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2006年8月に作成された投稿

2006年8月31日

返事のテンプレート

以前は "Do you speak English?" (英語話せますか?)と外国人に聞かれると、"Just a little bit." とか、お決まりの返事をしていたが、いつ頃からか、ひねくれてしまった。

近頃では "I hope so."(そう願いたい)か、 "I wish I could." (話せたらなあ)がお気に入りの答えである。

何かお決まりのことを聞かれた場合、返事のテンプレートをいくつか想定してあると便利である。日本語でも、「tak さん、英語はぺらぺらなの?」 と聞かれた場合、「"ぺらぺら" じゃなく、"ぺら" 程度」と答えることにしている。何となくニュアンスは伝わる。

近頃、この返事のテンプレートに新しいのが加わった。

レストランなどでは、近頃では大抵、喫煙席と禁煙席に分けてあり、最初に「煙草はお吸いになりますか?」と聞かれる。そうでなくても、最初から「禁煙席でお願い」と頼むことにしているが

ところが、店によっては 「ただ今、禁煙席は満席ですので、喫煙席ならお通しできますが、よろしいでしょうか?」などと、ふざけたことを言い出すところがある。そんな店に限って、禁煙席は満席だが、喫煙席はガラガラだったりする。だったら、もっと禁煙席増やせよ。

こんな時、以前は、「いえ、禁煙席が空くまで待ちます」と答えていたが、近頃はちょっと戦略を変えた。

「ふざけるんじゃない。そんな失礼なことを言う店には、もう二度と来ないよ」と言って、さっさと店を出ることにしたのである。

少々口汚いが、一種の抗議行動と思ってもらえればうれしい。店の方針が間違っているために、こうして機会損失につながってしまったのだよと、わからせてやりたいということなのである。

もう、実名を出してしまうけど、すかいらーく系の店、すかいらーく、ガスト、夢庵、バーミヤンなどが、禁煙席満席、喫煙席ガラガラで、「喫煙席でよろしければ……」 などとふざけたことを言う代表格だという印象が強い。

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2006年8月30日

「沖縄そば」ってソウルフードなんだって

「沖縄そば」という食べ物をご存じだろうか? 私がこれを初めて食したのは、昨年 6月のことだった。

日本中のそばが大集合した 「大江戸めん祭り」 というイベントで、私は、当時まだ行ったことのなかった沖縄と縁を結びたいという単純な動機で、試しに食べてみたのである。

そば好きの私は、このイベントで、江戸、信州、会津など、日本中の名だたるそばのはしごをし、最後に「沖縄そば」というのを食べたのである。そのときの印象は、決してはかばかしいものではなかった。

一口すすり込んで、「むむ、なんじゃこりゃ、そばじゃないじゃないか!」 これが第一印象である。確かに「蕎麦」ではない。沖縄そばは、蕎麦粉を全然使っていない。小麦粉のそばである。

感覚からすると、ラーメンとうどんの中間アイテムのようなもので、なんだか、妙なものを食ってしまったような印象だった。しかし「ラーメン」を「中華そば」と称するのだから、「これもありか」と、無理矢理自分を納得させたのだった

ところが、先日沖縄を初めて訪れてみると、沖縄というのは「沖縄そば」の国なのだった。外食をしようとすると、いわゆる琉球料理の店か、沖縄そば屋しかないのである。内地では 1キロ歩けば必ず 2~3軒はあるラーメン屋というものが、ほとんど見あたらない。もちろん、いわゆる「蕎麦屋」も、ものすごく少ない。

その辺で、ちょっと昼飯を食おうと思ったら、もう実質的に「沖縄そば」を食うしかないのである。外食といえば、沖縄そばなのだ。私は沖縄に滞在した 2泊 3日の間に、沖縄そばを 5回食べた。

東京で初めて食った時は、なんだか妙なものを食ってしまったような気がしたのだが、沖縄の地で食べると、ほかに選択肢が極めて少ないということを差し引いても、とても全うなものを食している気がした。「ほかに何があるのだ!」と言いたくなるほど、全うだった。

風土というのは大したものなのであった。私は内地にいるときには 1日に 1食以上蕎麦を食べないと物足りないような気がするのだが、沖縄では、いわゆる「蕎麦」を食べようという気には全然ならなかった。

ソーキそばというのが、とくに全うな気がした。これは、豚のあばら骨付きの肉をトッピングしたものである。なかなかワイルドでいいのである。なるほど 「ウチナンチューのソウルフード」 と呼ぶに値する食物であると、しみじみ思ったのであった。

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2006年8月29日

「オーマイニュース 日本版」 を見たけど

オーマイニュース 日本版」がスタートした。試しにアクセスしてみたが、ニュースの質だの偏りだのという以前に、いかんせん、重すぎる。ブラウジングがサクサクできない。

個別の記事がようやく表示されてみると、うぅむ、なんだかなあ。鳥越氏が 2ch をどうこう言ってるが、五十歩百歩じゃないかなあ。

このような形の「インターネット新聞」ということについて言えば、そんなメディアって、別に必要ないんじゃなかろうか。それでなくとも、「市民記者」的な存在のブロガーが、日本中にくさるほどいる。私は、その呼称はあまり好きじゃないけど。

下手に特定メディアにまとめようなんてするから、昨日のようにアクセスができない状態になってしまったりする。

編集長という触れ込みの鳥越氏だが、実際には、単に「シンボル」的存在のような印象だ。実際に運営に深く関わるような姿勢は感じられない。つまり、「客寄せパンダ」という役どころかな。

彼は匿名と実名ということについてこだわっておいでのようだが、実名だから信用できて匿名だから信用できないなんてことは、全然ない。そのことについては、既に多くのブログで語られている。

それでなくとも、「オーマイニュース」 は市場では既にかなり「色付き」というイメージで見られている。鳥越氏がいくら「中立性」ということを強調しても、それを真に受ける者は少ないだろう。

このような市民記者によるインターネット新聞を運営するのに、どうして韓国メディアのライセンシーみたいな形でスタートしなければならなかったのか。多分、「竹島問題」などで 「中立性」 を保つことはかなり困難だろう。その辺りからして、警戒感が強いわけだ。

「オーマイニュース」の発祥地である韓国では、ノムヒョン大統領の誕生に、大きな役割を果たしたと言われている。しかし私はそのことについて、とても批判的に見ている。

先月 14日の 「ノムヒョン = ベルボトム論」 というエントリーで述べたように、私は韓国民がノムヒョンを大統領に選出したことは、一時の流行に乗ってしまった結果で、結果的にはかなりの「チョンボ」だったんじゃないかと思うのだ。

それが、現在の彼に対する支持率の劇的な低下という形で現れている。日本の団塊の世代の多くが、1970年代初頭のベルボトムをはいた写真を、「恥ずかしい姿」として隠したがるメンタリティに似ているような気がする。

有り体に言ってしまうと、「オーマイニュース」のビジネスモデルは、「市民記者」の数をできるだけ増やしてしまえば、少なくとも仲間うちでのページビューが増え、それによって、広告収入が保証されるということだ。煎じ詰めれば、それだけの話ではないか。

そもそも、私は 「オーマイニュース」なんてネーミングをするようなセンスには、恥ずかしくて付き合いきれん。

【2020年 11月 25日 追記】

今さらの追記だが、「オーマイニュース」日本版は、2008年 9月に「オーマイライフ」に変わり、さらに 2009年 4月に閉鎖となった。

 

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2006年8月28日

「アジアンビューティ」という重箱読み

あまりにも些細な話なので、鬼の首でも取ったように騒ぎ立てる気は毛頭ないのだが、前々から密かに気になっていることがある。

花王の「アジエンス」という製品の CM で、Asian Beauty を「アジアンビューティ」と言っている(参照)が、それを言うなら、やっぱり「エイジャンビューティ」 だろうと思うのだ。

このエントリーを書き始めるに当たって、念のため、複数の英和辞書に当たってみたが、いずれも、冒頭の "A" の部分の発音は 【ei】 となっている。あえてカタカナで表記すれば、「エイジャン」か「エイシャン」で、「アジアン」と聞こえる読みは見あたらない(百読は一聴にしかず : スピーカーをオンにして聞かれたし)。

当然、元々の "Asia"  も、英語の読みは 「エイジャ」または 「エイシャ」 で、「アジア」とはならない。

もしかしたら私が知らないだけで、"Asian" で 「アジアン」 と読む言語があっても全然おかしくないが、仮にそうだとしても、"Beauty" は、紛れもない英語だから、「アジアンビューティ」は、一種の重箱読みということになる。普通に考えれば、ジャングリッシュと英語の重箱読みなんだろうなあ。

"Asiance" という名の商品に関しては、つい「エイジャンス」と読みそうになるということは別として、日本の商品名であるからして、「アジエンス」 と読ませることに、全く異論はない。しかし「アジアンビューティ」は、やっぱり落ち着かない気がしてしまうのだ。

そこで、思い立って「アジアンビューティ」でググってみたら、なんとまあ 32,800件 (28日午前 12時頃の時点)もあって、花王さん以外にもずいぶんたくさんの「アジアンビューティ」が存在するとわかった。

これはもう日本語なのだな。「ナイター」とか「OL」とか「セレクトショップ」みたいなものだと思えばいいのかもしれない。おっと、前述の検索結果のトップは、「セレクトショップ アジアンビューティ」だった。

余談だが、英文表記 "select shop" でググると、見事に日本のサイトしか検索されない(参照)。「ショップのオーナーが自分のセンスで選んだ様々なブランドのアイテムを扱う」(前述のリンク先より引用)というごく当然のことがさも特殊扱いされるのは、日本ぐらいのものだからかもしれない。

それも含め、冒頭でも触れたとおり、だからといって、ことさらに無粋なことを言うつもりはない。ただ、たまたまネタに困って、ここしばらく感じていたちょっとした個人的モヤモヤを書いてみただけの話である。決して昨日ほど熱くなっているわけじゃない。

"Asian" という単語に関しては、日本人が外国人と英語で話す時、つい間違って「アジアン」と発音しても、なんとか通じてしまうことが多い。だから、あまり心配はいらない。

