« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月に作成された投稿

2006年9月30日

ブログをいつ更新するか

はてな Question に、サイトやブログ等を定期的に更新してる運営者に対し、「更新時間を意識して更新してますか?」という質問があり、その回答は 「自分が更新したいときに更新する」が圧倒的に多い。(参照

これって、サイトの性格によって、差がありそうな気がする。

私は正真正銘の 「毎日更新派」で、それも "Today's Crack" (このブログ)と、文芸サイトである「和歌ログ」の 2つを、きちんと紛れもなく「毎日更新」している。

そして、この "Today's Crack" に関しては、だいたい日付の変わる前あたりに描き始め、日付が変わってまもなくアップするというローテーションで廻っている。今日は月末締めの原稿に追われて、夜中の 1時を過ぎてしまったが、普段は、12時半までには更新し終えている。

しかし、"Wakalog" の更新時間は、日によってまちまちだ。これは、毎日和歌一首と、写真 1枚を組み合わせて構成している 「写真和歌日記」 みたいなものなので、まず、気に入った写真が撮れなければならないし、その写真と関連した和歌を詠むのに、また時間を取らなければならない。

写真はお昼頃までに撮ってしまうことが多いが、和歌を詠むのに手間がかかると、更新は夕方とか、夜になってしまうこともある。歌詠み自体は、ものの 20分ぐらいあればいいのだが、仕事の合間にやっつけてしまうことが多いので、その日によって、何時になるか、さっぱり予定が立たないのである。

"Today's Crack" の方を、ほぼ時間を決めて更新しているのは、こっちの方が読者が圧倒的に多いということもある。中でも固定読者は、毎日大体決まった時間にアクセスしてくれる傾向があるようなので、こちらもそれに応えなければならないように、勝手に思っている。

インターネットのゴールデンタイムは、21:00~24:00 あたりという説がある(参照)が、私のサイトの場合はちょっと様相が違う。確かに夜のアクセスも多いには多いが、それは検索サイトからの一見(いちげん)客の比率が高い。

常連さんのアクセスが圧倒的に多いのは、朝の 9時前後と 昼の 12時からの 1時間だ。「知のヴァーリトゥード」と "Today' Crack" の場合、会社に出社してパソコンのスイッチを入れ、まずはウチにアクセスするという方が、かなり多いようなのである。

朝一番でアクセスしそびれると、お昼休みということになる。だから、私のサイトのアクセスを棒グラフで見ると、朝と昼が抜きんでている。

私は、朝一番でとりあえず見に来てくれる読者のためにも、夜中のうちに更新しておきたいと思っているわけだ。朝の 5時とか 6時とかに起きて更新しようという意気地がないので、つい夜中になってしまう。

そして、たまに眠くてたまらない時があって、夜中になる前にばったりと寝てしまうと、更新が朝から昼にかけてになってしまうことがある。こんな場合、朝一番でアクセスしてくれる常連さんに、とても申し訳ない気持ちになってしまうのである。

常連さんの多くはとても律儀なことに、朝一番で更新されていないと、お昼休みにもう一度チェックしてくれるという傾向があるようで、ありがたいことなのだが。

"Walalog" のような特殊ケースを除けば、ある程度更新の時間帯を決めておかないと、「毎日更新」 を続けるのは難しいような気がしている。そして、私の場合でいえば、更新時間をある程度決めているのは、「時間を意識している」 とともに、「読者を意識している」 ということでもあるのだ。

これって、業界新聞記者上がりで身に付いた性分のせいなのかなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年9月29日

「山本モナアナ」 にたじろいだ

いやはや、昨夜はいつの間にかばったり眠ってしまい、今朝は今朝で原稿締切に追われ、危うく更新を忘れてしまうところだった。

というわけで、今日のところは、軽いネタで失礼。Goo ニュースで目に焼き付いてしまった「山本モナアナ民主イケメン議員と路上キス」という見出しについてだ。

「山本モナアナ」って、一体何だ?と、ちょっとたじろいだが、記事を読んでみれば「山本モナ」という名前の女性アナウンサー (近頃は 「女子アナ」っていう、何だかすごい言い回しがあるらしいが)のことらしい。

そう言えば、夜に車を運転して帰宅する途中、TBS ラジオの「アクセス」という番組を聞くことがあるのだが、そのキャスターをやっているのが、「山本モナ」とか言ってたな。顔は知らんけど。

… と思って、確認のため、ググってみたら、9月 14日で 「アクセス」はやめて、テレビの「筑紫哲也ニュース 23」のキャスターになったんだそうだ。ふーん、そうか。テレビはほとんど見ないから知らなかった。いずれにしても、筑紫哲也なんて見ないけど。

というわけで、このニュースの「美ぼうと 168センチ、バスト 89センチの抜群のスタイル」というくだりに、不覚にもそそられてしまって、Google の画像検索で、初めて山本モナアナという人の顔を知った。

ただ、ググる時「山本モ」あたりまで入力したら自動で一番上に表示された 「山本モナ 退社」というキーワードで、委細構わず「イメージ」をクリックしたところ、ちょっと意表をついた画像が検索されてしまった。モナアナさん、ごめんね。

モナアナさん、かまぼことか関あじとか、イケメンとかがお好きみたいだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月28日

「平清盛」 と 「森の石松」 の違い

大学生にもなっていまさら聞けないこと。まとめwiki」に、「平清盛とか源頼朝ってなんで読むとき間に”の”って入るんですか?」ってのがあり、そのココロは "姓と名の間には「の」が入るが苗字と名の間には入らない、というのが基本" ということになっている。

うーん、これは、ビミョーだと思うがなあ。

件の「まとめ wiki」から、一応の「答え」となっている部分を引用すると、こういうことになっている。

姓と名の間には「の」が入るが苗字と名の間には入らない、というのが基本
姓は「源」「平」「藤原」「橘」とかのことで朝廷から与えられたもの
苗字は平安時代に勝手に名乗り始めたものが起源(現代の藤原や橘は苗字)
ちなみに「豊臣」は姓だから本当はあの猿は「とよとみのひでよし」と呼ばれるのが正しいはず

これに対してブログの世界では「目から鱗」という反応もあるけれど、何度も言うが、「ビミョー」である。じゃあ「森の石松」はどうなるのだ。

「氏(うじ)」とか「姓(かばね)」とかいう話になると、かなり複雑怪奇なことになり、私は詳細に論じるだけの十分な知識を持っていないので、とりあえず こちら のサイトをオススメしておく。

このサイトに出てくる 「足利直義」 という室町時代の武将の正式な名前(本名)は、「足利左馬頭源朝臣直義」で、読み方は「あしかが さまのかみ みなもとの あそん ただよし」である。

分析すると、「足利(苗字)左馬頭(職名)源(氏)朝臣(姓)直義(諱:いみな)」 ということで、確かに、苗字の後には「の」が付かず、「源」という「氏」を表す呼称の次に「の」が入る。

忠臣蔵の大石内蔵助の本名は、「大石内蔵助藤原良雄(おおいし くらのすけ ふじわらの よしたか)」で、「大石」という「名字」の後には、「の」が入らず、「姓」である「藤原」の 後に「の」が入る。

問題の豊臣秀吉の場合は、「羽柴筑前守豊臣秀吉(はしば ちくぜんのかみ とよとみの ひでよし」になるのかなあ。どんな手を使ったのか知らないが、「とよとみ」の姓を朝廷から賜っているので、「とよとみの」になるのは間違いない。

ところで「藤吉郎」という名前は、どこに行ったんだろう? もしかしたら「羽柴筑前守藤吉郎豊臣秀吉」になってしまうのかなあ。そのあたりはよくわからない。

ともあれ、正式な言い方の場合は、なるほど、氏や姓には「の」が付くということにしておこう。

しかし、フォークロアのレベルでは、「(いわゆる)苗字」と「名」の間に「の」が入るか入らないかというのは、単なる「習わし」というか「時代的なもの」という要素が大きいんじゃないかと思う。あまり堅苦しい謂われはないんじゃなかろうか。

「遠州森の石松」は、別に朝廷から「姓」を賜らなくても、庶民レベルで「森の石松」と、「の」付けで呼ばれた。遠州森村で生まれた石松だから、単純にそう呼ばれたのである。

彼がつまらぬ争いで命を落とさずに、明治の御代まで生き延びていたら、戸籍名は確実に「森 石松」になっていただろう。呼び習わしとしては「森の石松」 のままで。

もっとも、彼の親分の「清水の次郎長」は清水湊の大立者なのでそう呼ばれたが、明治まで生き延びて、戸籍名は「清水次郎」ではなく「山本長五郎」になった。

彼の元々の名は 「長五郎」 だったが、養父が「甲州屋山本次郎八」だったので、「次郎八の家の長五郎」で「次郎長」と呼ばれるようになり、明治以後は「山本」姓を継いだようだ。日本人の名前の成り立ちのバリエーションを、一人でいろいろこなしている。

それよりもっと古い時代というなら、「足柄山の金太郎」がある。長じて「坂田公時(さかたのきんとき)」になったと伝えられるが、「坂田」という「姓」が朝廷から与えられたかどうかというのは疑問だ。そもそも、その実在すら疑わしいのだから。(名前だって「金時」という表記の方が一般的なぐらいで、はなはだいい加減である)

彼の幼年時代、つまり「足柄山の金太郎」時代に国勢調査があったとして、「(今で言う) "氏名" を必ず記入」ということになったとしたら、彼は正式な「姓」はないにしても、多分「足柄山金太郎」として記入されただろう。呼び習わしとしては「足柄山の金太郎」のままで

このあたりは、「隣村のおじさん」とか「川向こうの太郎さん とか「三又沢の清三郎兄さん」とかいうのと、本質的にはそれほど大きな違いはない。

一般的には、庶民が苗字を名乗るようになったのは、明治以後とされるが、それは国民的誤解で、江戸時代以前にも、正式には名乗らなかっただけで、非公式には多くの庶民もちゃんと苗字に当たる「家名」とか呼ばれる呼称を持っていた。なきゃ不便だからである。そのほかに「屋号」なんてものもあった。

 

川の上流に住む忠兵衛さんなら「川上(の)忠兵衛さん」で、松が茂る中を流れる沢なので「松沢」と呼ばれる地に住む太兵衛さんなら、「松沢(の)太兵衛さん」だ。田んぼの中の一軒家に住む清兵衛さんなら「田中(の)清兵衛さん」 である。

開墾が進み、田んぼが広がって 「田中の○○さん」だけでは区別が付けにくくなると、「上田」とか「中田」とか、「西田」とか「東田」とか、さらに、山に近けりゃ「山田」で、池に近けりゃ「池田」とか、適当に細分化された。

このように、庶民の苗字の多くは「どこそこの誰それ」という呼び習わしから来ていたので、自然に「の」は付いていたのである。苗字に「山」とか「川」とか「沢」とか「浜」とか「崎」とか、土地の形状に由来した字が多いのは、そのためだ。

つまり、公式な呼称と、フォークロアのレベルの「呼び習わし」とは、ちょっと区別して考えていいだろうということだ。

今でも神社で祈願をすると、神主さんは祈願する者の(いわゆる)苗字と名前の間に「の」を入れて、祝詞(のりと を奏上してくれることが多い。この方面では、由緒ある姓でなくても、平等に取り扱ってくれる。「神の前の平等」だ。あるいは、「森の石松」方式なのだろうか。

そういえば昔、「ひょっこりひょうたん島」で、ドンガバチョが「摂政関白太政大臣藤原の朝臣ドンガバチョゴム長」 を自称していたなあ。

声を担当していた藤村有弘さんのインチキイタリア語芸、「「ドルチャメンテ、ゴチャメンテ、スパゲッティナポリターノ、ゴンドーラスイスイ、トラバトーレ、トルナラトッテミーヨ」 を、もう一度聞いてみたい。たまらなく聞いてみたい。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月27日

「法律以前」 なら、法で縛るな!

