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2006年10月に作成された投稿

2006年10月31日

本当に「生徒は犠牲者」 か?

高校の必修科目履修不足問題で、あちこちで「生徒は被害者」という声が上がっているが、「おいおい、ちょっと待て」と言いたい。

「鬼畜米英、一億火の玉」でさんざん盛り上がっていたくせに、戦争に負けた途端に、「国民は一部の軍国主義者の犠牲になった」と言い始めたのと、似たメンタリティではないか。

この問題が報道され始めた時点では、大学受験に不必要な科目の授業をカットしたのは、「生徒の要望に応えた」ものと説明されていたではないか(参照 以下引用)。

 ■学校側、生徒の要望で変更

 富山県立高岡南高校(篠田伸雅校長)で、3年生197人全員が、2年時に学習指導要領で2科目履修する必要がある地理歴史の授業を1科目しか受けていないことが24日、わかった。 (中略) 同校は「大学受験に必要な科目に力を入れてという生徒の要望を聞き入れ、カリキュラムの運用を変えてしまった」と釈明している。

(中略)

 同校などによると、生徒が1年生の時に「受験に必要な1科目に絞り勉強したい」という要望があり、「たとえば日本史を学べば関連して世界史の要素も入っており、世界史の履修につながる」と判断したという。

この報道には、裏があることをきちんと理解しなければならないが、生徒側としても「受験に不必要な科目に時間を割かれたくない」と、確かに希望し、こうしたイレギュラーな措置を歓迎していたようなのだ。少なくとも、不満を抱いていたという印象はない。

そのくせに、今になって完全に被害者面をするのは、この間の制度的な理解が不足していたとしても、ちょっとおこがましい。きちんと補修授業を受けて冬休みを潰すぐらいの覚悟はしておくべきだ。補修授業の間に、内職をするなとまでは言わないからね。

「この報道には、裏がある」と書いたのは、学校側はいかにも生徒の要望に添った形でこうした運用をしていたと言いたいようなのだが、実は、進学校としてのステータスを上げるために、積極的に他校と情報交換をしながら、必修科目の授業をカットしてきたのがみえみえだからだ。

こんなことは今さら言われなくても、どこでも公然の秘密だったのだろう。だって、学校現場と教育委員会は、人事的に交流しているのだから、現場の校長が知っていることを教育委員会が知らなかったはずがない。ずっと、なあなあで見逃してきたのだ。

学校側と生徒側の浅はかな利害関係の一致により、長年にわたってセコイ方策として、受け継がれてきたのである。生徒側も、その恩恵を享受してきたのだ。それが本当に「恩恵」といえるかどうかは、かなり馬鹿馬鹿しいレベルの議論になるが。

私の時代は、少なくとも世界史も日本史も、地理も倫理社会も、ちゃんと授業があったという記憶がある。いくら受験に不必要な授業があったとしても、別にそれによって受験に不利になったという感覚はないのだがなあ。

私なんか、倫理社会の成績は特別に試験勉強なんてしなくても、常に学年で断トツのトップだった。日頃から哲学書や宗教書を当たり前に読んでいたので(高校時代に「正法眼蔵」なんて読んでたからね)、高校の倫理社会のレベルなんて、幼稚すぎるぐらいのものだった。

当時、大学受験では社会の科目として倫理社会を選択することもできたはずで、そうすれば、英語と国語は元々苦労がなかったから、私にとって大学受験勉強なんて、不必要と言ってもいいぐらいのものだった。それでも、私は敢えて日本史を選択して、一応「受験勉強」というものを経験することにした。

倫理社会なんて、私にとっては「知的娯楽」だった。大学受験でそれを選択してしまっては、帰国子女が英語で当然の如くいい成績を取るようなもので、そんなアドバンテージを使ってはズルいような気がして、自らにハンディキャップを課したのである。

勉強なんて、パンツのゴムひもをギリギリに伸ばしてしまうようなやり方でするもんじゃないだろうと思うのだ。今日の結論は、これ。

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2006年10月30日

「知ること」の醍醐味

本宅サイトに「知のヴァーリトゥード」という名前を付けているぐらいだから、私は「知る」ということが本当に好きなのである。

「知ること」 の醍醐味は、いくつかの知識の断片でしかなかったものが、たった一つの新たな知識によって、突然、美しい「体系」に姿を変えてしまったりすることだ。

「どうして勉強しなきゃいけないの?」という子どもの質問に、「いい大学にはいるため」とか「いい仕事に就くため」とか「いい暮らしをするため」とかしか答えられないのは、「知の醍醐味」を味わったことがない人である。

「知の醍醐味」を知るためには、断片的な知識はできるだけ多くあった方がいい。一見無関係に思われるそれらの知識の断片が、一瞬にしてバチバチっと関連付き、見事な体系となるのだから、知識が多ければ多いほど素晴らしいダイナミズムを表現できる。

だから、勉強というのは知の醍醐味を味わうためのキャパシティを広げる役に立つのである。

で、本題である。例の高校の履修不足問題だ。必修科目でも受験に必要のない科目を、履修しないで済ませているというのである。これは、「知の醍醐味」を知る可能性を減じていることになる。生徒には気の毒な話である。

ただ、生徒には明らかに気の毒なのだが、当の生徒にとっては、多くは卒業するのに面倒な話になるという点で迷惑を感じているだけのようで、「知の醍醐味」云々なんてことまで考えているのは、ごく一部だろうと思う。悲しいお話である。

ちなみに、履修不足問題は東北地方の進学校に集中しているというので、「もしや」(というよりは、「多分…」 )という思いで調べてみたら、案の定、私の母校、酒田東高校の名前も出ていた。セコイなあ。

でも、日本というのは、こういう問題はちゃんとなあなあで解決される社会だから、後輩たち、余計な心配はしないでいいからね。

「知ることの醍醐味」 を表現する言葉に、「目から鱗が落ちる」というのがある。しかし、私がこれまでに聞いた最も感動的な表現は、こんなものではない。関西の某若手家がこんなことを言っていた。

それを聞いた途端、あの「知らん」とゆうたことのない米朝師匠が、「ああ、そうであったか!」 と膝を打ったほどですわ!

これほど 「知ることの喜び」 をダイナミックに表現した言葉を、私は知らない。何しろ、あの知識の宝庫、桂米朝師匠である。その米朝師匠が、ある対談で、思いがけなくたった一つの新たな情報を聞いたとたん、膝を打って感動したというのである。

きっと、それまでに抱いていた疑問が一瞬の間に晴れて、脳内に蓄積された膨大な知識が、閃光とともに一つの美しい体系的知識に再構築されたのだろう。その時の米朝師匠、知的エクスタシーを感じただろうなあ。

ただ、残念なことに、この米朝師匠が感動のあまり膝を打ったという貴重なウンチクが、どんな話であったかは忘れてしまった。この表現のインパクトが強すぎたせいだと思う。

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2006年10月29日

ミスター・ボージャングルの正体

先日のラジオ放送で永六輔さんが、「ミスター・ボージャングル」という曲は、有名なダンサーのことを歌ったものだとおっしゃっていたので、憚りながら、それは誤解だという手紙を書かせていただいたところ、それに対するお礼の絵葉書が、ご本人から届いた。

こちらが恐縮するほど義理堅い方である。

先日、TBSラジオ「土曜ワイド」で、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドの 「ミスター・ボージャングル」 (作詞・作曲:ジェリー・ジェフ・ウォーカー)が流れたとき、永さんが「この歌のミスター・ボージャングルは有名なダンサーで、年取ってからも踊り続けた人」とおっしゃっていた。

しかし、これは広く行き渡った誤解なのである。それでちょっと放ってはおけない気がして、それについて説明した手紙を、TBS ラジオ気付で送らせていただいた。

するとこのほど、女人高野・室生寺の絵はがきで、礼状が届いたのである。永さんは送られるすべての手紙と葉書に目を通して、返事を出されるとは聞いていたが、まさに本当だった。

Postcard

ご自分の署名の「永六輔」の「六」の字が判子になっているのが、とても洒落ている。こんなことをしたら、とても手間がかかるだろうに、筆まめという以上の方である。ありがたいことである。

それでついでといってはなんだが、「ミスター・ボージャングル」の正体について、ここでも書いておこうと思う。

この歌に出てくる「ミスター・ボージャングル」(Mr. Bojangles)は、主に1920年代に活躍した名ボードビリアン、「ビル・ロビンソン」(Bill Robinson:1878-1949)のことと、かなり広範囲に信じられていて、永さんもつい最近まではそう思っておられたわけだが、それは、何度も言うが誤解なのである。

確かにビル・ロビンソンは「ボージャングル」の愛称で親しまれた実在の人物だが、ジェリー・ジェフ・ウォーカーが歌った「ミスター・ボージャングル」はそれとは別人で、まったく無名で飲んだくれの三流田舎芸人だった。

日本で言えば「舟本一夫」や「鳥倉千代子」の類だったろうか? (若い人、意味わかるかなぁ? わからない人だけ、一番下の【注記】を参照)

ジェリー・ジェフは、アルバム「果てしなき旅路/A Man Must Carry On'」(1977)に収められたニューオリンズでのライブ録音で、「この歌は、ここからほんの 2ブロック先の監獄で書いたものです」と語っている。

ニューオリンズを放浪していたとき、ジェリー・ジェフは酔っ払ってブタ箱に放り込まれた。そのブタ箱にいた先客が、妙に味のあるじいさんで、自らボージャングルと名乗り、滑稽な踊りを踊っては人生を語ってくれた。

よく知られた「ミスター・ボージャングル」という歌は、この時のことを歌ったものである。

本家ボージャングルのビル・ロビンソンは、当時の黒人としては珍しいほどの名声を博し、恵まれた人生を送った。しかし、ジェリー・ジェフの歌に出てくるボージャングルは、犬を連れて南部をどさ回りした経験しかなく、年老いてからは、安酒場でビールとチップのために踊る身の上だった。

ミスター・ボージャングルは、今日も酒場の片隅でうなだれ、ただ頭を振っている。すると、誰かが "Please !" と、声をかけるのが聞こえる。「じいさん、頼むぜ!」 と。

ボージャングルじいさん、踊っておくれ
高く跳んで、かかとをならしておくれ
よれよれシャツをひらひらさせて、俺たちを笑わせてくれ

誰か、ジュークボックスにコインを。

実はこの歌、私のシンガー時代のオハコでもあったので、ちょっと見過ごせなかったのである。

【注記】  「舟本一夫」  「鳥倉千代子」 : 有名歌手の 「舟木一夫」 や 「島倉千代子」 とは似て非なる怪しいドサ廻り芸人 (字の違いに注意)。永原弘、三橋三津也、田畑義男もいたという説もあるが、詳細は明らかではない。

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2006年10月28日

プロレスは本当に 「やらせ」 か?