実際のところ、日本人の英語発音がカタカナ式であればあるほど、部分的な発音の間違いなんて、全体の中に埋没してしまって目立たない。

逆に、なまじ発音のいいやつが、つい「アジアン」なんて口走ると、向こうも安心して間違いを指摘してきたりしやがる。中途半端が一番いけないのだ。

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2006年8月27日

禁断の復讐技

自ら命を絶った中学 1年生に「あきれ」られてしまった矮小な同級生たちよ。君たちの完敗だ。心の底から恥じるがいい。(参照

しかし、この世で最も有効な復讐技が、「あきれ」て「死んでみせる」ことだったとは、あまりにも悲しい。この「禁断の技」
の封印は、いともたやすく剥がれてしまうのだ。

いじめを苦に自殺した愛媛県今治市立の中学 1年の男子生徒は、その遺書に、「クラスでは『貧乏』や『泥棒』と言う声がたえず響いていて、その時は悲しい気持ちになります。それがもう 3年間も続いていて、もうあきれています。この度死ぬことを決意しました」 と書き記した。

この子は、ずっと「あきれ」ていたのだろう。「あきれる」ことによって、自らの誇りを保つと同時に、言葉によるいじめという行為でくだらない満足を得ている、同級生たちの矮小さをしっかりと見据えていた。

しかし、いくら「あきれて」みせても、鈍感な同級生たちは、自らの矮小さに気付くことがなかった。死ぬほど「あきれ」られていることに気付かないほど、感覚が鈍化していたのである。

そこで、この子は、どんな鈍いヤツでも、いやでも自分の矮小さに気付かざるを得ない状況に追い込むには、実際に「死んでみせる」ことが必要だと気付いたのだった。そして、それを実行したのである。

私はこの「禁断の技」が流行してしまうことを危惧する。

「禁断の技」が随所で行使される前に、日本中の「人を殺すほど鈍感な」連中に、「お前ら、実は死ぬほど『あきれ』られてるんだぞ」ということを、きちんとわからせてやらなければならない。

どつきまくってでも、わからせてやらなければならない。一生泣くほど、わからせてやらなければならない。「少しは恥を知れ」 と。

これは、何も子どもの世界に限らない。

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2006年8月26日

耳障り? 耳触り?

先月末の Reiko Kato さんの 「的を得たり、耳障りが良かったり」というエントリーを読んで、「耳ざわり」について書いてみようと思いながら、つい 1ヶ月近くも忘れていた。

「的を得る」 については、うっとうしいが、私の 3月 7日付エントリーを読んでいただくことにして、さて、問題の 「耳ざわり」 である。

最近、(かなり目障りなんだけど) 確かに 「耳障りがいい」 という表記を目にすることがある。ググってみると、652件もヒットした。

その最上位にランクされているのは、"「耳障りがいい」 はおかしい" と指摘した件の Reiko Kato さんのページなのだが、他のほとんどは、何の疑いもなく「耳に心地よい」という意味で使っている。

これは、明らかにおかしい。「障り」というのは、「さまたげ」とか「支障」とかいう意味なので、元々「よくない」ことなのである。

口語で 「耳ざわりがいい」 と、つい口にしてしまうのは、わからないでもないが、「耳障りがいい」と文字で表記してしまって疑問を感じないのは、日本語センスがビョーキだ。

もっとも「耳障り」 で違和感を覚えた人がもう一度変換キーを押して、「耳ざわり」 で決定してしまうことも、かなり多いようなのだ。その証拠に「耳ざわりがいい」でググると、突然 10倍以上の 7390件に増えてしまう。

ちなみに「耳触りがいい」でも 5100件になる。これはより手間をかけた変換をしていいて、執念を感じる。よほど、この表現がしたかったようなのだ。

まあ、「耳触りがいい」 という表現をしたくなる気持ちもわからないではない。「手触りがいい」「肌触りがいい」 などの表現の延長として理解できる。「タッチがいい」 ということだ。

世の中には「実際にヘッドホンが耳に触れているから耳ざわりがいい音楽と言う」 なんていう人もあるらしい(参照)が、そんな想像力のない苦しいことを言うから、かえって変痴奇論になる。物理的に触れているかいないかは、この際、関係のない話なのだよ。

例えば、いかにももっともらしい誘惑的な言い回しについて、ちょっとした皮肉を込めて「耳ざわりはいいけど……」 なんて言うのを、実際によく聞く。これなんか、曰く言い難いニュアンスが思いやられて、つい認めたくなってしまうほどだ。

結論。「耳障りがいい」 という漢字表記に限れば、どう考えてもおかしい。ただ、「耳触りがいい」という表現は、私自身は原則的には歓迎しないけれど、世の中で広まってしまうだろうと思う。あるいは、漢字で区別しなければならない時代がくるかもしれない。

余談だが、「目障りがいい」 という表現を何の疑いもなくストレートに使っているページが、広いインターネットの世界で 1件だけ見つかった。(あえてリンクするほどの意味はないので、しない)

それもびっくりだが、さらに、「目触りがいい」 という表現をしたくて、キーボードをいくら叩いても「目障りがいい」が表示されるといって憤慨している、プロ中のプロと目される物書きもおいでだ (参照 以下の引用は、改行修正済み)。

例えば、「耳触りがいい」という正しい言い回しがある。「目触りがいい」は、普通には使わないが小説の言葉では間違いなのだろうか。キーボードをいくら叩いても「目障りがいい」が表示される。私たちは打鍵しながら、知らず知らずにワープロ文体にならされ、そのコンセプトで作品を書くようになる。文体を自分で作る、個性豊かな文章を創造するという、作家の基本が育たない。

「目触りがいい」 が間違いじゃないかどうかは別として、"キーボードをいくら叩いても 「目障りがいい」 が表示される" と言いながら、ちゃんと その前のセンテンスで 「目触りがいい」 と入力できている (このテキストの冒頭で、筆者は 「私はこの原稿を富士通のFM・Vという機種で書いている」 と断っている) という事実は、どうなってるのだろうか。

この引用部分以外にも、いろいろな意味で、心の底から驚くような記述が満載で、揚げ足取りが好きな人なら、大喜びしそうなテキストである。

「ワープロ文体」 ということに関しては、私は 3年以上前に、"はっきり言わせてもらえば、ワープロごときで文体が変わってしまうなどというのは、実は、その人は 「文体」 と称するに足るスタイルを、元々持ち合わせていなかっただけなのである" と、喝破させていただいている (参照)。

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2006年8月25日

子猫殺しということ

前にも書いたが、私の死んだ祖母は近所でも有名な猫好きで、子どもの頃、我が家には猫が何匹いるかわからないほどだった。

それでも、子猫が何匹も生まれるとさすがに飼いきれず、祖父がどこやらに捨ててくるのだった。「川向こうに捨ててきた」と、うんざりした顔で言う祖父の言葉を、今でも覚えている。

当時、「川向こうに捨てた」ということは、拾われる可能性はほとんどないということだ。生まれたばかりの子猫とて、自分で餌をあさることすらできないだろう。要するに、「殺した」と同じことである。それを思うと、子どもの私は少しだけ辛かった。

「少しだけ」というのは、子猫を捨てた現場に立ち会ったわけでもないので、現実感が薄かったためである。自分の手を汚していないだけ、悲しみは、それほど大きなものではなかった。

辛かったけれど、正直言うと、心のどこかでちょっとだけ「ほっとした気分」があったのも確かである。これ以上猫が増えたら、いくらなんでも大変だと思ってもいたので。

人間というのは、勝手なものである。その勝手さを、もっともらしくエッセイにしたためた坂東眞砂子という女流作家が、今、非難の的になっている。(参照

私は真正面からは彼女を非難する気になれない。子猫殺しという行為で、直接自分の手を汚さずに済み、ちょっとだけ辛いけれど、反面、ほっとしてもいた自分の罪を、思い返さずにはいられないからだ。

今、我が家ではメス猫を 2匹飼っているが、両方とも避妊手術をしている。かの女流作家の言い方を借りれば、獣にとっての「生」を蹂躙していることになる。猫は生まれてきた以上、マグワイをして子を産むのが幸せなのかもしれないからだ。

女流作家はさらに言う。「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずに済む」

しかし、これはあまりにも乱暴な論理である。避妊手術は、決して「子種を殺す」というわけではないからだ。私は「殺さない」方を選択しているのである。

そもそも、かの女流作家は、この子猫殺しをエッセイとして告白することで、一体何をねらったのだろうか。

動物をペットとして飼うという人間の傲慢さを、不条理として訴えたかったのだろうか。もしそうだとしたら、彼女の「獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ」という主張は、あまりにも幼稚に過ぎて、お話にならない。

ともあれ、今回の騒ぎで彼女の名は一躍有名になった。おかげで、私も彼女の名を初めて知った。宣伝料に換算したら、莫大な額になるだろう。どうやらホラー作家らしいから、その効果は大変なものかもしれない。もしかしたら、計算されたスタンドプレーか?

しかし、彼女の創作世界に興味のない者からすれば、今回のエッセイは、幼稚な視点から「性」を肯定して「生」を否定してしまうという矛盾に満ちた、妙な問題提起をしたというにすぎないような気がする。

あるいは強いて言えば、人間の根元的な「業」への問いにつながる問題提起でもあるわけだが、だからといって、この昔からある問いを発するために、実際に自分で子猫殺しをすることが必要かといえば、首をかしげてしまう。

ところで、我が家の猫は、妊娠する能力を失っているくせに、私にさんざん甘えると、いつも最後には意味ありげに、お尻を私の方に向ける。これには苦笑せざるを得ない。

避妊手術をしても、猫の「生」 は蹂躙されきっているわけでもないようなのである。

【2022年 2月 14日 追記】

じつは子猫を殺してなどいなかった 坂東眞砂子さんのこと」という記事が見つかったので、遅ればせながら書いておく。

 

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2006年8月24日

良寛さんと、いんきんたむし

ちょっと古いが、6月 18日付の毎日新聞日曜版で、書道家の榊莫山先生が、良寛の手紙を絶賛しておられる。

純真爛漫で邪気のない良寛和尚らしく、手紙は拝啓とか謹啓とかいうお約束の書き出しの言葉もなく、いきなり本題に入っている。いんきんたむしの薬が欲しいという用件だ。

Ryokan

文面は、最初の「いんきんたむし」だけは今の人でも問題なく読めるだろうが、そこから先はちょっと難しいだろう。今の字にすると、こんなふうになる。

いんきんたむし再発致候間
萬能功一貝御恵投下されたく候 以上
七月九日
守静老 良寛

「致候間」というのは、そのまんま「いたしそうろうあいだ」で、「いたしましたので」というような意味合い。昔の手紙にはよく使われる決まり文句のようなものだ。

つまり、いんきんたむしが再発したので、「萬能功」という薬をくださいと言っているのである。

「萬能功」というのは、当時の塗り薬で、いんきんたむしのかゆみ止め以外でも、「萬能」というだけに、何にでもよく効いたようだ。字は違うが、「萬能膏」というのは、つい最近まであったらしい。