例の「国旗国歌訴訟判決」の関連では、私は小泉前首相の「法律以前の問題」という見方と、原則的に同じスタンスである。

しかし、私は「だったら、法的に縛るなよ!」とも言いたいのだ。そもそも私は、日の丸と 『君が代』を、法律で国旗、国歌に制定することには反対だったのだから。

日本の国旗が日の丸で、国歌が『君が代』であるというのは、平成 11年に正式に法制化された。いわゆる「国旗国歌法」というやつである。私は、この法律制定にあたり、どうして「いわゆる右派」の多くも賛成したのか、不思議で仕方がなかった。

だって、こんなことは別に法律で成文化しなくてもよかったじゃないか。国際的にもずっと前から、日本の国旗は日の丸で、国歌は『君が代』と、認識されていたではないか。だったら、慣習法的に、そういうことにしておけばいいではないか。

第一、成文法よりも慣習法の方が強いのである。成文法だと、ある日突然、国会で別の旗を国旗にし、別の歌を国歌にする法案が通ってしまうことだってあリ得るのだ。慣習法だったら、そんなことはない。長年の伝統は、容易には覆されない。

国旗、国歌を尊重することが「法律以前」だというなら、法律なんかで縛らなければよかったのである。

そして、私はそれが「法律以前」の問題であると認識しているが故に、今回の問題では、東京都にも、教師側にも、「無粋の極み」という印象を持つほかないのである。

都側の強権的な態度もあまり気にくわないが、地裁段階で違憲判決が出たと言って、鬼の首でも取ったように大喜びするような、趣味の悪い教師たちには、自分の子どもを任そうという気には到底なれないのである。

もし米国南部あたりで、国旗、国歌に敬意を表さない教師がいたら、そいつらは夜道を歩けないだろうし、撃たれて死んでもあまり同情されないだろう。あの趣味の悪い教師たちには、「ここが日本で、本当によかったね」 と言ってあげたい。

まあ、わざわざ東京から庄内の田舎まで行って、加藤紘一氏の実家に火付けをするような悪趣味も、いるにはいるけど。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年9月26日

広告業界のビョーキ

スラッシュ・ドット・ジャパンの記事で知ったのだが、社団法人公共広告機構 (AC) のサイトが、今時珍しくも 「本サイトへのリンクは、原則お断り」 を謳っている。(参照

興味深いことに、このビョーキは広告業界に広まりつつあるようで、電通クロス・メディア・マーケティングも感染している。

問題のリンクポリシーは、次のようなものである。(AC のサイトから引用。他の 2つもほぼ同文だが)

本サイトへのリンクは、原則お断りいたします。特に以下のリンクは固くお断りいたします。

  • 当機構の活動等を誹謗中傷、信用を毀損するおそれがあるサイトからのリンク
  • 公序良俗に反する内容を含んだサイトからのリンク
  • 違法なコンテンツを掲載したり、違法な活動に関与した、または関与した可能性のあるサイトからのリンク
  • フレームやその他の方法で、本サイト・コンテンツであることが不明となるリンク
  • サイトの管理・運営者が不明、またはハンドルネーム等により運営されているサイト、あるいは代理運営されているサイトなどからのリンク

    また、本サイトをリンク先とするサイトであっても、そのサイトを運営する個人・団体との特別な関係は無いとともに、当該サイトを公共広告機構が推奨するものでもありません。

うぅむ、個人のブログでこんなことを堂々と書いたら、たちまち炎上してしまうだろう。それに、いくらリンクを 「原則お断り」 なんて言っても、ご覧の通り、私はいけしゃあしゃあとリンクしちゃってるもんね。

当サイトは、「ハンドルネーム等により運営されているサイト」 に当てはまると思うのだが、それが、「公序良俗に反する内容を含んだサイトからのリンク」 と同列に扱われているのは、ちょっとむっとしてしまう。

それで、こうした形でリンクしてしまってるので、「(ACの) 活動等を誹謗中傷、信用を毀損するおそれがあるサイト」 の仲間入りをしてしまっていると受け取られてしまうかもしれないが、それが何か?

ちなみに、ウチなんか過去に 「光栄にも (中略) アダルトサイトからリンクしてもらった」 なんてことを、嬉々としてブログの記事にしてしまっているのだが。

いずれにしても、ウェブの世界の常識を、影響力の強い (かもしれない) 広告業界のサイトがないがしろにしてしまっているのを、私は憂慮してしまうなあ。それに、彼らが大して深い考えもなく 「リンク禁止」 を謳っているのは、こちら の記事からも十分に窺えるし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月25日

想念の具象化

3年ちょっと前の夏、私は "「パンク男」 を返上したい" というエントリーを書いた。パンクロックとは関係ない。車のタイヤの話である。

当時、私は何の因果か、乗っている車のタイヤがしょっちゅうパンクしてしまう男だった。平均すると、1年に 1度以上はパンクの憂き目にあっていて、ほとんど年中行事だった。

ところが、行きつけのタイヤ屋の親父さんによると、世の中には、「今の車は滅多にパンクなんかしない」 と、根拠もへったくれもなく信じ込んでいる人がいて、どういうわけか、そんな人の車のタイヤは、本当にパンクしないのだそうだ。

「そういうタイプの人は、タイヤ交換はすり減って使い物にならなくなった時だけで、パンクで交換とか修理とかいうことは、本当に滅多にないんですよ」 と、親父さんは笑って言うのである。「信じる者は救われるってことですかねぇ」

へぇ、そんなものだろうかと、私は思ったのであった。ということは、私の車のタイヤがしょっちゅうパンクしてしまうのは、オーナーである私自身が、「パンクはするものだ」 と思い込んでいるからなのか。

そしてこの日、私は次のように書いたのである。

いやいや、これはきっと 「卵と鶏」 だ。たまたまパンクしないで済んでいる人が、パンクしないと信じ込んでいるだけに違いない。いや、それとも、想念もエネルギーであるから、具象化するともいえるのか。

さすれば、今日を限りに私も 「パンクはしない」 と信じ込んでみよう。それで 「パンク男」 を返上できたら、「想念の具象化」 というエッセイでも書いてみようか。

これは、半分はジョークだったが、しかし残り半分は、案外本気だった。とにかく、経験してみればわかるが、パンクは嫌なもので、私は心の底から 「パンク男」 を返上したかったのである。

私は実際に、この日を限りに、 「パンクなんてしない」 と、無理矢理信じ込むことにした。そしてあれから 3年以上経った今日、この間、一度もパンクしていないということに気付いたのである。

瓢箪から駒というか、嘘から出た誠というか、とにかく、それまではあんなに頻繁にパンクしていたのに、ピタリとしなくなったのだ。

それで、約束通り、本日このように 「想念の具象化」 というエントリーを書いている。想念とは、本当に具象化するもののようなのだ。もちろん、それは偶然だとか、無意識の学習の成果だとか、別の見方も十分に可能だが、そこはそれ、ものは解釈のしようである。

私は自分の想念が具象化したと解釈して、誰にも迷惑をかけずにハッピーなのだから、それでよしとするのである。ハッピーな解釈の方が精神衛生にもいいし。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月24日

庄内弁の「かすと」は「かつゑびと」?

去年の 1月 20日に、"「かすと」と「さんごろぺ」" というエントリーを書いた。よくわからない庄内弁として挙げたのだが、最近、「かすと」についての有力情報が届いた。

「かすと」の意味は、「飢えている人」らしいということまではわかっていたのだが、その語源の糸口がつかめたような気がする。

念のため繰り返しておくが、「かすと」というのは、庄内弁でもあまりイメージのよくない言葉で、食事の時に、行儀の悪いがつがつした食べ方をすると、「"かすと" であんめし!」("かすと" じゃあるまいし!)と言って怒られたものだ。

だから「かすと」というのは、飢えて本能剥き出しみたいになった状態をいうのだろうとは薄々思っていたが、その語源はよくわからなかった。

少しググってみたら、秋田県の本荘由利地域(庄内のすぐ北隣)の方言をまとめたサイトの中に、「かつと」という言葉を見つけ、そこには、"「飢人」の訛りか?" という指摘があった。だが、「飢人」で「かすと」あるいは「かつと」と読むには、無理があるだろうと思っていたのである。

しかし、このほど阿部さんという方から、長野県の旧安曇野郡奈川村(現在は松本市に編入)の辺りでは、「飢人」で「かつえびと」と言うとのご指摘をメールでいただいた。ありがたいことである。

広辞苑にも、以下の記述があるとのことだ。

かつえ-じに 【飢え死に・餓え死に】 
かつえて死ぬこと。うえじに。

かつ・える 【飢える・餓える】 
1. うえる。空腹になる。 
2. 甚だしく欠乏を感じる。

どうやら、私がうかつなことに、「かつえる」という言葉を知らなかっただけのようなのである。以前、だいぶ古い版の広辞苑を処分して以来、大きな辞書は持たない主義できたのだが、こうしてみると、ちゃんと備えておいた方がいいのかなあという気がしてきた。

試しに Goo 辞書で調べてみると、以下のように出ている。(参照

かつ・える かつゑる   【▽餓える/▽飢える】

(動ア下一)[文] ワ下二 かつ・う
(1)食物が足りなくて苦しむ。うえる。
「これから先きは―・ゑて死ぬより外に仕方がない/塩原多助一代記(円朝)」
(2)不足を感じてしきりに欲しがる。
「何かに―・ゑたやうな眼をぱつちりと開いて/悪魔(潤一郎)」

なんと、円朝の落語はおろか、現代文学にまで使われていた言葉だったのだ。こんなことなら、谷崎をもう少しきちんと読んでおくんだった。

なるほど、「かつゑびと」(飢えて苦しんでいる人)という言葉が訛って、「かすと になるのは十分にあり得ることだ。秋田の本荘由利地域では 「かつと」というのだから、「かつゑびと」により近い。

長野県の旧安曇野郡奈川村における「かつえびと」という言い方は、しっかりと由緒正しい古語の系譜である。今ではかなりの年配の人の間でしか使われないということだが、庄内弁の「かすと」にしても、今では死語になっていると思う。

何しろ「飽食の時代」になってしまったので、本当の意味での「かつゑる」という感覚は、今では戦争を知る世代しか体験していないだろう。死語になるのも仕方ないだろう。

だがあるいは、メタフィジカルな意味合いでの「かつゑびと」は、むしろ増えているような気がする。胃袋が「かつゑ」から解放された今、人は精神的に飢えているのかもしれない。

なお、本宅サイト「知のヴァーリトゥード」の 20万ヒット突破に続き、ココログの "Today's Crack" も、昨日でめでたく 30万ヒット越えを果たした。ご愛読に感謝。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月23日

ばいろんさんから、メールが来た!

