日のサイトにはないが、 mumurブルログ に転載されている。

投稿者である 82歳の大嶽氏は、ご自身のブログなんぞをもっておられないようで、それだからこそ、朝日の投書欄なんかに投稿したのだろう。もし、こんな奇天烈な内容を大まじめにブログで論じたりしたら、大炎上どころじゃない。

「大嶽さん、ブログなんておやりになってなくて、よかったですね」と言ってさしあげたい。こうしてみると、新聞の投書欄というのは、ブログに比べたらずっとロー・リスクなメディアである。その代わり、影響力もかなり衰退しているが。

大嶽氏の言わんとすることは、君が代は「つくづく日本語の音節を無視した歌」だが、「日本の国歌といえばこれしかないので、仕方ありません」ということのようだ。そして、最後に、結論じみた以下の感慨が述べられている。

でも、この国歌を歌わなかったり、歌う時に起立しなかったりする人を非国民呼ばわりするとなると、まるで私の記憶にある昭和10年代初期にタイムスリップしたような気がします。

ははぁ、要するに、これが言いたかったために、音節無視云々のいいがかりをつけておいでなのだね。もってまわった手続きだなあ。

自分を愛国者と思っている私(参照)だって、「君が代」に反旗を翻すだけで「非国民」呼ばわりするのは、かなりヤバイと思う。その点では、大嶽氏に同意する。天皇陛下ご自身も、君が代斉唱と日の丸掲揚は、「強制にならないように」とおっしゃっておいでだし。

しかし、そのことと「君が代」の「音節」云々は、まったく無関係のお話である。坊主を憎んで袈裟まで憎む以上に乱暴な論理展開だ。そしてそれ以前に、そもそも大嶽氏は、「音節」と「文節」の区別すらつかないご老人のようなのだ。

(参考まで)

音節 : 通常一まとまりの音として意識され、発音される単位。日本語ではほぼ仮名一字が一音節にあたる (Goo辞書

文節 : 文を、実際の言語として不自然でない程度に区切ったときに得られる最小の単位。 (Goo辞書

大嶽氏は、どうみても「文節」のことを間違えて「音節」と言っているとしか思われないのである。だから、この問題については、この程度の人をまともに相手にしても、仕方ないかもしれない。

しかし、「言葉のチカラ」を信じているはずの朝日の編集部が、何のチェックもなくそのまま掲載してしまったというのは、ちょっと恥ずかしい。

日本語というのは、その基本的性質上、「音節」を無視して発音するなんてことは、通常は、ほとんど不可能なんである。

名古屋の大嶽さんは、このブログなんて読まないだろうから、ご近所でこのお爺さんを知ってる人がいたら、このあたり、よく教えてあげてほしいぐらいのものだ。それから、もしよろしければ、朝日の投書欄担当スタッフにも。

話は戻るが、「君が代」のブレス(息継ぎ)は、「苔の」の部分が 1小節単位であることをを除けば、とても規則的に 2小節単位で設定されていて、いずれにしても、小節の途中でのイレギュラーなブレスは、1箇所もない。

そして、きちんとした検証をしていない名古屋の大嶽さんと、朝日の編集スタッフには意外な事実だろうが、「君が代」 の小節構造とブレスは、意味上の区切りである「文節」に、忠実に対応している。

確かに慣れないと歌いにくいかもしれないが、「椰子の実」(島崎藤村作詞・大中寅二作曲) ほどには、単語の途中で不意に上がったり下がったり飛んでしまったりするようなメロディでもない。(私は「椰子の実」が名曲であることを否定しているわけではない)

というわけで、大嶽氏の言っていることは、二重の意味で思い違いなのだ。そんなお粗末な投書を載せる朝日も朝日である。

ちなみに、上記の参照先の 「mumurブルログ」 のエントリーのコメントには、民謡「さんさ時雨」の例が出ているが、確かに、これこそ凄まじいものである。名古屋の大嶽氏が聞いたら腰を抜かしてしまうかも知れないが、私の妻の出身地、仙台あたりでは最も重要な祝い歌である。

「さんさ時雨」を知らない人は、試しに こちら で聞いてみるといい。文節無視どころか、音節の途中でブレスして、二つの音節に分けてしまうという離れ業にまでお目にかかれる。

「音もせできて 濡れかかる」の「濡れかかる」が「ぬうぅうぅれ、えぇかぁ、あぁか、あるぅ」になったりするのだから、それはそれは、すごいものである。音節無視とは、こういうのをいうのである。いや、音節を超越しているというべきか。

意識的に「文節」を無視して、斬新な効果を狙っているようにみえる J-Pop ですら、「音節」の無視という、ポスト構造主義的で超アバンギャルドな地平までには、未だ到達していない。「さんさ時雨」恐るべし 。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2006年6月27日

仏心とは四無量心是なり

昨日のエントリーで、奈良の高校生の放火殺人事件について触れ、その父親を「圧倒的暴君」と称してしまったが、これにはやや誤解が生じるかもしれないと、少し反省した。

多分、父親が「圧倒的暴君」だったのは息子に対してだけで、他に対してはとても円満な人格者だったのだろうと思う。

しかも、他から見たら父親は息子に対しても「教育熱心な、いい父親」ぐらいにしか見えなかっただろうし、息子のみが勝手に父を「圧倒的暴君」とみていただけなのだろう。しかし、それこそが大問題だったのだ。

父は医者として世に貢献し、それなりの高い地位につき、他からも尊敬される存在である自分に、かなりの満足感を得ていたに違いない。それだけに、そうした満足を得られるだけの境遇を、息子にも与えてやりたいと念願したのだろう。

それが、親としての愛であり、務めであると考えたのだろう。その「愛」と「務め」による行動が、息子の人生を、ひいては家族の人生まで破壊してしまおうなどとは、思っていなかったはずなのだ。

このあたりが、本当に難しいことなのである。「愛」というのは、その対象が身近であればあるほど、「我欲」の投影にしかならないことがある。離れた存在であれば軽い気持ちで許せることが、身近な者になると許せなくなったりする。

だから、自分の子どもに勉強を教えるのはとても難しい。客観的に見ることができなくなるからだ。「こんなことが、なぜわからないんだ」と、イライラしてしまう。他人の子ならそうならなくても、自分の子だとそうなりがちなのだ。

これが、「愛すればこそ」であるというのが、どうにも面倒なところなのである。

だから、仏教ではあまり「愛」ということを説かず、「仏心とは四無量心是なり」と説く。「四無量心」とは、直訳すれば「四つのとてつもなく大きな心」ということで、具体的には「慈・悲・喜・捨」である。二つに分けて、「慈悲」 「喜捨」 と言ったりもする。

公式的には、四無量心は、次のように解説される。

慈 : 人に幸福を与えようとする慈しみの心。
悲 : 人の悲しみを共に悲しみ、それを取り除いてやろうとする心。
喜 : 人の幸せを我が幸せとして、共に喜ぶ心
捨 : 人々を平等に分け隔てなくみる心

こうしてみると、それほど難しいことではなさそうな気がする。とくに、前の三つは、仏ならずとも、案外日常生活でも発揮していたりするものだ。もっとも、三つ目は前の二つよりは相対的に難しいかもしれないが。

しかし、本当に難しいのは最後の「捨」である。「自分は『人々を平等に分け隔てなく』みているよ」なんてことを言う人格者がいるかもしれないが、自分の身近な者に対してまでそうであるかというのは、かなり疑問だ。

「身近な者を愛するのは人情として当然ではないか」ということにもなるが、前述の通り、身近な者への愛は「我欲」の投影になってしまいがちというのも、「ありがちな人情」 なのだ。

だから「捨」とは、文字通り「捨て去ること」と思えばいいような気がする。「慈・悲・喜」の三段階を経た上での「捨」は、「とらわれを捨てること」、つまり「縛らない」ということだ。

愛の最終段階は「解放する」ということなのだね。仏道修行をしたら「人情」 を捨てなければならないというのが辛いところだが、本当のところは、「人情」 を止揚したところに「仏心」があるのだろう。とてつもなく難しいけど。

ちなみに、ジーコ・ジャパンは、「慈・悲・喜」 の段階を経ないで「捨」に行こうとしてしまったのが、間違いの元だったんじゃないかなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月26日

圧倒的暴君としての父親

母親と妹 2人が犠牲になった奈良の放火殺人事件で、逮捕された高校生の息子の供述からは、「圧倒的暴君としての父親 の姿が浮き彫りにされる。

殺意を抱いても、その殺意が父に直接には向かわず、結果的に他の家族に逸れてしまうほどの、ある種怪物的な存在である。

親が自分の意志を理不尽なまでに子どもに押しつけた結果、子どもが親に殺意を抱くというのは、珍しいことではない。その殺意が実行に移されてしまうことも、近頃では度々ニュースになっている。

しかし今回の事件がよりおどろおどろしい印象を与えるのは、父親に殺意を抱いた息子が、なぜか直接父親を殺すのではなく、母親と妹 2人を焼死させてしまったためだ。息子は、その殺意を直接父に向けることすらできなかった。それほど父を恐れていた。

父を恐れるあまり、その殺意は母親と妹 2人に向けられてしまった。父を殺す代償行為として、父ほどには圧倒的パワーを持っていない弱い存在を殺したのである。弱いものいじめでストレスを解消するという傾向の、最も悲惨なケースとなってしまった。

息子は父を恐れるあまり、殺すことができなかったのだが、殺されずに生き残った父親にとっては、直接殺されるよりもずっと大きな苦痛を味わうことになってしまった。それによって、息子の恨みは最大限にはらされたとさえ言える。

近頃、家庭における父親の存在感の希薄さが問題視されているが、その裏返しとして、ここまで圧倒的すぎる父親の存在も、やはり問題である。

医者として成功を遂げ、家族の中では非の打ち所のない完全な存在であった父。あまりにも完全すぎる故に、殺されることすらできなかった父。この家庭に欠けていたのは、「母性」 であったと思うのである。母親がまともに機能していれば、防げた事件だったかもしれない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月25日

宇宙の一番外側って?