この薬は当時、貝殻を容器として流通していたようで、良寛さんは「一貝」の「貝」の字の代わりに貝の絵をかいている。画像を見れば一目瞭然だが、手紙の真ん中辺りである。

洒脱な「絵文字」である。莫山先生は、これをして「薬をねだる手紙にさえ、良寛はおしゃれを忘れない」と、絶賛しておいでだ。

最後の行の宛名「守静老」とは、地蔵堂の大庄屋富取武左ヱ門の分家の医者、北川守静先生のことと伝えられる。

冒頭に、良寛さんは拝啓も謹啓もない「お約束無視」と触れたが、それどころか、どうやら薬代を払うというお約束にも、一向に頓着していないようだ。何しろ「御恵投下されたく候」(恵んでやってください)と言っているのである。托鉢と同じようなつもりらしい。

「恐縮ですが」とか「申し訳ないけど」なんていう言葉は、一言も発せられない。全然悪びれないのである。もちろん、ねだられた北川守静先生にしても、「良寛さんなら仕方がない」と、はなからお金を取る気はないのだろう。

まあ、こんな色紙に書かれた良寛さんの手紙なのだから、後々にはちょっとした値打ち物になるのだが、当時、そんなことを意識していたかどうかは疑問だ。

ふぐりに萬能功を塗り、じんじんしみるので団扇でばたばたあおぎながらひいひい言っていたとしても、やはり良寛さんは不思議に気高い。

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2006年8月23日

「馬鹿親」と「フツーの親」の境界線

近頃、「馬鹿親」というのが増えていて、大きな問題と化しているのだそうだ。エゴイストで、教師、校長、教育委員会に無理難題をふっかける親たちということのようである。

さて、「原因は生徒指導」として市を訴えた、タバコを学校に持ち込んだことを注意されて自殺した中 2の子の親は、どうなんだろう?

馬鹿親って、どんな親なんだろうかと、ネットで検索してみたら、おおむね、こんなことを言い出す親なんだそうだ。(参照

「義務教育だから給食費は払わない!!」
「うちの子は箱入り娘で育てたい。誰ともケンカさせないという念書を提出しろ」
「保護者会に参加するために会社を休んだから休業補償を支払え」
「うちの子がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」

なるほどね。これでは学校も大変だろうなあ。

翻って、長崎で市を訴えた 自殺した中 2生の親というのは、どうなんだろう。このケースのことの次第を、以下に引用する。

 自殺したのは安達雄大君(当時14)。04年3月10日、校内でたばこを持っているのを担任の男性教諭に見つかり、生徒指導中に「トイレに行きたい」と教室を出て、校舎4階から飛び降りた。

 市教委の調査で、雄大君は狭い掃除用具入れの中で担任に注意された後、真っ暗な多目的教室に連れて行かれたことが分かった。多目的教室に「オレにかかわるいろんな人 いままでありがとう」という遺書が残されていたが、密室で何があったかは不明だ。

 両親は第三者機関による調査を求めたが、市教委は担任からの聞き取りなどをしただけで「指導と自殺の因果関係はない」と結論づけている。

これについて、両親は「原因は生徒指導では」と同市教委に訴えてきたが、納得のいく回答が得られていないとして、市の管理責任を問い、9000万円余りの損害賠償を求める民事訴訟を起こすというのである。

普通に考えれば、「指導と自殺の因果関係はない」 という教育委員会の結論が妥当なんだろう。「狭い掃除用具入れ」とか「真っ暗な多目的教室」とかいうのが、何となく異様で、引っかからないではないが。

長崎県内ではその後、中高生の自殺が多発。「教育が変わらなければ同じことが繰り返される」と、両親は訴訟を決意したと、次のように報道されている。

 母親の和美さん(44)は「自殺の原因は、思春期の子どもを追いつめるような指導ではないか。裁判は長期化も予想されるが、雄大が残した死の意味を生涯をかけて訴えなければ」 と話している。

これを 「馬鹿親」扱いにするというのは、ちょっと気が引ける。ただ、個人的には、学校教育と家庭教育の両方に問題があったとしか考えられないのだが。

追いつめられた子にとって、家庭が有効な避難港として機能していなかったということだけは言えると思うのだ。

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2006年8月22日

景気が回復すると、人は我慢強くなる?

景気が回復すると、人は我慢強く、気長になるのか? 高速道路 3社によると、今年のお盆期間中の大渋滞は、昨年の 3割増しで、「景気回復の影響」とみられている。(参照

私はバブル時代に勤め人をしていて、お盆にはちゃんと帰省していたが、うまくやれば、あまり渋滞には悩まされなかったがなあ。

帰省ラッシュを避けるのは、案外簡単である。それは夜中に移動することだ。

大渋滞は、ほとんど日中から宵のうちにかけて発生する。それを避けるために、多くの人は早朝に出発したりするが、朝のうちに渋滞しやすいエリアを抜けられるかどうかが問題だ。ちょっとぐずぐずすると、結局 9時頃には渋滞にはまる。

そんなことなら、無理して早起きするよりも、前夜のうちに出発して、渋滞のない夜中のうちに、できるだけ目的地に近づいておく方が得策だ。

さすがに徹夜で運転するのは辛いが、例えばつくばから山形県の庄内までならば、常磐道~磐越道~東北道~山形道と、高速道のみを走り続ければ、7時間かからずに着く。夜 8時に出発すれば、夜中の 3時前に着く計算である。夜明け前に着いて、昼まで眠ればいい。

それも辛いというなら、夜 8時頃に出発し、夜中過ぎにどこかのパーキングで仮眠する。3時間以上眠って、世の中が明るくなりかけたら、冷たい水で顔を洗って出発すれば、翌日の渋滞が始まる前に、目的地に着くことができる。

夜に運転するのが辛いといっても、かんかん照りの日中に、ほとんど止まっている状態の高速道で、絶望的な時間を浪費するよりずっとマシだ。

どうしても夜に走るのがイヤだというなら、高速道より一般道を行く方がいい。高速道で渋滞にはまったら逃げ道がなく、トイレにも行けない閉塞状態になるが、一般道なら、どこにでもあるコンビニなどに逃げ込むことができる。

大渋滞時は、高速道より一般道を行く方が早く着くと言う人もいるが、経験的にはそんなことはない。それほどの違いがないか、あるいは、結局高速道の方がほんの少しだけ早いか、このどちらかのような気がする。

しかし、違いがないか、ほんの少しだけ早いかという程度の違いなら、高速料金を払うのは徹底的にばかばかしい。それに、自由度の高い一般道の方が、圧倒的に精神的ストレスが少ない。私なら、断然一般道を選ぶ。

一般道を行く場合、ボトルネックになる場所というのは大抵決まり切っている。市街地を通過する区間、地方国道と幹線国道の合流地点に立体交差のない場所、そして車線が減少する区間などだ。

そうしたポイントに近づくと、とたんにのろのろ運転になる。そして、そののろのろ状態は、ボトルネックを通過するまでは絶対に解消されない。それがわかっていても、あまり土地勘のない場所で脇道に入るのがはばかられるので、つい渋滞を我慢する。

しかし、近頃はカーナビという便利なものがある。平気で脇道に入ってしまえばいいのである。道を一本だけずらせば、すぐ側の国道の渋滞をよそに、田んぼの中の農道のようなところをすいすい走れたりする。

そして、ボトルネックを過ぎたあたりで幹線道路に戻ればいい。土地勘なんかなくても、カーナビが案内してくれる。

これだけカーナビが普及したのに、どうして高速道路で何十キロもの渋滞に甘んじるのか、私は不思議でしょうがないのである。

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2006年8月21日

ニュースバリューの個人性

先週末から、当本宅サイトの「森と林の違い」というページが、急に 1日あたり 1200とか 1500のアクセスを稼ぎ始めた。

リンク元をみると、いわゆる「個人ニュースサイト」である。複雑な気持ちである。こんなの「ニュース」でもなんでもないのに。昨年秋の騒ぎは、一体何だったのだ?

昨年秋の騒ぎとは、TBS の番組で「森と林の違い」がテーマになったとたんに、件の「森と林の違い」という私のページが、4.5秒に 1ヒットという猛烈なアクセスを集め始めたという「事件」である。今回の 1日に千数百件などというのとは、レベルが違う。

森と林と TBS」というエントリーでも書いたのだが、TBS の企画スタッフは、どうやらウチのページを参考にしたらしいというのが見て取れ、そして、視聴者の中の 1万人ぐらいは、24時間以内に、そのネタ元にアクセスしてしまったというわけだ。

TBS だけではない。今、ウェブの世界にあふれている「森と林の違い」を論じたページの多くは、私のページのパクリのようだというのは、"「林」が「生やし」ということは" というエントリーで指摘した通りである。

私は、今さらパクリに腹を立てているわけではない。むしろ、いくら TBS という一大テレビ局が 「森と林の違い」をゴールデンタイムに放送しても、そして、ウチのページが何千、何万というアクセスを集めても、そして、ウチの受け売りページが何十ページあっても、「へぇ、知らんかった!」という人の方がずっと多いのだということに、私は改めて驚いているというわけだ。

要するに、あらゆる情報の伝わり方というのは、避けがたく偏っているのである。世の中とはそうしたものである。ニュースバリューというのは、人によって全然違うものなのだ。

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2006年8月20日

Google は了見が狭い?

