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2006年8月 1日

「死」から学ぶもの

先月の落雷で我が家の PC が絶命し、新たな機種のセッティングに手間取ってしまったので、月末締め切りの原稿を仕上げたのが、まさに月末ギリギリになってしまった。

そんなわけで、8月最初のエントリーを書こうとしているのだが、難儀なことに頭の中が白くなっていて、ネタが思いつかないのである。

で、我が家のペットの話でもするしかないような気がしてきたのである。

実は、我が家には猫が 2匹いる。年上の方の白猫と、年下の方の黒猫である。そして、その年上の方の白猫が、どうやら寿命にさしかかりつつあるようなのだ。

この 1年ほど、めっきりばあさんじみてきて、得意のジャンプで窓枠に飛び乗ることもできなくなっていたのだが、昨日あたりからいよいよ足腰がふらついてきてしまった。今は部屋の片隅で寝そべるだけの暮らしである。

この猫は、かなりプライド高き猫で、「ウチにかまわんといて体質」なのである。知らない人が下手に撫でようとして手出ししようものなら、一瞬の早業で噛みつかれるか引っかかれるかで、いずれにしても血を見るのである。

年下の方の黒猫が「ウチにかまって、かまってんかぁ体質」で、常に人に甘えて体をすりすりしたがるのとは対照的だ。

このプライド高き白猫が、今、人の手を借りないと水を飲むことも、小便をすることもできないでいるのである。それで、妻と娘たちは猫の世話に手が取られて、私の飯の支度もままならない。

以前に飼っていた犬が脳梗塞で死んだときも、我々家族は必死の介護をした。犬におむつを当てて、下の世話までしたのである。犬は猫と違って体が大きいので、私の出番が多かった。

日本の家庭が核家族化して、子供たちは、年寄りにお迎えがくるというのを目にすることがなくなってきた。以前は身近にあった 「死」 が、今はなんとなく現実離れしたものになっている。

だから、愛するペットが死んでゆくのを見つめるのは、ある意味、尊い教育である。死ぬまでの献身的介護で、「愛を発揮すること」を覚えることもできる。いずれにしろ死んでゆくものに対して、できるだけのことをするというのは、「させていただく」という感覚を養成する。

我が家の娘たちは、以前の犬の死で多くを学び、今また、猫の死で何かを学ぼうとしている。

【8月 6日 追記】

もうてっきりだめかと思ったのだが、この猫、必死の看病の甲斐あって、しぶとく生き返った。

食欲が戻り、まだ足取りはややおぼつかないが、自分で歩けるようになり、涼しい場所を選んで移動しながら休んでいる。無惨にやせ衰えていた体も、少しずつ元に戻りつつある。

昔の猫だったら、先月末にかなり衰えてきた頃に、自分で死に場所を求めて姿を消してしまうところだった。今の猫は、昔より人との結びつきを強く感じているのだろうか。

秋になって気候が穏やかになったら、多分もっと持ち直すだろう。一安心。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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