嬉しいメールが届いた。実は先月末に Goo メールのアドレスに届いていたのだが、最近、Nifty の方に一本化してしまったので、チェックが遅れ、今頃になって気付いたのだ。

先月 15日のエントリーで紹介した、沖縄の比嘉光龍 (ふぃじゃ ばいろん) さんご本人からのメールである。

まず、おことわりから。15日のエントリーでは、耳で聞いた感覚が横文字っぽかったので、カタカナで「比嘉光龍(バイロン)さん」 と書いてしまったが、正しいかな表記は、「ふぃじゃ ばいろん」 さんだったのだ。(ばいろんさん、ごめんなさい)

15日のエントリーでも書いたが、ばいろんさんは、ラジオ沖縄で 「光龍ぬピリンパラン日曜日」 という番組をやっていらして、そこでは、徹底してうちなぁぐち(沖縄ことば)でしゃべる。そして島袋幸子さんというアナウンサーが、それを日本語で受けるという、とてもアバンギャルドなスタイルである。

そして、この番組で流れてくるのは、沖縄の古い民謡ばかりで、これまた徹底している。そして、その古い歌への思い入れ、歌い手へのリスペクトが半端じゃないのだ。

私は自分の演奏する音楽 (私が以前ミュージシャンだったことは、「追憶の荻窪ロフト '75」というエントリーで書いた) でも、ロバート・ジョンソン以前の古いブルースとか、とにかく、そんな古っぽいのに傾倒しているので、ばいろんさんの姿勢にはとても共鳴してしまう。

今回の 「はゐさゐ (こんにちは)」で始まるばいろんさんのメールで知ったのだが、彼の奥さんは、山形県の天童市出身なんだそうだ。これで、ますます親近感が増した。そして、先月 20日に初めて山形県に行かれたそうだ。天童温泉には入ったかな?

ばいろんさんは、こう書かれている。

うちなぁんちゅでもあまり私のやっていることが最先端すぎて理解してくれないのにもかかわらず、山形県出身のかたが2人も(妻も含め)理解してくれていることに対して一人小躍りしている所です(笑)

へぇ、ばいろんさんの試みは、沖縄ではあまり理解されていないんだ。意外である。私は先月 13日の日曜日、沖縄をレンタカーで廻りながらばいろんさんの放送を聞き、うちなぁ文化の奥行きに感嘆し、うらやましくてしょうがなかったのに。

実際は、どうやら日本内地側から発した「沖縄ブーム」もあって、うちなぁんちゅ自身も過去の傷が癒され、郷土文化の誇りが取り戻されつつある途上のようなのだ。おぉ、それならば、どんどん取り戻してもらいたいものである。庄内人としても、そっちの方向でいきたいから。

ばいろんさんは、こうも言っている。

それで私はうちなぁの歴史をすべてしょってやるぐらいの勢いで日々楽しんでうちなぁぐちをあちらこちらのマスコミで使っています。

素晴らしい。私だって、「庄内力養成委員会」というサブサイトを持ってるぐらいだから、できればどんどん庄内弁を使いたい。しかし、東京では全然通じないので、しかたなく標準語を使っている。

庄内弁より通じにくい「うちなぁぐち」を、楽しんで使うというのは、ちょっとした胆力である。きっと、どこかで思いっきりインパクトのあるターニングポイントがあったに違いない。興味あるところである。

それにしても、とにかく私は、ばいろんさんの番組を、内地にいても聞きたいのである。ポッドキャスティングでもなんでもいいから、どうにかできないものだろうか。賛同者を募るぞ。

なお、以前のエントリーでは、「ウチナーグチ」と表記していた分も、今回はばいろんさんに倣って、「うちなぁぐち」と書かせていただいた。それから、「比嘉」という名字は 「ふぃじゃ」 と発音するようだが、「ひ」が「ふぃ」になるのは、私としては、なじみ深くて懐かしい。

というのは、前にも 「現代の奥に潜む古代」 というエントリーで書いたが、死んだ祖母が「はひふへほ」を「ふぁふぃふふぇふぉ」と発音する人だった。奈良時代までは、都でもそうした発音だったというのが、音韻額の研究で確認されている。

庄内とうちなぁ、それほど遠くないところにあるようだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月22日

「ひかり電話」 は、枯れるまで待て!

「知のヴァーリトゥード」 の 20万ヒットが、あっけなく達成されてしまった。先週末の段階では、23日あたりと予想していたが、実際は、昨日 (21日) 午後 5時過ぎ頃だったようだ。

ゲットした方からの連絡は、まだ入っていない。このところ、3回連続キリプレの捧げ先が明確だったが、今回はどうか。

ところで、NTT東日本の 「ひかり電話」 の不具合には、ちょっと驚いてしまった。21日もつながりにくい状態が続いて、これで 3日連続である。この調子だと、22日も完全回復というわけにもいかなそうだ。

実は、わたしの関係している某団体事務局が、今月から FAX を含む電話回線のすべてを 「ひかり電話」 に変えてしまったのだが、連休明けの 19日から回線の不具合で、まともな仕事にならない状態が続いている。

19日の段階では、連休明けで通話が集中し、トラフィックが回線容量を上回ってしまったので、通話を制御したと発表された。この段階では、通話の集中が緩和されれば、不具合は解消するとされていた (参照)。

ところが、翌 20日もダメだったのである。「別の中継系サーバーが処理能力の範囲内の発着信にもかかわらずダウンした」 ためだという (参照)。これで、某団体事務局スタッフは、かなりキレかかる。

「ひかり電話の料金なんか、払えんぞ!」 というわけだ。それも道理である。つながって当たり前のオフィスの電話と FAX が、使い物にならないのだから。

で、3日目の 21日である。やっぱりダメだ。前の 2日よりは少しだけマシで、3回に 1回ぐらいはつながるようになったが、その程度では、やっぱりまともな仕事にならない。なにしろ、発信だけでなく受信もしにくいのだから、関係先にかなりの迷惑をかけている。

どうやら、回線負荷の平準化を得るために、NTT東日本が事前規制を実施して、50%しかつながらないような措置を講じていたらしい (参照)。

それにしても、こんなにもろいシステムを、大々的なプロモーションで営業の大攻勢をかけていたわけだ。こんなことなら、「ひかり電話」 導入はもう少し慎重にすべきだったと思っても、後の祭りである。

NTT東日本の発表によると、今回の不具合の原因はまだ特定できておらず、「究明中」 なのだそうだ (参照)。やれやれである。多分、システムのどこかに、プログラム関連の問題があるのだろう。

「ひかり電話」 のメリットは、コストの安さなども含め、既に大いに喧伝されているが、ここに来て、デメリットが明確になった。要するに、「不安定」 なんである。「こなれてない」 のである。つながって当たり前の電話が 「つながらない」 というのでは、話にならない。

回線のダウンでなくても、停電になってしまうとつながらない。台風かなにかでの、不意の停電時などにつながらないのは問題だ。ケータイがあるからいいじゃないかということにはならない。オフィスの電話や FAX は、ケータイでは代替できない。

悪いことはいわない。「ひかり電話」 は、もっときっちりと枯れるまで、手を出さない方がいい。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月21日

連続 1000日更新を達成

"Today's Crack = 今日の一撃" は 「(ほとんど) 毎日更新」 を謳っているが、ここ 2年半以上は、「ほとんど」 という但し書き不要で、正真正銘の毎日更新を継続している。

そして、今日で 1000日連続更新という記録を達成してしまったのだ。平成 15年 12月 26日から、1日も休まず書き続けたのである。

そして、実をいうと、平成 15年 12月 26日というのは、当コラムの日付の付け方を変えた (参照) 日で、それまでは、その日付のエントリーをその日の夜に書いてアップロードしていたのだが、この日から、翌日付のエントリーを夜のうちに書いておくという原則にしたので、1日飛んでしまったのである。

だから、裏の事情を言ってしまうと、この年の 12月 14日から、既に連続 1012日間、休まず書き続けているのだが、公式記録上は、今日で連続 1000日ということになる。いずれにしても、ブログ界広しといえども、連続 1000日以上更新というのは、それほど多くないんじゃないかと思う。

「ほぼ毎日更新」 ということなら、平成 14年 3月から継続していて、なんと、4年半にもなるのだ。最初の 5か月ぐらいは、3~4行のコメント程度だったのだが、同年 8月からは、まとまったコラムになった。だから、そうなってからでも、1400本以上のコラムを書いてきたことになる。

我ながら、よくもまあネタが続くものである。

それに加えて、私の場合はもう一つのサイト、「和歌ログ」 の方でも、「一日一首」 の毎日更新を継続していて、そっちの方は既に連続 1千首目を先月 27日に達成してしまっている (参照)。

1つのサイトで 長期間にわたり毎日更新しているブロガーは、他にもいくらでもいるかもしれないが、まったく毛色の変わった 2つのサイトで、平行してそれぞれ連続 1000日以上の更新をしてるというのは、ちょっとだけ自慢しちゃっても、罰はあたらないかもしれない。

あ、それから、今日中か、または明日の早い時点で、本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の 20万ヒット目が達成されるはずだ。キリ番をゲットした方には、恒例の 「和歌のキリプレ」 があるので、よろしく。

それと、ブログの "Today's Crack" も、そろそろ 30万ヒットなので、そっちの方もよろしく。(キリプレはないけど)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月20日

本宅サイト、20万ヒット達成目前

私の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 が、多分、明後日には 20万ヒットを達成しそうだ。さらに、ほぼ同時ぐらいで、ブログの "Today's Crack" も 30万ヒットの大台に乗りそうだし、そもそもその前に、明日は、「今日の一撃」 が連続 1000日更新の記録となる。

どっと記録ラッシュになりそうだ。

本宅サイトの方のキリ番ゲットの方には、恒例の 「和歌のキリプレ」 がある。「和歌を捧げられる」 なんてのは、今どきレアな体験のはずなので、話のタネに、ぜひ狙ってみて頂きたい。歴代のキリプレ和歌は、上記リンク先に掲載してある。

私は、「庄内拓明の和歌ログ」 という別サイトを持っていて、一応、ネット歌人の端くれでもあるので、大それたものではないが、それほどドンくさくもないという程度の歌は詠ませていただく所存である。

捧げた和歌に関しては、著作権を一部放棄することにしている。一応、作者は私ということは主張させていただきたいのだが、そこから先のことは、ゲットした方に限り、二次使用はご自由ということだ。ご自分のサイトに貼り付けようが、魔よけ代わりに柱に貼ろうが、お好きなように使っていただきたい。

ところで、前回 15万ヒットの時には、「150000」 のキリ番を踏んだという人が、2人現れた。どちらも本当である。そういうことが、あるようなのだ。それで、「めでたさも倍ぐらいなり」 と、キリプレ和歌を 2首詠んで贈らせていただいた。

そういえば、私の手元のアクセス分析結果では、これまでのヒット数を全て合計すると、既に20万と3000を超えている。本宅サイトのトップページに設置したアクセスカウンターの数字で割り算すると、100回に 2回程度 (つまり、50アクセスに 1度) は、カウンターが回りそびれるというケースがあるようなのだ。

つまり、平均して 1日に 10回近くは、そうしたことがあり、とくに珍しいことでもなんでもないのだが、今年の 4月 23日は、それがたまたま、15万のキリのいいときにあたってしまったもののようだ。

この程度の微妙な不具合って、あるんだろうなあ。無料で借りてるカウンターなので、文句も言えないけど。

それを考えると、カウンターのキリ番自体の信憑性もおかしなことになるのだが、それはそれ、気分の問題なので、素直にカウンターの数字でキリ番としようと思っている。今回はきちんと回ってくれることを願うばかりである。

それにしても、ブログというのは、カウンターが回りやすいシステムになっているのだな。本宅サイトは 4年半あまりかかって、ようやく 20万ヒットなのに、ブログはたった 2年ちょっとで 30万ヒットである。

ブログは過去ログへのアクセスもすべてカウントしてしまうが、本宅のトップページにおいてあるカウンターは、サイト内の別のページへのアクセスは関知しないのだから、こんなに差が付くのも仕方がない。

いずれにしても、私はブログは本宅サイトの付属品と思っているので、いくら 30万ヒットを達成しようとも、キリプレ和歌なんて詠まないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月19日

老練な謝り方とは?

