「名前を知る」 ということは
モーツァルトの名曲、「♪ パーンカ パーンカ パカパカパーン ♪」 のタイトルを知ってるかと問われて「アンネ・フランク・ナホトカ甚句」と答え、思いっきり蔑まれたことがある。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と知っていればこそ、ボケかませたのにね。それとも、ボケ方がまずかったのかなあ。
誰でも口ずさめるほど有名な曲なのに、そのタイトルは知られていないというのが、いくらでもある。「曲とタイトルが一致しない」というやつだ。クラシックやイージー・リスニングの定番に多い。
それと同様に、よくみかける花なのに、名前がわからないというのも、私の場合、かなり多くある。花自体は、あちこちで見かける。花の名前も、歌や詩、小説などに出てきてお馴染みだ。しかし、その花の姿と名前が、まるで一致しないのである。
子どもと一緒に道を歩いていて、「お父さん、あそこにきれいな花があるね。何ていう花なの?」と聞かれ、「うーむ、花だね」としか答えられないというのは、なかなか哀しいものである。
私は「今日の一撃 - Today's Crack」のほかに、「和歌ログ」というサイトをもっていて、毎日和歌を一首詠んで、もう 2年半になる。我ながら道楽なことである。
和歌なんか詠んでも、一文の得にもならないが、近頃、「花の名前を覚える」という副次的効果があることに気付いた。和歌を詠むのに、何でもかんでも「花」で済ますわけにもいかないので、いちいち図鑑で調べるようになったためである。
おかげで、誰でも知っている梅とか桜とか、薔薇とか紫陽花とかチューリップとかの他に、木槿(むくげ)とか薄紅葵とか、ロケットとかローズマリーとか、車輪梅とかいったものまでわかるようになってきた。
おもしろいもので、花の名前を知ると、こちらの名も、花に届いたような気がする。その花と、存在としての命がつながったような実感が湧く。
それで、6月 13日には、駅に向かう道端に生えている小さな白い花を見て、こんなような歌を詠んだ。
出先で、モバイル PC を使ってその歌をアップロードし、家に帰ってから図鑑で調べたのである。その可憐な白い花に、我が名を届かせようと、健気な歌心を起こして。
その花の名は、あっけなく知れた。十薬(ジュウヤク)というのだそうだ。そして、またの名を「ドクダミ」というとわかった。なんだ、あれって、「ドクダミ」だったのか。
この瞬間、私の名はドクダミに届き、私の存在としての命は、ドクダミとつながった。複雑な気分がした。
とまあ、50歳を過ぎても、ドクダミの花を知らなかったほどだから、和歌はなんとか詠めても、俳句はどうにも苦手である。俳句は「季語」が必要で、その中で、季節の花の名前というのは、とても重要な役割を果たしているのだ。
思うに、ほんのちょっと文学的素養があって、その上で花の名前に詳しければ、誰でも立派な俳人になれる。私の知人はよく新聞に俳句を投稿して入選や佳作をとっているが、彼は生物の教師である。知らない花がないくらいのものだから、俳句は朝飯前である。
音楽のタイトルにしても、花の名前にしても、とにかく「名前を知る」というのは、とても重要なことだ。たとえば、何度会っても名前を覚えてくれない人がいたら、自分の存在が軽んじられているという気がするだろう。
「名前を知る」というのは、対象をリスペクトする第一歩なのだ。
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