"大仁田敗訴…東京高裁「プロレスはやらせ」認定" の記事をみて、なんだか暗い気持ちになってしまった。なんて想像力のない記事の書き方だろうか。

まあ、プロレスファンの世界とそうでない一般社会においては、物事を語る際の文脈の構築法に決定的な差があるのだね。

今さらプロレスを「やらせ」だとか「八百長」だとか言うのは、「無粋」という域を越えている。それはドラマを「作り話」と言うのと同じぐらい不毛なことだ。

ドラマが作り話なのは、言うまでもない当たり前のことで、その作り話の中にいかに「リアルさ」を盛り込むかが、ドラマの作者、役者の「腕前」なのだ。プロレスもそれと同じことが言えるというだけのことである。

プロレスのリングで繰り広げられるファンタスティックな攻防というのは、シリアスな格闘ではあり得ないものだ。それだけに「約束事」の上において行われなければ、プロレスラーは命がいくらあっても足りない。

投げ技をしかける方は、相手がちゃんとした受け身を取ってくれるものと信じて投げる。そして受ける側は、相手が決して危険な角度で脳天から落としたりしないものと信頼して、進んで受け身を取る。

試しにプロレスごっこをしてみるといい。プロレス技の 90%は、受け身を取る側の絶妙の協力がなければ決まるものではないとわかるから。そして、絶妙の受け身を進んで取るには、体力、テクニックとともに、相手への「信頼」が不可欠なのだ。

その「信頼」の上に成り立った技のやり取りの中に、いかにリアルさを盛り込むかが、プロレスラーの技量である。今回の裁判になったケースというのは、はっきり言って、登場した役者が不調法だったのである。

まず、セッド・ジニアスと大仁田厚との間に「信頼」が成立していなかった。信頼のない者同士が絡んで、きちんとしたパフォーマンスを演じることなどできるはずがない。その意味で、両方とも大根役者である。

そしてセッド・ジニアスに怪我を負わせたとされる中牧昭二という人物は、大根役者と呼ぶにも値しない。靴を履いて本気で顔面を蹴るやつがあるものか。この世界では絶対にメシの食えないタイプである(事実 が証明しているように、実際に食えなかったわけだが)。

私は長年プロレスファンを自称してきたが、近頃では、そろそろ潮時かもしれないと感じている。プロレスは、その歴史的使命を果たし終えつつあるのかもしれない。今回の訴訟沙汰は、それを象徴している。

情報化時代におけるプロレスは、よりリアルな格闘技と、エンタテインメント・プロレスに分化しないと、生き残れないような気がする。

【追記】

大仁田は上告するそうで、Sports nav.com によると、彼は以下のようにコメントしている(参照)。

「僕の口から話すことは何もない。僕はプロレスを守る側。自分がプロレスラーを名乗っている以上守るものは守る。それはプロレスラーとしてのモラルだと思っている。それに事前の取り決めうんぬんというのは今回の訴訟の争点じゃない」

「話すことは何もない」 と言いながら、ずいぶんいろいろしゃべっているのは、彼のいつものスタイルだが、その論点が相変わらずわかりにくい。

セッド・ジニアスが試合後に詰め寄ったために、中牧が乱入したというプロセスなのだから、大仁田自身の論理に沿うとすれば、「事前の取り決めになかった詰め寄り方」をされたぐらいのことは、「プロレスのモラル」の中で処理すればよかったではないか。

それができなかったのだから、「プロレスのモラル」を壊す行為には、結果的に自身も荷担しているとみられても仕方がない。

それに「プロレスのモラル」は、法律の世界とは異次元のものなのだから、「プロレスを守るために上告する」というのは、ピントはずれにもほどがある。

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2006年10月27日

「日記なんて」と思っていたけれど

私は 50歳を過ぎるまで、日記は書かない人だった。小学校の夏休みの宿題でさえ、せいぜい 5~6日分しか書いた覚えがない。

ところが、別サイトの「和歌ログ」で、3年近くも三十一文字とともに身辺雑記を綴っているのに気付いた。初期のものはちょっと懐かしい気がする。3年という時間の力である。

和歌ログの中心コンテンツである和歌日記の部分は、「知のヴァーリトゥード」の「今日の一撃」と同様、平成 16年の 7月以後は、ココログのブログ機能を利用している。当初はすべてのエントリーを「文化・芸術」 というカテゴリーにぶち込んでいたが、それでは、後々の整理にあまりにも不便だと気付いた。

そこで、先月から 1ヶ月以上かけて、過去ログも含めて、四季をベースにしたカテゴリー分けをし、ようやくこのほど完成したのだが、ちびちびと過去の和歌日記を読み返していると、記憶がよみがえって、ふと作業の手が止まることも度々だった。

なるほど、世の中の日記書きという種族は、ある意味では、こうした感慨のために長年にわたって日記を付けているのかと、思い当たったのである。

こんなことは単なる自己満足だが、それだけではない。ちょっとしたことだが、役に立つこともある。

「あれはいつのことだったか」 と思い出さなければならない時など、普通は手帳の古いリフィルをほじくり返せば済むのだが、単なるビジネス上のことならそれで済んでも、それ以上のニュアンス的な記憶までは、なかなか喚起されない。

しかし、和歌日記をさかのぼると、その時のことがありありと思い出されるのである。さらに、一昨年の夏から秋にかけては「野分」という言葉がしょっちゅう出てきて、「そういえば、台風の多い年だった」などと思い出すこともできる。

同じブログでも、こちらの "Today's Crack" は決して「日記」というようなものではないので、こうはいかない。

和歌ログはとくに自然や風景を読み込むことが多いので、観察眼というのを養うことができるような気がする。視界の端っこのちょっとしたことに、少しは気付くようになった。これは多分、普段は使わない部分の脳を活性化させていると思う。少しは「ぼけ防止」に役立つかも知れない。

それから、花の名前がわかるようになった。私は以前、植物の名前にまったく興味のない人だった。美しい花が咲いていても、「ああ、花がきれいだ」と思うだけで、その名前を知ろうとは思わなかったのである。

しかし、和歌日記をつけるようになって、何でもかんでも「美しき花」で済ますわけにもいかないので、図鑑で調べるようになった。すると、小説の中で花の名前が出てくると、以前はおぼろげだったイメージが明確になる。世界が豊かになるのである。

「日記なんて、何の役に立つのか」 と思っていたが、なかなかいいものなのである。さらに、和歌ログでは日々のスナップショットの画像も添えているので、イメージ喚起が容易になる。デジカメとブログの力というのは、馬鹿にできない。

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2006年10月26日

「ソロ米」と「ハーモニー米」

昨日朝の TBS ラジオで、気象予報士の森田正光さんが面白いことを言っていた。最近、お米の種類で、「ソロ米(まい)」と 「ハーモニー米(まい)」というのがあるのだそうだ。

米だけで旨いのが「ソロ米で、酢飯とか丼物など、他と組み合わせて旨いのが「ハーモニー米」というらしい。

私が初耳だっただけではない。昨夜の段階で「ソロ米/ハーモニー米」の 2語でググっても 1件もヒットしなかったから、ネットの世界としてもかなり新しい言葉なのだろう。

ソロ米の代表格は、もちろん「コシヒカリ」などのブランド米である。これはおかずなしでも米そのものがおいしいので、ソロを取れる米ということで「ソロ米」というのだそうだ。

一方、「ハーモニー米」の代表は、北海道産のお米なのだという。最近、北海道がにわかに米の産地として脚光を浴びていて、質、量ともにかなり進化しているらしい。

昔は「北海道の食い物は、米以外はみんなおいしい」なんて言われていたが、そんな定評は既に過去の遺物になった。今や、北海道産の米も「きらら397」「ほしのゆめ」「ななつぼし」など、胸を張れる品種が登場していて、これらが代表的な「ハーモニー米」なんだそうだ。

私は「ハーモニー米なんて言葉のアヤで、実際はおかずがないと食えないから、そんな言い方でごまかしてるんじゃないか?」なんて疑ったが、 実際の食味ランキングやモニタリングでも、かなりいい成績のようなのだ(参照)。これはどうも、本物らしい。

さらに、最近は丼物や回転寿司などの外食産業が台頭しているので、「ハーモニー米」としては、この分野の食材としてのニーズが高まっているというのである。なかなか順風のようなのだ。

それにしても、そもそも北海道産のお米が注目されるようになったというのは、地球温暖化の産物といえば言えるのであり、なんだか複雑な感慨にとらわれてしまう。

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2006年10月25日

気絶に近い眠り

若い頃はなかなか寝付けない夜というのもあったが、近頃はありがたいことに、すこぶる寝つきがいい。それどころではない、ほとんど気絶するように眠ってしまう。

時には、デスクに向って仕事をしていたはずなのに、いつの間にか寝ていたりする。どうやってベッドに入ったのか、記憶がない。

私の妻もなかなか寝つきはいい人で、私が「おやすみ 3秒」の異名を与えたほどだ。「お休みなさい」と言った 3秒後には、もう寝息を立てているのである。なかなかの技である。

だが、上には上がいるもので、以前の知り合いの寝つきのよさは大変なものだった。彼は田舎を出てアパートで独り暮らしをしていたのだが、「寝る前に電気を消した記憶が一度もない」というのである。それでも、朝起きるとちゃんと電気は消えているのだ。

つまり、布団に入る前の時点で、彼はもう眠っているのである。電灯のスイッチを切るのは、習慣による無意識の行動だ。「お前は既に死んでいる」ならぬ「お前は既に眠っている」という状態というほかない。

近頃の私の「気絶に近い眠り」は、彼の壮絶技の領域に達しているのではないかと思うのである。我ながら、大したものだ。

そう思って、試しにググってみると、「気絶に近い/眠り」で 10,800件ヒットした (参照)。世の中には、この壮絶技をものにしている人がかなり多くいるようなのである。少なくとも、そんなに珍しいものではないようなのだ。

寝つきの悪い人は、身近にいるであろう「気絶に近い眠り」をマスターした者の爪の垢を煎じて飲むといい。

ちなみに、よく知られた「羊を数える」という睡眠導入法は、日本人にとっては完全に逆効果である。数えたいなら、他のものを数える方がいい。詳しくは「知のヴァーリトゥード」の「なぜ、日本人は羊を数えても眠れない?」をお読みいただけばわかる。

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2006年10月24日

スピードの検討に 3年かけるんだって

一昨日のネットで、"「高速道は速度 100キロ上限」見直しへ 警察庁 3年かけ" という記事が目に止まっていた。

私は道路の制限速度の 「本音と建前」 は、明らかにギャップありすぎだろうと思っている。経験則に照らして言えば、こんなことに 3年もかけるのは、いくら何でも呑気すぎる。

オフィシャルな施設(警察や教習所など)を除けば、自動車運転の際のスピードに関しては、「道路の流れに乗ること」が重要だと教えられる。制限速度が 50km/h の道路でも、全体の流れが 60km/h ならば、その流れに乗らないと、リスクが増すのだ。

実際に、制限速度が 50km/h の道路を、きまじめに 50km/h で走行してみるがいい。道路の流れをせき止めることになり、その結果、後ろからどんどん煽られたり追い越しを掛けたりして、かえって危なくてしょうがない。

 

高速道路にしても、実際の流れの平均は 110km/h をやや上回る程度といったところだろう。これも経験則だが、120km/h で走っていても、スピード違反で取り締まられることはまずない。

実際に 120km/h ぐらいで走っている時に、後ろに覆面パトカーが来ても、徐々に減速して 110km/h 程度に落としてしまえば、何のおとがめもない。そんな時、素っ頓狂なやつが 140km/h ぐらいですっ飛ばしてくると、いきなり捕り物になってしまうのだが。

とにかく、パトカーだって制限速度の 10km/h オーバーで普通に走っていて、それと同じスピードで付いていっても、捕まるなんていうことは聞いたことがない。

件のニュースにも 「高速自動車国道の法定最高速度は時速 100キロ、国道、県道など一般道路は 60キロ。道路管理者が定めた設計速度などを基に決めたが昭和 38年以降、変更されていない」 とある。

昭和 38年といえば、東京オリンピックの前年である。トヨタのクラウンはようやく 2代目になっていたが、観音開きのクラシックな初代クラウンも、まだ盛んに走っていた頃である。なんと、43年もの間、なんの検討も加えられていなかったということの方が驚きだ。