ローマ教皇ベネディクト 16世が、イスラム教の聖戦を批判したとされる自身の発言について、「極めて遺憾」 と述べたと報じられた。

共同通信は、これについて 「事実上の謝罪」 と報じている (参照) が、うーん、微妙だなあ。ともあれ、さすがにローマ教皇である。その謝り方も、すごく老練なのだ。

この問題については、以前も 「謝罪」 と 「遺憾の意」 と題して書いたことがあるのだけれど、なかなか難しいところがあるのだ。

英語では、「遺憾の意」 というのは "regret" といって、「遺憾の意を表する」 は "express regret" である。そして、謝罪は "apology" だ。

"Regret" というのは、「後悔」 とか 「悔しい」 とかいう意味もあり、外交上の言い回しとしては、「あってはならないことだったよね」 という、どちらかといえば客観的な言い方である。

少し深読みすると、自分の行為に対する "regeret" であれば、「こっちの都合もあって、明確な謝罪はできないけど、ヤバかったなあとは思ってるんだから、この辺で丸く収めてよ」 ということである。一方、相手の行為に対しての言及ならば、「オラオラ、そういうことなんだから、ちったぁ恐縮しろよ!」 という意味合いになる。

そして、"apology" ということになると、もろに 「謝罪」 であり、「悪かったよ。非を認めるよ」 ということである。

しかしながら、"apology" には 「弁明」 という訳語もあるように、「西欧的謝罪」 というのは、一定の 「弁明」 や 「言い訳」 がつきものである。思いっきり言い訳しても、「潔くない」 なんてことは言われない。むしろ、きちんと弁明しないと、それこそ極悪非道か、無能扱いされる。

このあたり、「全面的に私が悪うございました。言い訳のしようもございません。似て食うなり焼いて食うなり、何とでもどうぞ!」 なんていう日本的態度で迫ると、かなりまずいことになることがある。武士の情けは、通じないことの方が多いのである。

そして、今回の教皇の謝り方というのは、かなりのグレーゾーンの中にある。それだけに、ニューヨーク・タイムズの記事では、見出しで "Pope Expresses Personal Regret" (教皇、個人的遺憾の意を表す) としながら、本文では "by issuing an extraordinary personal apology" (異例の個人的謝罪を表明することで) と書いている。

で、実際に教皇自身はどう言ったのかというと、ニューヨーク・タイムズによると、こう言ったのである。(イタリア語で述べたことを英語に翻訳しているらしい)

"I am deeply sorry for the reactions in some countries to a few passages of my address,"

(私の演説のちょっとしたくだりに対する、いくつかの国における反応について、私は非常に残念に思っている)

要するに、「遺憾の意」 とか 「謝罪」 とかに聞こえる発言は、これだけのことである。それ以上のこと、つまり、「私が悪かった」 みたいなことは、全然言っていないようなのだ。

これに続く発言は、弁明の羅列で、「あれは、中世の文献からの引用で、私の個人的考えではない」 とか言いつつ、結論的には、

"The true meaning of my address," he said, "in its totality was and is an invitation to frank and sincere dialogue, with great mutual respect."

「私の演説の真意は」 と彼は言った。「全体としては、相互に尊敬し合いながらの率直で誠実な話し合いへの招待であったし、今もそうだ」

ということにしているのである。これで、記事になると 「個人的な遺憾の意」 とか 「事実上の謝罪」 とかになってしまうのだ。実は、まともには謝っていないのに。

老練な謝り方の一種のお手本である。怒りまくっているムスリム相手に、本当に効果を発揮するかどうかは別として、変な言質を取られないという意味では、ベネディクト 16世、宗教家である以前に、かなりのポリティシャンである。

【注】

"Pope" の訳語として、マスコミの多くは 「ローマ法王」 という呼称を使っているが、私はカトリック中央協議会の要請を尊重して、「ローマ教皇」 と言うことにしている。

ニューヨークタイムズの記事の URL は、
http://www.nytimes.com/2006/09/18/world/europe/18pope.html?_r=1&oref=login

ただし、アクセスするには、フリーアクセスメンバーに登録する必要がある。無料なので、英語が苦にならない人は、登録しておいて損はない。
(私は苦にならないわけじゃないけど、無料ということにつられて登録してる)

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月18日

酒の鍛錬と、食道ガン・リスク

今年 5月 5日の "「にじよじ」 のまつや" というエントリーに、「最近、とんと酒が弱くなってしまった」と書いた。

若い頃から鍛えて、多少は「いける口」になっていたのに、サラリーマンを止めて付き合い酒が減ったせいで、日頃の鍛錬もしなくなり、元々の体質に戻ってしまったようなのだ。

以前にも書いたが、私の父の家系は完全な下戸で、お猪口 1杯の酒で顔が真っ赤になり、2杯飲んだら、心臓ばくばくで死にそうになる。私もその血を引いているので、体質的には酒はそれほど強くないのだが、大学に入る前からの鍛錬で、そこそこ飲めるようになっていた。

元々酒には弱いのだが、母方の血のせいで、好きなのである。好きなものを満足するほど飲みたいから、鍛えに鍛えたのである。しかし鍛え方が足りなくなるととたんに地金が出て、コップ 1杯のビール、お猪口 1杯の酒で、顔が赤くなる。

このように、飲酒時に顔が赤くなるのを「フラッシング反応」というのだそうだ。そして、コップ 1杯のビールでフラッシング反応の出るような体質の人というのは、普通に酒が飲める人と比べ、食道ガンになるリスクが 8倍以上にのぼるというのだ(参照)。

国立病院機構大阪医療センター(大阪市中央区)の辻仲利政・外科科長らの研究グループの調査によると、私のような体質の人間は、正常型の人が少量飲酒した場合に比べ、8.84倍もの食道ガン発生リスクがあり、さらに 1日 3合以上飲むと、114倍のリスクになるとある。くわばらくわばら。

辻仲科長が経験から指摘する 「食道ガンにかかる典型的な例」 は、「営業職などに配属され、酒が弱いのに、接待など付き合いで無理に飲むようになり、次第に普通に飲めるようになるケース」なのだそうだ。

私は営業職はやったことがないが、まさに「酒が弱いのに、無理に飲むようになり、次第に普通に飲めるようになるケース」そのものだったのだ。知らぬこととはいえ、恐ろしい境地に足を踏み入れていたわけだ。

近頃、体質が元に戻って、味気ない思いをしていたのだが、どうやら知らず知らずのうちに食道ガンのリスクから遠ざかっていたという、「結果オーライ」の状況だったらしいのである。

でもまあ、ちょっとだけ飲む程度なら、大丈夫だろう。少しの酒でいい気分になれるのだから、コストパフォーマンスが向上したのだと思うことにしよう。

ちなみに、日本のおっさん世界では、酒の飲めない人にも無理矢理すすめて、酔っぱらいの土俵に引きずり込むのを良しとする傾向があるが、これは固く慎みたい。こうした精神風土が、飲酒運転をへとも思わない風潮につながるのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月17日

NHK の音楽センス

私もそうだが、妻も相当のラジオ人間である。ただ、贔屓のラジオ局に違いがある。私は TBS 派だが、妻は NHK第一放送派だ。

家事をしながら聞く分には、NHK が最も気に障らないという。「昼の憩い」などに代表されるような、半世紀以上も変わらない、のほほんとした間合いがいいのだろう。

私自身も、「変わらない」ということの価値には、相当の重きを置く方で、「黄金のマンネリズム」大好き人間である。しかし、変わらないにも 「ほどがある」という部分もある。

例えば、今時 NHK は「それでは "音楽" をお聞きください」なんて、まじめくさったナレーションを入れる唯一の放送局である。

他の放送局だったら、「それでは、曲、行きましょう」とか、自然な感じでいくのだが、NHK の場合は、なんだか、放送で音楽を流すことが、一種特別のような感覚を、戦前からこの方、ずっと持ち続けているようなのである。

そしてその「音楽」 がすごいのである。誰が選曲してるんだか知らないが、朝食を食べながら NHK の「それでは "音楽" をお聞きください」の段になると、私と妻は、つい身構えてしまったりするのである。

NHK という放送局の性格上、朝の番組で流す音楽は、気持ちよく一日を始められそうな、いかにもさわやかな曲だろうと思われがちだ。しかし、実際は全然違うのである。

まず、夜のムードたっぷりの艶歌だったりする。それも、あんまり聞いたこともないような、「夜の止まり木」なんていうタイトルの歌だったりする。これから仕事に出かけようという時に聞く歌じゃない。

艶歌だけじゃない。ちゃんと洋楽だって流れる。アルゼンチンタンゴは、朝の音楽の定番だ。これは印象だが、三日に一度は、男女が脚を絡ませて踊りたくなるような、濃厚なタンゴが流れるような気がする。

艶歌、アルゼンチンタンゴときたら、次は、むせび泣くサックスだ。ジャズとも言えない、もの悲しくなるようなムード・ミュージックが流される。ああ、NHK的朝のひとときは、ただひたすら、遮光カーテンの中の雰囲気である。多分、外界の見渡せるスタジオなんて、ないんだろうなあ。

こうしてみると、NHK ってそれほど気取っているわけでもない。なかなかくだけている。そして音楽センスの延長線上に、大晦日の紅白歌合戦があるのは、疑いもない事実である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月16日

「感覚のプロレス」から「論理のプロレス」へ

元祖「活字プロレス」の『週刊ファイト』が、今月一杯で休刊になる(参照)。私はネット版の「ウィークリーウェブファイト」の有料購読者なのだが、こちらの方も休止となるようだ。

発行元の新大阪新聞社は、「活字メディアの衰退とマット界の沈滞などから読者が減少」したことを、休刊の理由としている。

格闘技フリークである私は、学生時代から『週刊ファイト』の愛読者である。私の学生時代は、新日本プロレスの成長期で、試合はゴールデンタイムでテレビ中継されていたが、貧乏学生だった私のアパートの部屋にはテレビがなく、大事な試合も見逃すことが多かった。

それでも、翌日には「東京スポーツ」で試合結果を知り、さらに毎週木曜日になれば、「週刊ファイト」でその裏事情まで窺い知ることができた。

当時の編集長だった井上義啓氏のカリスマ的編集方針により、「週刊ファイト」は、単なるリング上の結果よりも、それを保証するリング外の事情まで取り上げて、コアなプロレスファンのニーズに応えていたのである。

本物のプロレスファンにとっては、「プロレス八百長論」などは極めて低次元の話であって、それを超越したパフォーマンスの評価こそが問題なのだった。それは、時折垣間見られる「本物の殺気」にも支えられていて、往年の猪木プロレスには、確かにそれがあった。

「約束事」の上に成り立ちながら、時にはそれを踏み越えてしまうプロレスというパフォーマンスであるからこそ、井上編集長の言われる「感覚のプロレス」ということが、大きな意味を持っていた。

リング上の世界を支えるバックグランドまで精通して、その上で「わかる人だけがわかる世界」というものを、彼は「活字プロレス」で表現した。そこから、ターザン山本氏、金沢克彦氏などの名物プロレス記者が巣立った。

しかし私は「感覚のプロレス」というのは、「井上編集長一代限り」のものだと思っている。「感覚で観る」プロレスは、猪木の引退とともにとっくに終わってしまっているのだ。長州力があそこ止まりなのは、「感覚のプロレス」に鈍い感覚で固執しているからである。

時代は「論理のプロレス」を志向しているのだ。しかしプロレスが「論理」を志向してしまうと、それはもう「プロレス」ではあり得ない。「格闘技」になってしまう。その意味で、「プロレス」が衰退し、「格闘技」が脚光を浴びるのは当然のことなのである。