ウチの BBS で、久しぶりに「かっこいいお兄さん」から公案が突きつけられた。「宇宙の一番外側,これを死ぬまでに見てみたいのであります」というものである。

だが、「宇宙の一番外側」って、一体何だ? この言葉の意味するところから、説き起こさなければならないかもしれない。

「宇宙の一番外側」を、仮に「宇宙の中心から一番遠いところ」と考えてみよう。もし、宇宙が有限だとしたら、それは「宇宙の果て」ということになり、逆に無限だとしたら、「一番外側」という境界的概念は存在しないことになる。

また、「一番外側」という概念は紛らわしいので、「一番」という修飾語を取り去ってしまうと、「宇宙の外側」ということになる。この場合、必然的に宇宙の有限性が前提となる。さて、宇宙に「外側 = 外部」はあるのだろうか。あるとしたら、それは一体どんなところなのか。

お釈迦様は、弟子に「宇宙に果てはあるのか?」と聞かれ、「そんなことを考えても無駄だよ」と答えたという。まあ、確かに無駄だろう。この場合の「無駄」というのは、功利的でないという意味ではなく、「無意味」だということだろう。

宇宙論を語ろうとしたら、日常的な概念としての「果て」というコンセプトは邪魔である。「宇宙の果て」は、あると言ったらあるのだろうし、ないと言ったらないという程度のものだと思っていればいいのだと思う。

私は以前、あるマイナーな雑誌に「インターネットで幽体離脱 宇宙の本質はバーチャル?」という原稿を書いたことがあり、「知のヴァーリトゥード」のサブサイト「Bit の哲学」の中に再録している(参照)。ちょっと長くなるが、以下に主要部分を引用しておこう。

突然、宇宙論である。何しろ凄い。「ビッグバン」の否定である。

そもそも「ビッグバン」を認めるとすると、それ以前の宇宙というのは、限りなくゼロに近い一点の中に、現在の宇宙を構成する質量がすべて詰まっていたはずだ。ということは、その無茶苦茶小さな塊の中心に向かって、この世の沙汰とも思えぬ想像を絶する重力がかかっていたわけで、それが急に拡散を始める(要するにビッグバンですな)などというのは、ちょっとやそっとのキッカケではできない相談だ。

考えうる唯一のキッカケは「神の一撃」( ! ) をおいて他にない。

つまり、ビッグバン理論を認めるということは、神を、あるいは控えめに言っても「神のような超越的存在」を認めることと、実はイコールなのである。

ところが、かの天才ホーキング博士は「神様のキックオフ」なんて戯言(?)を認めたら、天才科学者の沽券にかかわると思った。何しろ彼は、身体の不自由な自分を献身的に支えてくれていた妻が敬虔なクリスチャンであるという理由で、ポイと離縁してしまったというほどの筋金入りの無神論者なのだ。

彼はお得意の数式を駆使して、ついにビッグバンなどいう想像の産物の助けを借りなくても、現在の宇宙の姿を説明できるという理論を打ち立てた。

それによると、宇宙の本来の姿は「虚数」であったというのである。残念ながら文科系の頭の私にはこれ以上のもっともらしい説明ができないが、とにかく、宇宙の始源を「虚数」であると規定すると、その後の進展の説明に「ビッグバン」は要らなくなるらしい。それどころか、ホーキンス博士は「虚数こそが、この世の本当の姿なのかも知れない」などと、とてつもなくインスピレーショナルなことを言っている。

私なんぞに言わせると、博士のこの指摘の方がずっと宗教的なのではないかと思える。というのは、西洋的発想の「神」は、宇宙を創造した、つまり常にどっか外側にいて、とてつもない塊だった宇宙のモトを戯れに蹴飛ばしてみるような存在なのだが、東洋的発想では、神は決して外側にいるのではなく、神の、あるいは仏の自己実現が宇宙ソノモノなのである。

というわけで、ビッグバンを肯定するとしたら、宇宙の外側には「神様」があり、それを否定するとなると、「虚数」の内だの外だの言っても、我々の感覚ではイメージできないお話なので、要するに、そんなことを考えても無駄ということなのだろうね。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年6月24日

Yahoo からの迷惑メール?

「プロフィールが未設定となっております」 というタイトルのメールが届いた。中身は、「プロフィールが未設定となっておりますので、プロフィールを作成下さいませ。すべてが無料となっておりますので、……」 とある。

差出人は profile_page_mail@yahoo.com となっていて、一見、Yahoo からと錯覚される。

ところが、ちょっと考えればわかることだが、これは決して Yahoo からのまともなメールではない。

米国の Yahoo でフリーの ID を取得すれば、ドメインが yahoo.com のアドレスなんかいくらでも取れる。Yahoo Japan で ***@yahoo.co.jp のフリーメールアドレスが取得できるのと同様である。

「プロフィールを作成しろ」 なんていう重要な用件が、フリーメールのアドレスから届くわけがないではないか。要するに、これはどこの馬の骨かわからんやつからの迷惑メールである。

メールの本文は、こんな具合である。

プロフィールが未設定となっておりますので、プロフィールを作成下さいませ。
すべてが無料となっておりますので、ご自由にご利用出来ます。

↓のURLからプロフィール作成が簡単に行えます。
http://www.profile-page.com/?member&mail=(私のメールアドレス)

多分、これは上記の URL をクリックしてしまうと、私のメールアドレスが実効的なものであることが確認されてしまう仕掛けなのではなかろうか。だから、こんなメールが届いても、決してクリックしないように気を付けてもらいたい。

さらに、「プロフィールが未設定となっております」でググってみると、出会い系からの迷惑メールであるとの情報もあった。真偽のほどはよくわからないけれど、行った先のフォームかなんかに安易に個人情報を記入してしまったら、やっかいなことになるかもしれない。

最近は、差出人を防衛庁や日本経済新聞社などと偽った迷惑メールがあるそうで、そうしたメールに添付されている実行ファイルを開いてしまうと、ウィルスに感染するという例が多いそうだ。

そんなのと比べると、これは初歩の初歩と言えるものだが、それでもつい錯覚してしまわないように、注意した方がいい。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月23日

葬式に着る服は面倒くさい

アパレル・メーカーには、消費者からのクレームや問い合わせの電話が、案外頻繁にかかってくる。某月某日、あるメーカーに、こんな電話がかかってきた。

「おタクのレースのジャケット付きのスリーピースのブラック・フォーマル・スーツ、買ったんだけど、葬式に着てって大丈夫かしら?」

品番を聞いて照合すると、黒の半袖ブラウスに黒のスカート、その上に、黒の総レースのジャケットというデザインだ。その消費者は、お店で 「結婚式にも、葬式にも着ていけます」と言われて買ったのだが、いざ葬式の前日になって、「総レースのジャケットは、ちょっと派手過ぎないか」 と不安になったらしい。

問い合わせを受けたアパレル・メーカーの担当者は、自信満々答えた。「大丈夫です。葬式にでも着て行けます。黒のレース使いは、元々そういうものです。むしろ葬式の場には、それこそが正式な着こなしなんです」

うぅむ、立派な教科書通りの回答だ。文句なしである。ただ、教科書通りということなら、これでいいのだけれど、私はそれを聞いて、少しだけ取り越し苦労をしてしまったのである。

というのは、葬式に集まる一族郎党の中には、決まって口うるさいバアサンがいるものなのである。そしてそうしたバアサンに限って、ファッションの教科書なんて知ったこっちゃないのだ。

「まあ、あそこんちのヨメは、葬式にあんな派手なレースの服なんか着てきちゃって!」 と言い出すに決まっているのである。「半袖ブラウスの上にレースの服なんか着たら、腕が透けて見えちゃってるじゃないの!」

その日一日で済めばいいが、何年経ってもくどくどと同じことを言われるのである。たかがレースの服で葬式に出たというだけで。

もし、そんな雑音をシャットアウトできるだけの自信と威厳を持って、堂々と着こなしていけるなら、何の問題もない。しかしわざわざメーカーに電話をかけて聞いて来るという自信のなさでそんな格好をしていったら、いびりのネタになりかねない。

ファッションによっぽどのポリシーがあるのでなかったら、葬式に着ていく服なんていうのは、思いっきり当たり前の地味なブラック・スーツにしておくのが、一番間違いないのである。

電話をかけてきた消費者は、店員のセールス・トークに、まんまと乗せられてしまっただけとしか思われない。

その葬式に集まる一族郎党に、意地悪で口うるさいオバサンがいないことを祈るのみである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月22日

「器用さ」 の守備範囲

私の指先は、客観的に見れば決して不器用なわけではないと思う。PC のタッチ・タイピングができるし、ギターが弾けるし、蝶結びがきれいにできるし、箸の使い方だって上手だ。

それなのに、私は細かい指先仕事をするのが嫌いだ。時々、自分の不器用さに苛立ってしまうからである。

何でまた、そんなに不器用なわけじゃないのに、自分の不器用さに苛立つのか、この歳になるまでわからなかった。それが、近頃ようやくわかったような気がする。要するに、指先にも得手不得手があるのだ。「器用さ」にも守備範囲があるのである。

私の指先は概して、押すとか、つま弾くとか、絡ませるとかいう動きは得意なのだ。だから、上に述べた動きの他にも、ツボをおさえた指圧とか、あやとりとか、マウス操作とか、みじん切りとか、ドライバーでねじを回すことなどは得意なのだ。

しかし指先で細かい物をつまむとか、つまんで引っ張るとかいう動作は、どうも苦手なのである。

例えば、私は針の穴に糸を通すのが大の苦手だ。しかし正確には 「糸を通すこと」 だけなら、それほど苦手というわけではない。本当に苦手なのは、穴に通した糸の先をつまんで引っ張り出すことなのである。

何度やっても、針穴の向こう側にほんの少し出た糸の先を正確につまんで引っ張ることができず、妙なつまみ方をして、せっかく通した糸をまた引き戻してしまうのだ。だから私はこれまで 「針穴に糸を通すのが苦手」 と、不正確な思い込みをしてきたのである。

同様に、私は辞書を引くのが苦手だ。といっても、辞書を引くメソッドは、ほぼ完璧に理解している。50音だって、アルファベットだって、漢和辞書の部首索引だって、全然苦労しない。辞書のどのあたりのページを開けばいいのかは、ほぼ瞬間的に見当が付く。

何が苦労なのかというと、辞書のあのデリケートな薄いページを指先でめくるという物理的動作である。大雑把にパラパラッとめくるのは得意なのだが、問題は目指す項目に近づいて、1ページずつめくる段になってからの動作が、まどろっこしいのだ。

例えば、翻訳作業などでキーボードを打ち続けていて、ちょっと自信のない単語にぶち当たる。こんな時、以前ならばおもむろに紙に印刷された英和辞書を開いて単語を探した。

しかし、ただでさえページをめくるという動作が苦手なのに、直前までタイピングというまったく感覚の違う動作をしていた私の指先は、ますます不器用になる。というわけで、紙の辞書を引くのは、本当にイライラしていたのである。

だから私は、パソコンで辞書を引くという機能を本当にありがたく思う。

どんなにバッティングの得意な野球選手でも、苦手なコースがあるというのもうなずける話である。相撲取りが右四つとか左四つとかにこだわるのも道理である。書道家によって漢字が得意だったり仮名が得意だったりするのも、やはり当然である。

それぞれ、得意な守備範囲があるのだ。まあ、いずれにしても、私の最も苦手なのは金勘定なのだが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月21日

盗作の方が見栄えがいい?