43年前の小型車は、100km/h を無理なく維持できるというだけでも、ちょっとした性能だったと思う。だから、制限速度 100km/h というのは、諸外国との比較上、大盤振る舞いの数字だったのかもしれない。しかし、今の自動車は当時とは比較にならないほどの性能と安全性を持っている。

私が 20数年前に初めて自分で所有した車は、115km/h 以上を 10秒以上持続させると、何やらゴムの焼けるような臭いが車内に立ちこめた。だから、高速道路で 100km/h 以下で団子状態になった一団を追い越すにも、10秒以内で片を付けなければならず、ちょっとしたテクニックが必要だった。

ところが今の車は、軽自動車でも、のほほんとアクセルを踏みっぱなしにしていると、130km/h ぐらい、平気で出てしまうのである。高速性能だけではない、ブレーキ性能も格段に進歩した。

以前、「急ぎたい者には急がせてやる」というエントリーにも書いたことだが、日本の高速道路では、ちょっと激しい雨が降ると、速度制限 50km/h 以下なんていう、ファンタジックなまでに非現実的な措置が講じられることが多い。

私は以前、雨で 50km/h の速度制限が行われている最中に、試しに本当に 50km/h で走ってみようとしたことがある。しかし、後ろからバンバン煽られて、恐怖のあまり 60km/h 以下に落とすことができなかった。

速度制限を真に受けて、本当に 50km/h 以下で走行して追突されたら、誰が責任を取ってくれるというのだ。

これほどまでのファンタジックさではないにしろ、今の制限速度は通常でも実情との差がありすぎる。私は「本音と建て前」の使い分けには割と理解のある方だが、それでも、速度制限の取り締まりが恣意的運用によってどうにでもなるという現状は、考え物だと思う。

そして、こんなことの検討に 3年もかけるというのは、一体いつの時代の話なんだと言いたくなってしまう。

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2006年10月23日

「致命的な鈍感」という罪

「いじめ」ということが、とても大きな問題になっている。いじめた側を鬼畜の如く非難するのは簡単だが、さて、自分が一度も「いじめ」に荷担したことはなかったろうか。

私は常に「いじめる側」に立つことを、生理的に毛嫌いしてきた。しかし「ちょっとしたからかい」ということになると、どうか。

「典型的弱者をいじめる」ということは、繰り返すが、私にとっては強い生理的嫌悪の対象である。だから、これまでの人生で強者に楯突くことは何度もあったが、弱者を直接いじめたことは、一度もない。そう言い切れるのは、私の誇りである。

しかしである。一見すると弱者には見えない対象を、まるで暗黙の合意の上に立ったように、軽い気持ちでからかったことがなかったかと問われれば、「一度もなかった」と自信を持って言うことはできないような気がする。

福岡で自分の担任した中 2 の生徒を自殺に追い込むきっかけを作ったと報道された教師は、自身の卑怯な行為を「からかいやすかった」からと言っている。自殺した生徒は、成績優秀・明朗快活で、バレーボール部で活躍していたという。

多分、少々からかっても、表面上はさらりと受け流して根に持たないタイプと思われていたのだろう。それだけにその教師は、「いじめ」というよりは、他愛ない「からかい」をしていただけという意識だったのだろう。

あるいは、それは集団の中の潤滑剤のようなものと思っていたのかもしれない。そのちょっとしたからかいが、実は、相手の心に深く突き刺ささっていたことに気付かずに。

かくいう私も、もしかしたら気付かぬうちに相手を傷つけていたことが、あったかもしれない。思い返して反省しなければならない。

ただ幸いにも、私が「ちょっとしたからかい」をした覚えのある相手の多くは、今もあっけらかんと生きていて、顔を合わせれば馬鹿な冗談を交わしたりできる。それは多分、自分がからかっただけ、相手からの他愛ないからかいも、軽い気持ちで受け入れてきたからだろうと思う。

「ちょっとしたからかい」が他愛ないもので済むのは、それが相互的なものである場合に限られるだろう。相手を道化者にしたら、同程度の道化の役割を、自分も引き受けなければならない。

ああ、私が軽い気持ちでからかってしまった多くの友よ、負けずに私をからかってくれて、本当にありがとう。善き友をもって、私は幸せである。おかげで、私は重罪人になることを免れている。

だがもしかして、「からかいのバランスシート」において、私の側に「からかいすぎ」という赤字のある場合もあるように思う。申し訳ないことをした。君たちのためならば、私は今からでも進んで道化者になろう。

常に相手より優位に立ってからかい続けるのは、それは蓄積のうちに「ちょっとしたからかい」では済まなくなるのである。それは「いじめ」に他ならないからだ。

件の教師は多分、ある一面では生徒に人気のある教師だったのかもしれないと思う。それは「からかい」の対象以外の生徒にとっては、軽いスケープゴートを常に用意してくれるという意味で、気の利いた教師だからだ。

スケープゴートは、教室の潤滑剤である。しかし当のスケープゴートにとっては、常にその役割を担わされるのはたまったものではない。思えば、どんな集団においても、スケープゴートを特定する主導権をもつことで、人気取りをする者がある。

人の痛みを理解できない、致命的に鈍感な種族である。そしてそうした鈍感な者に追従する者も、同じくらい鈍感である。空気の読み方を間違っているのである。

私は、ある種の鈍感さというのはそれだけで罪だと思っている。そして自分自身も鈍感の罪に陥らないよう、最大の注意をしようと思う。

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2006年10月22日

数字の単位を巡る冒険

まこりんさんのブログに、中島梓が彼女自身のサイトで 「1兆ってどれくらい? 1兆は10億? それとも10000億?」(かなり意訳らしいが)と書いているのをみて、目眩を感じたと書かれている (参照)。

原文に当たろうと中島梓のサイトに行ってみたが、まずそのど素人っぽいセンスで目眩。

この「神楽坂倶楽部」なるサイトは、作りが稚拙というか、訪問者に不親切というか、とにかく探しにくいし、ググってもよくわからないし、結局原文には当たれなかった。

まあ、このサイトに行ってみて、中島梓という人が「本物の、素の、100%ピュアまじりっけなしのお馬鹿さんじゃんかよっっ」というまこりんさんの感慨に、かなり共感してしまいそうになった。巷の噂は本当だったのか。

これと比べたら、私の本宅サイトなんて、作りだけで言ったら、ソフィスティケーションの塊に見えちゃうじゃないか。やっぱりサイトというのは、見た目も大事よ。

まあ、中島梓のサイトについては、この際どうでもいいのだけれど、確かに、数の単位というのは、なかなかやっかいだ。とくに、西洋式に 3ケタごとにカンマを振られると、慣れてしまえば大丈夫だが、若い頃にはかなりまごついた。

あの、3ケタごとのカンマというのは、英語を初めとするヨーロッパの数の単位のコンセプトには便利でも、我々日本人には、やりにくくてしょうがないのである。

というのは、日本人にとっては、一、十、百、千、万、億、兆 …… と上がっていく数の単位において、「万」までは、10倍ごとに繰り上がっていくのである。ところが、ヨーロッパ人にとっては、「千」以上は 「とにかく、一杯」ということになってしまうようで、「万」に相当するコンセプトがない。

そのせいで、「万」を中抜きして、「千(thousand)」の千倍が「百万(million)」 、その千倍が「十億(billion)」ということになる。だから彼らにとっては、3ケタごとにカンマがついて、その度に単位が thousand, million, billion …… と繰り上がっていくのだから、とても読みやすいのだろうが、日本人には整合性が取れなくて読みづらい。

日本式には、最初のカンマは 4ケタめ(つまり「万」の位)で振って、それより上は 3ケタごとに振ってくれると、整合性がとれるのだが、それだと、見た目の美しさが損なわれてしまう。

私なんか数字に弱いから、カンマ付きで長々と続く数字を見ると、日本人のくせに、まず英語で「ああ、ここは billion だから、えぇと、10億だな」などと、翻訳して読む習慣になってしまっている。(こうすると、確かに間違いにくくて便利)

ところが、よくしたことに、1兆の位になると、日本の単位と西洋の単位の最小公倍数(と言っていいのか?)に追いついてくれて、カンマで区切られたところが、ちょうど 「1兆」 なのだ。

そこから先のカンマのところはまた、「千兆」 なんてことになってしまうが、英語ではどういうか知らないので、もうどうでもいい。

でも、ちょっと気になって調べたら、「兆」は trillion と言うのだそうだが、そういえば、見覚えがあるな。しかし、これも米語と英語で違っていて、英国式では thousand billion となるらしい。これ、ややこしすぎ。日本に生まれて本当によかった。

じゃあ、英国式で 「十兆」 は、なんというんだ? Ten thousand billion か? 「千兆」 は? ああ、どうせ縁のない数字だから、本当にどうでもいいや。

ちなみに、ちょっと調べてみると、東洋式の数の単位も、「下数」「万進」「万万進」 とか、いろいろが作法があって、一概に決めつけることができず、歴史的に採用されたり捨てられたりしているようなのだ (参照)。ああ、ますますどうでもよくなってきた。

どうせ、近頃ではある程度以上大きな数字になると、10の何乗とかいう表記の仕方をするようなので、あまり単位は気にしなくてすむのだが、10 の 12乗が 1兆 とか言われると、文化系の頭は、ますますこんぐらがってしまって、中島梓と変わらん状態になってしまうのが、少し哀しい。

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2006年10月21日

学力って、そんなに低下してるだろうか?

近頃の若いモンの学力が低下していると言われる。確かに、最近の大学生のお馬鹿ぶりを見ていると、平均水準は下がってると思う。

しかし、それは誰でも彼でも大学に行くようになってしまったから、そう見えるだけではあるまいか。なまじ大学なんかに行くから、必要以上にお馬鹿扱いされるのだ。

私の父の時代は、ある程度優秀な者でなければ旧制中学には行けなかった。ましてや、高等学校や大学に進学するのは、ほんの一握りだった。だから当然にも高等学校や大学の学生は、優秀だったわけだ。

しかし、今では大体 2人に 1人が大学や短大に進学している。昔なら旧制中学に進めなかったレベルでも、今は大学に入っているのだ。平均的にお馬鹿に見えて当然である。

マラソン・ランナーの中にジョギング程度の市民ランナーが大勢混じったら、平均タイムは大幅に下がり、数字だけ見たら、かなり嘆かわしいことになる。しかしマラソンの裾野は大きく広がったことになり、その中から優秀な選手が生まれる可能性は高まる。

ただし、ジョギング程度もできない者が増えたら、そりゃ問題である。もしかしたら、そうした心配をしなければならないところまで来ているのかもしれないが、本当のところはわからない。

「若いモンの日本語が乱れている」と言われる。しかしそれを言うなら、オッサン連中の日本語だって相当に怪しい。客観的に比べたらどっこいどっこいで、若いモンを本当に嗤えるオッサンなんて、そう多くはない。

叩き上げの社長でもっているような中小企業を訪問すると、「社訓」とやらが麗々しく額に入って飾られていることがある。しかしそれらの少なからずは、主語と述語がバラバラだったり、係り受けが滅茶苦茶だったりして、読んでる方が恥ずかしくなるような代物である。

なんでまた清書して額に入れる前に、まともな文章の書ける人に相談しなかったろうかと、悲哀を感じてしまう。しかし、ワンマン社長は自分の文章がおかしいなんて、夢にも思わないのだ。自分は絶対に正しいのだから。