昨日、"Google" という単語が動詞として米国の辞書に載ったと紹介したが、当の Google は、それにムカついているらしい。

"Googleが、「google someone (だれかについてググる)」 といった一般動詞としての同社名の使用を厳重に取り締まる意向を明らかにした" (参照) との報道は、とても興味深い。

ちなみに、この記事の日本語タイトルは、"グーグル、「ググる」の使用に難色" となっているが、決して「ググる」という日本語を規制したがっているわけではないので、ちょっと紛らわしい表現だ。あくまでも、"Google" という登録商標についてのお話のようである。

ニュースを読む限り、Google が懸念しているのは、直接には、同社のブランドへの「タダ乗り」についてのことらしい。Yahoo を使って検索しても "I googled something." などと表現されるのは、癪に障るということのようなのだ。

案外了見の狭い話である。

ニュースでは、レスター大学の Julie Coleman さん (言語学の権威であるらしい) の以下のようなコメントが紹介されている。

「商標が一般的に利用されると、その名声は失われてしまう。したがって、Google の主張は理解できる。彼らは検索以外のこともいろいろやっているため、自分たちのブランド名がこの分野に限定されてしまうことが嫌なのかもしれない」

「Google にとって、このような動詞としての使われ方を防ぐのは不可能だ。普通の人々が、普通の会話や文章でこの言葉を使っているが、彼らが訴えられる可能性は低い」

要するに、「Google の気持ちもわかるけど、実際問題として、規制は無理よ」という、穏健だが、核心を突いた主張である。

ただ、彼女の 「商標が一般的に利用されると、その名声は失われてしまう」 という言い方には、首をかしげる向きも多いだろう。「名声が高いからこそ、一般的に用いられるのであって、それに異を唱えるのは傲慢ではないか」 と。

事実、「Google も、ついに焼きが回ったか」 「MS じみてきてしまった」 という声が、ネット上で噴出している

しかし、これにはちょっとした注釈が必要だ。「商標の一般的利用が進みすぎると、その次の段階として、イメージが陳腐化し、損なわれてしまうことがある」と言い換えれば、納得がいきやすく、マーケティング論としても、正解だろう。

昭和 30~40年代、今ではあまり信じられないことだが、料理には何でもかんでも、化学調味料をたっぷりとふりかけるのが、ごく一般的という時代があった。そしてその頃、誰も「化学調味料」なんてまどろっこしいことは言わず、「味の素」と言っていた。

NHK では、特定企業の商品名の使用を避けなければならない。そこで、その日の料理番組に登場の予定だった料理研究家に、スタッフが念を押した。

「先生、ウチは公共放送ですので、くれぐれも 『味の素』 とは言わずに 『化学調味料』 とおっしゃってくださいね」
「はいはい、わかりました。『化学調味料』 ですね」

ところが、この日の番組 (当時のこととて、当然にも生放送) に出演した老大家は、あっけらかんと言い放った。

「はい、ここで 『化学味の素』 を、十分に加えます」

これが実話かどうかは知らない。しかし、こうした笑い話が語られるほど、化学調味料としての「味の素」の呼称は、一世を風靡したのである。

そして、思えば、この頃が味の素の名声の最も高い時期なのだった。以後、その名声は徐々に衰退し、今では化学調味料を加えないことの方がステイタスを訴求できることになった。

「味の素」という企業そのものは、その後も総合食品メーカーとして発展しているのだが、強すぎる化学調味料のイメージから脱却するのに、苦労した時期もあったはずだ。

もしかしたら、Google は、こうしたことの方を危惧しているのかもしれないが、やっぱり世の趨勢にあらがうことは困難だろう。

シャネルは他のメーカーが「シャネル・スーツ」という呼称を用いることを禁じており、その戦略は一定の成功を収めているが、Google と シャネル・スーツでは、その市場規模が違いすぎる。

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2006年8月19日

「マンガ」が英語として認知された

Cube New York に 「メリアム・ウェブスターズ・カレッジエイト辞書 2006年版に加わった新語リスト」 という記事がある。

今回、新たに同辞書に加わった約 100語のうち 21語が紹介されている。今さらながら "Google" が初登場し、 "manga" (マンガ) なんていう日本発の外来語もある。

ジャパニーズ・サブカルチャーがこれだけ力を持ってしまった以上、「マンガ」が「コミックス」とは似て非なる性格を持ったカテゴリーだということが、ボキャブラリーの面からもようやく認知されるに至ったというのは、あるいは遅すぎたかもしれない。

そのほかに、"mouse potato"(マウス・ポテト)というのがある。「長時間コンピューターを使用している人」という意味だそうだ。

この言葉から、「カウチ・ポテト」 という言葉を思い出す人もいるだろう。「カウチ・ポテト」はバブル初期に、「カウチに寝そべり、ビデオを見ながらポテトチップスを食べる人」という誤った解釈で紹介されたが、この場合の 「ポテト」 というのは、本当は「つまらない奴」という意味のスラングである。

詳しくは、ウチのサイトで説明してあるが、「カウチポテト」は「こたつブタ」と同じ言い回しなのだ(参照)。「ポテトチップスを食べる人」 という意味ではないということを、今からでも知ってもらいたい。それだからこそ、「マウス・ポテト」という言葉も生じるわけなのだから。

Google, manga, mouse potato 以外にも、次のようなボキャブラリーが加わっている。(以下、Cube New York より、部分的に引用)

  • Ringtone / リングトーン (携帯電話の着信音、着メロ。「指輪の音」 じゃなく、"ring up" (電話する) の リングから来てるのね)
  • Spyware / スパイウェア (これは、日本語でも同じ)
  • Biodiesel / バイオディーゼル (ディーゼル燃料に類似した燃料)
  • Abian Influenza / アビアン・インフルエンザ (鳥インフルエンザ)
  • Gastric Bypass / ガストリック・バイパス (過度の肥満解消の外科手術。胃のサイズを小さくし、小腸とつなぐバイパス手術。セレブの間で静かな流行らしい)
  • Soul Patch / ソウル・パッチ (男性の下唇の直ぐ下に、逆三角に生やすヒゲ)
  • Supersize / スーパーサイズ (動詞。 急激にサイズ、量、幅が増えること。マクドナルドからは消えたが、言葉としてはすっかり定着)
  • Wave Pool / ウェーブ・プール (「波のプール」 アメリカでは、まだ事故ってない?)
  • Labelmate / レーベルメート (同じレコード会社の歌手やミュージシャン達)
  • Unibrow / ユニブロウ  (1本につながった眉毛。アメリカには、結構いるんだ)
  • Drama Queen / ドラマ・クイーン (過度に感情的な行動や、リアクションを起こす人。通常は女性、もしくはゲイ男性を指す)
  • Qigong / チーゴング (気功。これ、案外新時代のキーワードになるかも。英語表記でも覚えておきたい)
  • Big-Box / ビッグ・ボックス (形容詞。 箱のような構造の大きなチェーン・ストアなど。ウォルマートが代表格。ちょっと前までは、ちょっと卑猥な隠語だったけど)
  • Agritourism / アグリツアリズム (農業地域で、農場をみたり、実際に農作業をしたりするツアー)
  • Aquascape / アクアスケープ (水のある風景、または水の施設のある地域)
  • Coqui / コーキー (プエルトリコ産のカエル。高い声で鳴き、夜行性)
  • Polyamory / ポリアモリー (一度に複数の恋愛関係を持つこと)
  • Sandwich Generation / サンドウィッチ・ジェネレーション (年老いた両親の面倒を見る傍ら、なかなか自立しない子供達を養わなければならないミドル・クラスの人々)

これらの新語は、アメリカの最近のトレンドを理解するのに、重宝するかもしれない。

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2006年8月18日

「かりゆしウェア」 がうらやましい

「クールビズ」なんてことが言われ始める 20年も前から、ずっと自主的にクールビズなので、何を今さらという気もするが、沖縄で「かりゆしウェア」を 1着、衝動買いした。

これはアロハシャツの沖縄バージョンみたいなもので、沖縄ではこれさえ着ていれば、どんな公式の場でも、文句は言われない。

クールビズがスタートしたばかりの頃、確か小泉首相も着ていたような気がするが、今ではあまりセンスの良くない長袖ワイシャツにノーネクタイというスタイルに落ち着いてしまったようだ。

沖縄では、本当に誰でもかりゆしウェアを着ている。官公庁だろうが、会社だろうが、サービス業だろうが、立派なビジネスウェアとして完全に認知されている。ホテルのフロントのお兄さんも、かりゆしだった。

内地では、ホテルのフロントがノーネクタイというのは、あまり考えられないが、沖縄では、そんなことでどうこういうような無粋な人間は、皆無である。

確かに、沖縄の夏にネクタイをしてジャケットを着ていたら、死んでしまう。からっとしていて、日陰に入れば、蒸し暑くてたまらないということはないのだが、日の当たる外を歩いたら、それはもう大変で、汗が吹き出すだけでは済まない。頭がくらくらする。

沖縄でも、かりゆしウェアの普及にはかなりの時間を要したようだが、平成 11年から県議会議場内での着用が容認されたことが決定的な契機となったようで、今ではすっかり定着している。

沖縄のかりゆしウェアは、けっこう派手な色柄のものが多くて、まあ、確かに沖縄の風土だからこそ、あれが似合うのかもしれず、内地で着たらちょっと浮き上がってしまうだろう。しかし、ちょっと地味目の色柄なら、十分通用すると思う。

私の衝動買いしたのも藍染めっぽい色で、地味な小柄である。これなら、東京でも全然違和感がないだろう。

しかし、実はこれは 「フェイクかりゆし」 なのであった。本物の 「かりゆしウェア」 は沖縄県工業連合会の登録商標で、このブランドを使用するには、以下の条件に適合しなければならない。

・ 沖縄県内で縫製されたもの (布地は県外で生産されたものでも良い)

・ 沖縄観光をピーアールする柄のもの

私の買ったのは、"Made in India" で、柄がかろうじて沖縄絣調であるというにすぎない。要するに「かりゆしもどき」である。道理で安いと思った。

Kariyushimodoki

だが、内地で着るには、このくらいの 「もどき」 の方がいいかもしれない。どうしても本物にこだわりたい場合は、ミンサー柄がシックでいいだろう。ミンサーというのは、帯などに使われる細幅の織物である。これがなかなかいい。

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2006年8月17日

ウチも 「人気サイト」 になったのか !?

最近、アクセス解析を眺めていて、@nifty のホームページからのリンクでの来訪が、ちらほらあるのに気付いていた。

何かの間違いと思っていたが、それがあまりに続くので、試しにリンク元のページに行ってみると、私の本宅サイトが、人気ランキングの 5位になっているではないか。知らんかった!