まこりんさんが、面白いことを書いている。例の和田義彦氏の盗作疑惑で、一切の予見なしでみると、スギ氏のオリジナルよりも、和田氏の盗作の方が好みだそうだ (参照)。

下手するとブログが炎上しかねないが、まこりんさんの言いたいことは、私もかなりよくわかる。ある意味、もっともなお話だ。

まこりんさんのブログ経由で、スギ氏のオリジナルと和田氏の盗作を並べて検証しているサイトを知ったので、さっそく行ってみた(参照)のだが、なるほど、確かに「似ている以上」である。これを盗作と言わなかったら、世の中に盗作はなくなる。

それを十分に認めた上で、まこりんさんは、次のように書いておられる。

あらゆる先入観を排除して、和田氏の盗作作品を観賞する。

 ――結構好きだな、この絵。

 アルベルト・スギ氏のオリジナルと和田氏の盗作、予備情報まったくなしで、どちらの絵のほうが好みか、といわれたら、わたしは和田氏の盗作の方を、選ぶだろう。筆遣いや、色調など、些細な点なのだが、和田氏の作品のほうが、わたしの感性にしっくりくるのだ。

この点では、私もまこりんさんに同感である。和田氏の盗作の方が、なんというか、「こなれている」という印象を与えてしまうのだ。

しかし、これは当然といえば当然のことかもしれない。和田氏はオリジナルという土台の上に立って、それをさらに「進化」させるという作業に集中できたのだから。

優れた芸術作品を生み出すには、まず「発想」の部分でのイマジネーション、オリジナリティ、クリエイティビティといったもののほかに、その的確な表現を保証するだけの「テクニック」が求められる。

発想力だけでテクニックが伴わなければ、アートたり得ず、また、いくらテクニックがあっても発想力が貧弱ならば、二流の職人にもなれない。

和田氏の場合は、クリエイティビティのベースをスギ氏のオリジナルに全面的に依存できたのだから、あとは、仕上げ上のテクニカルな部分に集中できた。スギ氏のオリジナリティに、自分の優れたテクニックをプラスしたのだから、そりゃあ、見栄えがよくなるのも当然である。

もっとも、和田氏にもある程度の発想力がなければ、オリジナルを台無しにしてしまうというリスクもあったわけだが、それはさすがに避けられている。いくつかの例外を除いて。

もう完全に時効だから、白状しておく。

学生時代、ある授業で、友人のレポートを、丸写しとはバレないように、「てにをは」を多少変えて書き直し、提出したことがあった。その結果、オリジナルの友人は「良」で、私は「優」の評価だった。

どう考えても、私の文章の方がこなれていたというだけなのだが、それは、私がレトリックのみに集中できたために他ならなず、ベースはあくまでも友人の発想力である。

今回のお話も、次元はかなり違っても、まあ、そんなようなものなのではないかと思うのだ。コピーがどんなにこなれていたとしても、エライのは、元を作ったオリジナルである。

蛇足だが、その友人には私の方からもコピーの元をいくつか提供している。言い訳というよりは、やぶ蛇だが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月20日

博多、よかとこ

これまでにも、博多には何度も行ったが、いずれも仕事上のことで、博多の街をゆっくりと見る機会は、ほとんどなかった。

しかし、今回は 17日の土曜日に久留米に出張して、その夜は博多で一泊。翌日の日曜日は仕事から解放され、朝からほぼ半日、博多の街をそぞろ歩く幸運に恵まれた。

まあ、晴れ男の私であるからして、前日も降るには降ったが、傘をさすほどではなく、本降りの間は車での移動か、屋内での打ち合わせで、まったく影響なし。翌日の博多そぞろ歩きは、「暑か!」と、にわか博多弁が飛び出すほどに晴れてしまった。

初日は同行のカメラマンと中州の居酒屋で飲み食い。いつも思うが、博多の食い物は、平均点が高い。やはり玄界灘に面しているだけあって、とくに奮発しなくても、魚がそこそこ美味いのである。

宣伝してしまうけど、博多駅に近い「西鉄イン博多」は、一泊 6900円のビジネスホテルとしては、星を 4つぐらい付けたくなるほど文句なしだった。博多に出張するのなら、オススメと言っておこう。

二日目は、朝の 9時にホテルをチェックアウト。まず向かったのが、櫛田神社である。いわずとしれた「祇園山笠」の総元締め。とても雰囲気の明るい神社で、敷地内に「博多歴史館」がある。その近くには、「博多町家 ふるさと館」というのもあり、みっちり博多の町人文化のお勉強をしてしまった。

日本海に面した町人文化の街、酒田で生まれ育った私は、やはり町人文化の花開いた街というのは、肌が合う感じがする。もしかしたら、博多と酒田は、似たような語源から生まれた地名かもしれないし。

上川端商店街では、そこここで山笠作りが始まっていて、なかなか風情があった。

お昼には、かの有名な「かろのうろん」で「大盛りざるうどん」を食した。東京で食べる「博多うどん」は、全然大したことないが、本物の博多うどんは、さすがにちゃんとうまかった。これを機に、偏見はきっぱりと捨てた。

その後は、キャナルシティ博多を見て、住吉神社を参拝、午後 3時過ぎの飛行機で帰ってきたのだが、結論、「博多はよかとこ」 である。また行くことがあったら、さらにいろいろ見て回ろう。

今日は、サービス画像付き。

Hakata1
  行きの飛行機から見下ろした富士山

Hakata2
  櫛田神社の破風

Hakata4
  櫛田神社
  左は山笠の見物席になるらしい

Hakata5
  博多町家 ふるさと館

Hakata6
  ふるさと館にある博多織の織機

Hakata7
  山笠を作っているらしい

Hakata8
  巨大な飾り山笠

Hakata9
  その一部

 

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月19日

キュートネス・シンボル

「エビちゃんを AP が世界配信」という記事が目にとまった。(参照

ウチは年頃の娘が 3人いるので、そっち方面の情報には、その辺のオジサンよりはずっと詳しいつもりなのだが、「エビちゃん」に関しては、なぜかアンテナの感度が鈍い。どうも、興味のツボにはまらないみたいなのである。

AP の紹介記事によると、「エビちゃん」こと蛯原友里という雑誌モデルは、日本における「キュートの体現者」なのだそうだ。

「トヨタ、ソニーなど硬派な工業製品のイメージが強かった日本の産業が、近年はキティちゃんやポケモンなど『キュート』さで知られるようになった」と指摘していて、エビちゃんは、その「新トレンドの象徴」ということになっているのである。

記事中には、彼女が自らの「キュートさ」を磨くために、いかに努力しているかについて、次のような記述がある。

新トレンドの象徴とされた蛯原は「もしキュートと思っていただけない時は、理由を知って、もっとキュートでいられるように研究します」と、強い探求心を明かした。

すごいなあと思うのである。私は彼女のこのコメントに、現代日本の「キュートネス(キュート性)」の本質を見る思いがした。彼女にとって、「キュートであること」というのは、とりもなおさず、「キュートと思っていただけること」のようなのだ。

一見すると、かなり謙虚な姿勢のように思われるが、「思っていただけない時は、理由を知って、もっとキュートでいられるように研究」するとも言っており、要するに「何がなんでもキュートと思っていただくわよ!」ということで、実は結構「押し」が強い(私なりの別の言い方をすると「うざい」 のである。

その「押しの強さ」というのは、「みんなも、私ぐらいに努力すれば、『モテ系』 になれるわよ」というメッセージ性でもある。ははあ、なるほど。要するに彼女の存在意義は、そうしたメッセージ性なのだな。

そして、そのメッセージ性を「うざい」と感じる層もあり得るわけで、そうした層にとっては、彼女が努力を重ねれば重ねるほど、「うざい感」 が強まるというパラドックスになる。

とはいいながら、私は「そうした努力をもっと他の方面に振り向ければ……」といったような、ありがちなことは言わないことにする。そんな当たり前に迎合したら、彼女の存在意義がなくなってしまうのだから。

マリリン・モンローが「セックス・シンボル」なら、彼女は 「キュートネス・シンボル」なのだ。せいぜい「キュートと思われること」を持続してくれなければならない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月18日

蘇生譚をめぐる冒険

「死亡したと診断された94歳の老婆が突然むっくり起きあがり、ワールドカップの次のドイツの試合はいつか尋ねた」というニュースで、いろんなことを考えた。(参照1参照2

この話の受け取り方に 2通りある。「死んだ老婆が生き返った」と取るか、「死んでもいないのに、死んだと宣告された」と取るかだ。

「死んだ老婆が生き返った」 という解釈には、かなりファンタスティックな印象がある。普通は「死んでもいないのに、死んだと宣告された」 と受け取りたいところだろう。

しかし、その 「普通の解釈」 は、自家撞着に陥りかねない。なぜなら、一般には「死」は医者による「死」の宣告で周囲に納得されるからだ。

こうした場合、「死」とはとりもなおさず「死亡宣告」である。実際に死んでいようがいまいが、「死んだ」と宣告されたら、死んだのだ。だから、「死んだ老婆が生き返った」と言っても、全然不思議ではない。