まあ、額に入れられた社訓なんて、眺めるだけのものであって、吟味して読む人なんかいないのである。単なる雰囲気のものなので、どんなに滅茶苦茶でも、実害はそれほどないようなのだ。下手に間違いを指摘したら、野暮なことになりかねない。

明治以前は「読み書き算盤」さえできれば、何とかなった。頭の中のリソースを論語読みに集中することだってできたから、漢文の素養のある者がいくらでもいた。しかし彼らは論語は読めても、フランスの首都も、ピタゴラスの定理も、2個の水素原子と 1個の酸素原子が結びついて水になることも知らなかった。

思えば、今の子は覚えなければならないことがありすぎて、ご苦労なことなのである。ただ、もう少しシステマティックな学習法を採用すれば、「一を聞いて十を知る」ことも可能なのに、相変わらず「十を聞かせて九つ忘れさせる」やり方だから、今の子はお馬鹿に見える宿命を背負っている。

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2006年10月20日

「英語読み下し」教育を巡る冒険

昨日は「英語教育早期開始派」と「まずは美しい日本語を派」の葛藤について述べ、日本人の英語使いの多くは、「カタカナ英語」のレベルであることに言及した。(参照

そして、この日本独特の「カタカナ英語」というのは、実は日本文化に深く根ざしているのではないかと思い当たった。

昨日のエントリーで、「身体化された英語」「スタイリッシュな英語」ができるようになるには、英語教育を開始するのが早ければ早いほどいいに決まっていると書いた。それで想起したのだが、明治以前の寺子屋教育では、幼い子どもに論語を素読させていたのである。

涎くりの頃から「子曰わく……」を嫌と言うほどやったおかげで、昔の人は、かなりハイレベルな漢文の素養があった。これは、いわば「英語教育早期開始」に通じるものがある。幼い頃からびっしりと叩き込めば、嫌でもしっかり身に付くのだ。

しかし、このことがそのまま「英語教育早期開始」に結びつくかといえば、ちょっと違うのである。

漢文というのは、確かに中国から来たものだが、「外国語」というわけではない。それは日本独特の「読み下し」という流儀で学ぶからだ。だから、「論語」の意味を十分に読み取れても、中国語会話はできない(中国語と漢文は、似て非なるものだということを別としても)。

日本人にとっての漢文は、コミュニケーションのためではなく、「素養」として学ぶものだった。日本人同士の「コモンセンス」でありさえすればよかった。だから、日本以外では絶対に通じない「読み下し」で学ぶことに、何の疑問も感じなかったのである。

思えば日本の英語教育も、実はコミュニケーションではなく、「素養」のために学ぶものという時期が長く続いたのだ。戦前までは、いくら英語を学んだところで外国人と英語で会話する機会なんて、一生に一度もない者が多かったから、「素養」で十分だったのである。

だから、日本以外では奇異にしか思われない「カタカナ英語」が発達した。英語教師でさえ、多くはカタカナ英語だった。日本人を相手にした「素養」のための学問なのだから、それで十分ではないか。

いわば、「シィノタマハク……」を英語テキストでやっているようなものだ。まさに「英語読み下し」教育である。英文和訳の時なんて、まさに「レ点」とか、返り点をふりたくなっちゃうし。

あれって、英語を英語として理解する勉強ではなく、読み下しの長い伝統に沿った極めてドメスティックな作業をさせられていたわけだ。英文和訳とは即ち「英文訓読」である。これが英語学習をわざわざ面倒なものにしている。

「英文訓読」が必要になるのは、「翻訳」という特殊な作業を行う時だけで、普通のコミュニケーションにおいては、「意味」として理解すればいいのである。実際の場面では全然役に立たない(というか、使うことすらない) 「英語読み下し」 に余計な時間を割かなければ、日本の英語教育は、もっとずっと効率的なものになるはずだ。

とはいいながら、「英語読み下し」の技術は、大学受験に威力を発揮するので、無視することはできないんだろうなあ。忌まわしいことである。大学を出ても英会話ができない日本人がくさるほどいるのも、なるほど道理である。

というわけで、日本という国では、学校で「英語読み下し」を勉強し、世間で「英会話」というお稽古ごとをするのである。「英語読み下し」と「英会話」には、「漢文」と「中国語」ほどの違いがある。

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2006年10月19日

「まず美しい日本語を」なんて言っても

小学校での英語教育必修化について、伊吹文科相は「美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と、前任者とは対照的に否定的な見解のようだ。

世間では「英語教育は早ければ早いほどいい」という説と「まずはしっかりした日本語を」という主張が、真っ向対立している。

しかし、一見すると正反対にみえる主張というのも、よく整理してみると、それほど対立的なことを述べているわけではないということが、往々にしてある。ちょっとだけズレた分野でのそれぞれの正論を、互いに譲らず、張り合っていただけということが多いのだ。

英語教育に関する賛否両論は、「英語ができる」ということのイメージが、微妙に違っていることから来ているような気がする。 あるいは「小さな違いが大きな違い」ということになるかもしれないが。

「まず美しい日本語を」派は、割とスクェアな英語観なのだろう。英文雑誌を読んだり、英語で学術論文を書いたりプレゼンできたり、商談ができたりすればいいということなら、確かに英語教育は中学校からで十分だ。

日本に生まれ育った日本人が、きちんとした日本語ができないのに、ニューズウィークを読んだり、英語の論文を書いたりプレゼンができたり、商談をまとめたりというのは、ちょっとあり得ない。逆に美しい日本語ができる人は、英語の上達も早い。

しかし、ネイティブ・スピーカーと見紛うほどのきれいな発音で、苦もなくジョークのやりとりができ、パーティでのスノッブな会話にも不自由しないといった、スタイリッシュな英語を身につけたいのなら、そりゃあ、英語に接するのが早ければ早いほどいいに決まっている。

それは、「語学としての英語」というよりは「身体化された英語」だからだ。言語を身体化できるのは、8歳までという説もあるぐらいだ。

ただ、いくら身体化されたスタイリッシュな英語ができても、説得力のある英語ができるとは限らない。さらに、英語で学術論文を書くには、また別の種類の努力がいる。帰国子女の「ティーンエイジャーの英語」は、そのままではビジネスには使えなかったりする。

逆に、英語の学術論文を何十本も発表して、国際的権威として認められても、パーティでのちょっとした会話が苦痛でしょうがないと嘆く学者は少なくない。同じ英語でも、使う筋肉が違うのだ。

そんなのは当たり前すぎる話なのだけれど、現状の「英語教育論」では、そのあたりがほとんど明確にされていない。「英語」という魔法の道具は、熱にも咳にも鼻水にも効く総合感冒薬みたいなものと思われている。

相撲の土俵の上でレスリングとボクシングを戦わせるような議論をしても、始まらないのである。それに言語というのは、教育しさえすればいいというものでもないということは、以前 「日本語と逆上がりの関係を巡る冒険」 というエントリーで述べたので、ここでは繰り返さない。

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2006年10月18日

「上質ペン」 は、全然必要なしなのだ

読売新聞日曜版の 「MY スタイル」 欄に、伊藤忠ファッションシステムマーケティングマネジメントの川島蓉子さんが「上質ペンでゆっくり手紙」というコラムを書かれている。

米国「アクメ」ブランドのローラーボールペン(7980円)を紹介している。重厚感があり、手にぴったりはまって握りやすいそうだ。

ああ、こういう文章を読むと、いいなあとは思っても、自分でそうしたものを持とうという気には全然なれないのである。私が使っているのは、コンビニで 105円で売られている、透明なプラスチックのボールペンだ。

完全な貧乏性というわけでもない。あの、いかにも安っぽい細いボールペンは使う気になれない。だって、書きにくくてしょうがないのだもの。私のごひいきなのは、ゼブラのジムノックというやつだ。安物好きでも、一応のこだわりはある。

「適度の重みのある上質ペン」が書きやすいと世間では言われるが、それは文具メーカーのプロパガンダによる思い込みだと思う。「適度の重み」なんてなくても、この重量 9.9g のジムノックは、グリップ部分が適度の弾力があるゴム製で、とても書きやすい。

私のように、取材先で素早くメモ書きをするような仕事のものには、妙な上質ペンなんかよりずっと使いやすいのだ。ちょっと近所のスーパーに買い物に行くのに、ベンツで乗り付けて狭い駐車場で難儀するより、軽自動車で行く方がずっと便利というようなものである。

考えてみれば、私が文字を手書きするのは、メモ書き以外にはほとんどない。紙媒体を使う正式な文書の 90%以上はワープロで書いてしまうし、原稿は 100%テキスト・ファイルをメールに添付して送付するので、紙に印刷されることすらない。

もちろん葉書や手紙を手書きすることはあるが、私の場合、それらはほとんど縦書きなので、筆ペンを使う方が趣がある。何もアルファベットを書く横文字種族の発明した筆記具で、日本の風雅な文字を書く必要もあるまい。

というわけで、私には「上質ペン」というものは全く必要ないのである。これまでにも記念品やプレゼントとしていただいたものが何本かあるが、せっかくだからと短期間使うことはあっても、結局は引き出しの奥にしまい込まれて、日の目を見なくなっている。

同じようなことがカメラにも言えそうだ。私はもう一つのサイト「和歌ログ」で、毎日詠む和歌に写真を添えているのだが、この写真はすべて安物のコンパクト・デジカメで撮っている。

もう少し高級な機種とか、あるいは一眼レフを買おうかと思ったこともあるのだが、それだと、いつでもどこでもパシャッと撮るという、「メモ書き感覚」の写真が撮れなくなるので、思いとどまっている。

私の「和歌ログ」が「一日一首」をキープできているのがカシオのコンパクト・デジカメのおかげなら、仕事が成り立っているのも、105円のゼブラ・ジムノックのおかげである。

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2006年10月17日

なんでまた、そんな馬鹿教師に

福岡の中学 2年生の自殺は、担任教師が誘発したようなものだとして、日本中で批判が高まっている。まったくひどいものだ。

しかし、問題は教師ばかりではない。悲しみにくれる両親には非常に酷な言い方だが、「なんでまた、そんな教師に余計な相談なんかしたんだ」 という見方もあると思うのだ。

産経新聞によると、事の発端は以下のようなことだったという。(参照

父親(40)によると、1年生の時に男子生徒が自宅で見ていたインターネットの内容を両親が担任に相談したところ、担任は後日、相談内容を同級生に暴露し、クラスで男子生徒に不本意なあだ名が付けられた。担任は級友の前で男子生徒を「偽善者」「うそつき」とからかったりもした。

「男子生徒が自宅で見ていたインターネットの内容」というのは、多分アダルトサイトかなんかだったのだろう。もっとアブナイ内容のサイトだったかもしれないが、もしそうだとしたら、担任がいくら馬鹿でも、軽い気持ちで教室でバラしてからかったりするにはヘビーすぎると感じただろうし。

隠しておきたい息子の個人情報を、親が進んで馬鹿教師に差し出してしまったという結果になったことが、やりきれないほど哀しい。

自殺した息子にしてみれば、「どうしてそんなこと、いちいち教師に言うんだよ」という気持ちが、なかったとはいえないと思う。「しかも、よりによって、あんなひどい教師に」

しかし私は両親を責めようとは思わない。両親の行為が息子を思う気持ちからだったことは、疑いようがないからだ。直接的に責任を追及されるべきは、どう考えても、親の信頼を裏切った馬鹿教師である。

馬鹿教師は、「からかいやすかった」と言っているらしい。とんでもない話である。からかわれやすいタイプの子をかばってこそ、教師というものではないか。両親はこの馬鹿教師を民事訴訟で訴えるべきだ。

