表現するという 「最良の業」
昨日の過去ログについての話の続きである。まこりんさんは、「何かを作り出す、生み出す作業というのは、『自己を外化する』作業だ」と書いておられる (参照)。
そして脳内の段階ではあんなに瑞々しかったコンセプトが、外化したとたんに不完全で色褪せたものになってしまうのだ。
まこりんさんは、「私たちの文明が決して楽園でないように、私たちの作り出したものは、いつも不完全で、なにか足りない。手のひらを離れた瞬間『これこそ、まさしくわたしだ』と、いえないものになってしまう」とも述べている。
これこそ、過去ログへのアクセスがあるごとにとらわれてしまう、不思議な感慨の正体のような気がする。私の名を語ってはいるが、すでに 「(今の)私とは微妙な、あるいはかなりの差異をもってしまっているもの」が、誰かに読まれているという違和感である。
表現したとたんに薄々感じられていた差異が、時間が経過すればするほど、大きくなってしまうのだ。
しかし表現とは常にそうしたものだ。脳内コンセプトの段階では、あれだけ完全な姿をしているように思えたものが、表現されたとたんに、不完全になる。表現とは限られた媒体に限られた形で投射することだから、不完全にならざるを得ない。
コンセプトとは「懐胎」の意でもある。生まれ出たとたんに、それは赤ん坊でしかない姿となる。しかも、その赤ん坊は放り去られたまま、成長するということがない。
夢の中ではとてつもない構想に思えたものが、目が覚めた瞬間、たいしたものではないと気づくという感覚にも似ている。夢の中で感じたあのすばらしい手応えは、どこに失せてしまうのだろう。
脳内コンセプトを外化したとたんに、いつもある種の失望感を覚えながら、それでも表現という行為を捨てきれないブロガーたち。これはもう、「業」というよりほかないものである。
しかし、それはあながち悪い宿業というわけでもないと思う。あるいは、業の中でも最良の業のような気もするのだ。
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コメント
コンセプトを外化するって、けっこう楽しいって感じるんです。
確かに不完全で色褪せたものになってしまって、失望感はあるのですけれども。
脳内にあったもやもやに、この手で枠というかカタチを与えた、みたいな実感。ささやかだけど確実なもの。
そのささやかな実感を繰り返し求めるって、やっぱり業なんでしょうね。「最良の業」――なんかうれしい言葉です。
投稿: Sato-don | 2006年7月29日 02:00
>脳内にあったもやもやに、この手で枠というかカタチを与えた、みたいな実感。
そう、まさに、これですね、これ。
ある意味、枠にはめなきゃ表現にならないんだから、
いかに的確な枠を作るかってことでしょうね。
>「最良の業」――なんかうれしい言葉です。
この言い方、ヒットだったかもしれませんね。
投稿: tak | 2006年7月29日 12:52
初めまして。ほぼ毎日読ませてもらってます。
文章は、正確に書こうとすればするほどウソっぽくなっていくものだなと最近とみに感じます。むしろ書き足りないくらいのほうが真意が伝わるのではないか、と。
波長の合う人ならばこちらが少々書き足りないところがあっても想像で補ってくれるであろうと淡い期待のもとに、できる限りの推敲をして記事アップしています。まったく「業」ですね。でも楽しい。
投稿: 江都屋黄金丸 | 2006年7月29日 19:37
>江都屋黄金丸 さん:
ごひいきにあずかりまして、ありがとうございます。
>むしろ書き足りないくらいのほうが真意が伝わるのではないか、と。
確かに、くどいよりはあっさりの方がいいと、私も思います。
ここだけの話ですが、きっこさんみたいに長いと、読むだけで疲れます。
投稿: tak | 2006年7月29日 21:43