厳密に言ったら、「死亡宣告」にも「誤診」はあり得るだろうが、普通は、たとえ「誤診」によって「死んだ」とされたのだとしても、放っておけば、ほどなく「本当に死ぬ」ので、その「誤診」はバレたりはしないのだろう。バレない誤診は「誤診」ではない。

そして、そうした「バレない誤診」の場合でも、「暫定的な死」と「本当の死」との境目というのは、誰にもわからない。わからないからこそ、医者の宣告をもって「死」と取り扱うという社会的合意が形成されている。もっとも、医学の世界でも論争はあるようだが。

昔ならば、今回のニュースのようなケースは、単純に「死人が生き返った」という奇蹟譚になった。そしてこの発想を厳密に否定することは、現代に生きる我々にもできない。

私は昨年初め、「人は死んでも生き返るか?」というエントリーを書いた。これは、長崎県の調査で、15%の子供が「人が死んでも生き返る」と考えているという結果が出たことについて、「ゲームの悪影響」などと単純に嘆く報道がなされたのを批判したものである。

テレビゲームのない昔から、民間伝承のなかに「蘇生譚」の類はいくらでもあったのである。聖書の中にだって、いくらでもある。

「死んだ人が生き返る」と信じる子供がいても、別にいいではないか。

最後に、件のエントリーに、同年 9月になってから追記したことを、もう一度コピペしておく。

たまたま、上記の 「長崎県のホームページにある調査報告書」 にもう一度行ってみたら、設問の文章が 「死んだ人が生き返ると思いますか」になっていた。1月の時点では、確かに 「人が死んだら生き返ると思いますか」 というものだったのだが。

調査結果を発表し、その後に設問の文章を書き換えるなんてことをしたら、まともな調査報告にならないではないか。困ったものである。

回答は、設問の文言によってかなり違ってくるということを指摘しておく。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月17日

カエルの鳴き声で眠れないって?

W杯でウクライナがスペインに惨敗したのは、宿舎周辺にいるカエルの鳴き声がうるさくて、夜眠れなかったからだそうだ(参照)。

「へぇ!」 である。私の住まいは歌にもうたわれた筑波の地で、すぐ裏手には小川が流れている。それは素晴らしい「合唱」が、夜な夜な鳴り響くが、「眠れない」なんてことはない。

いや、決して 「慣れてしまった」 なんていうわけでもない。最近こそ、カエルは減少の一途を辿っているらしいが、この地に引っ越してきた当初は、カエルの鳴き声は、今の何倍もすごかった。

しかも越してきたのは、カエルの鳴き声の最盛期、8月頃である。それはそれはものすごい大音響だった。それでも、なんのことなく眠れたのである。

当時、私は 2つの仮説を立てていた。

最初の仮説は、カエルの鳴き声は虫の音と同じなのではないかというものである。よく言われることに、虫の音は日本人にとっては情緒に訴える風情のあるものだが、西欧人にとっては雑音に過ぎないらしい。

日本人は虫の音を左脳で聞くが、西欧人は右脳で聞くからだというのである。これによって、「意味のある音」として聞こえたり、「単なる雑音」に聞こえたりするというのだ。

あるいは、カエルの声も左脳で聞いて、雑音ではなく「風情のある効果音」と認識しているのかもしれない。

しかしカエルの鳴き声は、虫の音ほどに意味のある音として感じられているかといえば、どうもそんな気がしない。少なくとも、それほどの「風情」は感じなくて、やっぱり雑音は雑音のような気もするのである。

それで、第二の仮説として、雑音にも「気になる雑音」と「気にならない雑音」というのがあるのかも知れないという考えが浮かんだ。カエルの鳴き声というのは、他のことに気を取られていると、気にならないのである。いわば「聞こえない音」になっているのだ。

太古の昔から、人間はカエルの住む水辺に居を構えていたのだろうと思われる。大昔の人間は、カエルの鳴き声なんかいちいち気にしていたら、生きていけなかったろう。だから遺伝子が 「聞こえない音」 にしてしまったんじゃなかろうか。

しかし、世の中にはカエルの鳴き声が気になって眠れない人種もいるのだと、今回のニュースで知ってしまったのである。どうやら、DNA レベルのお話じゃなさそうだ。

いや、もしかしたら、これはウクライナの代表選手の負け惜しみなのかもしれない。というわけで、本当のところは、さっぱりわからない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月16日

「名前を知る」 ということは

モーツァルトの名曲、「♪ パーンカ パーンカ パカパカパーン ♪」 のタイトルを知ってるかと問われて「アンネ・フランク・ナホトカ甚句」と答え、思いっきり蔑まれたことがある。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と知っていればこそ、ボケかませたのにね。それとも、ボケ方がまずかったのかなあ。

誰でも口ずさめるほど有名な曲なのに、そのタイトルは知られていないというのが、いくらでもある。「曲とタイトルが一致しない」というやつだ。クラシックやイージー・リスニングの定番に多い。

それと同様に、よくみかける花なのに、名前がわからないというのも、私の場合、かなり多くある。花自体は、あちこちで見かける。花の名前も、歌や詩、小説などに出てきてお馴染みだ。しかし、その花の姿と名前が、まるで一致しないのである。

子どもと一緒に道を歩いていて、「お父さん、あそこにきれいな花があるね。何ていう花なの?」と聞かれ、「うーむ、花だね」としか答えられないというのは、なかなか哀しいものである。

私は「今日の一撃 - Today's Crack」のほかに、「和歌ログ」というサイトをもっていて、毎日和歌を一首詠んで、もう 2年半になる。我ながら道楽なことである。

和歌なんか詠んでも、一文の得にもならないが、近頃、「花の名前を覚える」という副次的効果があることに気付いた。和歌を詠むのに、何でもかんでも「花」で済ますわけにもいかないので、いちいち図鑑で調べるようになったためである。

おかげで、誰でも知っている梅とか桜とか、薔薇とか紫陽花とかチューリップとかの他に、木槿(むくげ)とか薄紅葵とか、ロケットとかローズマリーとか、車輪梅とかいったものまでわかるようになってきた。

おもしろいもので、花の名前を知ると、こちらの名も、花に届いたような気がする。その花と、存在としての命がつながったような実感が湧く。

それで、6月 13日には、駅に向かう道端に生えている小さな白い花を見て、こんなような歌を詠んだ。

名も知らぬ道端の花その名前知れば我が名も花に届くか

出先で、モバイル PC を使ってその歌をアップロードし、家に帰ってから図鑑で調べたのである。その可憐な白い花に、我が名を届かせようと、健気な歌心を起こして。

その花の名は、あっけなく知れた。十薬(ジュウヤク)というのだそうだ。そして、またの名を「ドクダミ」というとわかった。なんだ、あれって、「ドクダミ」だったのか。

この瞬間、私の名はドクダミに届き、私の存在としての命は、ドクダミとつながった。複雑な気分がした。

とまあ、50歳を過ぎても、ドクダミの花を知らなかったほどだから、和歌はなんとか詠めても、俳句はどうにも苦手である。俳句は「季語」が必要で、その中で、季節の花の名前というのは、とても重要な役割を果たしているのだ。

思うに、ほんのちょっと文学的素養があって、その上で花の名前に詳しければ、誰でも立派な俳人になれる。私の知人はよく新聞に俳句を投稿して入選や佳作をとっているが、彼は生物の教師である。知らない花がないくらいのものだから、俳句は朝飯前である。

音楽のタイトルにしても、花の名前にしても、とにかく「名前を知る」というのは、とても重要なことだ。たとえば、何度会っても名前を覚えてくれない人がいたら、自分の存在が軽んじられているという気がするだろう。

「名前を知る」というのは、対象をリスペクトする第一歩なのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月15日

「スパンコール」 は日本語

ドレスのスパンコールがピラピラ~っと飛んで、おへそが見えてしまうというジンジャーエールの TVCM が受けているらしい(参照)。

スパンコールだけでできたドレスなんて、初めて見たというツッコミはおいといて、「スパンコール」という言葉は実は日本語で、英語圏では絶対に通じないという話をしよう。

スパンコールは、英語では "sequin" (普通は、複数形で "sequins")という。発音は、「スィークウィン」 という感じに近い。それで、いわゆる「スパンコール・ドレス」のことは、"sequined dress" という。

私は長い間、どうして "sequins" のことを日本では「スパンコール」なんて言うようになったのか、ずっと疑問だった。ところが、昨日ググってみたら、あっけなくわかってしまったのである。

「スパンコール」は、英語の "spangle" の訛りだというのである(参照)。"Spangle" を web 辞書で引いてみると、「スパンコール、ピカピカ光る装飾用金具、光りもので飾る」 と出てくる。

へぇ、「スパンコール」を英語で "spangle" ともいうなんてことは、初めて知った。しかし、私としては、実際の会話や文書で、スパンコールの意味で  "spangle" という単語が使われるのは、見たことも聞いたこともないぞ。

普通は、"sequins" だろうよ。これは、永らく繊維・ファッション関係のニュースを横文字にしたり日本語にしたりしてメシを食ってきた私のいうことだから、信用してもらっていい。

試しに、Google で検索してみると、"sequined dress" では約 51,600 件ヒットしたが、"spangled dress" では、わずか 514件と、1%以下だった。"Sequined dress" の圧倒的優勢勝ちである。ほうらね。

しかも、"spangled dress" でヒットした中には、日本発の 「ドラゴンクエスト」 関連のページが 100件以上紛れ込んでいて、「スパンコールドレス: Supanko-rudoresu (Spangled Dress)」とか、「Shimmering Dress = Spangled Dress」(光るドレス = スパングル・ドレス) とかいう、英語的にはちょっと怪しいのが多い。

よくわからんが、Supanko-rudoresu (Spangled Dress) というのは、3000 トークンで手にはいるらしい。

また、"star-spangle dress" というアイテムも多くて、それは、どうやら星の形をした飾りをチョコチョコと縫いつけた子供服のようなのだ。いわゆる「スパンコール・ドレス」からはほど遠いのである。