ただ、親としてもそんな馬鹿教師に相談なんかする前に、子供を信じて見守ってやることができなかったろうかと、残念に思うのである。そして、相談するにしても教師の質をきちんと見極めてからでないと、悲惨な結果になるということだ。

なにしろ日本の教育現場というのは、そんな馬鹿教師が 1年後には学年主任になっていたりする程度のレベルだと判明してしまったのである。よく認識しておいた方がいい。

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2006年10月16日

「戦略的シンクロニシティ」ねぇ

sato さんのブログで「戦略的シンクロニシティ」なるコンセプトを知り、ググってみると、今よく売れているらしい本が見つかった。

顧客は追いかけるな!48時間で顧客が集まるシンクロニシティの法則」という本である。分類するとすれば、常に隠然と売れ続ける「スピリチャル系ビジネス本」 と言えそうだ。

「シンクロニシティ」 というのはユングの造語なんだろうが、アカデミックな世界では一般に疑似科学扱いされているコンセプトである。"Synchronic" (共時的な)という形容詞から派生した名詞で、「共時性」なんて訳されており、「因果律」とは区別されている。

わかりやすく言うと(わかりやすいかなあ?)、「朱に交われば赤くなる」というのは因果律(law of causality)で、「類は友を呼ぶ」というのが共時性(synchronicity) である。朱に交わって赤く染まるのは合理的に説明できるが、本当に類が友を呼んだのかどうかは、単なる偶然と区別がつかない。

それでも、我々の実体験の中には、シンクロニシティといえば言えるという現象がいくらでもある。単なる偶然というには、確率論から言っても多すぎるような気がする。ただ、あくまでも、「気がする」のである。類が友を呼ばないケースは、印象に残らないだけで、呼んだケースよりずっと多いのかもしれない。

それでも一度でも友を呼んでしまえば、後は相乗効果という十分に理論で説明のつく現象で、少なくとも友をはねつけるよりはずっと楽な作業になる。だからビジネス理論で言えば、「最初の友を呼ぶ」というステップさえクリアすれば、後は楽になるだろう。

件の本の目次を見ただけで、そのメソッドはおおよそ見当がつく。最初に「完璧な顧客」を明確にイメージし、それとともに、自分がその顧客に提供できる最大限に誠意を込めたサービスをも作り上げる。

そうすれば、その「完璧な顧客」が実際に獲得できた時点で、そこから先のプロセスは、ほぼ自動的に発現することになる。つまり最初の前提はかなりスピリチャルで神懸かりとさえいえるが、そこから先は十分にマーケティング理論に則っているわけだ。

マーケティング論といえば、現在は十分に「学問」としての地位を確立しているのだが、元々は人間の心の動きによる結果を追認していくプロセスである。だから、通俗マーケティングの世界では、スピリチャル系がかなり力をもっていて、それが実際に効果的だったりする。

理論的にはどこから見ても隙のないアカデミックなマーケティング論でも、効果がなければ誰も振り向かない。逆に効果さえあれば、科学的かどうかなんていうのは、あまり問題にされないのである。要するに儲かれば結果オーライなだけに、案外融通無碍だ。

通俗マーケティングの世界は、かなりプログマティックな性格をもっていて、同時に、スピリチャル系が根を張る要素も強い。「ID 論」(インテリジェント・デザイン論)が 「科学といえるかどうか」 というレベルで(そんなもん、いえるわけないだろうに)すったもんだしている純粋アカデミズムの世界とは、趣がかなり違う。

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2006年10月15日

功徳を積ませるのも功徳

14日の土曜日、京都の大原を歩いてきた。前日に京都府綾部に出張して宿泊したので、初めて大原に脚を伸ばしたのである。

京都って、いつ行っても結構疲れる。さくさくっと眺めてさっさと帰ってくるつもりでも、つい長居してしまう。ゆっくりと座って、雰囲気に浸っていたくなる。なかなか帰れない。

それに、京都は市内の中心地をちょっと外れると、山ばかりだから、案外アップダウンが激しい。とくに洛北はハイキングと言ってもいいぐらいの山道だ。

三千院には、車椅子用の参拝路があった。階段ではなく、スロープを辿って廻れる配慮がしてあるようだ。とはいえ、もともとかなり傾斜がきついところだから、楽に廻れるわけではない。それは五体満足でも結構しんどいのと一緒だ。

なにしろ、日本の山寺は石段を登って参拝しなければならないところばかりである。仏にまみえるにも、体力が必要だ。

「日本の寺は、身障者に思いやりがないなあ」と声高に話している人がいた。うぅむ、一面では確かにそうとも言えるが、仏の慈悲を所現する寺が、思いやりをまったく度外視しているわけではない。考え方次第である。

日本の寺は、体の不自由な人が参拝する時に、五体満足の者が力を貸して功徳を積むことができるようになっているのだと思えばいい。体の不自由な人は、周りの者に功徳を積ましてあげる役割を担っている。お陰様で功徳が積めるのだから、それまた功徳である。

何でもかんでもありがたいと思っていればいい。そうすれば、確かに、何でもかんでもありがたくなる。お寺さんというところは、そういうシステムなのである。

ところで、大原バス停横の呂律茶屋で食べた 「にしん蕎麦」 は、手打ちという割に蕎麦は全然たいしたことないが、身欠きにしんと出汁のうまさで、十分に食えた。

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2006年10月14日

"Google Docs & Spreadsheets" で十分?

"Google Docs & Spreadsheets" というサービスが、まだ英語のみのベータ版だが、スタートしている。インターネット上でのワープロと表計算ソフトのサービスだ。

MS の Word、Excel と比べてしまえば、機能の豊富さでは月とすっぽんだが、この程度で十分というユーザーは、案外多いと思う。

これは無料サービスの「Google アカウント」がないと利用できないので、まだお持ちでない方は早めに取得してしまうことをオススメしてしまおう。取得はとても簡単で、パーソナライズド・ホームなど、いろいろなサービスを利用できる。

"Google Docs & Spreadsheets" に関しては、ワープロ機能に関しては、Windows の「アクセサリ」として標準で付いている「ワードパッド」程度のものと思えばいいようだ。

だったら、何もわざわざインターネットなんぞで、プログラムを提供してもらわなくてもよさそうなものだが、ウェブ上にドキュメントを保存しておくことができ、ウェブ・ページとして公開することも簡単にできるというのがミソである。アカウントを複数で共有すれば、共同作業でドキュメントを完成させることができる。

また、Windows のアクセサリには表計算ソフトが付いていないので、Google のサービスを無料で利用できるというのは、かなりのメリットである。

機能的には、細かいページ設定ができない (と思う。あるいは、私がまだそのやり方を発見していないだけかもしれなが) など、まだまだ改良すべき課題が残されているようだが、何しろ、無料であるということは強い。

本格的な使用には、やはり MS オフィスを使いたくなるかもしれないが、ごく普通のユーザーには、もうほんの少しの改良を加えるだけで十分だと思う。今の MS オフィスの機能を縦横無尽に使いこなせているユーザーなんて、そんなには多くない。

例えば、100ページ以上にわたる報告書のテンプレートを Word で作ってあげても、アウトラインの設定(箇条書きの番号振り)が使いこなせなくて「番号は手動で入力するから、設定を元に戻してくれ」なんて言われることが多い。インデント機能なんて下手に作って上げると、多くのユーザは、かえって頭がこんぐらがってしまうらしい。

エクセルのテンプレートなんていうのも、せっかく縦横斜めと自動で計算されるようにしてあげているのに、ちょっと目を離しているうちに、計算式の入っているセルに数値が入力されて、ずたずたに破壊されてしまうのがオチだ。

だったら、わざわざ高い金を出して MS オフィスなんて買う必要はない。"Google Docs & Spreadsheets" で、必要にして十分である。

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2006年10月13日

曲がり角をとっくに過ぎた mixi

近頃、mixi が何かと話題だ。上場したとたんについた 300万円近い株価が 220万円を切ったとか、ファイル共有ソフトで流出したやばいデータの持ち主が mixi の登録から割り出されて大騒ぎになったとか。

私も一応 mixi 会員なのだが、ほとんど放置状態だ。なぜか性に合わない気がする。

Wikipedia で知ったのだが、mixi の発行 ID 数をリアルタイムで表示する mixi カウンター というのがある。先日、ID 数が 700万を突破したと発表されたが、もう既に 708万なにがしの数字になっていて、しかも、リロードなしに、見る間にちょこちょこ増えていく。

このカウンターを公開しているはまちや2さんという方は、別に株式会社ミクシィの関係者でもないようなのだが、どうやってこの数字をつかんでるんだろう。他にも mixi 関連ツールをいくつか公開しているみたいで、まあ、かなりはまってらっしゃることだけは確実だ。

それにしても、発行 ID 数が 708万というのは尋常じゃない。総務省は今年 9月 1日現在の日本の総人口を、約 1億 2770万人と推定している (参照)。この推定値を元に、mixi の会員資格を有する 18歳以上の人口を計算すると、約 1億 500万人になる。

1億 500万人を 708万で割ると、なんと、18歳以上の日本人の、ほぼ 15人に 1人が mixi 会員ということになってしまう。中には禁止されている複数 ID 取得をしている会員も少なくないらしいので、実際にはこんなことはないのだが。

しかし、NetMileリサーチが同社に登録したモニターのうちから抽出した 1000人を対象に調査したところ、 21.9%が、mixi を利用していると回答したそうだ。こうなると、ヘビーなインターネット利用者を集めたら、まさに、石を投げれば mixi 会員に当たるという状態になっているとみていいだろう。

mixi は招待制なので、参加者の素性が明らかになり、健全で安心感のあるコミュニティが維持されるといわれているが、ここまで広がってしまったら、この謳い文句の実態はほぼ失われてしまっているといっていいだろう。

実際にちょっと調べてみれば、捨てアカ(捨てアカウント)なんていう言葉が横行しており、1人でいくつものアカウントを取得しているというケースが散見する(参照)。ここまで来たら、インターネットに普通にみられる無法地帯的性格が露わになってくるのも、時間の問題だろう。

私が mixi 会員になったのは、自分のサイトへのリンク元が mixi 内になっていることが多いので、この(一応)クローズドなネットワークの中でどんな風にいわれているのか覗いてみたいという、不純な動機からというにすぎない。

覗いてみれば、コミュニティの話題で「こんなこと言ってる人がいるよ」ってな感じのリンクがほとんどで、別にどうということもないのだった。もっとディープにクサされたりしているのかと思ってたけど。

ちなみに、mixi に限らず、当サイトへのリンクの典型例の一つは、「的を得た○○」という発言に対して「的は "射る" ものだろ」と、ステロタイプな突っこみがあり、それに対して、「あながち間違いじゃないみたい」と、当サイトの こちら のページにリンクしちゃうというものだ。既にインターネット上では、「お約束プロセス」化しつつあるんじゃなかろうか。

話を元に戻すが、ともあれ、上記に 「(一応)クローズド」 と、括弧付きで書いたように、今や、mixi が文字通りクローズドであると信じている会員は、よっぽどノー天気である。mixi 内のやりとりをコピーして、2ch や自分のサイトでさらすなんてことは、やろうと思えばいくらでもできる。(私はやらないけど)

いくら SNS でも、個人情報は必要以上に明かさない方がいいに決まっている。

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2006年10月12日

ノムヒョンさん、またすべった

日韓首脳会談が、相変わらず空気読めないノムヒョン大統領の 40分にわたる独演会でどっちらけになり、対北朝鮮の共同抗議声明が見送られたと毎日新聞が報じている。(参照