私は大江健三郎氏ほどエラくないので、くれると言われたものは、大概なんでもこだわりなくいただく人間である。だから、@nifty が、オススメ・サイトの Vippies の冠をくれるというのも、ありがたく頂戴していたのである。(参照

冠を 1つもらって、それはそれで忘れていたら、今度は、@nifty のトップページからのリンクという優遇措置を講じてもらったようなのである。ありがたいことである。

ありがたいことではあるが、このリンクでたどってくれたのは、本日まで確認できたところでは、わずか 20件なのである。このランキングが更新されたのは、8月 9日というのだから、1日当たりにすると、3件にも満たない。

こう言っては申し訳ないかもしれないが、天下の @nifty のトップページに堂々と紹介されても、効果としてはこの程度のものなのだ。これによるウチのサイトのアクセス増加率は、コンマ以下でしかない。

これが、1日にどっと 500~600件も増えたりしたら、うはうは喜ぶのだが。

まあ、人気ランキング 5位とはいっても、@nifty のホームページ・サービスを利用する会員の中で、さらに 「ビジネス・マネー・社会」 というカテゴリーに分けた中でのことなので、考えてみれば、あまりたいしたことでもない。世の中には、もっと人気のサイトがくさるほどある。

そもそも、ウチのサイトが「ビジネス・マネー・社会」というカテゴリーに入れられていることすら、私としては、よくわからんことなのだし。

というわけで、あまり舞い上がらず、これまで通りしこしこと毎日更新を続けていこうと思うのであった

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2006年8月16日

靖国問題は、もううんざり

私は昨年 10月に「ステロタイプの応酬と化した靖国問題」というエントリーを書き、以後、靖国云々を論じるのは止めようと思った。何を言っても 「出口なし」 のどん詰まりだから。

そのどん詰まりの靖国問題で、最悪のステロタイプが、郷里の庄内で起きてしまったようだ。加藤紘一氏の自宅の火災である。

火災現場で発見された男は、加藤氏の一連の靖国関連の発言に抗議して割腹自殺を図り、火をつけたのではないかと見られている(以下 Goo News より引用)。

加藤氏はこれまで、首相の靖国神社参拝をめぐり「参拝すべきではない」「個人の心の問題と考えること自体、大きな錯誤であり、外交問題だ」など批判的な発言を繰り返してきた。小泉首相が参拝した15日もテレビ各社に出演していた。県警は慎重に関連を調べている。

「個人の心の問題と考えること自体、大きな錯誤であり、外交問題だ」という加藤氏の発言だが、私は件のエントリーで述べたように、「個人の心の問題」というのも「外交問題」というのも、いずれもあまり意味のないステロタイプだと思っている。

つまり、あまり語る意味のない、とってつけたような話だと言いたいのだ。どちらの立場から語っても、どうしようもないナンセンスに陥る。靖国問題は、意味のない踏み絵と化しつつある。

どちらの立場からしても、本質は関係ない。表面的な「踏み絵を踏むか、踏まないか」という問題が取りざたされるだけだ。この「踏むか、踏まないか」が意味をもつのは、どちらかの立場で語る時だけである。そして、私はもはや、どちらの立場にも立ちたくないと思っている。

どちらかの立場を表明するだけで、政治的ナンセンスに陥る。それはごめんだ。あるのは、ただ「靖国参拝する人」と「しない人」という区別だけである。そして「する人」の代表格の安倍晋三氏が、次期総理になるのは、もはや決定的なのである。

靖国問題がそんなに大問題で、参拝することが中国との関係を決定的に悪化させ、それによって日本の立場が圧倒的に悪くなるというのなら、今の安倍氏の独走状態というのは、一体何なのだ。

靖国問題とは結局、ちまちま小出しにするに便利な政治カードに過ぎないということを、日中韓の政治家たちはわかっているのである。

そして、先頃大きな話題となった昭和天皇の靖国問題に関する発言メモだが、それだけを取り上げて政治問題化するのは、慎重さを欠いた態度だと思う。

ただ、いわゆる靖国問題の浅薄な議論を、本質的な視点からながめて最もうんざりされておいでだったのは、昭和天皇ご自身だったのではないかと、僭越ながら慮ってしまうのである。

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2006年8月15日

「異言語掛け合いスタイル」 は、素敵だ!

13日の日曜日、沖縄をレンタカーで廻りながら聞いていたラジオ番組が、ラジオ沖縄の 「光龍ぬピリンパラン日曜日」 である。

これはとにかく面白かった。比嘉光龍(バイロン)さんという人が、徹頭徹尾ウチナーグチ(沖縄ことば)で語り、島袋幸子さんというアナウンサーが、それを日本語で受ける。

バイロンさんのウチナーグチは、それはもう筋金入りなので、ヤマトンチューの私には、固有名詞やよほどのわかりやすい単語以外はわからない。それを理解するには、相当のヒアリングの練習が必要だという気がする。

しかし、バイロンさんのウチナーグチを島袋幸子(ゆきこ)さんがヤマトグチ (日本語)で受けてくれるので、何の話題について、どんなようなことを言っているのかは、何となくわかってくるというのが不思議だ。

島袋さんはさすがにアナウンサーなので、番組進行上のお約束部分はきれいな標準語で話すが、バイロンさんのウチナーグチに付き合うと、かなり引きずられて、いわゆる「ウチナーヤマトグチ」(「現在の沖縄方言」と言ったらいいのかな)になったりする。

バイロンさん: 「○▲▽◎□デャー▼×□○チューブル○×・・・・・・」
島袋さん: 「本当? そうなのぉ? あぁ、そぉいえば、ワタシもぉ、それ、あるさぁ」

みたいな感じで、ゆったりしていて。なかなかいい雰囲気である。

この放送は基本的に、沖縄の古い民謡を紹介する番組で、バイロンさんのウチナー文化への思い入れがしっかりと感じられる。何を言ってるのかさっぱりわからなくても、なかなか泣けるのは、文化というものの持つトータルな力の故である。

そして、この放送を聞いて帰ってきた日、自宅までの道を車で辿りながら聞いた TBS ラジオで、中国国際放送で日本語放送のキャスターを務めるノンフィクションライターの青樹明子さんをゲストに迎えた放送を聞いた。

青樹明子さんは、中国では「明子少姐(ミンツーシャオネー)」として、知る人ぞ知る存在だそうで、広東の衛星ラジオ放送局で日本語放送をしているという。

番組の形式は、まさにバイロンさんの放送に共通していて、明子少姐がバンバン日本語でまくし立てるのを受けて、日本語の達者な相方の中国人男性(名前は 「チョウカイトウ君」 と聞こえた)が、中国語でしゃべるという掛け合いスタイルだ。(参照

明子少姐によると、中国の若い連中の間では日本のサブカルチャーが大変な人気のようで、それだけに、彼女の放送も若年層に人気があるらしい。政治の世界での「反日」とは、ちょっとした股割き状態にあるのではないかと思われる。

このほど「中国政府がゴールデンタイムに、海外のアニメ番組を放映することを禁じる通知を出した」と報道された(参照)が、中国で人気の海外アニメといったら、それはほとんど日本アニメなのだから、これは、日本のサブカルチャー規制と言ってもいい。

つまり、ゴールデンタイムの日本アニメを禁じなければならないほど、人気なのだということで、しかも、さりながら、全面禁止なんていう乱暴なことも、もはやできない状態だということだ。

話がズレかかったが、つまり私は「異言語掛け合いスタイル」は素敵だということを言いたかったのである。何か新しいものが生まれそうな気がする。

ちなみに、我が家でも私はがんがん庄内弁で話すので、妻との間で「異言語掛け合いスタイル」が自然発生している。妻は庄内弁のヒアリングに関しては、既に合格点の域に達している。

最後に付け加えておくが、バイロンさんという人はバリバリの沖縄人なのかと思っていたが、帰宅してからインターネットで調べると、実はアメリカ人とのハーフなのだそうだ。彼が自分の「ウチナンチュー」としてのアイデンティティを確立するまでには、ちょっとしたドラマがあったようだ。(参照

「光龍ぬピリンパラン日曜日」、ヤマトでも聞けるようにならないかなあ。インターネット経由でいいから。

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2006年8月14日

沖縄の時間軸と空間軸

2泊 3日の沖縄旅行から戻って、日付が変わった。沖縄には、はまってしまった。帰ってきたとたんに、また行きたくなっている。

沖縄で常に感じていた「非日常性」というものの正体が、少しだけつかめたような気がする。それは、ウチナーの時間軸と空間軸の単位が、ヤマトとはかなり違うということだ。

沖縄の時間軸はゆったりとしている。まず、歩くのが遅い。高速道路の制限速度が 80km/h と、筑波周辺の一般道の流れより遅い。

それだけに、歴史感覚が違う。本土では「既に戦後ではない」と言われて久しいが、沖縄では、戦後はつい最近のようだ。それどころか、中世がすぐそこにある。

沖縄では城のことを「グスク」というが、日本のいわゆる「城」とは様相が全然違う。日本の城は、安土桃山時代以後、すべて天守閣を中心としたスタイルになってしまったが、「グスク」はそれに比べたら、神社の様式の方に近いと思う。

戦うための城ではなく、礼拝するための「場」という気がする。

沖縄には、いわゆる近世から近代にかけての歴史感覚が希薄だ。近世以後は薩摩の植民地となってしまったので、中世がずっと続いて、いきなり戦後になってしまったようなところがある。だから、古い歴史に、生身の人間の手が届くのだ。

空間軸も違う。那覇からみたら、東京よりも台北の方がずっと近いのだ。黒潮の流れくるところに東南アジアがある。南太平洋のミクロネシア、ポリネシアに、感覚がとぎれることなくつながっている。そして東シナ海を隔てて、中国がすぐそこにある。そして、アメリカの戦闘機もすぐそこにある。

東洋のどん詰まりで、何もかもがドメスティックに完結してしまうヤマトンチュー感覚とは、かなりの差がある。時々沖縄に行って、感性をリセットするとよさそうな気がする。

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2006年8月13日

沖縄 2日目の夜は更けて

沖縄の 2日目の夜は更けつつある。昨日は朝イチから密着取材に励み、夕方までかかって予定していた一通りの仕事を終了。

夕方から、かねて手配のレンタカーを借り、沖縄本島の南部に広がるさとうきび畑の中をドライブ。素晴らしい天気の中、日が暮れる前に、平和祈念公園まで行くことができた。

うちなあ(沖縄)について、まともな予備知識なしにぶっつけ本番で来てしまったようなものだが、今日一日でずいぶん見聞が深まった。

取材相手の人が、沖縄の歴史、民俗のことなら知らないこととてないというほどの博学で、いろいろなことを教えてもらったのである。沖縄は知れば知るほど面白いというが、本当に奥が深い。