そんなこんなで、やっぱり、「スパンコール・ドレス」は "sequined dress" とする方が無難のようだ。

そうなると、"spangle" が「スパンコール」の語源であるとする説も、アクセントの位置も全然違うし。本当かなあという気がする。でも、まあ、ほかに根拠となりそうな材料もないので、必要以上のツッコミは自粛しておこう。

とは言いながら、まるで 「ワイシャツ」 が "white shirt" から来たと言われて、なんだか、うまく煙に巻かれたような気がするのと似た感覚である。だって、あれ、普通は "dress shirt" であって、"white shirt" なんて言わんもんね。

ちなみに「ぐっすり」という日本語が、英語の "good sleep" からきたという説が、巷の一部でとても有力なのだが、これは、はっきり「ガセビア」である。すでに、トリビアで沼に沈められてもいるようだ。詳細は こちら

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月14日

「謝るツボ」 の違い

港区のエレベーター圧死事件で、シンドラー社の幹部が記者会見を開いたが、責任逃れの印象を与えてしまい、評判が悪い。

これは、「とにかく謝っておけば間違いない」という日本の文化と、「重要事項では決して軽はずみに謝らない」という西欧の文化の衝突という様相を呈している。

西欧人というのは、とにかくよく謝る。道を歩いていて、ちょっと身体が触れただけで(ぶつかったというほどでもないのに)、すぐに謝る。かなりな衝撃でぶつかってもまず謝らない日本人とは、エライ違いだ。

ところが、このよく謝る西欧人は、交通事故など法律的な問題がからむことになると、とたんに謝らなくなる。"I'm sorry" と言ってしまったら、自分の非を認めたことになるから、急に慎重になるのだ。

要するに、彼らはちょっとしたことでは気軽に謝るが、重大問題ほど謝らないのである。

ちょっとしたことでは知らんぷりをしていて、大きな問題になりそうだと、とにかく頭を下げまくればなんとかなると思っている日本人とは正反対だから、かなり感情的な軋轢まで生じている。

今回の記者会見でも、「シンドラー幹部が謝罪」したと伝えられているが、記事をよく読めば、彼らが謝罪しているのは、法的責任を取らずに済む道義的な事項だけに限られていることに気付く。

彼らが謝っているのは、情報開示の遅れという初期対応の悪さにより、ユーザーに不安を与えてしまったということに関してのみである。ほかの事項では、一切謝っていない。

それどころか、「世界第二のシェア」を誇り、「構造や設計が原因の事例はない」と大見得を切りながら、原因はほかにあると言わんばかりの態度を示している。

原因究明が行われるまでは「軽はずみに謝らない」という態度については、それはそれなりに理解できるが、イメージダウンを懼れるあまり、強がりともみえる態度をとるのは、やはりちょっと「やり方がまずい」と言わなければならない。

きっと、まともなコンサルタントが付いていないのだろう。日本人のメンタリティを理解しないまま、自分たちのやり方を押し通そうとして、イメージを落としてしまっている。

過去にも雪印や JR 西日本、民主党など、不祥事を起こした時のリスクマネジメントがなっていないために、ますます問題をこじらせてしまった例がいくつもあって、その度に私はブログで嘆いているのだが、シンドラーも、少しはお勉強をしておくべきだった。

それにしても、シンドラー社のエレベーターというのは、公共機関でのシェアが高いようだ。その安い値段が、入札で強みを発揮しているのだろうか。国や自治体が、金をケチって危ないエレベータを導入し、さらにいい加減なメンテをしているんだとしたら、ちょっと恐いな。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月13日

ラグビーじゃないのに

正直言って、今回の W杯、私個人としては全然盛り上がっていない。初めから、ほとんど勝てそうな気がしていなかったし。

初戦のオーストラリア戦にしても、真夜中だったら見ないで寝てしまおうと思っていたのだが、10時からというので、それならばせっかくだからと、TV 観戦していたのである。

前半は 1-0 でリードしていたので、もしかしたらこのままいけるかとも思ったが、スーパーセーブを続けていた川口が調子に乗って前に出すぎて 1点を取られると、あとは浮き足立ってしまい、絵に描いたような逆転負けである。

ラグビーじゃあるまいし、サッカーでオーストラリア相手に、こんな負け方をしては困る。こうなると、残り 2戦は 1勝 1分けでもつらいし、1勝もできずに、1次リーグ敗退というのが、定石通りの考え方になる。

日本サッカーの将来のためには、その方がいいのかもしれない。所詮、ジーコの指導方針は、中学生に大学レベルのパフォーマンスを要求するようなところがあった。次期監督のもとで、選手の世代交代も含め、出直しである。

それにしても、オーストラリア、メチャクチャ荒削りだが、強いじゃないか。ヒディング、すごい。冷静に見たら、俊輔のゴールの時、柳沢が反則を取られていたら、0-5 ぐらいで負けていたかもしれないぞ。

こうなったら、ブラジル相手に、期待通りの「番狂わせ」を演じてくれるのを待とう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月12日

OLPC プロジェクトの副次的効果

OLPC プロジェクト」 というものがあるらしい。"One Laptop per Child" (子ども 1人に、1台のラップトップを)ということだ。

そのために、「100ドルPC」といわれる低価格パソコンの開発が行われているが、その副次的効果として、Linux の採用が世界中で大幅に拡大すると期待されている。(参照

OLPCプロジェクトの背景には、開発途上国の子供たちの教育レベルを上げるには、教師や学校を増やすよりも、子供たちがみずから学べる手段として、PCを与えることだという考えがある。

この考え方自体は、IT 業界の新規市場開拓という側面も色濃く反映されているので、本当に最良の方策かどうかについて疑問もあるが、1万円台で PC が入手できるというコンセプト自体は非常に魅力的だ。

というのは、現在主流である Windows パソコンが、本当に市場にマッチしたものかどうかについて、私は非常に懐疑的だからだ。

我が家の娘たちも、ほとんど毎日 PC に向かっているが、彼女らのニーズは、Word を使って複雑なドキュメントを作成することでも、Excel でスプレッドシートを作ることでもない。ウェブ・サーフィンと、メールの受発信さえできれば、ほかの機能はほとんどいらないぐらいのものだ。

まあ、簡易ワープロと、お小遣い帳程度の表計算、そして、年賀状や宛先ラベル、名刺が作成できる程度のデータベース機能、そして、写真や画像を少しだけレタッチできる程度の機能がプラスされても邪魔ではなかろうが、それでも、今の Windows XP なんて、どうみても「トゥーマッチ」である。

トゥーマッチなのは、我が家の娘たちレベルのユーザーにとってだけの話ではない。ビジネス・ユーザーのうちの半数ぐらいにとっても、同様だと私はみている。

途上国の子どもたちに向けて開発される PC は、実は、世界市場に広くマッチする可能性があると思うのだ。

マサチューセッツ工科大学 (MIT) メディア研究所の共同創始者で、同プロジェクトを主導する Nicholas Negroponte 氏は、「(Windows) ラップトップにかかる費用の 25%は XP を支えるためだけに使われている。それはまるで、太り過ぎた結果、自分の脂肪を動かすために
筋肉の大半を使っている人のようだ」 と語ったという。

私は、現在の PC 市場というのは、ヴィッツかマーチなどのコンパクト・カーで十分なユーザーに、一律にクラウンを押しつけているようなものだという気がしている。マイクロソフトという企業に仕事を与えるためだけに、新しい PC を買うような愚は、もう避けたいものだと思う。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月11日

バイリンガル脳というもの

「バイリンガル脳」というのがあるらしい。ものごとを英語で考えられるほど上達した人は、脳の特定部位が活発に働いていることが、日英の共同研究で確認された。

その部位が損傷すると、語学が得意な人でも、外国語でものを考えられず、翻訳して考えるようになるという(参照)。

問題の脳内の部位というのは、大脳奥にある尾状核(びじょうかく)というところだそうだ。日本人とドイツ人の、英語を話せるバイリンガル 35名の参加で実験したところによると、母国語に翻訳せず英語でものを考えるときは、この部分の左側が非常に活性化していた。

実験を行った京大の福山秀直教授は、「尾状核は『英語脳』『日本語脳』を切り替えるスイッチ役ではないか。ここが十分に成熟してから語学を学べば、使い分けがうまくできるようになるかも知れない」と語っているという。

尾状核がいつごろからうまく機能するかは、まだよく分かっておらず、今後の研究課題になっている。ということは、小学校のうちから英語を学ぶということの是非の判断は、この結論が出るまで、お預けか。

以前、大学の研究室に通っていた頃、ドイツからの留学生でトーマスという男がいた。彼は天才的な語学力の持ち主で、母国語のドイツ語のほかに、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語をほとんど不自由なく使いこなすことができた。

さらに、日本に来て 1年もしないうちに、日本語までペラペラになり、中国語もある程度理解できるようになっていた。中国語は勘定に入れないとしても、バイリンガルどころか、ヘキサリンガルである。

何しろ、私が書けない漢字を、トーマスに教えてもらったぐらいのものだから、大したものである。その代わり、彼の英語のスペルの誤りを訂正してやったことはあったが。

そのトーマスの言うには、英語では哲学は考えられないというのである。哲学はドイツ語かフランス語でなければならないらしい。うぅむ、何となくわからないでもない。

私の英語は、バイリンガルには遠く及ばないが、以前、外資系団体に勤務していた頃は、英語の文書を書くときには、一応頭の中も英語で考えていた。そして日本語で考えるよりも曖昧さを避けたストレートな表現が自然にできて、とても重宝していた。

さらに、共通語と庄内弁の使い分けに関しては、私は完全なバイリンガルである。庄内弁というのは、共通語とは単語自体が違っていたりするので、ネイティブ庄内弁スピーカーの話す言葉は、余所の者にはほとんど通じない。