普段の毎日新聞なら、韓国大統領の歴史認識発言にはつい乗ってしまうところだが、今回は、さすがに引いてしまったようだ。

佐藤千矢子記者は署名記事で次のように報じている。

9日の日韓首脳会談で、安倍晋三首相が冒頭、盧武鉉(ノムヒョン)大統領に、北朝鮮の核実験に対し日韓共同で抗議声明を出そうと提起したところ、大統領は話をさえぎって靖国神社参拝など歴史認識問題を約40分にわたって論じ、共同声明も見送りになったことが分かった。首相同行筋が10日明らかにした。

会談に同席した韓国の潘基文(バンギムン)外交通商相が途中、大統領にメモを渡し、声明取りまとめを促すような場面もあり、歴史認識や北朝鮮政策で「青瓦台(大統領官邸)と外交通商省の温度差を感じた」という。

大統領にメモを手渡した潘基文(バンギムン)外交通商相というのは、国連のアナン事務総長の後釜になる人ではないか。

この人、日韓関係では対日強硬派的な発言を繰り返してきたわけだが、さすがに外交のプロである。麻生外務大臣との会談では、きちんと現実的な話ができたらしい。その潘氏が、そばで聞いていて、「こりゃ、ヤバイ」と思ったということは、今回の日韓首脳会談は大統領の暴走で、すべってしまったということなんだろう。やれやれ。

私は 3ヶ月前に「ノムヒョン = ベルボトム論」というエントリーで、ノムヒョンという人は一時的なファッションみたいなもので、、将来の韓国民にとって、思い出すのも気恥ずかしいような存在になるだろうと予言しているのだが、それが既に現実になってきたようだ。

文句言うばかりでまともなビジョンのない人が、瓢箪から駒みたいな形でトップに立ってしまうとどうなるかは、青島幸男さんが東京都知事だった頃を思い出せばわかる。青島さんは都市博中止以外は何の業績も残せず、都政は完全にしらけていた。

ノムヒョンさん、まだ任期が 1年ぐらい残っているのに、既に支持率が 20%台とも 10%台とも言われるようでは、史上最長のレイムダック期間を過ごさざるを得ないだろう。でも、任期中にさんざん叩かれておけば、ガス抜きができてしまって、大統領から降りたとたんに逮捕なんていう「韓国的お約束」がなくて済むかもしれないね。

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2006年10月11日

ビスケット 1枚で元気が出る不思議

2日続きの腹減りネタで恐縮だが、私は昔から不思議でたまらないことがあった。

山登りなどで、シャリバテ寸前、腹が減って脚がカクカクいいだした時、ビスケットを 1枚食べただけで元気が出る。食べたばかりのビスケットが急にエネルギーに変わるわけでもなかろうに、どうしてなんだろうという疑問だ。

私は、これはきっと「気分の問題」なんだろうと思っていた。以前、本宅サイトにこんな風に書いたことがある (参照)。

重いリュックを背負って、尾根道を縦走している。今日の行程は長い。もう少し先に行ってから昼食にしようと思っているうちに、つい午後の2時も過ぎてしまう。気付いてみると、「シャリバテ」 でフラフラだ。もう一歩も歩けない。

そんな時、リュックのポケットからビスケットを取り出し、2~3枚ポリポリと食べると、あーら不思議。今食べたばかりのビスケットがいきなり消化されてエネルギー源になったわけでもなかろうに、次の瞬間には、腹に力が入ってスタスタ歩き始めている。

こんな経験が何度もある。これだけでも、「食」 というのは気分の問題というのがわかる。何か口に入れたという気になりさえすれば、エネルギーは湧いてくる。

しかし最近になって、これは 「気分の問題」 ばかりではないのではないかと思い始めた。きっと、脳の中で、何か信号が変わってしまうに違いない。

飯時を過ぎても腹に何も入ってこないと、脳のどこかがあせってしまうんだろう。そして「注意シグナル」を発するんではあるまいか。「緊急警報、これから食糧不足の状況に突入すると見られる!」ってな具合に。

そして、その情報が脳から発せられると、体中の細胞が、エネルギー蓄積に走る。何しろ次に飯にありつけるのは、いつになるかわからない。無駄なエネルギー消費は極力抑えようとする。

そうすると、今まで元気に歩いていた脚にもエネルギーが注入されなくなって、とたんにカクカク言い出す。これがいわゆる「シャリバテ」だ。本当に、もう 1歩も歩けない気がしてしまう。

しかしそんな時、ポケットから取り出したビスケットをぽりぽりとかじる。すると脳は、先ほどの警戒警報はガセネタだったと知る。「なぁんだ、心配して損したぜ。飯はいくらでもあるじゃん。警戒警報解除!」ってなもんだ。

すると体中の細胞も安心して、体内に蓄積されていたエネルギーをどっと供給し始める。だから食べたばかりのビスケットが消化され、エネルギーに変わらなくても、既にあるエネルギーで元気になれる。

多分、こういうメカニズムなんではないかと想像するのだ。これを「ところてん効果」と名付けよう。

そうだとすると、ダイエットのために絶食するなんていうのは、愚かしいことということになる。下手に絶食すると、脳が指令を発してできるだけ体内にエネルギーを蓄えようとする。すると、ところてんが押し出されない。皮下脂肪は貯まる一方になる。

健康にダイエットしたいなら、きちんと食事を取りながら、がっちりと運動をした方がいいのだろう。よし、運動するぞ。三日坊主にならなければ。

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2006年10月10日

腹が減ると怒りっぽくなるのが哀しい

私はレストランとか飲食店とかいうところが、あまり好きじゃない。とくに、料理が出てくるまで長く待たされる類の店は鬼門だ。

待たされるうちに、腹が減る。普段は呑気な私だが、腹が減るとほんのちょっとしたことが気に障る。不機嫌になる。不機嫌になると、せっかくの料理がおいしく感じられない。

最悪なのは、相当に腹を空かせて飛びこんだファミレスとかで、従業員の不手際でなかなか注文を取りに来なかったりとか、30分待っても料理が出てこなかったりとかした場合だ。

決して怒鳴り散らしたりはしないが、相当な不機嫌モードに入り、ブスッとした表情になってしまうのが自分でもわかる。たかが空腹でこんなにも自らのエモーション・コントロールがきかなくなるのが、我ながら情けない。

先日もそんなことがあった。車で出かけた仕事先で、時間に追われて昼飯を食いっぱぐれ、ビスケット少々とコーヒーしか腹に入れないまま、ようやく一段落したのが、日も暮れた6時半頃だった。空きっ腹を抱えた帰り道、以前入った記憶のある蕎麦屋に飛び込んだ。

そこは、とびきりうまいというわけではないが、そこそこの手打ち蕎麦を出してくれる店という記憶がある。そして飛び込んだ時には、他に客は一人もいなかった。ありがたい。これなら、すぐに作ってもらえるだろう。

腹も減っていることだし、やや奮発して1,150円の鴨汁せいろ蕎麦を注文し、店にあった新聞なぞを読みながら待ったが、その日に限って、注文した品がなかなか出てこない。

ふと見ると、ガラス戸の向こう側で呑気に蕎麦打ちなんかやっている。やばい、今打ち始めたのか! それならそうと、初めから言えよ。わかってたら他に行くから。

車でさえなかったら、板わさとか卵焼きで蕎麦前の酒でもやりながら、打ち立ての蕎麦が上がるのを待てるところだが、運転するからには、そんなわけにもいかない。いやそれ以前に、ただでさえ昼飯抜きで腹がぺこぺこなのである。早く食わせろ!

調理場に顔を出し、時間がかかるかどうか、聞いてみる。「それほどは、かかりません」という。むやみに急かすのも大人げないので、そこはおとなしく引き下がる。

それからさらに 20分待つ。まだ出てこない。注文してからだと、優に30分は待ったことになる。蕎麦屋で待つ 30分なんて、ほとんど永遠のようなものじゃないか。初めから他の店に行っていたら、とっくに食い終わり、再びハンドルを握って平和に家路を辿っている頃だ。

堪りかねて再び調理場に顔を出し、まだ鴨汁の方を作り始めていないのなら、もうキャンセルしてもいいのだがというようなことを、遠回しに言う。

向こうは、「もう作り始めているから、すぐにできる」という。「すぐって、何分なのか」と問いつめると、「5分」だという。5分がすぐか?それだと、そば 1枚注文してから 40分待つことになるではないか。

それから 5分待った。まだ出てこない。10分近く経ってようやく運ばれてきたが、「お待たせして済みません」の一言もない。この時間帯に、私の他に客がいなかったというのも無理もない。接客がなってない。

出された品を 1分もかからず、鬼のような形相でかき込んで秒殺した。私はただでさえ早食いだが、腹が立つとさらに異常に早い。これは「まともに味わってなんかやらん」という意思表示のようなものである。

蕎麦湯も飲まず、代金を叩きつけるように払って店を出る。せっかくの手打ちの鴨汁せいろ蕎麦だが、腹を立てるためにのみ、1,150円を払ったようなものである。

レストラン、飲食店のあまり好きじゃない私だが、蕎麦屋だけは別だと思っていた。蕎麦屋では注文の品が出てくるまで、長くても 10分以上は待たされたことがないからである。しかし、世の中にはこんなこともある。

高級レストランや高級料理屋では、料理が出てくるまで時間のかかることがあっても、食前酒や前菜、それにきっちりとした接客で、客に不満を抱かせないようにする。考えてみれば、そうした店の料金が高いのは、料理の質もあるだろうが、そうしたトータルなサービスを含めた話だとわかる。

ということは、余計な時間を、余計な金を払って買っているということにもなる。そんなこともあって、高級レストランや高級料理屋といった類の店は、どんなに旨い料理を食わされても、コストに見合わないというか、金を払えば払うほど時間を無駄にしているという気が、私にはしてしまうのだ。

早く言えば、貧乏性ということなのかもしれない。まあ、そんな高級店は行く機会もそれほど多くないので、それはそれでいいとしておこう。それに気の合う人たちと行けば、それなりに楽しい時間を過ごせることだし。

それにしても、我ながら大人げない話である。落ち着いて考えれば、夕食を食うのに、たかだか 40分待たされただけで、それほどまでに憤慨しなくてもいいじゃないかという気がする。これでは餓鬼道に迷っているようなものではないか。

などと、もっともらしく反省しているようなことを書きながら、心の底ではまだむかついている。ああ、なんて修行の足りない私。こうした点では、私の妻の方がずっと人格ができている。

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2006年10月 9日

小沢さん、もう義理は十分果たした

もう、小沢さんたら、昔の大親分の忘れ形見のお嬢さんに義理立てしたつもりなのかもしれないけれど、民主党、自爆もいいところだ。

「庶民派的ないいところを、最近失い気味」みたいな言い方をする人もいるけど、実は真紀子さん、昔からちっとも変わらない。ただの「わがままな毒吐きオバサン」でしょ。

私は以前から、近所とか社内の同じ部署なんかにいたとしたら、うっとうしくてたまらないタイプのオバサンだなあと思っていた。彼女が外務大臣をしていた頃は、官僚嫌いの私が、密かに外務官僚に同情していたのである。

ちょっと前までは、その「空気読めなさ」が、瓢箪から駒的にうまい具合に作用してしまって、道理のわからない層に妙な人気を誇っていた時期もあったが、ここに来てすっかり底が割れてしまったようだ。その割れようの凄まじさが、哀れといえば哀れである。

