続 ・「鏡の法則」 のリアリティ
4日前の 「鏡の法則」 に関するエントリーで、私は自分の反応が 「シンプルに感動した」派と「馬鹿馬鹿しい」派のどちらにも属さないと、確かに書いた。
しかし、どちらの方により違和感を覚えるかと言えば、馬鹿馬鹿しいとして、無闇に批判する論調の方にである。
高い壷を売りつけるインチキ霊感商法と同じやり口だとか、カルト宗教の洗脳のようだとか、いろいろな批判のしようがある。しかしこのストーリーでは、幸いなことに、壷も売りつけらていなければ、カルト宗教に金を貢がされてもいない。
誰にも迷惑をかけず、誰も不孝にならず、それどころか(一応)幸せになっている。その方法論が気に食わないとしても、あるいは、そのレポートが稚拙だとしても、別にとりたてて悪し様に言う必要はないじゃないかと思うのである。それこそ、人生いろいろだもの。
一般的なことを言えば、そりゃあ、親を恨むよりは感謝している方がいいに決まっている。しかし世の中には、どうしても親を許せないと思っている人も多い。不幸なことである。
親を許すことに抵抗があるのは、親が「ダメな親」であってくれた方が、自分にとって都合がいいからである。自分がこんなになってしまったのは(あるいは、この程度にしかなれなかったのは)、親のせいだと思っていられる方がいい。
またあるいは、至らない親を反面教師としたからこそ、自らの健気な努力で何とかここまで来たのだと思っている人も多い。それは裏返せば、あんな親でなかったら、自分はこんなに苦労しなくてすんだのにという思いだ。
自分は、愛情の欠けた親、つまらない仕事人間の親、話のわからない頑固な親、無教養な親、甲斐性なしの親、不潔な親、親の資格のない親の、快楽追求の結果の、いわば犠牲者である。
自分を犠牲者であると規定することは、なかなか居心地のいい、甘美なものである。「何てかわいそうな私」「にも関わらず、何て健気な自分」そう思うことで、ある種の心のバランスが保たれているというケースは、かなり多い。
しかしそうした心のバランスの多くは、所詮長続きしない。最も身近な存在を責める無意識の心的傾向は、友人、上司、恋愛相手、配偶者、子どもなど、いろいろな人間関係に影を落とす。
周囲とうまくやっていきたいと強く思っているのに、なぜかいつもうまく行かず、軋轢を生じ、悩むということが多い。そしてその原因が自分の心の中にあるとは、なかなか気付かない。
たとえ気付いたとしても、それを認めて、一転して親と和解しようという気持ちになることは、とても難しい。親を責め、自分を憐れむことの甘美さが、現実の不幸を埋め合わせて余りあるうちは、人間はなかなか変われるものではない。
しかし不幸が積み重なって、古いバランスがまったく機能しなくなってしまったら、新しい心的バランスを求めるしかないのである。その新しいバランスが、親との和解によって得られるのだとしたら、自分の中にどんなに頑強な抵抗があろうとも、試みる価値はある。
それは決して「敗北」ではない。「敗北」だと思うと、決して和解は得られない。甲斐性なしの親を持った子ほど、自力で必死で生きてきたから、「負けず嫌い」が多い。しかし時には、その負けず嫌いが余計な邪魔をする。
親鸞上人が、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言われた真意もそこにあると、私は思っている。「自分は悪くない = 自分は善人である」と思っている人の心は、実は案外かたくなである。悪いのは他の誰かだと思っている。しかし、まず自分の非を率直に認める人の方が、仏の心に叶う。
現代の心理学の成果と共通することを、宗教は昔から直観的に表現していることがある。だから、宗教はあながち迷信の固まりというわけではない。むしろ学問の苦手な人にも受け入れられるように平易に説いてあるだけ、汎用性があったりする。
それに実際のカウンセリングで、こうしたカタルシスのメカニズムを前もって論理的に説明しすぎると、相手はいろいろな逃げ道をたくさん用意してしまって、単なる堂々めぐりの議論に陥りがちだ。だから、一見宗教じみたアプローチを取る方が、効果的ともいえる。
というわけで、私は、正しすぎる人と付き合うのは苦手である。なお、「正しすぎる人」の中には、カルトの教祖というのも入るわけだが。
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コメント
>幸いなことに、壷も売りつけらていなければ
本なら売りつけられてもいいんですか^^
>それから、ジャンポルスキー博士という人が書いた『ゆるすということ』という本がおすすめです。
>後で、おすすめの本を何冊か選んで、そのリストをFAXしておきますので、ぜひ買って読んで下さい。
投稿: asitaki | 2006年7月 9日 13:07
>本なら売りつけられてもいいんですか^^
よっぽどお嫌いのようで ^^;)
投稿: tak | 2006年7月 9日 21:50
上記のコメントのレス、軽く流してしまいましたが、今更ながら、マジに答えてみます。
>本なら売りつけられてもいいんですか^^
まあ、本ぐらいなら、身上つぶすほどの出費でもないしということが、まず一つ。
それから、カルト宗教の場合は、「あの世で迷ってる先祖を救うため」 とか、「業を断ち切るため」 とか、その他いろいろ、いわば 「合理的に抵抗しようのない脅し」 で売りつけようとします。
しかし、「もっとよく知りたかったら、読んでみるといい」 という 「お奨め」 は、「脅し」 とは言えないと思いますね。
もっとも、そこが入り口で、そこから先はカルトという場合もないとは言えないので、注意が必要なのは当然ですが。
投稿: tak | 2006年10月27日 09:30