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2006年9月 2日

「多様性の時代」なんかじゃない

神戸のマンションで中学 1年生が飛び降り自殺し、動機は「夏休みの宿題が終わっていなかったこと」ではないかとみられるというニュース(参照)には、驚いてしまった。

「そんなんで死ぬんだったら、お前なんか、毎年死んでたよなあ」とウチの末娘に言うと、「まったくだよ!」と返事が返ってきた。

ラジオのニュースショーでは、解説者が「社会の均質性」を問題にしていた。昔はいろいろな子どもがいて、夏休みの宿題なんか全然やらずに 2学期になだれ込む子どもも、いくらでもいた。近頃ではそれが認められないのだろうかといぶかしがっていた。

いや、今でも夏休みの宿題の終わらない子は珍しくないだろう。だから、「社会の均質性」というのは当たらない。むしろ単純な「格差拡大」が問題だろう。

まあ、いずれにしてもマーケティングの世界などで声高に言われている「現代は多様性の時代」などというのが、単なる幻想に過ぎないということには、ここできっちりと気付いておかなければならない。

「多様性」というものがあるとしたら、多分、枝葉末節のどうでもいいところで、消費者を踊らすための仕掛けとして存在しているだけだ。

格差の拡大した社会では、まじめな子はきちんとまじめな人生を歩んで、それなりに恵まれた境遇を享受したい。そうした境遇からはずれるのはとても恐い気がする。

一方、夏休みの宿題を済ませないような「不まじめ(?)」な子は、自分なんかいくらがんばっても、社会の上層にのし上がるのは不可能なのだと、初めから諦めている。だから、がんばってまじめなことなんかしたくない。

まじめな子がたまたま夏休みの宿題が終わらなかったりすると、自分が「不まじめな子」と同列の境遇に落ちてしまうような恐怖感にとらわれてしまうことが、あるかもしれない。今までの「まじめな努力」が、水の泡になってしまう。

以前は、まじめでおもしろい子、まじめだけどつまらない子、不まじめだけどおもしろい子、不まじめでつまらない子、それらのバリエーションが無数にあった。ところが、今では「勝ち組・負け組」という強烈な二者択一幻想があって、そのどちらかに強制的に組み込まれてしまう。

もちろん、今でもバリエーションがなくなってしまったわけでは、決してないのだが、まじめな子ほど、そのバリエーションに気付かず、「勝ち組・負け組」幻想にとらわれている。そして、「負け組」になったら、人生は終わりだと勘違いしてるようなところがある。

以前は、セーフティネットが二重三重にあって、それほどの落差を落下することは、あまりなかった。ところが、近頃では勝ち組と負け組の間にセーフティネットが存在しなくなってしまったようで、一度落下してしまうと、その落差が大きい。

だから、落下開始してしまわないように、細心の注意をする。まじめな子には、かなりのストレスだ。自分が「落下」を開始してしまったような幻想にとらえられた時には、物理的に落下して、命を終わらせてしまった方がましだと思ってしまう子がいても、不思議じゃない。

エコロジーが重要である理由の一つに、「種の多様性の確保」というのがある。生態系の多様性が失われると、生物の世界は極めて弱いものになる。全体が滅びやすくなる。

人間社会においても、「価値の多様性」がきっちりと確保されないと、命が滅びやすくなる。

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