ほとんど外国語のようなもので、共通語と庄内弁の違いは、多分、フランス語とイタリア語の差に匹敵するぐらいだと思う。

その庄内弁を共通語に同時通訳するのは、私にとってはお茶の子さいさいである。しかし、逆に共通語をピュアな庄内弁に同時通訳するのは、ちょっと難しい。それは、現代の共通語に含まれるロジカルな構造を、正統的庄内弁は持ち合わせないからだ。

非常に論理的なことを考えるときは、ピュアな庄内弁は役に立たないということを、私はしみじみ感じる。その代わり、庄内弁でものを考えると、「俺って、なんていいヤツなんだ!」と思うほど、人情豊かな人間になったりする。

言語には、構造的な「向き・不向き」というものが確実にあって、思考に用いる言語は、パーソナリティにも影響を与えてしまうほどのようなのだ。

そういえば、香港で広東語の通訳をしてくれた女性は、ボーイフレンドとデートをするとき、途中でいい雰囲気になると、自然に広東語から英語に切り替わると言っていたことは、以前に書いた(参照)。広東語では、愛は語れないらしい。

そんなこんなで、自国語に翻訳することでしかものを考えられないというのは、かなりのハンディキャップを背負っていることになる。例えば、いくら日本文化に造詣の深い外国人でも、芭蕉の俳句を翻訳でしか理解できないとしたら、その日本理解は真髄に達したとはいえない。

その意味で、国際的なセンスを持とうと思ったら、どうやら、大脳の奥の尾状核というやつを鍛えなければならないようなのだ。しかし、この部位が「スイッチ」の役割を果たすのだとしたら、スイッチばかりが優秀でも仕方がないということも、きちんと押さえておく必要がある。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年6月10日

"「・・・。」" を巡る冒険

花岡信昭氏のブログ炎上が話題になっている。そもそものきっかけは、「・・・。」という表記に疑問を呈した行きがけの駄賃とばかり、よしゃいいのに、「モーニング娘。」にまでいちゃもんをつけたことである。(参照

これ、どうみても花岡氏のチョンボだ。それに対する過剰反応も、どうかと思うけど。

当コラムは、日本語の問題については、過去にもいろいろ言ってきているので、今回も少しだけちょっかいを出してみようと思うのである。

さて、花岡氏は件のブログの中で、次のように言い切っている。

新聞の世界に30数年生きてきて、いまもなお、ものかきを主体とした仕事をしているが、「・・・。」という書き方はしてこなかった。

私も、花岡氏ほど長くはないが、ジャーナリズムとその周辺で 30年近く生きているので、確かに、この世界では、「・・・。」 (つまりカギ括弧の中で句点を打つ)という書き方はしないということについて、異論はない。しかし、花岡氏は、30数年以上前のことについては、どうやら記憶が飛んでおいでのようだ。

花岡氏ほど忘れっぽくない多くの人は、きちんと記憶にあるだろうが、少なくとも戦後の日本の教科書では、ずっと 「・・・。」 という表記がされてきたはずだ。

文化庁のサイトでも、PDF ファイルで、以下のように明記してある (参照)。

一、マルは文の終止にうつ。
 (中略)
二、「 」(カギ)の中でも文の終止にはうつ(例4)。

ちなみに、その 「例4」 は以下の通り。

「どちらへ。」
「上野まで。」

これは昭和 21年 3月に作成されたものとあり、 花岡氏のブログのプロフィールによれば、それは氏の生まれた年でもあるから、小学校でこれに準じた教育を受けていないはずはないのである。

しかるに花岡氏は、教科書でのこうした表記を最近になって初めて知って驚いたような書き方をしている。学校で国語の勉強をよほどないがしろにしていたか、記者になってからの習慣に馴染みすぎて、それ以前の記憶まで塗り替えられたかのどちらかである。

いずれにしても、あまり褒められたことではない。

ただ、文化庁でこのように明確に規定しているにも関わらず、一般のメディアでは全然守られていないことには、それなりの理由があるはずだ。

それは、 「・・・。」 式の表記を遵守しようとすると、行末の 「ぶら下げ」 に無理が生じてしまうからではなかろうか。「ぶら下げ」 というのは、早くいえば、句読点やカギ括弧などの記号が次の行にはみ出してしまう場合に、行あたりの規定字数を超えても、敢えて前の行末にくっつけてしまう慣習である。

ところが、文字間隔を自動で調整できなかった「鉛活字」の時代には、印刷媒体で "。" と "」" の 2文字分を行末にぶら下げるのは、見た目的に、かなり辛いことだったろう。

以前のワープロ専用機には、このケースでの無理な「ぶら下げ」を避けようとして、直前の 1文字と 2文字分の記号をいっしょくたにして、次の行に送るのをデフォルトとしたものがあったが、それはそれで、前の行が寸足らずになって、みっともないものである。

私は "。" と "」" を組み合わせて 1文字分にした記号を作れば済むことと、常々思ってきたのだが、それは現在に至るまで、関係者の発想にすら上っていないようなのだ。

それで、いわば「次善の策」として、括弧やカギ括弧内の最後の句読点を省くことにしたのではないかと、私は想像している。これならば、大抵の場合の「ぶら下げ」は 1文字分で済むからだ。

カギ括弧内の最後の句点を省くのは、コスト面での都合だったという説があるが、私は、それよりも「ぶら下げ」対策だったとみているのである。試しに 1行あたりの字数指定の文書で 「・・・。」式の表記をしてみるといい。やりにくくて仕方ないから。

いずれにしても、カギ括弧だの句読点だのを一般的に用いるようになったのは、明治以降のことで、日本語の長い伝統の中ではつい最近のようなものだから、あまり厳密なことを言っても野暮になるのだが。

ここで、ようやく「モーニング娘。」の表記にも触れるとすれば、なにぶん固有名詞でもあることだし、許容範囲を思いっきり広くとってもいいじゃないかという気がする。

この程度のことを「日本語の乱れ」の象徴であるかのようにあげつらうのは、「野暮天」(きわめて野暮なこと)というものである。(彼女たちのパフォーマンスの「質」については、敢えて言及しない。それは別の問題だから)

ちなみに、花岡氏は日本語の文章の読点として 「,」 (コンマ) を使うことにも難癖を付けておいでだが、これも軽はずみなことは言えない。

横書き文書の句読点はピリオドとコンマにするという習慣は、結構古くからあるようで、とくに理数系の世界ではデフォルト(あるいは、ローカル・ルール?)になっている感がある。

件の文化庁の文書をみると、「もつぱら横書きに用ひるもの」 (旧かな使いに注目!) として、

(1)ピリオド(トメテン) .
(2)コンマ ,
(3)コロン(カサネテン)

などが挙げられている。試しに、啓林館の 「高校数学 I」 のP69 というのをみると、おぉ、確かに、ピリオドとコンマになってるぞ。へぇ、そうだったんだ。これでは、花岡氏の忘れっぽさを笑えないかもしれんな。

ただ、理数系音痴の私としては、こんなうっとうしい問題は敬して遠ざけておきたい。花岡氏も、「モー娘。」 の話題なんて、敬遠しておけばよかったのに。

【6月 10日午後 追記】

さらに、社会の教科書を調べてみた。例の「新しい歴史教科書をつくる会」の、「中学社会[改訂版]新しい歴史教科書」がネット上にあったので、開いてみると、ご覧の通り、読点はコンマで、句点はマルなのだった。

この問題、かなり奥が深い。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006年6月 9日

ロジカルな犯罪、ロジカルでない犯罪

秋田の小学生殺害事件で、それならば最初の女児水死事件は本当に事故なのか、事故でなければ誰が犯人なのかなど、世の中はにわかに推理ブームと化している。

しかし私が興味をもってしまうのは、逮捕直後、「死体遺棄はしたが、殺してはいない」とシラを切った容疑者のメンタリティである。

世の人は、「どうして、近所の子どもを殺したのか?」と口にするが、「どうして?」とフツーに考えては、その疑問は解けない。「とにかく、殺してしまった」のだ。考えるよりも行為が先に立ったのである。よく考えてしまったら、こんな殺人は実行できない。

畠山鈴香という人の頭の中は、とにかくロジカルじゃないようだ。ロジカルな頭だったら、死体遺棄を認めた時点で、自動的に殺人だって認めざるを得ない。このケースでは、「死体は川原に運んで捨てたが、殺してはいない」という論理は成立しないからだ。

もっと言えば、一番初めに疑われるのがわかりきった状況で、殺人を実行してしまうということ自体、ロジカルじゃない。本当に殺したかったら、もっと計画を練るのが普通だ。この殺人自体、そもそも行き当たりばったりだったんじゃないかとも思える。

死体遺棄にしても、ランドセルに付いた指紋を消していないなど、初歩的な証拠隠滅すらしていない。少なくとも、「ちょっと深く考える」ということを知らない女のようだ。

昨日になってようやく殺人も自供したようだが、それまではみえすいた嘘で二転三転したようだ。取り調べにおいて、既に破綻しているロジックを恥ずかしげもなく言えてしまうという感性は、今年の 2月 26日に書いた "「むかつき貯金」 は 「むかつき借金」" というエントリーを思い出させる。

このエントリーは、内田樹氏の「不快という貨幣」というブログ記事を読んでの感想を記したものだ。詳しい内容をお知りになりたければ、リンク先に飛んでもらうのが一番だが、その記事の中で興味深いのは、次の記述である。

諏訪さんが報告している中で印象深いのは「トイレで煙草を吸っているところをみつかった高校生が教師の目の前で煙草をもみ消しながら『吸ってねえよ』と主張する」事例と、「授業中に私語をしている生徒を注意すると『しゃべってねえよ』と主張する」事例であった。
これはどう解釈すべきなのだろう。
諏訪さんはこういう仮説を立てている。
彼らは彼らが受ける叱責や処罰が、自分たちがしたことと「釣り合わない」と考えている。
(中略)
そこで自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。(中略)」(諏訪哲二、『オレ様化する子どもたち』、中公新書ラクレ、2005年、83-4頁)

明らかにやったことでも、「してない」と言えるのは、明確に意識化しているわけではないのだろうが、「この程度のことは、差し引きしたらチャラだよ」という思いが根底にあるからだ。それだけ、彼らは「不幸」あるいは「不満」を背負っているのである。

