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2006年6月27日

仏心とは四無量心是なり

昨日のエントリーで、奈良の高校生の放火殺人事件について触れ、その父親を「圧倒的暴君」と称してしまったが、これにはやや誤解が生じるかもしれないと、少し反省した。

多分、父親が「圧倒的暴君」だったのは息子に対してだけで、他に対してはとても円満な人格者だったのだろうと思う。

しかも、他から見たら父親は息子に対しても「教育熱心な、いい父親」ぐらいにしか見えなかっただろうし、息子のみが勝手に父を「圧倒的暴君」とみていただけなのだろう。しかし、それこそが大問題だったのだ。

父は医者として世に貢献し、それなりの高い地位につき、他からも尊敬される存在である自分に、かなりの満足感を得ていたに違いない。それだけに、そうした満足を得られるだけの境遇を、息子にも与えてやりたいと念願したのだろう。

それが、親としての愛であり、務めであると考えたのだろう。その「愛」と「務め」による行動が、息子の人生を、ひいては家族の人生まで破壊してしまおうなどとは、思っていなかったはずなのだ。

このあたりが、本当に難しいことなのである。「愛」というのは、その対象が身近であればあるほど、「我欲」の投影にしかならないことがある。離れた存在であれば軽い気持ちで許せることが、身近な者になると許せなくなったりする。

だから、自分の子どもに勉強を教えるのはとても難しい。客観的に見ることができなくなるからだ。「こんなことが、なぜわからないんだ」と、イライラしてしまう。他人の子ならそうならなくても、自分の子だとそうなりがちなのだ。

これが、「愛すればこそ」であるというのが、どうにも面倒なところなのである。

だから、仏教ではあまり「愛」ということを説かず、「仏心とは四無量心是なり」と説く。「四無量心」とは、直訳すれば「四つのとてつもなく大きな心」ということで、具体的には「慈・悲・喜・捨」である。二つに分けて、「慈悲」 「喜捨」 と言ったりもする。

公式的には、四無量心は、次のように解説される。

慈 : 人に幸福を与えようとする慈しみの心。
悲 : 人の悲しみを共に悲しみ、それを取り除いてやろうとする心。
喜 : 人の幸せを我が幸せとして、共に喜ぶ心
捨 : 人々を平等に分け隔てなくみる心

こうしてみると、それほど難しいことではなさそうな気がする。とくに、前の三つは、仏ならずとも、案外日常生活でも発揮していたりするものだ。もっとも、三つ目は前の二つよりは相対的に難しいかもしれないが。

しかし、本当に難しいのは最後の「捨」である。「自分は『人々を平等に分け隔てなく』みているよ」なんてことを言う人格者がいるかもしれないが、自分の身近な者に対してまでそうであるかというのは、かなり疑問だ。

「身近な者を愛するのは人情として当然ではないか」ということにもなるが、前述の通り、身近な者への愛は「我欲」の投影になってしまいがちというのも、「ありがちな人情」 なのだ。

だから「捨」とは、文字通り「捨て去ること」と思えばいいような気がする。「慈・悲・喜」の三段階を経た上での「捨」は、「とらわれを捨てること」、つまり「縛らない」ということだ。

愛の最終段階は「解放する」ということなのだね。仏道修行をしたら「人情」 を捨てなければならないというのが辛いところだが、本当のところは、「人情」 を止揚したところに「仏心」があるのだろう。とてつもなく難しいけど。

ちなみに、ジーコ・ジャパンは、「慈・悲・喜」 の段階を経ないで「捨」に行こうとしてしまったのが、間違いの元だったんじゃないかなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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