私は新潟人は好きで、とても気の合う新潟出身の友人も何人かいるのだが、あのおばさんは新潟とはいえ、やっぱり育ちは「目白」なのだろうなあ。風雪に耐える奥ゆかしさというか、雪国の人特有の密かに他のために尽くす心意気というか、そういったエレガントさが微塵も感じられない。

まあ、もちろん、例の国会質問に呆れてしまって、こんなことを書いているわけなのだ。呆れの原因については、もう、あちこちのブログやニュースショーなどで、これでもかこれでもかと指摘されているから、ここで改めて書く必要もないだろう。

だけど「無骨な東北人らしさ」の一方の雄である小沢さんが、妙な義理立てのために民主党の質問時間を 1時間も真紀子さんに上げたんだったりしたら、「もう、そんなことはおやめなさい」と言うしかない。既に、義理は十分果たした。

あの「空気読めなさ」が、民主党内に蔓延したら(ただでさえ、その兆候あるのに)、もう目も当てられないだろうよ。

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2006年10月 8日

内輪の顔を立てて、対外的な面目を失う

先月、仕事で宮城県の「大崎市」というところに行った。しかし、そう言っても、ほとんどの人はそれがどこだかわからないだろう。

「古川市とその周辺が合併して、大崎市になった」と言うと、かなりの人が、「ああ、古川か」と納得する。「古川」なら知っていても、「大崎」なんて誰も知らないのは哀しい。

ちょっと調べてみると、「大崎市」というのは、古川市、遠田郡田尻町、志田郡三本木町・松山町・鹿島台町、玉造郡岩出山町・鳴子町の 1市 6町が、いわゆる「平成の大合併」で一緒になって誕生したとある。

この中で、古川は東北新幹線の駅名にも、東北道のインターチェンジ名にもなっているので、一般に知名度がある。また、鳴子町は温泉とこけしで有名だ。この知名度に勝る 2つの名をどぶに捨ててまでこだわった 「大崎」 とは、どんないわれがあるのか?

これもちょっと調べたら出てきたのだが、この辺りは、古くは大崎地方と呼ばれ、昔は郡が 5つあったので、「大崎五郡」と言われていたのだそうだ。しかし私の妻はそのすぐ近くの仙台市出身だが、「大崎地方」 なんて、聞いたこともないそうだ。

より年上の宮城県出身者何人かにも聞いてみたが、「大崎地方」 なんて、全然知らないという。かなりマイナーな名称のようだ。普通ならば、知名度の抜群に高い「古川」の名前になりそうなものだ。で、Wikipedia にも次のように記されている。(参照

大崎市の市名は一般公募により決められたものであるが、公募においては、中心市である「古川市」が応募数でトップであり、最終選考まで残ったものの、合併協議会の委員による投票で「大崎市」に決定した。

合併協議会委員のお偉方たちが、「古川の地名のみを残してしまっては、その他の町村の顔が立たない」とかなんとか、余計なことを考えて、忘れられかけた昔の名前を無理矢理持ちだしてしまったんではないかと、勝手ながら想像してしまう。

こういうのって、一般公募とは名ばかりのアリバイ作りのようなもので、実際は出来レースというのが多いからね。

しかし、誰も知らない「大崎」の名前にしてしまったおかげで、日本中で「それどこ?」とか、「山手線の五反田の隣?」などということになる。内輪の顔なんか立てて、対外的面目を失うのである。

これって、マーケティング的に考えても、かなりの損失である。なにしろ新幹線の駅名、高速道路のインターチェンジにまでなっている地名も、名の知れた温泉地の名前も、正式な市の名称とちっとも連動しないんだから。

そもそも「出身地はどちら」聞かれ、「宮城県の大崎市です」と答えなければならない身になったら、かなり哀しい。

聞いた相手に怪訝な顔をされ、「えぇと、昔は 『古川市』 と言ったところです」、「鳴子温泉のあるところです」補足説明をして、ようやく「あぁ、それなら知ってます」になるというのは、観光リソースから言っても、かなりの損失だ。

これ以上どことは言わないが、今回の平成の大合併では、これに類したナンセンスな地名がかなりあるようだ。すんでのところで幻となった「南セントレア市」は、多分マーケティング発想が前面に出すぎたのだろうが、そうした発想が貧弱すぎるのも考えものである。

10年も経ってから、「オヤジどもが勝手に変てこな地名にしてしまったおかげで、しばらくは商売やりにくくってしょうがなかった」なんて言われそうである。

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2006年10月 7日

「東京だぬき」 で、いろいろ考えた

妻がどこからか、「東京だぬき」 という初めて聞く名前のお菓子をもらってきたようで、「おやつに食べて」という。「東京」と名の付くお菓子で、こんなにマイナーなのも珍しい。

なにより、発想が 「ひよ子」 のパクリっぽく、今時、オフィシャル HP も見あたらない。マイナー商品の要素をしっかり満たしている。

T_tanuki

左の写真が問題の「東京だぬき」である。接写に失敗して、ちょっとボケボケだが、そのマイナー感にふさわしいといえば言えるかもしれない。

「ひよ子」に類した菓子はいくらでもあるが、他はある程度洗練された形になっている。しかしこの「東京だぬき」は、幼稚園の子どもの粘土細工レベルなのが、いかにも哀しい。

デザインとして、「うん、どうみてもたぬきだ!」と言わせるだけのファクターが、決定的に欠けている。「たぬき」のくせに、パッケージも本体も、見事に「きつね色」だ。少なくとも目の周りだけでもちょっと焦がしてあげれば、しっかりと「たぬき」なのに。

これでは、犬にも猫にもブタにも、下手すると、となりのおっさんにも見える。

そもそも「東京だぬき」という名称からして、ちょっとどんくさい。ネーミングの常道から言えば、濁らずに「東京たぬき」と、ちょっとだけ可愛らしくすれば、少なくとも一般ウケはするはずだ。これが「江戸だぬき」なら、語感として自然だけど。

と、ここまで考え、ふと思い立って「江戸だぬき」でググってみると、なんだ、ちゃんとあるではないか(参照)。これでわかった。パクリとしては「ひよ子」直系ではなくて、「ぽんぽこだぬきのお饅頭」「江戸だぬき」を経た、分派の末端だったのか。道理で「東京だぬき」だったのね。

とまあ、さんざんクサしてしまったが、これが食べてみると案外うまいのである。甘みにくどさがなく、シャープ感がある。口に入れてしまいさえすれば、こう言っちゃなんだが「ひよ子」より上だと思う。自信を持ってオススメしてもいいぐらいだ。

ところで、「タヌキ」は英語で "raccoon dog" という。英語の方から直訳してしまうと、「アライグマイヌ」である。英語民族にとっては、アライグマは珍しくなくても、「タヌキ」なんて見たことないから、きちんとした名称がなく、無理矢理そう呼ぶしかないみたいなのだ。

というのも、タヌキは東アジア独特の動物で、ヨーロッパにはいなかった。しかし、ロシア人が毛皮を取るために移入した結果、驚くほどの広がりを見せ、現在では、東欧、北欧はおろか、イタリアでも目撃されているという。

さすが、千畳敷と言われるだけのことはある。タヌキ、恐るべし。ちなみに、商家の軒先に信楽焼のタヌキがいたりするのは、「前金でお願いします」のメタファーであるとの説がある。

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2006年10月 6日

中秋の名月の建前と本音

今日は旧暦の 8月 15日。ということは中秋の名月でお月見なのだが、台風と秋雨前線の影響で、日本の北と南の端っこの方を除くと、月は見られそうにない。

ただ、今年の場合、本当の満月は旧暦の 15日とはちょっとずれて出現する。明日か明後日の月の方が、満月っぽいのだ。

旧暦というのは月の満ち欠けに沿っていて、一日が新月で十五夜が満月と、大抵の人は思っているのだが、実際には誤差が生じる。何しろ旧暦というのは「閏月 (うるうづき)」というのが設定されているほどで、今年も 閏七月というのがあって、1年が 13ヶ月あったりするのだ。

それぐらい、しょっちゅうズレズレになっているのだから、十五夜が満月でないぐらいは、朝飯前であるんである。今年の場合は、十五夜にあたる今日(6日) の月齢は、13.6。そして明日の月齢が 14.6、明後日が15.6 になる。

ぴったり 15.0 というのが理想的な満月なのだが、そんなことは、そうしょっちゅうはない。この先では、来年の 2月 3日が、ぴったり 15.0 になるというぐらいのものだ。

だから今年の中秋の名月は、建前を取るなら本日のちょっと痩せた満月で我慢しなければならないし(どうせ、このあたりでは見えないけど)、本音で迫っても、明日の満月ちょっと手前、明後日のちょっと過ぎというところで手を打つしかない。

名月というのは、かなりの部分、建前で運用していくしかないもののようなのだが、細かいことにこだわらずに見上げれば、やはり秋の月は美しい。

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2006年10月 5日

「おみおつけ」 は、ちょー美化語?

文化審議会国語分科会というところが、また何だかやってくれているようだ。敬語を 5分類にするだと? ふーん。(参照

従来 「尊敬・謙譲・丁寧」 と 3分類だった敬語を、5分類にするという。「お料理」 など上品さを表す言葉は新たに 「美化語」 とし、謙譲語は性質により 2種類に分割する。

何のために、3分類を 5分類に複雑化するのかというと、「敬語の性質を厳密に分類することで、使い方の混乱を防ぐのが狙い」 なのだという。

ふーん、この敬語小委員会という組織の委員の方々は、「厳密に分類すると運用がしやすくなる」 なんていう古典的な幻想を、今の世に抱いておいでらしい。国語の専門家であっても、分類の専門家じゃないからかしらん。

私は今年の 5月に、「分類は魔物」というエントリーを書いて、分類という作業のうっとうしさを訴えた。ちょっとだけ自分の過去ログから引用してみる。

正確に分類しようとして、細かいカテゴリー分けにすると、必ずどれにも当てはまらない 「その他」 というアイテムが増加する。これでは困るから、じゃあ、どれかに当てはまるように、大まかな分類にすればいいかというと、今度は大まかすぎて中身がよくわからないことになる。

それでは困るというので、再び分類を細かくしようとすると、勢い「あれもこれも」ということになり、細かくなりすぎて、またしても「その他」ばかりが増えるという堂々めぐりになる。

今度の敬語の分類に関していえば、例えば「第22期  国語審議会  第1委員会 ((第2回)議事要旨)」というページでは、次のような説明がされている。(ちなみに、このページタイトル、「括弧」を二重で使っているんだけど、正しい国語としては、これでいいんだろうか?)

同じ「お手紙」でも,「お手紙を差し上げる」は謙譲語,「先生からのお手紙」なら「尊敬語」,「お友達にお手紙を書きましょう」のような場合は美化語である。

うーむ、ややこしい。それに、この文章、読点を 「カンマ」、句点を 「マル」 にしているというのも、あながち間違いとは言えないけれど、なじめない。

実際問題として、こんな風に厳密(?)に分類したからといって、敬語の使い方がまっとうになったりするもんなんだろうか? かえって変なところまでこだわりすぎて、つっかえてしまったりするんじゃなかろうか。

同じ「おフランス」でも,「おフランスに参るざんす」は謙譲語,「おフランスのお芸術」なら「尊敬語」,「おフランスではこう言うざんす」のような場合は美化語であると言ってもいいだろうか。

ちなみに、上記のパロのカギ括弧の使い方の不統一は、引用した原文を踏襲したものである。

なんだか、肝心な報告書における国語の運用がこれだけテキトーだと、「まっ、どうでもいいか」という気にさせられる。あるいは、その効果をねらったものか。

ちなみに、「おみそ汁」は美化語で、「おみおつけ」は「ちょー美化語」だろうか?