そして「プロレス記者」の多くは、「論理のプロレス」に対応できなかった。「論理のプロレス」の記事というのは、道場で実際に打ち合い蹴り合いをし、関節を極め、極められする経験をしなければ、書けるものではない。「観客論」の立ち位置では無理なのである。

例えばターザン山本氏は、いまだに個人的思い入れに立脚した 「感覚のプロレス」を書くという流儀から離れられない。それゆえに彼の書く格闘技記事には、膝を打って「そうであったか!」と感嘆することがない。

今では格闘技のレポートは、活字記者の書く記事よりも、格闘技経験者の書くブログの方がずっと説得力がある。その意味で、「活字メディアの衰退とマット界の沈滞」というのは、プロレスとプロレス・マスコミの両方が招いてしまったことでもある。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月15日

70年代のおとしまえ的「サウンドデモ」

ululun さんのブログのエントリーで、「家賃をタダにしろ 中野→高円寺一揆」 というサウンドデモが、明日 (9月 16日) に行われることを知った。主催は 「高円寺ニート組合」 という、私のプロフィル写真よりもなお怪しい団体。

これについて少しばかり調べていくうちに生じた ちょっとした共感が、我ながらいとおしい。

「家賃をタダにしろ」という、ほぼ無意味なキャッチのもとに、中野サンプラザの裏の公園から高円寺まで、生バンドも含む大音響をとどろかせながら、踊り、練り歩き、「蕩尽としてのサウンドデモ」 を繰り広げるのだそうだ。

「手段としてのデモ」ならば、そこには「論理」とかがあるから、警察当局としても主催者とのネゴのしようもあるだろうが、なにしろ「蕩尽としてのデモ」なので、どう取り締まればいいかわからず、あきれつつもとまどっている様子がうかがわれる。

近頃とみにいっぱしぶっている「私の中の大人」は、「アホらしい話」として 「冗談ポイよ」と片づけてしまいたいのだが、私の中にはまだ「子ども」がかなり残っているらしく、一方で、「おもしろそうじゃん」という気がしてしまう。いい年をして、困ったものである。

ululun さんは、「自分には、サウンドデモ、特に今度の日曜に高円寺で行われるサウンドデモの趣旨が理解出来ない」と述べておられる。「理解できない」というのは、大人の態度である。あらまほしき態度である。

ただ、こういうのは「理解する」ことが求められているわけではない。並の仕方で「理解」しようとすればするほど、ナンセンスなことになる。あるのはただ、「おもしろそうじゃん」と思うか、思わないか、それだけである。

私が「おもしろそうじゃん」と、つい不覚にも思ってしまうのは、1960年代末から 70年代初頭までの、あの雰囲気を経験してしまっていて、それにまだ「おとしまえ」をつけ切っていないからのような気もする。蕩尽し切っていないんだろうなあ、まだ。

You Tube にアップされているプロモーション動画も、どうやら、あの当時の雰囲気がめちゃくちゃ濃厚なのである。以下にリンクしておこう。

家賃をタダにしろ!中野→高円寺一揆!予告編
新宿昭和館的雑踏バージョン

家賃をタダにしろ!中野→高円寺一揆!ガールズトーク編
同上、ファンタジックバージョン

家賃廃止要求デモ!
西口フォークゲリラ、釜ケ崎暴動想起バージョン

WE ARE THE THREE (ONLY!)
70年代後半的意味ありげなドッチラケ・バージョン

9月16日家賃廃止要求デモのよびかけ #2
ノンポリバージョン

9月16日家賃ただにしろ!デモのよびかけ#4
暗黒舞踏?バージョン

なんだか、タイムマシンで時代を遡ったような気がしてしまう。行ってみたい気もするけど、予定が入ってるから無理だな。ちょっと残念。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月14日

行ってみたい都道府県ランキング

Goo ランキングで「夏に旅行や遊びに行ってみたい都道府県ランキング」というのをやっていて、トップが北海道、2位が沖縄県、3位が長野県となっている。

ちなみにこのランキングの冬バージョンもあって、トップが沖縄県、2位が北海道、3位が京都府だそうだ。

いずれにしても北海道と沖縄は人気がある。確かに私だってどこに行きたいかと聞かれたら、「北海道か沖縄」と答えるだろう。

ちなみに我がふるさとの山形県は、夏部門で 12位と案外健闘しているが、冬部門になると、27位と、Bクラスに転落だ。もっとも東北 6県は冬は軒並みランクダウンで、ウィンタースポーツは、北海道が一手に引き受けている観がある。

翻って、今現在住んでいる茨城県はどうかというと、夏に 44位、冬に 46位(つまり、ビリから 2番目)と、はなはだ人気がない。これといった目玉商品がないのが痛い。夏冬ともにビリなのが埼玉県である。

関東圏では東京都、千葉県、神奈川県、群馬県は、観光面でそこそこキラーコンテンツがある。東京都は名所だらけだし、千葉はディズニー関連、神奈川県は横浜と湘南、群馬は草津温泉という切り札がある。

しかし埼玉県、茨城県は、イメージ的にも、なんとなくもっさりしている。確かにわざわざ行ってみたいという気にならないというのもわかる。

私は仕事で日本中に行く機会が多いが、行ってみて自然や歴史の奥行きが感じられるのは、やはり、北海道、沖縄県、京都府、奈良県である。何度行ってもいいと思う。仕事で行ったとしても、自前でもう一泊か二泊したくなる。

そのほかでもう一泊したくしたくなるお気に入りの県は、福岡県、熊本県、岩手県、長野県、石川県、高知県といったところかなあ。

都市でいえば、都道府県庁所在地はそれなりに魅力ある都市が多いのだが、個人的に何度行っても「日帰りで十分」と思ってしまうのは、新潟市、福島市、前橋市である。この 3市の市民の方が読んでいたら、ごめんなさい。もしかしたら、まだ私が魅力を発見していないだけなのかもしれない

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月13日

「醤油さし」 のグッドデザイン

グッドデザイン賞が今年で 50周年を迎えるのだそうで、日本産業デザイン振興会と Yahoo が共同企画サイトを展開している。

過去を振り返れば、「何でこれが?」 的なものもいくらでもあった気がするが、「時代を作ったグッドデザイン
100選
」ともなると、さすがに納得できるものが多い。

中でも、私が感心したのは「キッコーマンしょうゆ(特選)卓上 150ml びん」である。場末の定食屋、一人暮らしの学生の台所にいたるまで、まさにどこにでもある、定番中の定番の醤油さしだ。1993年にグッドデザイン賞を受賞している。

私はそのずっと以前から「これこそ、最高の工業デザイン」と主張していたのだが、わずか 13年前に受賞とは、遅すぎるぐらいではないか。

我が家では、この形の醤油さしを使い初めて、既に 20年ほどになると思うが、それ以前は、妻がいろいろな形の醤油さしを買ってきてトライしていた時代があった。白山陶器の これ も、もちろん使ったことがある。

しかし使ってみて初めてわかることなのだが、日常の暮らしにおいては、キッコーマンの卓上びんの方が、断然便利なのだ。

まず、完成された形状である。この形状のおかげで、持ちやすく、倒れにくい。そして、液垂れしない。それに、中の醤油の量が見えるので、自然に最適の傾け方ができるし、詰め替えのタイミングも一目でわかる。さらに、かなり丈夫で、ちょっとぶつけたぐらいでは割れない。

一方、白山陶器のしょうゆさしは、見た目は洒落ているけれど、案外持ちにくい。それに中身の量が外から見えないので、傾け方に気を使う。蓋の小穴を指先で押さえて出る量を調節できるなんていうが、ただでさえ持ちにくいのに、そんなデリケートなことはしたくない。

さらに、現在はかなり改良されているようだが、以前は口の先から液垂れしやすかった。最後に、陶器の宿命として、欠けたり割れたりしやすい。陶器の醤油さしなんて、その意味でも、子どものいる家庭で使うもんじゃないと思う。

私がいくら「キッコーマンの卓上びん、最高!」と主張しても、妻はなお見た目のお洒落さ加減を追い求め、いろいろな陶器の醤油さしを取っ替え引っ替え買ってくる時代が続いた。

それらがことごとく、蓋が割れたり、口が欠けたりして長持ちせず、ようやく諦めて、キッコーマンの工業デザインとしての優秀性を認めるまでには、一緒に暮らし始めて 10年近くかかったのである。

妻は今でも、「この "萬" 印のロゴさえなければ、確かに最高かもしれないけど」 などと往生際の悪いことを言っているが、私に言わせれば、このロゴがなければ、画竜点睛を欠くというものである。こればかりは、私は自分の価値観を押しつけてしまっている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年9月12日

レクサスは失敗したわけじゃない

ウチのブログ "Today's Crack" には、「レクサス/失敗」 というキーワードでのアクセスが、月に 20件ぐらいある。

私は、レクサスの戦略が失敗だったと決めつけた覚えはないのだが、そう決めつけたい人が少なくないらしく、安い小型車オーナーの私のブログにまで足を運んでくる。

「レクサス/失敗」という 2つのキーワードでググると、今朝の時点では、私のブログが上から 8番目にランクされている(参照)。車に関するエントリーなんて、年に数本しか書かないサイトなのに、恐縮なことである。

私はレクサスについて、"「レクサス」 戦略の成否を予言する" と、"急ぐな、レクサス!" という 2本のエントリーを書いている。

前者は、日本での展開スタート間もない昨年夏に、「成功するにしても、時間がかかる」と、半ば否定的な見方をし、後者は、その半年後の今年初めの動向をもとに、「ほぉら、やっぱりね」と、やや自慢しちゃったものだ。

ところで、レクサスのフラッグシップカー、「LS」 が、今月から国内展開開始なのだそうだ。ということは、私はカーマニアじゃないからよくわからないが、既に展開されているのかなあ。

いずれにしても、街をドライブしていてもメルセデスや BMW や ボルボは珍しくないが、レクサス・ブランドの車なんて滅多に見かけないし、ましてや LS は逆輸入の左ハンドルを別として、一度も見たことがない。やっぱり、まだまだだな。

普通に考えれば、レクサス車に乗るような日本のリッチ層(そのうちの何割かは 「成金層」?)は、LS の展開開始を待ちわびていたことだろうから、どっと注文が殺到したのは当然のことである。

彼らは「一番高いヤツ、持ってきて!」という人たちだから、まだ市場に 2番目に高い車しか展開されていない時点では、買い控えるしかなかったのだ。そして、彼らの大部分が、旧セルシオからの買い換え層でしかないのは、どう考えても明らかである。

LS 投入でレクサスの業績は多少持ち直したとしても、トヨタ全体としてはチャラである。いくら資金に余裕のある優良企業でも、大金をかけてマーケティングした結果が、トヨタ・ブランドの顧客の一部が、レクサス・ブランドに移動しただけというのは、ちょっと痛い。

レクサスが成功するためには、LS が旧セルシオ・オーナーだったおじさんたちのイメージで塗り込められるというプロセスを、きっちり遮断しなければならない。しかし、それをしてしまうと、今度は受注が伸びない。かなり深刻な二律背反である。

この矛盾を解決するためには、やっぱり「時間という魔法」を使うしかない。そして、この魔法の使い方を失敗すると、何年か後から遡って、このエントリーのタイトルを 「レクサスは、まだ失敗したわけじゃない」 と修正しなければならないことになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月11日

車の運転と PC 操作は、どっちが難しい?

