「知ること」の醍醐味
本宅サイトに「知のヴァーリトゥード」という名前を付けているぐらいだから、私は「知る」ということが本当に好きなのである。
「知ること」 の醍醐味は、いくつかの知識の断片でしかなかったものが、たった一つの新たな知識によって、突然、美しい「体系」に姿を変えてしまったりすることだ。
「どうして勉強しなきゃいけないの?」という子どもの質問に、「いい大学にはいるため」とか「いい仕事に就くため」とか「いい暮らしをするため」とかしか答えられないのは、「知の醍醐味」を味わったことがない人である。
「知の醍醐味」を知るためには、断片的な知識はできるだけ多くあった方がいい。一見無関係に思われるそれらの知識の断片が、一瞬にしてバチバチっと関連付き、見事な体系となるのだから、知識が多ければ多いほど素晴らしいダイナミズムを表現できる。
だから、勉強というのは知の醍醐味を味わうためのキャパシティを広げる役に立つのである。
で、本題である。例の高校の履修不足問題だ。必修科目でも受験に必要のない科目を、履修しないで済ませているというのである。これは、「知の醍醐味」を知る可能性を減じていることになる。生徒には気の毒な話である。
ただ、生徒には明らかに気の毒なのだが、当の生徒にとっては、多くは卒業するのに面倒な話になるという点で迷惑を感じているだけのようで、「知の醍醐味」云々なんてことまで考えているのは、ごく一部だろうと思う。悲しいお話である。
ちなみに、履修不足問題は東北地方の進学校に集中しているというので、「もしや」(というよりは、「多分…」 )という思いで調べてみたら、案の定、私の母校、酒田東高校の名前も出ていた。セコイなあ。
でも、日本というのは、こういう問題はちゃんとなあなあで解決される社会だから、後輩たち、余計な心配はしないでいいからね。
「知ることの醍醐味」 を表現する言葉に、「目から鱗が落ちる」というのがある。しかし、私がこれまでに聞いた最も感動的な表現は、こんなものではない。関西の某若手家がこんなことを言っていた。
それを聞いた途端、あの「知らん」とゆうたことのない米朝師匠が、「ああ、そうであったか!」 と膝を打ったほどですわ!
これほど 「知ることの喜び」 をダイナミックに表現した言葉を、私は知らない。何しろ、あの知識の宝庫、桂米朝師匠である。その米朝師匠が、ある対談で、思いがけなくたった一つの新たな情報を聞いたとたん、膝を打って感動したというのである。
きっと、それまでに抱いていた疑問が一瞬の間に晴れて、脳内に蓄積された膨大な知識が、閃光とともに一つの美しい体系的知識に再構築されたのだろう。その時の米朝師匠、知的エクスタシーを感じただろうなあ。
ただ、残念なことに、この米朝師匠が感動のあまり膝を打ったという貴重なウンチクが、どんな話であったかは忘れてしまった。この表現のインパクトが強すぎたせいだと思う。
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