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2006年6月28日

音節を無視した歌?

一部のブログや BBS で、6月 5日付朝日新聞朝刊の投書欄に載ったという、大嶽静男氏 (名古屋市瑞穂区 82歳) のテキストが、静かな話題になっている。

「君が代は日本語の音節を無視した歌」というものだ。残念ながら朝日のサイトにはないが、 mumurブルログ に転載されている。

投稿者である 82歳の大嶽氏は、ご自身のブログなんぞをもっておられないようで、それだからこそ、朝日の投書欄なんかに投稿したのだろう。もし、こんな奇天烈な内容を大まじめにブログで論じたりしたら、大炎上どころじゃない。

「大嶽さん、ブログなんておやりになってなくて、よかったですね」と言ってさしあげたい。こうしてみると、新聞の投書欄というのは、ブログに比べたらずっとロー・リスクなメディアである。その代わり、影響力もかなり衰退しているが。

大嶽氏の言わんとすることは、君が代は「つくづく日本語の音節を無視した歌」だが、「日本の国歌といえばこれしかないので、仕方ありません」ということのようだ。そして、最後に、結論じみた以下の感慨が述べられている。

でも、この国歌を歌わなかったり、歌う時に起立しなかったりする人を非国民呼ばわりするとなると、まるで私の記憶にある昭和10年代初期にタイムスリップしたような気がします。

ははぁ、要するに、これが言いたかったために、音節無視云々のいいがかりをつけておいでなのだね。もってまわった手続きだなあ。

自分を愛国者と思っている私(参照)だって、「君が代」に反旗を翻すだけで「非国民」呼ばわりするのは、かなりヤバイと思う。その点では、大嶽氏に同意する。天皇陛下ご自身も、君が代斉唱と日の丸掲揚は、「強制にならないように」とおっしゃっておいでだし。

しかし、そのことと「君が代」の「音節」云々は、まったく無関係のお話である。坊主を憎んで袈裟まで憎む以上に乱暴な論理展開だ。そしてそれ以前に、そもそも大嶽氏は、「音節」と「文節」の区別すらつかないご老人のようなのだ。

(参考まで)

音節 : 通常一まとまりの音として意識され、発音される単位。日本語ではほぼ仮名一字が一音節にあたる (Goo辞書

文節 : 文を、実際の言語として不自然でない程度に区切ったときに得られる最小の単位。 (Goo辞書

大嶽氏は、どうみても「文節」のことを間違えて「音節」と言っているとしか思われないのである。だから、この問題については、この程度の人をまともに相手にしても、仕方ないかもしれない。

しかし、「言葉のチカラ」を信じているはずの朝日の編集部が、何のチェックもなくそのまま掲載してしまったというのは、ちょっと恥ずかしい。

日本語というのは、その基本的性質上、「音節」を無視して発音するなんてことは、通常は、ほとんど不可能なんである。

名古屋の大嶽さんは、このブログなんて読まないだろうから、ご近所でこのお爺さんを知ってる人がいたら、このあたり、よく教えてあげてほしいぐらいのものだ。それから、もしよろしければ、朝日の投書欄担当スタッフにも。

話は戻るが、「君が代」のブレス(息継ぎ)は、「苔の」の部分が 1小節単位であることをを除けば、とても規則的に 2小節単位で設定されていて、いずれにしても、小節の途中でのイレギュラーなブレスは、1箇所もない。

そして、きちんとした検証をしていない名古屋の大嶽さんと、朝日の編集スタッフには意外な事実だろうが、「君が代」 の小節構造とブレスは、意味上の区切りである「文節」に、忠実に対応している。

確かに慣れないと歌いにくいかもしれないが、「椰子の実」(島崎藤村作詞・大中寅二作曲) ほどには、単語の途中で不意に上がったり下がったり飛んでしまったりするようなメロディでもない。(私は「椰子の実」が名曲であることを否定しているわけではない)