まこりんさんの奮闘を読んで、「はげしくだるい 身体感覚を共有したような気がした。還暦を過ぎたご母堂に、エクセルで見積書(請求書?)作成の仕方を教えるという、あっけらかんと絶望的なエピソードである。

とくに「デフォルトで、教えた矢先に忘れる」という下りは、のけぞりたいほどのだるさだ。

私も、「団塊」と言われるより上の世代にパソコン操作を教えなければならない羽目に陥ることがある。それも、案外頻繁にある。そして、こういっては何だけれど、その作業は本当に「だるい」のである。

最初は、彼らのパソコンに対するかたくなな印象 (?) を解きほぐすために、「大丈夫ですよ。パソコン操作は、車の運転よりずっと簡単ですから」などと、歯の浮くようなことを言ったりする。

「本当?」
「本当ですって。パソコンは、失敗しても死なないし、酒飲んでいじっても、法に触れないし」

精一杯のジョークでリラックスさせようとしても、相手はこちらの気持ちを少しも理解してくれない。

「でも……、たまに、火ぃ吹いたりするんでしょ」
「いや、車ほど大きな火は吹かないから……、多分……」

この辺りから、少しずつ「だるだる感覚」は、私の身体に忍び入ってくる。

「いいですか。まず覚えてください。ウィンドウズ操作の基本は、キーボードで文字を入力する以外は、余計なことは考えずに、マウスを使って、『やりたいことを、メニューから選んで、実行する』 - これだけです」
「ふぅん、……でも、やりたいことがメニューにない場合は、どうするの?」

おのれ、「余計なことは考えずに」と言ったのを、全然聞いとらんな。探せばあるんじゃ! お前が一生かかっても使い切れないほどのメニューが、ちゃんとあるんじゃ! ヘビーユーザーの私でも、手に余るぐらいの機能が、てんこ盛りなんじゃ!

もし見つからないというなら、お前の「やりたいこと」がよっぽど漠然としてまとまりが付いてないか、あるいは、お前自身が並はずれたファンタジストかのどちらかだ。

そう言いたいのをぐっと堪える、年寄りに優しい私。

しかし、もしかしたら「パソコン操作は、車の運転より簡単」というテーゼ自体が間違っていたのかもしれないと、近頃私は思っている。

車の運転は、確かに間違ったら死ぬこともあるけれど、理屈としては、簡単と言えば簡単だ。アクセル、ハンドル、ブレーキで、動いて、曲がって、止まるだけのことである。要するに「専用機」であって、その操作はとても単純で直感的だ。

翻ってパソコン操作は、GUI でかなり直感的なものに近づいてはいるものの、やはりしち面倒くさい。そのしち面倒くささはどこから来ているかというと、「結果を想定して、それを得るための手順を、順を追って踏まなければならない」ところからだ。

つまり、結果が予め想定されていなければならないのだが、そもそもパソコン初心者はパソコンで何ができるのかということすら、漠然としかわかっていないのだから、ウィンドウズのメニューは、「ゴチャゴチャしていて、わけわからん」 ということになるのも当然である。

パソコン入門書の前書きかなんかに 「まず、あなた自身がパソコンを使って何をやりたいのか、明確な目的をもってください」なんて書いてあるのは、そんなこともあるからだろう。確かに言えてることだ。

しかし、そんなことを言いながら、入門書の本文に入ってしまうと、言い出した本人がすっかりそれを忘れたかのように、「お約束」のばくっとした説明しかなくて、どれを見てもほとんど同じなんだもの。

ウィンドウズの「アクセサリ」の「ペイント」でビットマップお絵かきをするやり方を延々と説明している入門書と首っ引きで、必死になって、マウスで金魚の絵なんか描いているじいさんが、私は不憫である。

パソコンというのは、「一通りやってみて、(つまり、何度も何度もエラーして、つまずいて)初めてわかる」- つまり「やってみて、実際に成功するまでは、さっぱりわからん」という世界なのだ。しかもその世界が、ほとんど無駄に広すぎる。

ここまでパソコンが一般化してしまうと、あるいは、ライト・ユーザー向けの「専用機」があってもいいのかも知れない。ハードは一緒でも、OS レベルで「めちゃくちゃ簡単・簡易版」があってもいい。

インターネットと、お手紙や年賀状を作れる程度の簡易ワープロ機能と、住所録、お小遣い帳程度のスプレッドシート。あとは、せいぜい簡単なオーディオ・ビジュアル機能。OS レベルでこれさえ付属すれば、家庭用には、この程度で十分だと思う。

しかし、現在のレベルのパソコンと家庭用「簡易パソコン」のダブルスタンダードにしたら、パソコンの値段は、確実に上がってしまうだろうなあ。そこがまた「だるい」ところだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月10日

「個人ニュースサイト」 をどう捉えるか?

恥ずかしながら、「ブロゴスフィア」という言葉を最近知った(参照)ので、ちょっと使ってみたくなっちゃったのだが、この 「ブロゴスフィア」における「個人ニュースサイト」というのが、かなり前から、少しだけ気になっている。

時々、この「個人ニュースサイト」経由のアクセスが急増したりするからだ。

「個人ニュースサイト」というのは、普通は単に「ニュースサイト」と呼ばれることも多いようなのだが、それだと、マスコミの運営するニュース配信サイトと紛らわしくなってしまうので、個人的にはとりあえず「個人ニュースサイト」と呼びたい。

「とりあえず」と言ったのは、いわゆる「個人ニュースサイト」で取り上げられるのは、別段「ニュース」ばかりではないような気がしているので、本来ならば、「クリッピングサイト」という方が適切ではないかと感じているからだ。

とはいえ、まあ、ここでは既に定着したらしい「個人ニュースサイト」という術語で話を進めてみたい。

自分のサイトに、時々ぎょっとするほどのアクセスが殺到することがあるが、その原因は、大体、次の2つである。

この 2つのケースには、明確な違いがある。

前者は、テレビなどで取り上げられたとたんに 1時間で 700~800ヒットという集中豪雨的なアクセスが殺到する。最高時には、多分、毎秒 1ヒットぐらいの状態になっているのだろうけれど、その大波は、ものの 2~3時間で引いてしまう。

それに対し、個人ニュースサイト経由のアクセスは、それほど短時間に集中することはないかわり、その影響がじわじわと続く。少なくとも、1週間ぐらいは衰えることがない。

影響が比較的長く続くというのは、該当記事が複数の個人ニュースサイトに、五月雨式に次々と取り上げられるからだ。孫引き、ひ孫引きなんて、ざらである。この間の事情は、はてなダイアリーのキーワード解説で、次のように記されている。

一次情報源としての役割を担っているサイト、一次情報源から気になるニュースをクリッピングした子ニュースサイト、子ニュースサイトから気になるニュースをクリッピングした孫ニュースサイト……がある。

ただ、一次情報源が他のニュースサイトの気になるニュースをクリッピングしたり、孫ニュースサイトが一次情報源から直接クリッピングすることもあり、特に子ニュースサイト以下の上下関係はあってないようなものである。

ある有名個人ニュースサイトで取り上げられて、ウチのページへのアクセスが増えると、その翌日か翌々日には、2~3件の似たような子ニュースからのアクセスがドカッと舞い込む。3日も経つと、リンク元は 5~6件に増え、下手すると、さらに 20サイトぐらいに増えることもある。

私が怪訝に感じていたのは、この辺りの事情なのだ。「子ニュースサイト」「孫ニュースサイト」、さらに 「ひ孫ニュースサイト」の管理人たちは、既に「親ニュースサイト」で紹介されたページを、自分のサイトでも改めて紹介するという営為を、粛々と続けておいでなのである。

これは、別に非難しているわけでもけなしているわけでもないので、勘違いしないでいただきたいのだが、他のサイトで紹介されたページを、独自の新しいコメントをつけるわけでもなく、ただ単にリンクして紹介するだけという行為には、個人的には、まったく魅力を感じない。

つまり、子ニュースサイト、孫ニュースサイトが、一体どんな意義を感じてやっているのか、今までまったく理解できなかったのである。

しかし、「誠天調書」という、(いわゆる 個人ニュースサイトの管理人さんが 9月 2日付で書かれているコメントを読み、何となくわかるような気がした。それは、こんなコメントである。引用文中のリンク先にも飛んでもらえると、より理解しやすいと思う。 (全文は、こちら

俺は ここ「誠天調書」を「ニュースサイト」だとは全く思っていません。
冒頭にもあるように、新聞の切り抜き収集と同じことをしているだけ。
言い方を変えれば「“情報”というコレクション」をしている。
情報のマニア みたいなコトを個人的にしていて、
俺自身が まず第一に楽しむためにしています。
その為に 外部記憶保存装置としてのブログという存在は 非常に便利で、
ニュースサイト形式というのも これまた便利なシステムでもあるんです。
 (中略)
ニュースサイトの管理人はなぜ男なのか? は、個人的な推論としては
ニュースサイトの管理人はなぜ男なのか、もう少しつっこんで考えてみる。にもありますが、
何かをコレクションすること 収集癖、そういうのは 断然に男に多い、
ということと似たようなものだと思います。
俺の場合も 形あるモノではなく それが情報というモノだったという訳ですから。

なるほど。個人ニュースサイトというのは、ブロゴスフィアにおける情報の仲介を目的としているというよりは、なんと、それ自体が「コレクション」だったのか。

他人のサイトに載ったクリッピングが、自分のところにも欲しくなるという心理も、それならば理解できる。興味を感じたページへのリンクが、他人のサイトにあって、自分のサイトにないというのは、確かにコレクターには我慢できないことだろう。

私自身は、コレクションほど疲れる趣味はないと思っているので、決してやらないと思うけどね。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 9日

「慶事」 の内訳

乙武洋匡オフィシャルサイト」が大炎上している。「紀子さま出産」というエントリーなのだが、ウチの読者は、よもや尻馬に乗るような真似はされないことと信じて、リンクしている。

乙武氏はその日のうちに「深くお詫びします」というエントリーで弁明しているのだが、そのことについて、私なりに考えてみたい。

乙武氏は、この日 2度目のエントリーで、次のように述べておられる。

むしろ、僕は親王のご誕生を「おめでたいこと」「よろこばしいこと」だと思っています。それは、性別の如何を問わず、ひとつの命が誕生したことを「よろこばしい」と思っているのです。

ところが、ご誕生を受けてのマスコミ報道や世論には、少なからず「男の子でよかった」という風潮が感じられました。そのことに、僕は抵抗を感じてしまったのです。

男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの。そう思っていた僕には、内親王がご誕生した時よりもはるかに舞い上がった今回の慶事ムードに違和感を覚えてしまったのです。

彼の「男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの」という主張は、とても正しい。誰も異論を差し挟めないほど正しい。

しかし私は「誰も異論を差し挟めないほど正しい」と見える主張には、つい警戒感をもってしまうという、悲しい習性が身に付いている。それは、ユダヤ人の「全員一致は無効」という考え方と似ているかもしれない。

というわけで、"「紀子様、男児ご出産」 で、ことさらに喜んで、何がいけないのか" と、敢えて言ってしまおうと思う。

一つの生命が誕生することの重要さ、厳粛さは、どんな生命でも平等である。この点においては、皇族だから、男児だからといって、他の場合よりも尊いなどということはない。これは当然の前提としておこう。

ただ、今回の場合は 「喜ぶ内訳」 が違うのである。多くの国民は、生命そのものを差別して喜んだわけではない。「生命の誕生」 を喜んだのはもちろんだが、そのほかに、もう一つの要素があった。言うまでもなく、「皇室の伝統継続」 という視点からである。

「生命誕生」プラス「伝統継続」という二重の慶事なのだから、これまでの「内親王ご誕生」の時を、「伝統継続」の分だけ上回る喜びを示したところで、何ら訝しがられることはないだろうと思う。長らく待ち望まれた男児のご誕生なのだし。

