仏心とは四無量心是なり
昨日のエントリーで、奈良の高校生の放火殺人事件について触れ、その父親を「圧倒的暴君」と称してしまったが、これにはやや誤解が生じるかもしれないと、少し反省した。
多分、父親が「圧倒的暴君」だったのは息子に対してだけで、他に対してはとても円満な人格者だったのだろうと思う。
しかも、他から見たら父親は息子に対しても「教育熱心な、いい父親」ぐらいにしか見えなかっただろうし、息子のみが勝手に父を「圧倒的暴君」とみていただけなのだろう。しかし、それこそが大問題だったのだ。
父は医者として世に貢献し、それなりの高い地位につき、他からも尊敬される存在である自分に、かなりの満足感を得ていたに違いない。それだけに、そうした満足を得られるだけの境遇を、息子にも与えてやりたいと念願したのだろう。
それが、親としての愛であり、務めであると考えたのだろう。その「愛」と「務め」による行動が、息子の人生を、ひいては家族の人生まで破壊してしまおうなどとは、思っていなかったはずなのだ。
このあたりが、本当に難しいことなのである。「愛」というのは、その対象が身近であればあるほど、「我欲」の投影にしかならないことがある。離れた存在であれば軽い気持ちで許せることが、身近な者になると許せなくなったりする。
だから、自分の子どもに勉強を教えるのはとても難しい。客観的に見ることができなくなるからだ。「こんなことが、なぜわからないんだ」と、イライラしてしまう。他人の子ならそうならなくても、自分の子だとそうなりがちなのだ。
これが、「愛すればこそ」であるというのが、どうにも面倒なところなのである。
だから、仏教ではあまり「愛」ということを説かず、「仏心とは四無量心是なり」と説く。「四無量心」とは、直訳すれば「四つのとてつもなく大きな心」ということで、具体的には「慈・悲・喜・捨」である。二つに分けて、「慈悲」 「喜捨」 と言ったりもする。
公式的には、四無量心は、次のように解説される。
慈 : 人に幸福を与えようとする慈しみの心。
悲 : 人の悲しみを共に悲しみ、それを取り除いてやろうとする心。
喜 : 人の幸せを我が幸せとして、共に喜ぶ心
捨 : 人々を平等に分け隔てなくみる心
こうしてみると、それほど難しいことではなさそうな気がする。とくに、前の三つは、仏ならずとも、案外日常生活でも発揮していたりするものだ。もっとも、三つ目は前の二つよりは相対的に難しいかもしれないが。
しかし、本当に難しいのは最後の「捨」である。「自分は『人々を平等に分け隔てなく』みているよ」なんてことを言う人格者がいるかもしれないが、自分の身近な者に対してまでそうであるかというのは、かなり疑問だ。
「身近な者を愛するのは人情として当然ではないか」ということにもなるが、前述の通り、身近な者への愛は「我欲」の投影になってしまいがちというのも、「ありがちな人情」 なのだ。
だから「捨」とは、文字通り「捨て去ること」と思えばいいような気がする。「慈・悲・喜」の三段階を経た上での「捨」は、「とらわれを捨てること」、つまり「縛らない」ということだ。
愛の最終段階は「解放する」ということなのだね。仏道修行をしたら「人情」 を捨てなければならないというのが辛いところだが、本当のところは、「人情」 を止揚したところに「仏心」があるのだろう。とてつもなく難しいけど。
ちなみに、ジーコ・ジャパンは、「慈・悲・喜」 の段階を経ないで「捨」に行こうとしてしまったのが、間違いの元だったんじゃないかなあ。
| 固定リンク
「哲学・精神世界」カテゴリの記事
- 「図に乗る」というのも、突き詰めるのは難しい(2024.12.01)
- 義父の葬儀が終わった(2024.07.30)
- 「正義の人」は、「美しく澄んだ目」ではいられない(2024.06.15)
- 地獄の沙汰で 煩う前に 戒名さえも 金次第(2024.02.24)
- 「メンヘラ」って、ちょっと気になったのだが・・・(2024.01.06)
コメント