というわけで、大嶽氏の言っていることは、二重の意味で思い違いなのだ。そんなお粗末な投書を載せる朝日も朝日である。

ちなみに、上記の参照先の 「mumurブルログ」 のエントリーのコメントには、民謡「さんさ時雨」の例が出ているが、確かに、これこそ凄まじいものである。名古屋の大嶽氏が聞いたら腰を抜かしてしまうかも知れないが、私の妻の出身地、仙台あたりでは最も重要な祝い歌である。

「さんさ時雨」を知らない人は、試しに こちら で聞いてみるといい。文節無視どころか、音節の途中でブレスして、二つの音節に分けてしまうという離れ業にまでお目にかかれる。

「音もせできて 濡れかかる」の「濡れかかる」が「ぬうぅうぅれ、えぇかぁ、あぁか、あるぅ」になったりするのだから、それはそれは、すごいものである。音節無視とは、こういうのをいうのである。いや、音節を超越しているというべきか。

意識的に「文節」を無視して、斬新な効果を狙っているようにみえる J-Pop ですら、「音節」の無視という、ポスト構造主義的で超アバンギャルドな地平までには、未だ到達していない。「さんさ時雨」恐るべし 。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

ご無沙汰しております。K.Jです。

詳しく分析したわけでもないし、知識があるわけではないのですが、君が代の音の伸ばし方って「和歌」に通ずるものがあるんだろうなあ。と、直感的に思いますけどね。

宮中の歌会(お正月?)のときに、語尾を~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ってやってますよね。
あれを思い出します。


私としては「君が代」が終始していないと話のほうが気になります。
日本人の旋律感覚もすっかり洋楽化しているのかなあ?

投稿: K.J Tyler | 2006年6月28日 08:43

ええと、件の大嶽氏の投稿がそもそも理解できなかったんですが、「君が代」を歌うときって(私は歌いませんけど(^^;)、一行一息として、

きみがよは
ちよにやちよに
さざれいしの
いわをとなりて
こけのむすまで

というブレスじゃないんですか?(takさんは「こけの」で切れるというお考えのようですが)

大嶽氏は、単に息が続いていないだけではないかと思うんですが……。

投稿: 山辺響 | 2006年6月28日 10:00

K.J Tyler さん:

>君が代の音の伸ばし方って「和歌」に通ずるものがあるんだろうなあ。と、直感的に思いますけどね。

元々が和歌ですからね。
多分、あるんでしょうね。

>私としては「君が代」が終始していないと話のほうが気になります。
>日本人の旋律感覚もすっかり洋楽化しているのかなあ?

世の中には西洋音階以外の音階もあるんだということですね。

投稿: tak | 2006年6月28日 13:16

>takさんは「こけの」で切れるというお考えのようですが

「こけの」 でブレスしないと、3小節を一気に歌うことになるので、ちょっと辛いです。
小学校あたりでも、そのように指導してるみたいですよ。

ただ、本来なら一息に歌いたいところですね。
カンニングブレスぐらいがいいかもしれません。

投稿: tak | 2006年6月28日 13:22

>元々が和歌ですからね。

そうでした・・・・・・。

「和歌」に通ずるではなくて、「和歌を古式ゆかしく音読したときの節回し」に通ずるというようことです。

投稿: K.J Tyler | 2006年6月28日 21:37

 君が代作曲時には他にも候補があり、世に出たものも複数あるようです。
http://www.ne.jp/asahi/jurassic/page/talk/kimigayo.htm
 このページにある、英国軍楽隊長作の“第一の君が代”の文節無視ぶりはひどいもので、もしこちらが人口に膾炙しておれば、さぞや日本はスーパー軍国主義になって、滅びていたか世界征服していたかのどちらかなのでしょうね。

投稿: 通りがかり | 2006年7月 4日 00:42

通りがかり さん:

貴重な情報、ありがとうございました。
君が代に試作版(?)があるとは知っていましたが、
楽譜を見るのは初めてです。

国歌といえば、こんな風にマーチ風に作るものと思ってたんでしょうね。
ドンドコドンドン調の伴奏まで聞こえるような気がします。

こんなのにならなくて、よかった。

投稿: tak | 2006年7月 4日 10:54

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