北陸と東北の差
金沢出張から帰ってきて、あのたかだか人口 50万人にも満たない地方都市の文化の奥行きに、まだ圧倒されている。
ところで、北陸は古来「越(こし)の国」と呼ばれ、それが奈良時代には既に、越前、越中、越後の三国に分割されていた。能登と加賀の二国は、越前から分離されている。
同じように分割されたのは、備前/備中/備後のほか、九州の筑前/筑後、豊前/豊後、肥前/肥後があり、さらに関東では前後ではなく、上総/下総、上野/下野と、上下で分けられた。
同様に、我が郷里、東北では、出羽国が羽前/羽後、陸奥国が陸前/陸中/陸奥に分けられている。だが、なんと、東北の二国が分けられたのは、明治元年のことなのだ。それまでは、あのだだっ広い東北には、陸奥国と出羽国しかなかったのである。
ずいぶんなことなのである。どうせ辺境の地だから、2つに分けておきさえすれば十分と思われていたようなのだ。奈良時代には越前/越中/越後が独立し、さらに越前と越中の間で、まもなく加賀と能登が独立していたという北陸道とは、えらい待遇の差である。
しかもわが庄内は、真ん中を流れる最上川を境に、南が羽前、北が羽後に無理矢理分けられてしまっている。同じ庄内平野なのに。
これは多分、幕末の動乱で庄内藩が賊軍だったため、明治の御一新以後、なかば見せしめ的に不自然な境界線で分けられてしまったのだろう。その後の廃藩置県で、旧庄内藩は再びまとまって、酒田県という県になり、まもなく山形県に吸収された。
こうした歴史を振り返るにつけ、北陸という土地は、やはり都に近かったのである。辺境の出羽や陸奥とはわけが違っていたのだ。それをどうこう言っても、今さら詮無きことだが。
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