脳内感覚コンバーター
昨日、テキストからイメージが自然に浮かぶとか浮かばないとかいう話を書いた (参照) が、別の視点からもう少し論じてみたい。
といっても、脳の構造とか認識のプロセスなんていう臨床的なことにはまったくの素人なので、仮説とも言えないノー天気なファンタジーみたいなことになりそうだが。
昨日もちらりと触れたが、TBS ラジオのキャッチ・コピーに、「聞けば、見えてくる」というのがある。これは、多分、「読めば見えてくる」というのより、かなり容易なのではないかと思う。
最近はラジオドラマというのは滅多にないが、例えば、野球の実況をラジオで聞いて、実際の画面をイメージできる人は多いだろう。視覚と聴覚というのは、ある意味では近い感覚だと思う。
さらに、梅干しを見ただけでつばが出るとか、明治の落語家、四代目橘家圓喬が真夏に「鰍沢」(雪山の噺)を演じたら、客がみな震えたとか、五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・皮膚感覚)というのは、容易に変換がきくと思ってもいいように思う。
あるいは五感というのは、それぞれ別物というよりは、元々トータルで統合的な対象を、異なった感覚器官(目・耳・鼻・舌・皮膚)を通じて認識した際の、分化した感覚とみていいのではなかろうか。
ここまで書いていて、「般若心経」 を想起した。「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」 、物質的現象も心的作用も感覚器官も感覚も、すべて無であると説く部分である。
つまり、五感で感覚される対象を「色」とする。言い換えれば、「色」は、五感それぞれで感覚されるから、変換も可能だと規定しておこう。
さて、般若心経では、五感の感覚器官は、「眼耳鼻舌身」 とされているが、そのほかに「意」というのがあり、合わせて 「六根」といったりする。それぞれの感覚器官で感覚される対象も、「色声香味触」のほかに「法」というのがある。これらは 「六識」 という。
この 「意 - 法」というのは、第六感だとかいう見方もあるが、メタフィジカルなメディアと、それによって表現される内容とみることもできる。つまりテキストとそのコンテンツと解釈することも可能だ。
こうしてみれば、五感もテキストも、それほどかけ離れたものではないとみても、あながち間違いじゃないかもしれない。それを認識する脳の部分が違うということでしかないのかもしれない。
だとすれば、テキストをイメージにコンバートするのは、五感の場合ほどにもろに生理的ではなく、かなり前頭葉寄りの作業かもしれないが、可能なことに違いないのである。
テキストを読んでイメージ化するだけではない、hrk さんは、一昨日のエントリーに 「文章を読んでいると、映像だけでなく音声も再現してしまいます。声質とか声音とか…。臨場感満点です」 とコメントしてくれている。
こうなると、前述の四代目橘家圓喬の 「鰍沢」 で、テキストを伴う視覚/聴覚刺激が暑さ寒さの皮膚感覚に変換されたように、テキストから味覚、臭覚に変換することだって可能だろう。
「テキスト - イメージ・コンバーター」は、人間の脳内に備わっているもので、あるいは、それはむしろ「脳内感覚コンバーター」というべきなのかもしれない。
感覚は、元々トータルなものだったろうから、一度、未分化な状態の、デジタル・データの変換でいえば、「中間ファイル形式」みたいな脳内領域を経由すれば、それはもう、自由自在、どうにでもなりそうな気がする。
その自由自在さ加減は、下手したら、並の映画やアニメどころではない。多少感覚未分化な要素を残していて、なまじきっちり鮮明かつ具体的なイメージでなかったりする分、かえって縦横無尽、奇想天外のハイパー・センセーション(ハイパー感覚)になる可能性がある。
それに、どうせ「色即是空、空即是色」で、感覚される対象は「空」なんだから、何物にもとらわれずに済む。
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コメント
こんにちは。
テキストからイメージ・・・鮮明な映像として浮かぶかということ(論旨合ってますでしょうか?)では、以前も書きましたが、「はにまる君」でtakuさんが命を落としそうになったお話は、私には、学校の舞台という状況、TVでみた「はにまる君」の姿などの、前から持っていた情報が私を助け、学校の暗い舞台の袖で。関節が動かない紙製の着ぐるみで出まちをしながら、次第に息苦しくなっていく様子を、結構鮮明に思い描てしまいました。わが子に、口伝えをしたほどです。子どもに伝えたのは、「はにまる君」を知っている者には、共有できるエピソードだと思ったからですが。
・・・・実体験といいますか、過去の体験が、ほんの少しでも記憶にあると、それが、かなり有効に機能すると思います。
実は、小学生に語り(素話)をすると、これは、「聞くと見える」の実践だと思うのですが、口をぽかんとあけて宙をみているしぐさをしたり、私の顔をじっと見ていたり、いろいろな様子があるのです。どうも、思い思いのやり方で、イメージしているようです。
ある日、「北斗七星」というロシアのお話とき、「ひしゃく」を知らないお子さん(小1。ちょっとびっくりしました。)がかなりいて、「それ何?」と。水をくむ道具だと、さらっと言って話は、つづけましたが、おそらく、「ひしゃく」がイメージできなかった子にとっては、全く、絵が描けないということもあると思います。
ひしゃくを、道具図鑑で見るよりも、実体験として、神社かどこかで、水をくむ体験があった子ども方がより、鮮明に描けるのではないのかと思った次第です。(論点がはずれてなければいいのですが。)
投稿: ねこ | 2006年7月 9日 17:00
ねこ さん:
>実は、小学生に語り(素話)をすると、これは、「聞くと見える」の実践だと思うのですが、口をぽかんとあけて宙をみているしぐさをしたり、私の顔をじっと見ていたり、いろいろな様子があるのです。どうも、思い思いのやり方で、イメージしているようです。
うぅむ、このあたり、可愛らしい顔の並ぶイメージが浮かんでしまい、なんとなくわくわくしました。
「ひしゃく」に関しては、知らないものはイメージできないですから、仕方ないといえば仕方ないけど、神社の手水場に行くというのも、貴重な体験になるんですね。
大切なのは、「好奇心」なのかもしれませんね。
投稿: tak | 2006年7月 9日 21:13