最初の写真は、首里に近い末吉というところにある「末吉宮」という神社。その辺の観光案内にはあまり載っていない、知る人ぞ知る重要文化財だそうだ。

Cimg8881_20190808194401

小高い丘の上にあって、途中に「ハブに注意」という立て札がいくつもある原生林の中を汗水たらして登る。清水の舞台がそのまま拝殿になったような様式で、他には見たことがない。

2枚目の写真は、平和祈念公園から見た沖縄本島南端の海。先の大戦の激戦地だ。眺めていると、胸が痛くなるようだ。

Cimg8912

仕事は一通り終わったのだが、せっかくの沖縄なので、自費でもう一泊し、夜が明けたら午後三時ごろまで、借りた車で島を巡ろうと思っている。

沖縄ビギナーの私が、行き当たりばったり、あちこち廻ってしまおうと思っている。どんなドライブになるか、楽しみだ。

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2006年8月12日

初めての沖縄

初めて沖縄に来て、日付が変わった。せっかくの沖縄なので、仕事に入る前日の昼過ぎに那覇空港に着く便で着たのである。これから眠って、朝イチから仕事だ。

那覇に着いて、何はともあれ、首里に行った。琉球王国時代の首都だったところである。小高い丘に王宮である首里城があった。

ところが、首里城は先の大戦で地形が変わるほどに破壊されつくしたため、戦後になって復元作業が開始された。いつまでかかるかわからない作業だそうである。

首里城に行ってみると、一見中国風の佇まいである。日本の各地に残る城跡とは、まったく趣が違う。「城」 ではなく、「グスク」なのだ。別の国だったんだなあと思う。何しろ、琉球王国だったのだ。

Cimg8871

首里城の様式はかなり中国風だが、基本的構造は、なんだかおなじみのような気がする。私の眼から見ると、神社なのだ。有名な「守礼の門」は神社でいえば「鳥居」だし、中に入れば狛犬ならぬ、シーサーがいて、ぐるりと囲まれた正面に、本殿ならぬ「正殿」がある。本殿に礼拝の対象となる国王がましましたのだ。

Cimg8860

その代わり、拝殿がない。拝殿にあたるのは、建物ではなく、「御庭(うなー)」から正殿を仰ぎ見る視線のうちにあるようなのだ。

別の国だったのだが、日本の源みたいなところがある。異国情緒と、根源感覚との、微妙なミックス感覚だ。

Cimg8865

ホテルにチェックインして、夕飯がてら国際通りの散策に出かけたときも、同じような感覚があった。70年代の上野か浅草あたりの雑踏のような懐かしい感覚があるのだが、中身はかなり異国的だ。

なにしろ、食い物が違う。内地ではおなじみの普通の蕎麦屋やラーメン屋はほとんど見当たらず、沖縄料理の店か、沖縄そば屋しかない。ウチナンチューとヤマトンチューでは、胃袋の中身がかなり違うだろう。

さて、夜が明けたら、本格的な仕事で、沖縄の人たちとがっちり付き合うことになる。体力温存のため、寝ることにする。

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2006年8月11日

読書感想文の書き方(傾向と対策)

3日前のエントリー、「夏休みの宿題」不人気ランキングで、堂々 2位にあげられているのが「読書・読書感想文」である。

何しろ、この 「読書感想文」 というのは、捕らえどころがないのである。何をどう書けばいいのかなんてことは、宿題を出した当の先生だって、本当はよくわかっていないのだ。

課題をクリアするための「対策」 を立てるには、「何を求められているのか」という「傾向」を分析する必要がある。しかし「読書感想文」に関しては、この「傾向」というのがはなはだ曖昧なのである。

とりあえず、具体的に「何を求められているか」がわからない。それは当然である。前述の如く、先生の方でも「何を求めているか」がよくわかってないのだから。

なにしろ「感想」という日本語の中身が曖昧なのだ。こうした曖昧な日本語の中身を具体化するには、とりあえず英訳してみるといい場合が結構多い。曖昧だったものが具体化したり、あるいは「なんだ、結局曖昧なんじゃないか」ということが明確になったりする。

で、Goo の和英辞書で「感想」というのを引いてみると、"impressions; (one's) opinion." と出てくる。「印象」か「オピニオン」かというわけだ。なるほど。

「印象」ということにすれば、読んだ本のどのあたりが印象に残ったかを書いてしまえばいいことになる。とにかく、褒めてしまえばいいわけね。「主人公の、この行動に、感動しました」式の文書にしてしまえばいい。

ただ、このメソッドの欠点は、どうしてもありきたりになってしまいがちなことだ。感動ポイントなんて、大抵似通っているから。とはいえ、文句はつけにくいから、安全パイである。

一方、「オピニオン」重視にする場合は、ちょっと批判的に書けばいいわけだ。「主人公はこうしたけれど、私ならこうする」式に、ちょっと異論を唱えてしまえばいい。うまくツボにはまれば、この方がいい成績を取れるだろう。

とりあえず、「書いて提出してしまえばいい」ということなら、「印象重視」メソッドで、次の要領で書いてしまえばいい。

  • その本を選んだ理由。「本屋でタイトルに惹かれた」 とか 「図書館で探していたら、表紙の絵が良かった」 とか、適当なことを書いておけばいい。要するに、行数かせぎである。
     
  • 次に、ちょっとしたあらすじを書く。といっても、こんなことで苦労する必要はない。主人公が結局何をどうしたかを、ちょいちょいとかいつまんで触れさえすればいい。これも結局は行数かせぎと割り切る。ここまでで、原稿用紙 3枚弱ぐらいか。
     
  • 原稿用紙 4枚目に入るあたりで、その本のハイライト部分を紹介する。「この部分に感動した」と、最後にとってつけたようなことを書くための導入部だから、わざとらしく力を入れるとよい。
     
  • そして、最後に「感動した」「涙が出そうになった」「自分もこんなふうにできたらいいと思った」「見習って、努力したいと思った」「私ならこんなふうにできるだろうかと、反省した」などと、いい子ぶったことを書き添える。これで、大体原稿用紙 5枚になる。

と、こんなもんでいい。美しい 「起承転結」 である。100点満点で、70点の取れるメソッドだ。

70点で飽き足らないという場合は、最後の「4」の部分を「オピニオン重視」メソッドで、挑戦的に書き込んでしまえばいい。もしかしたら、80点以上取れる。

あるいは、「印象」でも「オピニオン」でもなく、「文芸批評」式に、先生が腰を抜かすようなことをびっしり書いて、煙に巻いてしまってもいい。

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2006年8月10日

「こういう性格だから」という自己正当化

他人からの忠告・批判を聞こうとせず、「俺はこういう性格だから」と言って自己正当化したつもりになっている人を、私は信用しない。

こうしたケースでの「性格」云々というのは、「あいつは、ああいう性格だからどうしようもない」と、周囲が匙を投げる時の言い分だ。自分で言ったら、愚かで傲慢な所業になる。

忠告・批判に対して「これが俺のスタイルだから」とか「これが俺の性格だから」と言っても、決して自己正当化にはならない。周囲は、その「スタイル」「性格」から発する諸々が決して褒められたものではないとして、忠告・批判しているのだから。

「タバコの煙が迷惑だ」という批判に対して、「タバコは吸ったら煙が出るものなんだから、しかたないじゃないか」と言っているようなものである。スピード違反を咎められて、「アクセルを踏めばスピードが出るのが、車というものだ」と開き直るようなものだ。

「性格」なんてものを笠に着て勝手放題をされたら、周囲はたまったものではないのである。そんな性格の人間に限って、「その性格、直せ」と言ってもなかなか直るものではないから、ますます困る。

実際、「これは俺の性格だから」というのを免罪符のごとくふりかざす人を、私は直接にも何人か知っている。あまり深い付き合いをしたいとは思わない。

そして最近、新たに間接的にも、もう一人知った。例の亀田三兄弟の親父である。

昨日、YouTube で見たのだが、某テレビショーで、ガッツ石松氏の「親父さんは、一歩下がった方がいいな」という冷静でまともな忠告に対して、全く聞く耳持たず、「それはでけへん、俺の性格やから」と、大声でまくしたてて遮ろうとする。ある意味、徹底している。

おもしろい人である。おもしろいけれども、キャッチボールのできない人である。近くに寄って来られたら、うっとうしくてたまらない人である。まあ、多分寄って来られる機会はないだろうから、いいけど。

それにしても、ガッツさん、実はなかなかできたお人だったのね。

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2006年8月 9日

今頃になって亀田の試合を冷静に語る

ネット上の亀田興毅バッシングがあまりにもすさまじいので、実際どんな試合だったのか、YouTube で見てみた。

実は、彼がリング上で動くのを見るのは、これが初めてである。私は今月 3日のエントリーで書いたように、亀田親子にはあまり興味がないのだ。趣味が合わないのである。

世間では「いきなりダウンの 1R」「しがみつくのがやっとの 11R」「立っているのがやっとの 12R」などと言われているので、見た目にもよっぽどの大差と思っていたのだが、まあ、ダウンは文字通りとしても、11R と 12R は、けなされすぎの印象だ。

決して 「しがみつくのがやっと」でも「立っているだけがやっと」でもない。それでも、12Rを 10 - 9 で亀田のラウンドとした金氏のジャッジは、やはり「いくら何でも、ちょっとね」と言いたくなる。

YouTube で見たのは 1R、11R、12R の3回だけである。想像だが、中盤のラウンドは亀田も相当がんばって見せたのだろうから、僅差の判定というのは、あながちでたらめというわけじゃない。

しかしそれでも、ランダエダの支配した試合だったというのは、間違いのないところだろう。

まあ、ランダエダにしてもあまり無理をしていない印象だ。きっと裏のからくりをわかっていて、KO かよっぽどの大差を付けなければ勝てないという自分の役どころを、きちんとわきまえていたのだろう。

相手方のリングに来るというのは、そういうことなのだ。本当に何が何でも勝ってベルトを巻きたかったら、自分のホームリングにこだわる。最悪でも、第三国での試合にする。今回は初めから「亀田興毅のための試合」だったのだ。

それだけに、無用の過剰な打ち合いを演じてダメージを負うのはまっぴらという戦い方をしている。それよりも、終始紳士的に振る舞って、試合でもちょっとだけ優勢に戦ったという印象を残しておく方が得策だと考えたのだろうと思う。

