「感覚のプロレス」から「論理のプロレス」へ
元祖「活字プロレス」の『週刊ファイト』が、今月一杯で休刊になる(参照)。私はネット版の「ウィークリーウェブファイト」の有料購読者なのだが、こちらの方も休止となるようだ。
発行元の新大阪新聞社は、「活字メディアの衰退とマット界の沈滞などから読者が減少」したことを、休刊の理由としている。
格闘技フリークである私は、学生時代から『週刊ファイト』の愛読者である。私の学生時代は、新日本プロレスの成長期で、試合はゴールデンタイムでテレビ中継されていたが、貧乏学生だった私のアパートの部屋にはテレビがなく、大事な試合も見逃すことが多かった。
それでも、翌日には「東京スポーツ」で試合結果を知り、さらに毎週木曜日になれば、「週刊ファイト」でその裏事情まで窺い知ることができた。
当時の編集長だった井上義啓氏のカリスマ的編集方針により、「週刊ファイト」は、単なるリング上の結果よりも、それを保証するリング外の事情まで取り上げて、コアなプロレスファンのニーズに応えていたのである。
本物のプロレスファンにとっては、「プロレス八百長論」などは極めて低次元の話であって、それを超越したパフォーマンスの評価こそが問題なのだった。それは、時折垣間見られる「本物の殺気」にも支えられていて、往年の猪木プロレスには、確かにそれがあった。
「約束事」の上に成り立ちながら、時にはそれを踏み越えてしまうプロレスというパフォーマンスであるからこそ、井上編集長の言われる「感覚のプロレス」ということが、大きな意味を持っていた。
リング上の世界を支えるバックグランドまで精通して、その上で「わかる人だけがわかる世界」というものを、彼は「活字プロレス」で表現した。そこから、ターザン山本氏、金沢克彦氏などの名物プロレス記者が巣立った。
しかし私は「感覚のプロレス」というのは、「井上編集長一代限り」のものだと思っている。「感覚で観る」プロレスは、猪木の引退とともにとっくに終わってしまっているのだ。長州力があそこ止まりなのは、「感覚のプロレス」に鈍い感覚で固執しているからである。
時代は「論理のプロレス」を志向しているのだ。しかしプロレスが「論理」を志向してしまうと、それはもう「プロレス」ではあり得ない。「格闘技」になってしまう。その意味で、「プロレス」が衰退し、「格闘技」が脚光を浴びるのは当然のことなのである。
そして「プロレス記者」の多くは、「論理のプロレス」に対応できなかった。「論理のプロレス」の記事というのは、道場で実際に打ち合い蹴り合いをし、関節を極め、極められする経験をしなければ、書けるものではない。「観客論」の立ち位置では無理なのである。
例えばターザン山本氏は、いまだに個人的思い入れに立脚した 「感覚のプロレス」を書くという流儀から離れられない。それゆえに彼の書く格闘技記事には、膝を打って「そうであったか!」と感嘆することがない。
今では格闘技のレポートは、活字記者の書く記事よりも、格闘技経験者の書くブログの方がずっと説得力がある。その意味で、「活字メディアの衰退とマット界の沈滞」というのは、プロレスとプロレス・マスコミの両方が招いてしまったことでもある。
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