世渡りの下手な子は、この「不幸」や「不満」を解消するための気晴らしで、ますます世間に咎められるようなことをして、「むかつきスパイラル」を加速させてしまう。この構造が、「ロジカルでない犯罪」の温床になっているような気がする。

村上ファンドの件を「ロジカルな犯罪」とすれば、秋田の事件は「ロジカルでない犯罪」の典型例である。

これら 2つが同時進行する「分裂的な社会」に、我々は生きている。そう認識しないと、思考が前に進まないような気がして、私は垣間見てしまった 2つの典型例を、取り敢えずこのように分類してみた。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月 8日

ココログのメンテは、思いやられる

今日の夜中 2時から夕方の 4時まで、ココログが「データベース性能改善のため」に、メンテナンスを行うという。その間、ブログ閲覧以外はできなくなる。

ああ、不安だなあ。ココログのメンテが予定時刻に終わることはまずないし、その上、終了後必ず不具合が発生するという実績がある。

これまでも、ココログは何度かメンテをしているけれど、予告された時間内で終わったことがない。いや、一度だけあったかな。まあ、あったとしてもその程度だ。

それに、メンテが終了すると、なぜか極端に重くなって管理画面に入れなくなるのは、毎度のお約束だ。それだけでなく、必ずそれまでにはなかった不具合が発生し、復旧に時間がかかる。

このところ、ココログは比較的サクサク動いていたのに、また余計なメンテで、操作を重くした上に、不具合を 2つ 3つ発生させてしまうのだろうかと、悲観的になってしまう。なるなと言われても、これまでの経験上、ならざるを得ない。

それどころか、今回はメンテの前から不具合が出てきている。私はココログのエントリー原稿を「下書き」モードで書き、最後にチェックしてから「今すぐ公開」モードで保存することにしている。ところが、この「下書き」モードで保存をすると、なぜか書いたはずの原稿が消えてしまうのだ。

おかしいおかしいと思っていたが、くまさんという方も「ココログ注意 保存すると原稿が消失!!」というエントリーを書いておいでなので、私だけではないようだ。もしかしたらココログさん、予告したメンテ以前に、何かいじくり始めてるな。

そんなこんなで、ココログは既に、完全に信頼を失っているのである。メンテは時間通りには終わらないもの、終わったら、うんざりするほど重くなるもの、わけのわからない不具合が発生するものと、ユーザーは覚悟しているのである。

私がわざわざリザーブとして「はてな」を用意してあるのは、ココログが不具合の時に緊急避難するためなのだ。

もしかして、今回は奇跡的に予定時刻に終わって、その後も不具合が発生しなかったとしても、それは「珍しいケース」に過ぎず、それだけでは「信頼回復」には至らない。「ちゃんとしたメンテ」を少なくとも 3回は続けてくれないと、信用しないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 7日

出直してくれんか、Pride!

フジテレビが、格闘技 Pride の主催団体 DSE の 「契約違反」 を理由に、放映中止を発表した。格闘技フリークの私としては、いやんなっちゃうお話である。

フジテレビ側は「不適切な事象が起きているとの疑惑」としか説明していないのだが、どうやら、暴力団がらみが大きな要素らしい。

だいぶ前から、週刊誌の見出しに 格闘技団体(とくに Pride)と暴力団の関わりといったことが踊るようになっていた。私は電車の吊り広告でそれを眺めながら、「今に始まったことじゃあるまい」と思うだけだったが、この問題、ついにはじけてしまったようだ。

Pride の会場では、アリーナのいい席にそっち方面らしい人間の姿が目立つとは、よく言われていた。最近は企業のコンプライアンス(法令遵守)が重視されているので、フジとしても頬かむりはしにくくなっていたのかもしれない。

何しろ格闘技(プロレスやいわゆる「総合格闘技」の類)は「興行」である。フツーのスポーツの試合とは違う。どうして違うのかというと、しっかりしたコミッションがないからだ。好き放題やっちまえの世界なのだ。

選手の契約にしても不透明な部分があって、「引き抜き」問題が多発する。その度に、その世界の人の出番になりがちだ。

しっかりしたコミッショナー(プロ野球のそれが「しっかりした」ものかは、異論があるが)があっても 、ややもすればそっちの世界の人が入り込むのである。コミッショナーがなかったら、よほどきちんとしたポリシーで固めなければ、入り込み放題だろう。

ただ、暴力団がらみのコンプライアンスだけかといえば、そうでもないという見方もある。Boutreview というサイトに、興味深い記事がある。DSE は、中量級コンテンツの「Pride 武士道」を、フジテレビ以外の局でゴールデンタイム中継してもらうことを画策していたようだ。

これで、フジ側が「鳶に油揚げではないか」と、ぶち切れたということも考えられるのである。この辺りは、この世界にありがちな「自分の思い込みだけで妙な動きをする 」という伝統(?)の弊害である。

普段からきちんと話を通せば、単なるビジネス上の話になるのに、こそこそ動くから感情的な喧嘩になるのだ。あるいはこのあたりの齟齬をきっかけにして、くすぶっていたコンプライアンス問題がはじけてしまったのかもしれない。

格闘技そのものの視点からすれば、ことヘビー級に関しては、K-1 よりも Pride の方が圧倒的にレベルが上だ。K-1 ヘビー級は、近頃しらけっぱなしである。先日も、「K-1 ワールド GP ソウル大会」 で、チェ・ホンマンがみえみえのホームタウン・デシジョンでセーム・シュルトに勝っちゃったりするし。

それだけに、格闘技フリークとしては、Pride が身ぎれいな状態になって出直してくれるのを望むばかりである。

それから、総合格闘技のテレビ中継は、妙な「煽り」で時間を潰していないで、試合そのものをきちんと放映してくれないかなあ。今のままだと、ビデオにとって CM と「煽り」をスルーしたら、半分以下の時間で見終えてしまう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 6日

日本は、敗者も勝者も出にくい社会がお好き

村上ファンドの村上世彰代表が、インサイダー取引疑惑をあっさりと認めた。Goo ニュース(Asahi.com) によると、「(LD 側から) 聞いちゃったかと言われれば聞いちゃった」 ということで、なかなか潔いことである。

「インテリほど落としやすい」というが、これはそのスーパー典型例かもしれない。

秋田の小学生殺害事件で逮捕された畠山鈴香容疑者が、死体遺棄は認めながら殺人は否認するという、よくわからん粘り方をしているのとは、好対照である。その意味では、ホリエモンの粘り方も少々駄々っ子じみていて、ある意味インテリっぽくない。

村上氏は、これを機に投資ファンドの世界から身を引く構えのようだが、そうだとすると、私が一昨日のエントリーに付けたタイトル「歴史的使命を果たし終えた村上ファンド」が文字通りに当たってしまって、我ながらびっくりである。

Asahi.com の記事で面白いと思ったのは、次の点である。

同年11月8日には堀江、宮内両被告らが村上氏のもとを訪れ、「ニッポン放送はいいですね。経営権が取得できたらいいですね。僕らもお金を準備するから」 と言ったといい、村上氏は実現の可能性を疑いながら 「へえー、全部欲しいんだ」 と頭にとどめたという。

ホリエモンは、ニッポン放送の経営権、ひいてはフジテレビまで手中に収めたいと本気で思っていたのに対し、村上氏は、そんなことにはまったく興味をもっていなかったということがわかる。

ライブドアは、ちょっとだけ独り相撲を取ってしまったようだ。村上氏と対比させると、さんざん「虚業」呼ばわりされたライブドアが「実業」っぽく見えてしまう。ホリエモン、あれでも少しはファンタジストなのかもしれない。

一昨日のエントリーで書いたとおり、村上ファンドの目的は、実態に反して安すぎる株を買って、高値で売り抜けることに集約されていて、実際に経営に当たるなんていうやっかいなことは眼中にないのである。

しかし、それが悪いかといわれれば、「別に悪いことでも何でもない」のだ。株取引なんて、元々がそんなものである。彼は彼で、ファースト・プライオリティは自らへの出資者(これがクセモノだが)に利益を還元することにあるのだから、当然といえば当然のことだ。

村上氏は東証での記者会見の席上、興味深いコメントを残しているようだ。(私自身はニュースを見ただけで、この部分は聞いていないので、以下、信頼する 「流れるものと残るもの」 のエントリーから引用)

印象に残ったのは、おそらく記者が 「シンガポールに逃げたんでしょ」 みたいなことを聞いたからなんでしょう、「じゃあなんで今私はここにいるんですか?」 と問い返した後、
・ シンガポールに移ったのは別に逃げたわけじゃない。
・ けれど、正直言って、日本が少しイヤになってきたかな、と。日本という国が。
・ おかしいでしょ、今の日本。能力のある人、成功した人、税金をたくさん納め人をたたえない。
と言っていた部分。

このブログで、管理人のつきっつさんは、「世の中なんてそんなもの、かもしれませんが、今の日本は他人の成功に対する嫉妬心が強い国だな」 と、感慨を述べておいでだ。

なるほど、そうかもしれない。私自身、村上氏と楽しくお酒が飲めるとは思わないけれど、世間での嫌われ方は、ちょっと異常だとも思う。何も、あそこまで嫌われなくてもいいような気がする。

この関連でいえば、内田樹氏が、自身のブログで次のように述べておられるのが興味深い (参照)。

日本型民主主義というのは、合意形成の結果がもたらす「パフォーマンス」の良否よりも、合意形成プロセスにおける手続き上の「フェアネス」を重視する。
この「フェアネス」ということばを多くの人は誤解しているようだが、日本社会における「フェアネス」とは、成員が同一の規範の前での平等の恩恵に与るということではない。そうではなくて、「全員が平等の不平を分かち合う」ことである。

ちなみに、内田氏はこのコンセプトから、9月の自民党総裁選は阿倍氏ではなく、福田氏の勝利と読んでおられる。確かに、昨今の風向きはそんな方向が強まっている気もする。日本は、敗者が出にくい代わりに勝者も出にくい社会が好きなのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (3)