そうでもなければ、試合後にそんなにさばさばしていられるものじゃない。

いずれにしても、亀田興毅という選手、さんざん強がりを言うほど圧倒的な強さを持っているわけではないという印象だけが残った。技術的には特段見るべきものがない。

当人は無理な減量が響いたと言っているようだが、減量でロスしたのはパワーとスタミナだけである。技術的には、今のところあんなものなのだろう。

まあ、「八百長」というのは言い過ぎとしても、裏の部分での圧倒的な力関係の構図に支配されたイベントだったのだなという印象が強いとだけ、正直に書かせていただこう。はっきり言ってイメージ悪い。

それにしても、某テレビショーのやくみつる氏のパフォーマンス、あれもちょっとね。普段漫画でやってるスタイルのまんまで、趣味の悪さじゃ、どっちもどっちだ。

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2006年8月 8日

「夏休みの宿題」不人気ランキング

Goo ランキングに 「子どものころ、やりたくなかった夏休みの宿題ランキング」 というのがあり、トップ 3 は上から 「自由研究」 「読書・読書感想文」 「日記 (絵日記)」 になっていて、4位以下とは明らかな大差がついている。

「うーむ、なるほど」 と思う。この 3つ、共通するのは 「自由の押しつけによる不自由」 だ。

日本の学校というのはとてもおもしろいところで、普段は子どもが「自由な振る舞い」なんぞをすると、確実に怒るくせに、夏休みになると、とたんに「自由」を押しつけてくる。

「自由研究なんだから、好きなことを自由に研究すればいいのよ」「好きな本を読んで、感じたことを自由に書きなさい」「その日のことをありのままに書くのが、日記というもの」なんてなことを言われても、そもそも「学校的自由」というものに対して、子どもは猜疑心の塊なのだ。

「本当に好きなことを、ありのままに自由に」やるなんてことは、初めから選択の対象外だ。だって、そんなことは、学校で認められるはずがない。昔でいえば、「漫画の描き方」「楽しい寄り道ポイント」、今ならさしずめ、「ゲームの攻略ポイント」などなど。

「好きなことを自由に」なんていうのは単なる建前で、やっぱり、そこには「学校的自由の方程式」というものがある。しかしその方程式の種明かしを、学校は決してしてくれず、あくまでも「好きなことを自由に」と繰り返すだけだ。

ここで、子供は途方に暮れるのである。ほかのことは、しっかりと鋳型にはめるように教育するくせに、夏休みだけは急に、「中途半端な放り出し方」をされるのだ。

というわけで、自由研究なんてのはせいぜい、「アサガオの成長記録」とか、「昆虫の観察」といった「観察系」か、「振り子の動き方」なんていう「単純実験系」が主流になる。しかし私のような文科系少年少女の多くは、そういうちまちました「観察・実験」が、一番苦手なのだ。

そうした「誰がやっても、たいてい同じような結果になるのがわかりきっている研究」というものには、そもそもあまり興味が湧かない。「だったら、わざわざ自分がやらなくてもいい」と思えてしまう。

「自分でやってみたら、本当にそうなった」ということの確認の喜びを説く先生もいて、それはそれで確かに意義深いのだが、多くの子どもは、そんな結果のみえすぎることに貴重な時間を費やすよりは、夏休みにはだらだらと遊び、夕暮れになったら、ぼうっとしたいのだ。

文科系少年少女は、「おかあさんの口癖」とか「両親の夫婦げんかの傾向」とか、そういったものの分析なら案外得意なのだが、そんな「人文的自由研究」を学校に持って行っても仕方がないと思うので、そもそもやらない。

結局、「自由でいいのよ」と言いつつ、子どもたちが「自分の自由意志で不自由を選択するようにし向ける」というのが、夏休みの宿題の本当の目的なのだと思う。

「自由にやって」と言われて、本当に自由闊達なことをやってしまえる子どもというのは、ちょっとした天才で、そう滅多にいるものではない。私なんか、おぼろげな構想だけは浮かんでも、結局は遊びほうけてしまって、形にはできなかった。

「おぼろげな構想に形を与える」教育というのができれば、それは大したものなのだが、そんなことのできる先生が、どこの小学校にもいるとも思えないし。

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2006年8月 7日

「ペンギン歩き」 と寿命というもの

今月 1日のエントリーで、我が家の 2匹の猫のうち、年上の方の白猫が今にも死にそうだと書いてしまったが、実は、家人の必死の看病が功を奏して、蘇ってしまった。

自分では立ち上がることも水も飲むこともできなかったのが、今では足取りはややおぼつかないものの、自由に歩き回っている。

私の死んだ祖母は、近所でも有名な猫好きで、子供の頃は家の中に猫が何匹いるかわからないぐらいいたが、1匹を除いて、死期が近づくと不思議に姿を消していなくなってしまうのだった。

猫というのは、自分の寿命が終わりかけているのを悟ると、死に場所を求めてどこかに行ってしまうのだと聞かされた。医学的には、生命力が衰えて体温が下がると、その体温にふさわしい、静かで涼しい場所を求めるうちに、人の目につきにくいところまで行ってしまうものらしい。

ところが、が家の白猫は、外に出る前に足腰が動かなくなってしまったのだ。今の季節、外は暑いので機会を失ってしまったのかもしれない。それが不幸中の幸いで、驚いた妻と娘が必死の看病をしたわけだ。

家内の涼しいところに寝かせ、頻繁にスポイトで少しずつミルクを飲ませて、水分と栄養を補給した。何日かするうちに、缶詰の魚を食べるようになり、やせ衰えて今にも死にそうだった体が、ややふっくらとし始めた。そして、自力で起きあがって歩き始めたのである。

初めのうちはふらふらした歩き方だったが、今日は階段をひょこひょこと昇るまでに回復した。足取りが日を追うごとに確かになってきているので、これでしばらくは、死なずに済むだろう。

足取りの確かさというのは、生命力のバロメータである。

そういえば、田舎の父がよく同年代の友人の歩き方を称して、「あいつも、近頃ペンギン歩きになってしまった」などと言うことがある。

「ペンギン歩き」というのは、父の名付けた歩き方で、両腕を振らずに、腰のあたりに静止させ、首をやや前方に突き出して、膝から下だけで、力なくひょこひょこと歩く様をいう。後ろから見ると、めっきり背中が小さくなったように感じる、いかにも年寄りじみた歩き方だ。

恐いことに、このペンギン歩きになってしまうと、人はほどなく床に伏すようになり、何年もしないうちに亡くなってしまうことが多い。父は 「腕を振って大股で歩けるのは、幸せだ」と言う。確かにその通りである。

この世で果たさなければならないことがあるうちは、しっかりとした足取りで、世の中を歩こう。その足取りが、果たすべきことを果たさせてくれる。

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2006年8月 6日

SNS とケータイは、相性がいいかも

我が家の 3人娘のうち、上の 2人が MIXI に夢中だ。とくに次女はかなりの時間を MIXI に割いているようだ。

私も全然非アクティブだが、一応 MIXI 会員なので、「訪問して、『父です。娘をよろしく』 と書き込んでやろうか?」というと、「ひぇ~、それだけはご勘弁を!」なんて断られた。

彼女は MIXI の中でいくつかコミュニティを立ち上げて、管理人になっているらしい。このコミュニティというのは、どうやら、パソコン通信時代のニフティ・サーブにおけるフォーラムのようなもののようだ。

パソコン時代には、あのフォーラムにはずいぶんお世話になったが、インターネットの時代になって、すっかり忘れてしまっていた。それが、今また姿を変えて、SNS の中でおもしろがられている。時代は繰り返す。

私としては、あのクローズドな感覚がうっとうしくて、離れてしまったのだが、今の SNS の中では、あの中途半端なクローズドさが、案外ちょうどいい湯加減のようなのだ。

MIXI 会員は今や 500万人を突破してしまったという。ネットには縁のない世代を除けば、石を投げれば MIXI 会員に当たるといってもいいぐらいの規模である。ここまで来たら、クローズドなようで、実はさっぱりクローズドじゃない。

しかし、かといって純然たるオープンでもない。不思議なぬるま湯感覚である。

近頃、「グリーが携帯 SNS で KDDI と手を組む」 というニュースを目にした。なるほど、狙い目かもしれない。

オープンなようで、クローズドなようでという中途半端加減が、ケータイと SNS は、ちょうどいい相性のような気がする。きっと、ユーザーの身体感覚的にもちょうどいい感じだろう。

今後、SNS は、パソコンよりもケータイの世界のお話になっていっても、ちっとも不思議じゃないと思う。

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2006年8月 5日

「がんばる」の反対は「感謝する」?

「あすなろ BLOG」というブログがあって、大橋悦夫さんという人が、いろいろなことを書いておられる。その 8月 1日付に "「がんばる」の反対は?" というエントリーがある。

その答えは、「感謝する」なのだそうだよ。いや、別に反対するわけじゃない。ただ、やはりちょっとした齟齬感覚が残るのだよね。

なんでまた、「がんばる」の反対が「感謝する」なのかというと、以下のような理由なのだそうだ。

がんばっている最中というのは、なかなか周りが見えなくなるもの。

そこで、ふと立ち止まって、周りを見回して、いま自分ががんばることが
できているのは周りにいる人たちのおかげだ、ということに気づいて、みんなに「ありがとう」と言おう。

ふーむ、なかなか美しい主張である。でもこのことを言うのに、どうして「がんばる」の「反対」は「感謝する」だなんて、とってつけたようなレトリックが必要だったのだろう。

これくらいのインパクトのある導入だったら、もう少しひねりのあるオチ(いや、失礼、オチじゃなくて、「結論」ね)を期待してしまいがちだ。

いやいや、でも、世の中で本当に大切なことというのは、実はこのようなごく当たり前のことなのだよね。そうそう、その通り。

ただ、私なら同じようなことを言うのに、こうした類のあざといレトリックは使わないだろう。それは、「感謝する」 の方から逆の道筋をたどってみるとわかる。

「感謝する」の反対は、「がんばる」ことというよりは、「がんばってる自分に酔いしれてしまう」ことだろうからだ。この二つの微妙な違いは、きちんとおさえておきたい。そうでないと、「感謝しつつがんばってる人」 に気の毒というものだ。

大橋氏の翌日のエントリー、"「がんばる」と「感謝する」の時差" には以下のようにあり、「がんばる」 は未来志向で、「感謝する」 は過去志向ということなので、この二つは同時には成立しないかのようにみえる。

逆に「感謝する」という言葉を考えると、これは「過去」に向いていることが分かります。文法的には、「I will thank you.」という文は成立するとは思いますが、実際には使わないでしょう。感謝するのは今この瞬間か今より前の時点の何かを対象にしているはずです。

しかし、感謝というのは、今、あるいは過去にしてもらったことに対してのみ捧げるだけのものだろうか。感謝って、その程度の即物的なものだろうか?

