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2006年10月27日

「日記なんて」と思っていたけれど

私は 50歳を過ぎるまで、日記は書かない人だった。小学校の夏休みの宿題でさえ、せいぜい 5~6日分しか書いた覚えがない。

ところが、別サイトの「和歌ログ」で、3年近くも三十一文字とともに身辺雑記を綴っているのに気付いた。初期のものはちょっと懐かしい気がする。3年という時間の力である。

和歌ログの中心コンテンツである和歌日記の部分は、「知のヴァーリトゥード」の「今日の一撃」と同様、平成 16年の 7月以後は、ココログのブログ機能を利用している。当初はすべてのエントリーを「文化・芸術」 というカテゴリーにぶち込んでいたが、それでは、後々の整理にあまりにも不便だと気付いた。

そこで、先月から 1ヶ月以上かけて、過去ログも含めて、四季をベースにしたカテゴリー分けをし、ようやくこのほど完成したのだが、ちびちびと過去の和歌日記を読み返していると、記憶がよみがえって、ふと作業の手が止まることも度々だった。

なるほど、世の中の日記書きという種族は、ある意味では、こうした感慨のために長年にわたって日記を付けているのかと、思い当たったのである。

こんなことは単なる自己満足だが、それだけではない。ちょっとしたことだが、役に立つこともある。

「あれはいつのことだったか」 と思い出さなければならない時など、普通は手帳の古いリフィルをほじくり返せば済むのだが、単なるビジネス上のことならそれで済んでも、それ以上のニュアンス的な記憶までは、なかなか喚起されない。

しかし、和歌日記をさかのぼると、その時のことがありありと思い出されるのである。さらに、一昨年の夏から秋にかけては「野分」という言葉がしょっちゅう出てきて、「そういえば、台風の多い年だった」などと思い出すこともできる。

同じブログでも、こちらの "Today's Crack" は決して「日記」というようなものではないので、こうはいかない。

和歌ログはとくに自然や風景を読み込むことが多いので、観察眼というのを養うことができるような気がする。視界の端っこのちょっとしたことに、少しは気付くようになった。これは多分、普段は使わない部分の脳を活性化させていると思う。少しは「ぼけ防止」に役立つかも知れない。

それから、花の名前がわかるようになった。私は以前、植物の名前にまったく興味のない人だった。美しい花が咲いていても、「ああ、花がきれいだ」と思うだけで、その名前を知ろうとは思わなかったのである。

しかし、和歌日記をつけるようになって、何でもかんでも「美しき花」で済ますわけにもいかないので、図鑑で調べるようになった。すると、小説の中で花の名前が出てくると、以前はおぼろげだったイメージが明確になる。世界が豊かになるのである。

「日記なんて、何の役に立つのか」 と思っていたが、なかなかいいものなのである。さらに、和歌ログでは日々のスナップショットの画像も添えているので、イメージ喚起が容易になる。デジカメとブログの力というのは、馬鹿にできない。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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