2006年6月 5日

ああ嫌だ嫌だなんて言いながら……

ウチの次女は、どうやら猫の毛にアレルギーがあるらしい。猫に触れると、たちまち涙と鼻水が流れるのである。

そのくせして、人一倍動物好きなのである。もちろん猫も好きなので、涙も鼻水も、猫を愛でる快楽には負けるようなのである。それで、グシュグシュになりながら、猫を撫でている。

人間、それをすると不快になるとわかっていても、同時に得られる快楽の方が大きいと、それを求めずにはいられないという、業のようなものがある。なんと悲しいものである。

秋田の小学生殺人事件も、それと似たようなところがある。なんとも嫌な気にさせられる事件で、犯人が 2件隣に住む女であるらしいとなると、ますます嫌になる。ところが、世の中はこの事件に興味津々だ。

ゴシップ好きの本能がうずくのである。この事件、多分、ゴシップジャーナリズムが大喜びしそうなコテコテ要素が、どばどば出てきそうな雲行きである。週刊誌はこれで、何週間かは売れ行きの心配がなくなるだろう。

本当に、グショグショになりながら猫を撫でるのと変わりがない。よしゃあいいのにと言っても、そんな警告はまったく意味がない。

人間はかくも不条理なものである。根が不条理なものだから、いくら理性が拒否しても、不条理性に深入りするのが大好きなのである。

あぁ、今日も次女は鼻水を流しながら、猫にブラシをかけている。くずかごの中は、猫の抜け毛で一杯だ。我が家の猫はもう、セーターを 2着は脱いだぐらいの衣替えを済ませている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 4日

愛国心を評価されてたまるか

先月末は何かと忙しくて、ニュースをきっちりとチェックしている暇もなかった。小泉首相が「教育現場での愛国心の評価は必要ない」と述べたというニュースも、単に「そんなの、当たり前じゃん!」と思っていた。(参照

ところが、福岡市などで実際に通知票で評価していたと知って、ぶったまげてしまった。

誤解される前に書いておくけれど、私は愛国心を教育に盛り込むことに反対の立場ではない。むしろ、「どうしていけないの?」と思っている。そして、自分の立場は純然たる「愛国者」だと思っている。と言っても、決してナショナリストじゃないが。

私は、兄弟二人を戦争で失った義父に付き合って、靖国神社に参拝することを厭わない。日の丸はミニマリズムのいいデザインだし、君が代ほどユニークで平和的な国歌はないと思っている。

しかし、政治的な視点で「愛国心」を押しつけたり、学校で個々の生徒の「愛国心」を評価したりするというのは、かなり気持ちが悪い。

押しつけられてもつような愛国心は、状況が変わればすぐに裏返る。良い成績が欲しくてもつような愛国心なんて、そりゃあ、愛国心とは呼べんだろう。

愛されることばかりを求める傲慢な人間を、果たして愛することができるか? 私はむしろ、愛されることなど決して求めず、それよりも、無償の愛を与えることを喜びとするような人間をこそ、無条件に愛するだろう。

国だって同じことだ。私は「無償の愛を与えることを喜びとする」姿を、この国の天皇に見る思いがする。私も同じ喜びを持ちたいとすら思う。

政府が「郷土を愛せよ、国を愛せよ」と押しつけがましいことを言ったら、それは害毒ですらある。愛国心教育とは、世界における自分と祖国の関係をまっとうに見据える筋道を示すことだろう。

そしてこれが重要なことなのだが、その筋道は、常に多様でなければならない。決まり切った道を強制されたら、それはファシズムである。

私は、小中学校では愛国心教育なんて一度も受けたことがない。「反愛国教育」なら、ずっと受け続けてきたが。それでも、日本文化を学んでいるうちに、いつの間にか、「愛国者」になってしまったのである。

だから私の愛国心には、申し訳ないけど、政治色が極めて希薄だ。「ナショナリストじゃない」というのは、その意味である。

正直言うと、小学校の教師なんかに愛国心を評価されてたまるかという気持ちも、少しある。(小学校の先生には、決して恨みはないので、そのあたり、よろしく)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (9) | トラックバック (1)

2006年6月 3日

歴史的使命を果たし終えた村上ファンド

村上ファンドにインサイダー取引疑惑ということで、特捜が動いているわけだが、これって、やはり「気に食わんヤツは潰せ」という政治的動きなんだろうなぁ。

極端な話、「アイツが買うなら、俺も買っとこう」でインサイダー取引になるのなら、日本中が疑惑だらけになってしまうわけだし。

村上世彰さんという人の名前を初めて知ったのは、5年前の「東京スタイル事件」の時だった。通産官僚出身の株屋が、東スタ株をえらい勢いで買い占めていて、(見ようによっては)当然の要求を突きつけているというのである。

私は 「へぇ、いいところに目を付けてるじゃん」と思ったものだ。当時の私はアパレル業界団体にいて、その背景もよく見えていたから、本気でそう思ったのである。

結果、株主総会で村上ファンドは惨敗してしまうのだが、旧態依然とした企業経営に風穴を開けるという役割は確実に果たしたと思う。

こうした事件がなかったら、旦那衆の株の持ち合いによる馴れ合い経営という日本的体質は、反省されずに続いていただろう。外資による奇襲がかけられるよりは、まだマシだったじゃないか。

しかし、これはあくまでも「副次的効果」でしかなかったようなのだ。村上ファンドの主目的は、要するに含み資産があるくせに株価が少し安過ぎやしないかという企業の株を買い占め、高くなった時点で売り抜けて、利益を出すということでしかない。

この過程で、いかにももっともらしいことをいろいろ言うのだが、それは単なる駆け引きに過ぎない。自ら企業経営に参加して、その企業の価値をより高いものにするなどという、しんどいことはハナからする気がないのである。

手の内は、もうすっかり読まれてしまっているのだ。世の中、汗をかきさえすればいいというものでもないが、それでも、汗をかく覚悟がないとやっぱり最後は弱い。

だから、今回の阪神株の売買問題にしても、完全に足元を見られている。「ウチが大株主なんだから、役員出しちゃうからね。それが嫌なら、高く買い取って」と言っても、「買ってあげないもんね。本気で役員出したきゃ、出したら?」てなもんで、脅しが通じない。

手元に置いといてもしょうがないものを「買ってあげないもんね」と言われたら、「お願い、買って。安くしとくから」と言うしかない。そもそも、鉄道のことを何も知らない村上ファンドが阪神の経営を握ったりしたら、その時点で株が下がり始めて、元も子もなくなる。

村上さん、もうそろそろ歴史的使命は果たし終えたようなのだね。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 2日

クールビズは、ネクタイから解放されるための錦の御旗

クールビズが 2年目に突入した。今年の市場規模は約 1500億円(昨年比 6割増)という予測もあるが、本当の目的である省エネや CO2 削減は、あまり進んでいないようなのだ。

昨年も指摘した(参照)のだが、クールビズは、「ネクタイから解放されるための錦の御旗」としてしか機能していないのだと思う。

百貨店などでは昨年、クールビズは商売になっても、ウォームビズは、鳴かず飛ばずだった。当たり前である。またしてもうっとうしいネクタイに逆戻りするウォームビズなんて、何の魅力もないのである。

日本の男は、毎年夏になると、「女はいいなあ」と思ってきた。「半袖で会社に来ても怒られないんだから」と。オジサンたちは、背広にネクタイ姿で炎天下を歩かなければならない身の不運を嘆いてきたのだ。

ところが、昨年になって急に、夏になったらノーネクタイで会社に出ろと、お上が認めたのである。何と素晴らしい善政ではないか。やれうれしや、これで、暑苦しい姿から解放される。

というわけで、日本のオジサンたちの多くは、夏にはネクタイをしなくてもよくなって、あまり表には出さないが、内心では大喜びしたのである。

しかし、根が暑がりなのは相変わらずだから、会社の冷房の設定温度を上げることまでは、忘れたふりをした。その辺は、ちょっとズルイのである。

だから「クールビズが成功」というのは、ファッション業界だけの話で、省エネだのいう話とはまったく無縁のことなのだ。あまり誇れるようなことではないのである。

ちなみに、昨年は大打撃を蒙ったネクタイ業界だが、今年はメッシュなどの軽い素材、はたまた、シャツの第一ボタンにくっつけるだけの姑息なタイプなど、かなりいろいろな商品開発をしていて、少しは売れ行きが回復しているらしい。

まあ、いろいろな商品を売っちゃえばいいのである。ほとんどの人は試しに買ってはみても、実際には着用しないだろう。だって、ノータイの方がずっと快適なのは、身体にしみこんでしまったのだから。それでいいのである。

アイデア商品の「クールビズ・ネクタイ」は、ワンシーズンに、1度か 2度の着用のためだけに売れればいいのである。それでも、売上げは売上げだから、業界はハッピーになる。資源の無駄といえば、確かに無駄だが。

私個人でいえば、サラリーマン時代から 10年以上も、自主的にクールビズしていた。もちろん、冬になってもネクタイなんかしなかった。それでも、別になんの苦情も出なかったから、それでいいのである。

参考

 

クールビズの背景 : ネクタイ好きは出世好き、ネクタイ嫌いは現場好き

クールビズ その2 : 「相手がある」 ことを妙に気にする日本の営業マン

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月 1日

今日から 6月

早いもので、もう 6月である。ワールドカップに浮かれるうちに、多分梅雨に入り、夏至になり、そして、今年の半分が終わってしまう。

5月のうちに、十分ジメジメと湿っぽかったのだが、梅雨に入ればそれに輪をかけて湿っぽくなる。汗水垂らしてワールドカップに興奮しているうちに、梅雨が明けて本格的夏になる。

毎年のように「この頃、天気がおかしいね」と言い続けるようになって久しいが、今年はどんな夏になるのだろうか。気象庁の予報では、東日本は平年並みで、西日本は猛暑になるということだ。

しかし、気象庁の中長期予報の当たる確率は 50パーセント以下だそうだから、確率論から言えば、信じない方がマシということになる。さて、どうなることやら。

このところ、2年続けて夏の京都に出張する機会があった。今年の夏も京都に行けるようなら、今度は是非、大原あたりを散策してみたいと思っている。

月末締めの原稿を書き上げて、頭の中が白くなっているので、今日のところは、これにて失礼。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »