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2006年6月18日

蘇生譚をめぐる冒険

「死亡したと診断された94歳の老婆が突然むっくり起きあがり、ワールドカップの次のドイツの試合はいつか尋ねた」というニュースで、いろんなことを考えた。(参照1参照2

この話の受け取り方に 2通りある。「死んだ老婆が生き返った」と取るか、「死んでもいないのに、死んだと宣告された」と取るかだ。

「死んだ老婆が生き返った」 という解釈には、かなりファンタスティックな印象がある。普通は「死んでもいないのに、死んだと宣告された」 と受け取りたいところだろう。

しかし、その 「普通の解釈」 は、自家撞着に陥りかねない。なぜなら、一般には「死」は医者による「死」の宣告で周囲に納得されるからだ。

こうした場合、「死」とはとりもなおさず「死亡宣告」である。実際に死んでいようがいまいが、「死んだ」と宣告されたら、死んだのだ。だから、「死んだ老婆が生き返った」と言っても、全然不思議ではない。

厳密に言ったら、「死亡宣告」にも「誤診」はあり得るだろうが、普通は、たとえ「誤診」によって「死んだ」とされたのだとしても、放っておけば、ほどなく「本当に死ぬ」ので、その「誤診」はバレたりはしないのだろう。バレない誤診は「誤診」ではない。

そして、そうした「バレない誤診」の場合でも、「暫定的な死」と「本当の死」との境目というのは、誰にもわからない。わからないからこそ、医者の宣告をもって「死」と取り扱うという社会的合意が形成されている。もっとも、医学の世界でも論争はあるようだが。

昔ならば、今回のニュースのようなケースは、単純に「死人が生き返った」という奇蹟譚になった。そしてこの発想を厳密に否定することは、現代に生きる我々にもできない。

私は昨年初め、「人は死んでも生き返るか?」というエントリーを書いた。これは、長崎県の調査で、15%の子供が「人が死んでも生き返る」と考えているという結果が出たことについて、「ゲームの悪影響」などと単純に嘆く報道がなされたのを批判したものである。

テレビゲームのない昔から、民間伝承のなかに「蘇生譚」の類はいくらでもあったのである。聖書の中にだって、いくらでもある。

「死んだ人が生き返る」と信じる子供がいても、別にいいではないか。

最後に、件のエントリーに、同年 9月になってから追記したことを、もう一度コピペしておく。

たまたま、上記の 「長崎県のホームページにある調査報告書」 にもう一度行ってみたら、設問の文章が 「死んだ人が生き返ると思いますか」になっていた。1月の時点では、確かに 「人が死んだら生き返ると思いますか」 というものだったのだが。

調査結果を発表し、その後に設問の文章を書き換えるなんてことをしたら、まともな調査報告にならないではないか。困ったものである。

回答は、設問の文言によってかなり違ってくるということを指摘しておく。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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