変だからこそ、面白いんじゃないか
「いじめ」は、日本で最悪の病理であると思う。いくつかのブログで、いじめとは「構造」の問題だと指摘されている。
私もそれに賛成する。というより、いじめとは「構造」 の問題というより他にない。しかし、単にそう言って評論家じみた態度を取っているだけでは、何の解決にもならない。
われわれ一人ひとりが、「我が内なるいじめ」に向き合ってみなければならない。子どもの頃から現在に至るまで、「自分はいじめとは完全に無縁だった」と言い切れる人間が、果たして何人いるだろうか。
私自身は、先月 23日のエントリーで、次のように書いている。
「典型的弱者をいじめる」ということは、繰り返すが、私にとっては強い生理的嫌悪の対象である。だから、これまでの人生で強者に楯突くことは何度もあったが、弱者を直接いじめたことは、一度もない。そう言い切れるのは、私の誇りである。
しかしである。一見すると弱者には見えない対象を、まるで暗黙の合意の上に立ったように、軽い気持ちでからかったことがなかったかと問われれば、「一度もなかった」と自信を持って言うことはできないような気がする。
私は意図的に人をいじめたことは、一度もないけれど、無邪気なじゃれ合いのような感覚での、ちょっとした「からかい」が、相手の心に突き刺さっていなかったという保証は、全然ないのである。
振り返ってみれば、「寸止めのいじめ」的なことは、無自覚にやってしまったことがあると思う。今から思えば、その疑いのある場面が一つ一つ思い出される。それは自分の未熟さである。反省しなければならない。
ただ、それが本当のいじめにまでは発展しなかったことは、私にとって救いである。あのときからかっってしまった同級生と、私は今、笑って思い出話をすることができると思う。
逆に、人は多かれ少なかれ「いじめられた」という経験もあるのではなかろうか。私自身にしても、今から思い返せば「あの時、もしかして、自分はいじめというものに遭っていたんだろうか?」と思われないこともない状況にいたこともあった。
しかし幸いにも、その時は私自身が「いじめられている」ということに関して、ほとんど無自覚だった。「何を愚にもつかないことを、ごちゃごちゃ言ってるんだろう?」ぐらいに思って、のほほんとしていた。
その無自覚故に、私はいじめグループよりも強いパワーを発揮してしまったらしく、結果として私は「いじめられた」という自覚がほとんどない。幸か不幸か、私は「いじめられっ子」の素質に欠けているのだと思う。
それだけに下手すると、いじめられる者の心の痛みを知らずに育ってしまいかねなかったのだが、後になって、「そうか、あれはいじめだったのかもしれない」と気付いたことで、そうならずに済んでいる。つまり「軽い "いじめ" らしいもの」に遭遇したのは、こと私にとっては、ある意味、幸いなことだった。
「煩悩即道場」 の ululun さんが、自分のいじめに遭った体験を 3日間にわたって (参照 1、参照 2、参照 3) 告白している。彼がいじめられたのは、毎週教会に通うような、敬虔なクリスチャンの家庭に育ったことが理由だったという。
彼は、「どんなに彼らが苛烈ないじめをしてきても私は日曜のミサで彼らを許して貰うよう神に祈り、その事が発覚してさらなるいじめを招いていた」と書いている。こともあろうに、自分のために祈ってくれる者にいじめを加えた馬鹿餓鬼どもは、神に恥じるがいい。死ぬほど恥じるがいい。
ululun さんは「中野富士見中学いじめ自殺事件」というページから多くを引用されているが、次の件が私の心に残った。
社会福祉法人「いのちの電話」の斎藤友紀雄事務局長は、「『いじめ』 は世界中で起きていますが、日本の場合、その一番大きな原因は、異質なものを認めないという精神文化に根ざしていると思います。偏差値教育や核家族化によって孤独を強いられた子どもたちは、必死に自分の居場所を求めるのですが、性格や能力が集団と調和しない子は、集団から排除されてしまう。つまり、村意識が働いて、村八分にされてしまうのです」と語る。
いじめが問題になるのは、ある意味、余裕のない時代である。異質なものを認める余裕のある時代には、いじめはそれほど大きな問題にならない。その意味では、いじめる側の心も、何かに押しつぶされそうになりながら、必死に助けを求めているのである。
太平洋戦争中の軍隊内の苛烈ないじめに関しては、私は父によく聞かされた。父は戦争に行った中では最も若年世代だったから、最も苛烈ないじめを引き受けたのである。「あんな下らんことをしていたから、戦争に負けたのだ」と、父は言う。
あるいは、絶望的な軍隊だったからこそ、理不尽ないじめが横行したといえるかもしれないが。
そして、バブル崩壊後、社会の枠組みが危機に瀕したまま長らく放置され続けた今、「いじめ」がこれまでで最大の焦点となってしまっているのだと思う。多分、絶望的社会なのだ。
いじめという行為自体、ある意味、助けを求める声のもっともいびつな姿であるとも言える。
私自身は、以前のエントリーにも書いたが、弱者をいじめることに「生理的な嫌悪感」を覚えてしまうタイプである。それは幸せなことに、私自身が 「異質なもの」 に尽きせぬ興味を示し、共感すら覚えてしまうという「特異体質」だからである。
私は昔から、転校生に一番先に話しかける子どもだった。そして、そいつがごく当たり前のやつだとわかると、とたんにつまらなくなって、興味をなくしてしまうのだった。不思議なことに、ごく当たり前のやつと判明した転校生は、クラスでは決まって人気者になった。
私は、「変だからこそ、面白いんじゃないか」と思ってしまうのである。そして「みんなで、そう思おうよ」「みんなも、それなりに、変になろうよ」と言いたいのである。
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