私なら、「前もって感謝する」 ということもあるのだけれど。例えば日本の春祭りの多くは、民俗学では「予祝行事」といって、秋の豊作を前もって神に感謝して祝っておく発想との見方もある。

英語にも、"Thank you in advance." という言い方がある。もっと言えば、「本当の感謝」というのは、時間軸の過去・現在・未来に関わりなく、「未発の中」にあるというような、根元的なものなのだろう。

本来は、「感謝すればこそ、本当にがんばれる」ということなのだろう。だから、結局はこの人も同じことを言ってるみたいだけどね。

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2006年8月 4日

「ご苦労様」と「お疲れ様」

文化庁の「国語に関する世論調査」にツッコミを入れるのが、当コラムの年中行事と化しているが、今回のは単に調査結果の客観的羅列が多くて、あまり突っこみ甲斐がない。

ただ、「ご苦労様」と「お疲れ様」の、目上と目下に対しての使い分けというのは、それほど単純には割り切れないものがある。

公式には、「ご苦労様」が目上から目下の者に対してのねぎらいの言葉で、「お疲れ様」がその反対だと、単純に規定されているようだ。だが、言葉というのはそんなに一筋縄ではいかない。

まず、「ご苦労様」が目上から目下への言葉というのは、江戸時代のお殿様あたりが、家臣の労をねぎらって「ご苦労であった」みたいな言い方をしたことの名残なのだろう。

確かに、私みたいな年頃になると、ペーペーの若造から「ご苦労様!」なんて声をかけられたらちょっとむっとくるだろうが、「ご苦労様でした」ぐらいになると、その違和感は少しは和らぐ。 「ご苦労をおかけしました」なんてことになったら、もっと和らぐ。

そりゃあ、「大変お世話になりました」の方がいいかもしれないが、会社の仕事が終わったときのように、直接自分に対する好意へのコメントでもない場合は、「御世話に…」とは言いにくい。

じゃあ、何と言ったらいいのかということになって、「ご苦労様」が登場することになるのだろう。

文化庁的発想では「お疲れ様」を使うべきだということになるのだろうが、近頃、「お疲れ様」という言葉には、どういうわけか、水商売とか芸能界とか、カタカナで書く「ギョーカイ」の符丁的な、下世話なニュアンスが色濃くなりつつあるのだよ。

とくに最近では、「お疲れぇ~」なんて、ますます「ギョーカイ」っぽい言い回しが優勢になってきてしまって、それに引きずられて「お疲れ様」のイメージが低下し始めていることを、文化庁の方々はとてもまじめでいらっしゃるから、無視しておいでだ。

「お疲れ様」だけでは、かえって違和感が生じるケースがあるから、それを避けるために、「お疲れ様でした」まで言わなければならない。若造に「お疲れ様ぁ~」なんて、へらへらっと言われたら、私なら、「ご苦労様でした」よりムッとくるかもしれないぞ。

と、いまだオフィシャルには認定されていないニュアンス変化について、敢えて書いてしまったので、そのあたりの感覚的な部分は人によって異なるから、反論はいくらでもあるだろう。ただ、ありきたりの反論なら十分予測がつくから、コメント不要と、前もって言っておこう

最後に書いておきたいことは、そもそも私は「ご苦労様」とか「お疲れ様」とかいう言い回しは、あまり好きじゃないということだ。

実際の場面では、本当に「苦労」してしまった場合は、他人は「ご苦労様」なんて滅多に声をかけてくれない。逆に、喜んでやった仕事を達成した時に、「ご苦労様」と言ってもらえるケースが圧倒的に多い。

そんな時、へそ曲がりの私は「別に、『苦労』だなんて思ってないよ」 などと、つい言いたくなってしまうわけである。いちいち言ったら角が立つから、実際には言わないが。

私が好きなニュアンスというのは、英語のやりとりの "Thank you, very much." "Not at all. It's my pleasure." (「どうもありがとう」「どういたしまして、それは私自身の喜びですから」)みたいな感じなのだよね。

本音でそう言えたら、なかなかいい世の中になりそうだ。

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2006年8月 3日

亀田の試合なんて、見なかったけど

格闘技フリークの私だが、例の亀田三兄弟には興味がないので、TBS の実況も全然見る気がしなかった。

夜 10時過ぎに、ウェブ上のニュースで亀田の勝ちを知ったが、どうやら露骨なホームタウン・デシジョンだったようだ。試合前の猿芝居パフォーマンスでも、負けてたしね。

私はスポーツの世界におけるある種の父親のあり方に、とても戸惑いを感じている。その代表が、死んだ二子山(初代貴乃花)と、亀田三兄弟の父親だ。

この二人、人前で自分の息子を褒めすぎだ。あまりいいものじゃない。あんなんでは、子供だってろくなものにならない。

一時の二子山部屋と、今の協栄ジムは、有力選手(相撲の場合は「力士」だが)を多く抱え、「業界」における力が強いという点で共通している。だからかなり見苦しいことがあっても、周りからは何も言われない。

周りで何も言ってくれないと、頭の悪い連中は、自分がよっぽど正しいと勘違いしてしまう。その勘違いが甚だしいと、今の若貴兄弟のようになってしまうのだ。あれだけ栄華を誇った二子山部屋の遺産も、色褪せるのに時間はかからなかった。

亀田三兄弟にも、誰かきちんと礼儀というものを教えてやる人がいないと、いいことばかりは続かない。相手をリスペクトするということを知らない選手の試合には、カタルシスがないので、つまらないのである。

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2006年8月 2日

法律的には「非常識」な私

新しい PC 導入に伴う設定作業と、先月末の原稿締め切りが重なり、まともなネタを仕入れる余裕がなかったので、あちこちのブログで取り上げられている「一般常識診断」というのをやって、お茶を濁しちゃおうと思う。

結果、私の一般常識の総合正解率は、84.0%で、「たいへん優秀な成績」だそうだ。

一応、結果は証拠として画像で保存してある。私がトライした時点での平均正解率は 53.6%というのだから、確かにそれほど悪い成績ではないが、分野別の成績のバラツキが少々恥ずかしい。

政治 90%、経済 100%、法律 40%、 歴史 90%、 国語 100% という成績なのである。

自慢じゃないが、国語が 100%なのは、あの程度の難易度なら当然で、「こんな簡単な問題で間違える人いるの?」と言いたくなったほど(間違えちゃった人、ゴメンナサイ)だが、自分でも意外だったのは、経済まで全然余裕で 100%だったことだ。

どうやら、経済的常識があるということと金儲けが上手ということは、全然別個の問題のようなのだ。あるいは、経済的には非常識ぐらいの方が、しっかりと金儲けできるかもしれないな。

我ながらショックだったのは、法律だけが 極端に低くて 40%という結果に終わったことだ。これは一体どういうことだ。自分がこんなに法律音痴だったとは知らなかった。要するに、私は法律分野では「非常識」ということのようなのだ。

法律的には非常識の方が、しっかりと「悪いやつ」でいられる …… なんてこともなさそうだ。今後は身を慎んで、知らぬ間に法律を犯してしまうなんて、ヤバイことのないように気をつけようと思う。

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2006年8月 1日

「死」から学ぶもの

先月の落雷で我が家の PC が絶命し、新たな機種のセッティングに手間取ってしまったので、月末締め切りの原稿を仕上げたのが、まさに月末ギリギリになってしまった。

そんなわけで、8月最初のエントリーを書こうとしているのだが、難儀なことに頭の中が白くなっていて、ネタが思いつかないのである。

で、我が家のペットの話でもするしかないような気がしてきたのである。

実は、我が家には猫が 2匹いる。年上の方の白猫と、年下の方の黒猫である。そして、その年上の方の白猫が、どうやら寿命にさしかかりつつあるようなのだ。

この 1年ほど、めっきりばあさんじみてきて、得意のジャンプで窓枠に飛び乗ることもできなくなっていたのだが、昨日あたりからいよいよ足腰がふらついてきてしまった。今は部屋の片隅で寝そべるだけの暮らしである。

この猫は、かなりプライド高き猫で、「ウチにかまわんといて体質」なのである。知らない人が下手に撫でようとして手出ししようものなら、一瞬の早業で噛みつかれるか引っかかれるかで、いずれにしても血を見るのである。

年下の方の黒猫が「ウチにかまって、かまってんかぁ体質」で、常に人に甘えて体をすりすりしたがるのとは対照的だ。

このプライド高き白猫が、今、人の手を借りないと水を飲むことも、小便をすることもできないでいるのである。それで、妻と娘たちは猫の世話に手が取られて、私の飯の支度もままならない。

以前に飼っていた犬が脳梗塞で死んだときも、我々家族は必死の介護をした。犬におむつを当てて、下の世話までしたのである。犬は猫と違って体が大きいので、私の出番が多かった。

日本の家庭が核家族化して、子供たちは、年寄りにお迎えがくるというのを目にすることがなくなってきた。以前は身近にあった 「死」 が、今はなんとなく現実離れしたものになっている。

だから、愛するペットが死んでゆくのを見つめるのは、ある意味、尊い教育である。死ぬまでの献身的介護で、「愛を発揮すること」を覚えることもできる。いずれにしろ死んでゆくものに対して、できるだけのことをするというのは、「させていただく」という感覚を養成する。

我が家の娘たちは、以前の犬の死で多くを学び、今また、猫の死で何かを学ぼうとしている。

【8月 6日 追記】

もうてっきりだめかと思ったのだが、この猫、必死の看病の甲斐あって、しぶとく生き返った。

食欲が戻り、まだ足取りはややおぼつかないが、自分で歩けるようになり、涼しい場所を選んで移動しながら休んでいる。無惨にやせ衰えていた体も、少しずつ元に戻りつつある。

昔の猫だったら、先月末にかなり衰えてきた頃に、自分で死に場所を求めて姿を消してしまうところだった。今の猫は、昔より人との結びつきを強く感じているのだろうか。

秋になって気候が穏やかになったら、多分もっと持ち直すだろう。一安心。

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