私は、案外まともに敬語を使える方だと自分では思っているけど、分類なんてのは、ほとんど意識いたしませんことよ。ちょっとだけ意識的になるのは、尊敬語と謙譲語の違いだけだが、それにしたところで、慣れてしまえば自然に申さるることでありんすわいな。

前述の「議事要旨」というのを通読してみると、委員の中には、かなりまともなことを指摘されている方もおいでのようだが、結論となってしまうと、誰か声の大きい方の主張に引きずられる形になるようだ。いろんな行政系の会議の宿命みたいなものかもしれないが。

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2006年10月 4日

これ、おいくらのお洋服?

アパレル・メーカーには時々、「おたくの品番xxxx番は、おいくらの商品ですか?」 という値段の問い合わせ電話がかかってくる。

一番多いのは、町のクリーニング屋さんからで、「洗濯に失敗して台無しにしてしまい、弁償しなければならないので」というものだ。こうしたケースは、案外少なくない。

ただ、衣料品というのは永遠にもつものではないので、長く着れば多少はへたってくるし、ほころびだって出る。だから、3年も 4年も前に買ったものならば、購入当時の値段の全額を弁償するのかどうか、そのあたりは、多分、当事者同士で相談しているのだろう。

しかし、中には押しの強い消費者もいるので、かなりくたびれた服でも、まるまる弁償させてしまうというケースもあるだろうと想像される。こうしたケースでは、消費者は圧倒的に強い。大きな声でまくし立てれば大概の要求は通ってしまうというのは、ちょっと恐い。

洋服の減価償却期間なんて、法律でも明確な基準はないのだろうし。

値段の問い合わせは、クリーニング店からばかりではない。最近目立つのは、美容院からの問い合わせだ。毛染め液を洋服の襟あたりにつけてしまい、染みをつくって台無しにしてしまうというケースが目立つ。

そればかりではない、一般消費者からの問い合わせだって結構ある。「実はいただき物なんですけど、お値段がとても気になるので……」というのが多い。かなりセコイお話なのである。

女性の世界では、洋服をつい衝動買いしてしまったもののやっぱり自分ではあまり着ないので、親戚や友達に「きっとあなたの方が似合うわよ」とかなんとか言って、体よく押しつけてしまうなんてことが、よくあるようなのだ。

あげてしまった方は、タンスの肥やしを処分して、せいせいしているのだが、もらった方は「彼女に借りなんか作りたくないわ」なんて余計なことを考えて、負担になってしまう。結局は「返し」をしないと済まないような気がする。

すると、どの程度のお返しをしたらいいのか気になって、夜も眠れなくなる。ちょっとモノのわかった人なら、一見すればどの程度の値段か見当がつくが、世の中そんな人ばかりではない。そこで思いあまってメーカーに直接電話までして、値段を聞いてくる。

なんとも哀しい性(さが)である。

さらに問題は、値段さえわかればいいというものではない。メーカーに問い合わせてわかるのは、いわゆる「メーカー小売希望価格」というもので、つまりシーズン終盤のバーゲンで値引きになる以前の値段である。

しかし実際には、ちょっと周りを見回せばわかるように、今時、洋服を値引きになる前の値段で買う人なんて、あまり多くはない。

アパレル業界の実際の収益実態から、ばっくりと類推すると、世の中の人間によって着用されている洋服のほぼ半分(あるいは、それ以上)は 「セール価格」(割引価格)で買われたものである。

大抵の人は、自分のワードローブを眺めれば納得すると思う。かく言う私だって、手持ちの半分以上は「セール価格」で買ったものだ。3割から 5割引、下手したら、アウトレット価格で 7割引ぐらいで買ったものかも知れない。

町のクリーニング屋さんが洗濯の取り扱いに失敗して、預かった洋服を台無しにしてしまう。お客は「お気に入りのお洋服なのに、どうしてくれるのよ!」とせっつく。メーカーに電話して聞いてみると、5万 8000円の商品だという。

そこでしかたなく、5万 8000円を全額弁償する。しかしその洋服は、5割引の 2万 9000円で買ったものだった可能性が、50%ぐらいあるのだ。割引価格だったとすると、そのお客は単純計算で 2万 9000円の得をしてしまうことになる。

3万 6000円の商品をバーゲンで 1万 8000円で買い、1~2度着て、お友達にあげたら、忘れた頃に 3万円ぐらいの値打ちの「お返しの品」が贈られてきた。これも、単純計算で 1万円以上の 「お得」 ということになる。

ああ、世の中奇々怪々である。洗濯屋さん、多分薄々わかってると思うけど、洋服の値段なんて、あまり当てにならないものなんだよ。

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2006年10月 3日

20万ヒット記念和歌

うっかり忘れそうになっていたのだけれど、先月 21日に、本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の 20万ヒット目が達成されたのだった。

いつものように、キリ番ゲットの方には、記念の和歌を捧げることになっていたのだが、12日たった今日まで、何の連絡もないので、そろそろ諦めることにした。

このところ、8万、10万、15万ヒットと、それぞれキリ番ゲットの連絡があったので、和歌を捧げさせて頂いた。とくに、15万ヒット目は、カウンターがきちんと回らなかったせいで、キリ番ゲットが 2人という結果になったので、2首詠んでしまった (参照)。

ところが、今回は誰からも連絡がない。一見(いちげん)のお客が、たまたま無意識に踏んでしまったのか、あるいは、十分に意識して踏んだのだが、「けっ、和歌なんておかしくって!」と放っておかれたのか、よくわからないが、まあ、そういうことである。

常連さんの中には結構意識して、密かに「和歌狙い」をされた方も少なくなかったようなのだが、こればかりは、運とタイミングのなせる技なので、狙えば当たるというものでもない。

無意識の一見さんか、意識的な和歌嫌いの常連さんか、どちらとも言えないが、人知れずキリ番を狙っていた方の「和歌を捧げられる」というチャンスを、結果的に奪ってしまったというのは、確かなようなのである。

キリ番ゲットが意識的な和歌嫌いの方だったとしたら、他の人にちょっとタイミングを譲ってくれてもよかったのになあ、なんて思ってもみるのだが、まあ、どうこう言っても仕方がない。次は 30万ヒット目で「キリ番和歌」を実施しようと思うので、よろしくお願いしたい。

ともあれ、だいぶタイミングはずれたが、20万ヒットのキリ番記念の和歌は、和歌ログの方で詠んでおいた。

二十ものよろづの坂を越え来たり尾花は秋の夜の雨に濡れ

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2006年10月 2日

「言挙げ」せぬ蕎麦の花

おっと、もう 10月に足を突っ込んでしまっているのだな。蕎麦の花の咲く季節だ。もうすぐ、新蕎麦も出回るし。

茨城県というのは案外蕎麦の多く作られているところで、ふと見ると、道端の畑に蕎麦の白い花が咲き乱れていたりする。それはそれは美しいものである。

ところが、蕎麦の花の存在感というのはちょっと不思議なもので、ふと気付いてしまえば、見とれるほど素晴らしいのだが、気付かない人は、全然気付かなかったりする。

 Soba_20250210193801

「○○に行く道に沿った蕎麦畑の花が、綺麗に咲いてたね」と言っても、「えっ、そんなところに蕎麦畑なんて、あったっけ?」なんて、びっくりされてしまったりする。あんなにも、見渡す限りの白い花盛りなのに。

これは、多分、白く可憐な蕎麦の花のさりげなさのせいかもしれない。本当に、蕎麦の花というのは、見とれてしまうといつまでも見とれてしまうほどなのに、ことさらな自己主張をしないのだ。だから、気付かないと、全然気付かないということもある。

昨日の 「和歌ログ」 で、こんな歌を詠んだ。

 言挙げをせぬ白さなり道端の蕎麦の畑に花は咲き満つ

Goo 辞書によると、「言挙げ (ことあげ)」 とは、「言葉に出して言い立てること」となっていて、「言葉に呪力があると信じられた上代以前には、むやみな『言挙げ』は慎まれた」と説明されている。

万葉集の柿本人麻呂の歌が有名だ。

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く(ことさきく)ま幸く(まさきく)ませと つつみなく 幸く(さきく)いまさば 荒磯波(ありそなみ)ありても見むと 百重波(ももえなみ 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我は 言挙げす我は

(葦原の瑞穂の国は神意のままに言挙げしない国だが、それでも言挙げを私はする。元気に無事でいてくれと・・・)

「言挙げ」をしないことが「神ながら」の道でありながら、人麻呂は「言挙げす我は」と繰り返す。むやみな「言挙げ」が慎まれたが故に、ここぞという時にこそ敢然と「言挙げ」し、「人ながら」の道を突き詰めることで、逆説的に「神ながら」の道に至るとでもいうかのようだ。

しかし、常陸の国の蕎麦の花は、さりげなく咲いている。慎ましく「言挙げ」せぬ様は、実は敢然たる「言挙げ」にも勝るとも劣らぬ力があるような気もする。

ともあれ、新蕎麦を食うのが楽しみだ。ああ、なんて「人ながら」の食い意地だろう。

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2006年10月 1日

受信料不払い法的措置の、実際の効果

NHK が、受信料不払いの個人、法人に、支払い督促の法的手続きを 11月にも開始する方針を固めたと報道された。(参照

第 1弾の対象者は、数十件程度になる見通しということなのだが、不払いは全体で 115万 2000件にも登るという。宝くじの一等賞に当たる確率と、どっちが高いだろう?

「数十件」 というのを、仮に 50件としよう。これも仮に、1件あたり平均で 20万円の取り立てに成功したとする。増収 1,000万円。法的手続きにどれだけのコストがかかるのか知らないが、仮に 1件当たりばっくりと 1万円として、合計 50万円。差し引き、950万円のプラス。

職員 1人分の人件費が浮くかも知れない。なんだ、そんなもんか。

いや、実はそれだけに止まらない。民事的に請求されてコトが面倒になることを恐れて、「ちょっとだけ不払いしてみたけど、やっぱり払っちゃおうかな」 なんてことになる軟弱層が結構いるだろうから、そっちの方面での効果の方が大きいだろう。

一種のアナウンス効果だ。確かに、一連の NHK 不祥事に怒ったふりをして、軽い気持ちで流行りに乗った層の何割かは、しかたなく払っちゃうだろう。不払いを始めてまだ日も浅いだろうから、支払額自体もそんなにかさむことはないだろうし。

でも、ニュースをよく読んでみるといい。督促の対象は、「長期間にわたって受信料の不払いを続ける世帯、事業所」ということである。「長期間」の基準がどの辺にあるのかしらないが、たかだか、2年や 3年じゃなさそうだ。だから、去年やそこらで不払いに転じた層は、安心していても大丈夫だろう。

問題は、そうした層も年月が経つにつれて「長期間の不払い」になっていくということだが、一度にたかだか数十件程度の法的手続き移行というのでは、自分のところに来る確率というのは相当に低い。交通事故にあう確率より低いかもしれない。

アナウンス効果の期待されている層は、よく考えれば、まだまだ払わずに済みそうだし、実際に督促された層は、あまりの高額に払いきれないというケースが多いだろう。

というわけで、結局、大した効果はないんじゃないかなあ。何もやらないよりマシだと踏んだんだろうか。要するに、上がうるさいんだろうけど、結局のところ、労多くして功少なしという空しい思いを噛みしめるのは、実際の手続きに当たる下っ端の職員なんだろうなあ。

ちなみに、うちは 「御奉納」 のつもりで払っている。以前にも書いたように、「奉納」という以外の合理的理由が見あたらないので。

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