ただ、女性天皇、女系天皇が認められる制度であれば、今回のことでことさらに喜ぶという根拠は消滅する。しかし、現状ではそうではないのである。皇室制度に関する問題点は、継続して真剣に討議すべきだと思うが、ここでは敢えて触れないでおく。

私自身は、もう一つのサイト「和歌ログ」 の長月六日のエントリーに、さりげなくお祝いの言葉を書いただけで、アクセス数が断然多いこっちのサイトでは、それらしいことは敢えて何も書かなかった。

だから、今回の乙武氏のブログ炎上問題がなければ、「ことさらに喜んで、何がいけない」なんて、自分のブログに書くことはなかっただろうと思う。個人的趣味としては、静かにお祝いするにとどめたいが、大喜びする人がいても、それはそれでいいじゃないか。

そして、それはそれとして、ちょっと別の視点からコメントする乙武氏のような人がいることも、社会として健全なことだと思っている。彼の最初のエントリーは、確かに言葉足らずだったかもしれないが。

ただ今回の問題で、多くの目を覆いたくなるような言葉で彼のブログのコメント欄が汚されたというのは、いただけない。そうした行為は、いかにも無自覚に、御稜威まで汚すことにつながると気付くべきだ。

というわけで、ますます「全員一致は無効」という考え方を忘れたくないと思うのである。

【注記】

 

ユダヤ人が「全員一致は無効」としているのは、事実ではないという主張もある(参照) が、以前見たアメリカ映画 (何の映画か忘れたのが残念だが) で、ハッピーエンド直前になって、善玉の登場人物のうち 1人だけが、急にそれに異を唱えるという場面があった。

周囲に訝しがられた彼は「全員一致は無効だからな」と言ってにやりと笑い、それで本当のハッピーエンドになるという、ちょっと洒落た結末だった。

これを見ても、「全員一致は無効」という考え方は、旧約聖書に書いてなくても、ちゃんとあるのだとわかる。

【同日朝 追記】

影でごそごそ言うのはイヤなので、一応、乙武さんのエントリーに夜中から何度もトラバ送ってるんだけど、朝になっても入らないんだよなあ。どうしたんだろう。

【さらに追記】

あ、入った入った。しかも、2つも入ってる。乙武君、ごめんね (私は大学の先輩なんで、この程度の謝り方にしとくぞ)。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 8日

ウチは案外「下ネタ」に強い

shuiro note というブログで、「くだらないものでGoogle1位になったコンテスト」というのをやっているので、不肖私も参加してみんとす。

こう見えても、ウチは google でトップを張っているページがかなり多い(参照)。しかも、案外「下ネタ」に強い。まず、挙げておきたいのが、「パパのウンコ」 である。

このコンテストは、「おかしな言葉で Google 1位になってしまっている」 ページを集めるのが趣旨ということのようである。

それならば、「パパのウンコ」に関しては、23,000件のヒットのうち、上位 4つが私のページで独占されていて、ちょっとした快挙である。「どんなもんじゃい!」と叫んでも、亀田さんちの長男坊より説得力あるかもしれないぞ。

次に挙げておきたいのが「男の座り小便」というキーワード。11,200件中のトップである。さらに、「入ってます/英語でどう言うか」というのも捨てがたい。15,200件中のトップにランクされている。

そして最後に挙げる伝家の宝刀。たった漢字 2文字のキーワードにして、535,000件中、堂々トップを張っているのが、何を隠そう小股だ。「小股の切れ上がった……」の 小股である。

この "「小股ってどこか」 よりも大切なこと" というコラムは、まともに読んだら、10分ぐらいはかかると思うので、時間がないときには、ダイジェスト版の "「小股」は「足指の股」だけじゃない" を読むだけで足りるかも知れない。

今日のところは、せっかくなので、当サイトのベスト癒しネタ、"「パパのウンコ」 再録" を読んでまったりしていただくために、当エントリーは短めに、この辺で抑えておきたい。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 7日

分類は魔物だけれど……

今年 5月 20日に 「分類は魔物」 というエントリーで、当ブログ "Today's Crack" の記事のカテゴリーは、ココログのデフォルトに無理矢理押し込んでいるので、当面はカスタマイズする気はないというようなことを書いた。

その舌の根も乾かぬうちに、自前のカテゴリーを 6つも新設してしまったのである。

止むに止まれず新設した分類は、「哲学・精神世界」「言葉」「比較文化・フォークロア」「庄内の話題」「自然・環境」「ちょっといい話」の 6つである。

前の 3つは、従来はすべて「文化・芸術」というカテゴリーの中に押し込んでいたが、ココログを使い始めて 2年を過ぎ、こればかりは、どうももう少し細かく分類しても問題はなく、かえって便利になりそうだと気付いたのである。

分類の魔物たる所以の一つは、なんでもかんでもどさっと同じ袋に入れると、あとで何がなんだかわからなくなるのだが、細かく分類しすぎると、どれにも当てはまらない 「その他」 ばかりが増えてしまうということである。

しかし、「哲学・精神世界」「言葉」「比較文化・フォークロア」という 3テーマは、私自身が結構得意としていて、かなり頻繁に書き込んでいることであり、この辺りで分けておかないと、「文化・芸術」というカテゴリーの中がごちゃごちゃになってしまいそうだ。

とくに、自分ではあまり意識していなかったのだが、あらためて見直すと「言葉」という分野だけで、今までにもかなりの本数を書いている。独立したカテゴリーにする意味は十分にあると思ったわけである。ちょうど頃合いのさじ加減のようだ。

庄内の話題」「自然・環境」「ちょっといい話」の 3つは、本数としてはそれほど多いわけではないのだが、デフォルトにちょうどいいカテゴリーがなくて不便を感じていたので、この際だから新設した。自分として、今後力を入れて行きたいという決意の現れでもある。

当面はこのカテゴリーでやっていきたいと思っているのだが、そのうち、またいくつか新たな分類が必要になるかもしれない。まあ、その時はその時だ。

カテゴリーの再考は、必要に迫られてやるぐらいがちょうといいと思っている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年9月 6日

中国の検索ロボットの 「お百度参り」

「今日の一撃」 はココログに置いてあり、リザーブとして 「はてな」 も使っている。

同様に、和歌ログのリザーブを「楽天ブログ」 においてあるのだが、その楽天で、スパムアクセス問題というのがわき上がっている。どうやら、中国の検索ロボットが無駄にアクセスしてきて、トラフィックを重くしているらしい。

楽天ブログ・ユーザーの間で、アクセス・カウンターが回りすぎるという問題が意識され始めたのは、先月末頃からのようだ。普段は 1日に 50~60 しかアクセスがないのに、急に 200 も 300 も集中するようになったというサイトが出てきたのである。

楽天ブログには「アクセス記録表示」という機能があり、それをみると、IPA が「 60.28.*.*」というアクセスが集中している。一日に何十回となく、あるいは、それどころか、ほんの数十分の間に何十回となくアクセスしてきている。

「一体、これは何だ?」ということになったのである。

元々、楽天ブログというのは、楽天ユーザー同士の訪問の場合は足跡が残るので、俗に言う「アクセス返し」を期待した訳のわからないスパム・アクセスが多く、ひんしゅくを買っている。しかし、今回の「60.28.*.*」のアクセスのしつこさは、これまでの比ではない。

そして、楽天のアクセス記録というのは、ちょっといい加減で、外部からのアクセスの場合は、IPA が中途半端にしか表示されない。それで、「60.28.*.*」なんてところまでしかわからないのである。

ところが、m-wonder さんという人が、ご自身のブログの本文スペースに "Shinobi" のアクセス解析タグを貼り付けていて、IPA をきちんと取ってしまったようで、それによると、問題の IPA は、「60.28.17.45」だったそうだ。(参照

このサイトからの情報によると、これはどうやら、近頃何かと話題の中国の検索エンジン、「百度(baidu)」の検索ロボットのアクセス記録ということのようなのである。

この検索ロボット、なんだかテキトーな性能のようで、同じところに何度も何度もクロールを繰り返す。もしかしたら、 同一ブログ内の個別エントリーをしらみつぶしに当たっているのかもしれないが、普通に考えたら、トラフィックを無駄に混雑させているとしか思えない。

楽天では、スパムアクセス・ブロックの対策を講じたとアナウンスしているのだが、それ以後も、多少減ったとはいえ、相変わらずガシガシ来ている。

というわけで、私はこの現象を、ネット上の 「お百度参り」 と名付けたのである。Google や Technorati で検索してみると、今のところ、そのように呼んでいる人はいないようだ。となると、命名者は私ということになると思うので、そのあたり、よろしく。

まあ、もしかしたら、同じタイミングで同じ発想をしている人もいるかもしれないので、何が何でも自分がオリジネーターだと主張したいわけでもないのだけれど、少なくとも、一群の命名者の一人ということにはなると思う。

今のところ、この「お百度参り」現象に悩まされているのは、主に楽天ブログ・ユーザーのようで、一体、百度さんは楽天の何をマークしているのだか、その意図がさっぱりわからない。単に「楽天」という漢字によるロゴが気に入ってしまったのだろうか。

しかしこのロボット、楽天だけでなく、あちこちのブログにお百度を踏み始める可能性がある。そのうち世界中のブロガーから薄気味悪がられてしまうのは、時間の問題という気がするのである。

 

ちなみに、お百度を踏んでいるのは、「百度」 のロボットだけではなく、Yahoo の "inktomisearch" も、ずいぶん頻繁にアクセスしてきている。そのくせ、検索結果は Google ほどきっちりしていないような気がするのである。

 

こうしてみると、Google の技術力は、やっぱり一枚上を行っているのかなという気がしてしまうなあ。

 

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月 5日

「ね?」 と 「あっそう?」

茨城県というところは、出稼ぎに来ている日系ブラジル人がかなり多い。それで、私にも日系ブラジル人の知り合いが何人かできた。

彼らがポルトガル語で話しているのを聞くと、語尾に「ね?」という言葉を付けることが多いのに気付く。私は、彼らが日系だけに、日本語の助詞が入り込んでいるのだと思っていた。

ところが、先日、「『ね?』って言うのは、ポルトガル語の中に、日本語を混ぜてるんでしょ?」と聞いてみたら、「同じような意味だけど、これ、ポルトガル語なんだよ」と教えてもらい、なんだか知らないが、妙に感動してしまった。

英語の "is'nt it?"、フランス語の "n'est-ce pas?" と同じような、付加疑問文なんだそうである。本当は、"não é?" で、発音は 「ノイエ」 に近いのだが、それが音便化して縮み、普通、会話では「ネ」とか「ナ」とか発音するというのである。

そういえば、「ね?」だけではなく「な?」と言っているように聞こえることもある。女性でも「な?」と言っているのが、ちょっと気になっていたが、なんだ、日本語がチャンポンになっていたわけじゃなかったのか。

日本語ではないにしても、日本語とほとんど同様、「だよね?/そうでしょ?」というような意味合いだというのは、なかなかおもしろい。

そういえば、似たようなものに、ドイツ語の「アッソー?」がある。私は初めて行った外国がドイツなのだが、そのとき、ドイツ人がやたら「あっそう?」を連発するのに驚いた。

聞いてみると、これはドイツ語の "Ach so." で、本来の発音は「アハ ゾー」に近いんだそうだが、どうしても「あっそう」にしか聞こえない。そして、意味はほとんど完全に、ニュアンスまで、日本語の「あっそう?」と同じようなのである。

ドイツ語にはもう一つ、"Nanu!" (ナヌ) というのがあって、意味は 「何(なぬ)!」だというのだけれど、これは、実際に聞いたことはない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年9月 4日

