「言挙げ」 せぬ蕎麦の花
おっと、もう 10月に足を突っ込んでしまっているのだな。蕎麦の花の咲く季節だ。もうすぐ、新蕎麦も出回るし。
茨城県というのは案外蕎麦の多く作られているところで、ふと見ると、道端の畑に蕎麦の白い花が咲き乱れていたりする。それはそれは美しいものである。
ところが、蕎麦の花の存在感というのはちょっと不思議なもので、ふと気付いてしまえば、見とれるほど素晴らしいのだが、気付かない人は、全然気付かなかったりする。
「○○に行く道に沿った蕎麦畑の花が、綺麗に咲いてたね」 と言っても、「えっ、そんなところに蕎麦畑なんて、あったっけ?」 なんて、びっくりされてしまったりする。あんなにも、見渡す限りの白い花盛りなのに。
これは、多分、白く可憐な蕎麦の花のさりげなさのせいかもしれない。本当に、蕎麦の花というのは、見とれてしまうといつまでも見とれてしまうほどなのに、ことさらな自己主張をしないのだ。だから、気付かないと、全然気付かないということもある。
昨日の 「和歌ログ」 で、こんな歌を詠んだ。
Goo 辞書によると、「言挙げ (ことあげ)」 とは、「言葉に出して言い立てること」となっていて、「言葉に呪力があると信じられた上代以前には、むやみな『言挙げ』は慎まれた」と説明されている。
万葉集の柿本人麻呂の歌が有名だ。
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く(ことさきく)ま幸く(まさきく)ませと つつみなく 幸く(さきく)いまさば 荒磯波(ありそなみ)ありても見むと 百重波(ももえなみ 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
(葦原の瑞穂の国は神意のままに言挙げしない国だが、それでも言挙げを私はする。元気に無事でいてくれと・・・)
「言挙げ」をしないことが「神ながら」の道でありながら、人麻呂は「言挙げす我は」と繰り返す。むやみな「言挙げ」が慎まれたが故に、ここぞという時にこそ敢然と「言挙げ」し、「人ながら」の道を突き詰めることで、逆説的に「神ながら」の道に至るとでもいうかのようだ。
しかし、常陸の国の蕎麦の花は、さりげなく咲いている。慎ましく「言挙げ」せぬ様は、実は敢然たる「言挙げ」にも勝るとも劣らぬ力があるような気もする。
ともあれ、新蕎麦を食うのが楽しみだ。ああ、なんて「人ながら」の食い意地だろう。
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