本音と建前の使い方

私はこれまで何度か、「本音と建前」というのが日本独特のもので、それを使い分けるのを「日本的因習」とみるのは、単純素朴な誤解だということを書いている。(参照

そう、本音と建前を使い分けるのは、何も日本人だけじゃない。むしろ、日本人はその使い分けが下手すぎるぐらいのものだ。

例えば、仕事で米国に行き、何か当たり障りのないプレゼンテーションをさせられたとする。プレゼンを終えて評価を仰ぎたくなり、手近な人に「どうでしたか?」なんて聞いても、普通は相手がインテリであればあるほど、お世辞みたいなことしか言ってもらえない。

米国人が非常に率直だなんていうのは、嘘っぱちである。初対面の人間に率直なことを言ってくれる人はごく少ない。大抵は、歯の浮くようなお世辞でごまかされてしまうだけだ。初対面の米国人に褒められても、あまり真に受けない方がいい。

確かに、英語には「本音」と「建前」に正確に相当する単語がない。だから、米国に本音と建前がないと言ってしまったら、それは全然国際理解にならない。

確かに、英語には「本音」という名詞はないかもしれないが、"frankly speaking, ......" という言い方がある。「率直に言えば……」ということだが、初対面の人間が「フランクな」言い方をしてくれることは、あまりない。

さらに "crawl into the hide of another" という言い方もあるらしい。直訳すれば 「他人の隠れ家に忍び込む」ということだが、要するに「本音を探る」ということである。つまり「本音」というのは、隠れ家に隠しておくもので、表にさらしておくものではないということなのだ。

それでは、「建前」 に当たる言い方は何になるのかというと、多分、複数あるのではないかという気がする。

一つは、"polite" ということだ。「丁寧な、上品な、礼儀正しい」 というような意味である。米国では、本音を隠れ家に隠しておいて、当たり障りのないことを言ってその場を繕うのが、「丁寧で、上品で、礼儀正しい」ということなのである。

また、"compliment" とか "flattery" とかいうものがある。これらは、英和辞書的には「お世辞」と訳される。しかし、"compliment" は「社交辞令」的なニュアンスが強いが、"flattery" は「おべっか」である。お世辞も一筋縄ではない。

さらに、"negotiation" というものがある。「交渉」 ある。交渉では、初めから本音を言うことは決してない。建前論から入り、押したり引いたりしながら、少しでも自分に有利な結論に持って行こうとする。

欧米文化圏では、このように「本音と建前」が非常に巧妙に使い分けられている。日本でこれができるのは、京都人ぐらいのものかもしれない。これらを単に「因習」として、どちらかというと否定的に見る単純な日本人では、国際的交渉で勝てるわけがないのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 3日

ホームレスとハネムーンの共通点

「ホームレス症候群」 というのがあるそうだ。ラジオで耳にして、ググってみたのだが、昨夜 9時の時点では、そのものズバリのヒットはなかった(参照)。よほど新しい言葉らしい。

公園のベンチなど、狭くて堅い場所に同じ姿勢で寝て、翌朝、片方の腕が動かなくなってしまう症状をいうらしいのである。

ラジオで聞いたところでは、ある人が酔いつぶれて床に寝てしまい、翌朝起きてみたら片方の腕が全然動かなくなってしまっていたのだそうだ。病院に行ったところ、「酔っぱらって寝ちゃいましたね。公園のベンチですか?」と聞かれという。

そして、「こういうのを、"ホームレス症候群" というんです」 と言われてしまったのだそうだ。エコノミー症候群の酔いつぶれバージョンか。下手すると、笑い事ではない事態になることもありそうだ。それにしても、なんとなく、わびしくなってしまう病名ではある。

そういえば私も、夜中まで仕事をしているうちに、椅子に座ったまま寝込んでしまい、肘から先がしびれてしまうことがある。アームチェアを使っているので、両腕をアームレストに乗せたまま、1時間近く押しつけていたためだろう。

目が覚めてすぐに仕事を再開しようとしても、頭がぼやけているのと、肘から先がしびれてキーボードが叩けないのとで、しばらく呆然としてしまう。こういうの、「プチ・ホームレス症候群」なんていうんだろうか。

まあ、酔いつぶれて腕が動かなくなったというよりは、たとえ病院に行ったとしても、聞こえが悪いということはない。私も近頃、ずいぶん品行方正になったものである。

話は戻るが、この「ホームレス症候群」の診断を下された人が別の病院に行った時、その病院では、別の病名で言われたそうである。

曰く「ウチでは、"ホームレス症候群" とは言いません。"ハネムーン症候群" と言うことにしています」

とまあ、これが今日のエントリーのオチである。つまり、腕枕もしすぎると危ないということだ。

しかし同じ症状でも、「ホームレス」 というよりは「ハネムーン」という方が、ずっと気分がいいだろう。きっと治りも早いのではなかろうか。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2006年9月 2日

「多様性の時代」なんかじゃない

神戸のマンションで中学 1年生が飛び降り自殺し、動機は「夏休みの宿題が終わっていなかったこと」ではないかとみられるというニュース(参照)には、驚いてしまった。

「そんなんで死ぬんだったら、お前なんか、毎年死んでたよなあ」とウチの末娘に言うと、「まったくだよ!」と返事が返ってきた。

ラジオのニュースショーでは、解説者が「社会の均質性」を問題にしていた。昔はいろいろな子どもがいて、夏休みの宿題なんか全然やらずに 2学期になだれ込む子どもも、いくらでもいた。近頃ではそれが認められないのだろうかといぶかしがっていた。

いや、今でも夏休みの宿題の終わらない子は珍しくないだろう。だから、「社会の均質性」というのは当たらない。むしろ単純な「格差拡大」が問題だろう。

まあ、いずれにしてもマーケティングの世界などで声高に言われている「現代は多様性の時代」などというのが、単なる幻想に過ぎないということには、ここできっちりと気付いておかなければならない。

「多様性」というものがあるとしたら、多分、枝葉末節のどうでもいいところで、消費者を踊らすための仕掛けとして存在しているだけだ。

格差の拡大した社会では、まじめな子はきちんとまじめな人生を歩んで、それなりに恵まれた境遇を享受したい。そうした境遇からはずれるのはとても恐い気がする。

一方、夏休みの宿題を済ませないような「不まじめ(?)」な子は、自分なんかいくらがんばっても、社会の上層にのし上がるのは不可能なのだと、初めから諦めている。だから、がんばってまじめなことなんかしたくない。

まじめな子がたまたま夏休みの宿題が終わらなかったりすると、自分が「不まじめな子」と同列の境遇に落ちてしまうような恐怖感にとらわれてしまうことが、あるかもしれない。今までの「まじめな努力」が、水の泡になってしまう。

以前は、まじめでおもしろい子、まじめだけどつまらない子、不まじめだけどおもしろい子、不まじめでつまらない子、それらのバリエーションが無数にあった。ところが、今では「勝ち組・負け組」という強烈な二者択一幻想があって、そのどちらかに強制的に組み込まれてしまう。

もちろん、今でもバリエーションがなくなってしまったわけでは、決してないのだが、まじめな子ほど、そのバリエーションに気付かず、「勝ち組・負け組」幻想にとらわれている。そして、「負け組」になったら、人生は終わりだと勘違いしてるようなところがある。

以前は、セーフティネットが二重三重にあって、それほどの落差を落下することは、あまりなかった。ところが、近頃では勝ち組と負け組の間にセーフティネットが存在しなくなってしまったようで、一度落下してしまうと、その落差が大きい。

だから、落下開始してしまわないように、細心の注意をする。まじめな子には、かなりのストレスだ。自分が「落下」を開始してしまったような幻想にとらえられた時には、物理的に落下して、命を終わらせてしまった方がましだと思ってしまう子がいても、不思議じゃない。

エコロジーが重要である理由の一つに、「種の多様性の確保」というのがある。生態系の多様性が失われると、生物の世界は極めて弱いものになる。全体が滅びやすくなる。

人間社会においても、「価値の多様性」がきっちりと確保されないと、命が滅びやすくなる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年9月 1日

単純素朴な差別批判を怪しむ

先月 29日のエントリーで 「オーマイニュース・ジャパン」が「重すぎる」と書いたが、それは初日にご祝儀アクセスが殺到したためで、徐々に解消されると思っていた。

ところが、解消されるどころか、夕べの 10時頃にアクセスしてみたら、輪をかけて激重になっている。これでは、使い物にならない。

ようやく表示されたトップページに「メディア批評 都知事は差別的発言慎め」というリンクがあり、クリックしてみたが、あまりの重さにあきらめて別の作業をし、30分後ぐらいにふと思い出して、開いたままにしておいたウィンドウに戻ったら、さすがに表示が完了していた。

一通り読んでみたが、西野玲さんという記者の、ちょっと笑ってしまうほど古典的な主張である。以下にハイライト部分を引用してみる。

石原知事はこれまで、「三国人」等々の“人種差別的”な発言を繰り返してきた。(中略) 「差別を受けた」と感じる人がいる以上、「差別的な発言」であり、謝罪・陳謝をしなければ当然、「人種差別論者」と受け取られる。30日夜の祝賀パーティーの席では早速、福岡の応援演説をした在日韓国人二世で東大教授の姜尚中氏(カンサンジュン)を称して、「怪しげな外国人」と述べたという。

誤解を避けるために一応述べておくけれど、一連の石原氏の発言には、私自身も不愉快さを感じている。趣味の悪いものの言い方だと思う。エレガントな人間なら、決してしない言い方である。

しかしだからといって、西野記者の "「差別を受けた」 と感じる人がいる以上、「差別的な発言」であり、謝罪・陳謝をしなければ当然、「人種差別論者」と受け取られる" という単純素朴な差別批判がまったく正しいかと言えば、それもかなり危険な気がするのだ。

それを正しいとしてしまえば、ちょっと不用意な、あるいは辛辣な発言に関して、「差別を受けた」 と大声を上げさえすれば、それらはすべて 「差別発言」ということになってしまう。発言者は、「そんなつもりじゃなかった」などと呑気なことを言っているうちに、容赦なく「人種差別論者」の烙印を押される。

このことには、2つの大きな弊害がある。

一つは「言葉狩り」である。本来ならばまったく差別的な意味合いを持たない言葉まで(例えば、言っちゃうけど「片手落ち」とかね)、十把一絡げに「差別語」として使えない言葉にされてしまう。

それから、もう一つは、前者とつながることだが、社会的弱者が、ことさらに弱者であることを主張することによって、「裏返しの強者」になるという現象だ。そのようなパラドックスは、案外そこら中にあふれかえっている。それは、決して社会的和解に至らない。

かえって「逆差別」が生じ、それまでの「因習的差別」は表面から消える分、見えないところでますます陰湿なものになるという実例が、いくらでもある。

"「差別を受けた」と感じる人がいる以上、「差別的な発言」" という声を上げる人の正義感は、一見美しくはあるが、その実、従来の差別主義に劣らないほどの危険さを内包している。それは、単なる裏返しに過ぎない結果を生む場合が多いからである。

しつこく言うけれど、だからといって、私は石原都知事の傲慢で横柄で浅はかなものの言い方を良しとしているわけでは決してない。それは、差別云々というより、美意識とか品格とかの問題だ。

ちなみに、私が日本以外の国に行って「怪しげな外国人」呼ばわりされたら、多分、笑ってしまうだろう。だって、図星なのだもの。

姜尚中氏が同じように思ってるかどうかは知らないけれど (思っていたとしても、ちっとも不思議じゃない)、少なくともヒステリックな反応をしておられないところは、見識だと思う。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »