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2007年3月に作成された投稿

2007年3月31日

Los Aangeles の正しい読み方

Los Angeles(ロサンジェルス)を「ロス」と略すのに、ものすごく抵抗があって、おそらく、今までの人生で一度も使ったことがない。

派手なシャツの襟をジャケットの襟の外側に出し、真っ黒なサングラスで葉巻をくゆらせながら「おぉ、こないだも "ロス" に行ったらよぉ」ってな感じの、力道山じゃあるまいし。

「ロス」なんていうと、フィリップ・マーロウが車で通り過ぎるサンセット・ブールヴァードが、突然、どっかの闇市の通りか何かの様相を呈してしまいそうだ。

そもそも、Los Angeles の "Los" は、スペイン語の定冠詞の男性形だから、英語でいえば "the" みたいなもんである。従って、Los Angeles を「ロス」と呼ぶのは、The Beatles を「ざ」と呼ぶようなもので、私にはちょっと耐え切れないのだよ。

それに、Las Vegas(ラスベガス、Las は Los の女性形)を「ラス」と言わないんだから、整合性に欠けて気持ち悪い。

それじゃあ、どう言えばいいのかということになると、これが一筋縄でいかない。「ロサンジェルス」「ロサンゼルス」 「ロスアンジェルス」「ロスアンゼルス」 などなど、諸説ある。ググって見ると、以下の結果になった。

ロサンジェルス……………約    391,000 件
ロサンゼルス  …………… 約 4,920,000 件
ロスアンジェルス ……… 約    236,000 件
ロスアンゼルス……………約    274,000 件

へえ! 意外なことに、「ロサンゼルス」がダントツなのであった。【ロサンゼルス観光局公式サイト】 なんていうものもあるぐらいなので、公式には「ロサンゼルス」が採用されているらしい。また、Wikipedia には、以下のようにある。

"Los Angeles"という都市名は、「天使(複数)= the angels(英語)」を意味するスペイン語 los ángeles に由来している。スペイン語での発音は「ロス・アンヘレス」(太字はアクセント)。英語では「ローサンジャラス」または「サンジャリーズ」。日本語の「ロサンゼルス」「ロサンジェルス」は、Angeles を英語の angels(エインジォルス) と同じ発音で読んだ誤用の「セインジォルス」や、angelの日本語読み「エンゼル」などの混用に由来する。

私自身は、これまで英語発音に近い 「ロサンジェルス」 と書いてきたので、これからもそのままで通そうと思う。問題なく、ちゃんと通じるし、「ロサンゼルス」の当局から怒られることもないみたいだし。

ただ、「ロサンジェルス」は言いにくい。それは米国人にしても同様らしく、普通は "LA" (エルエイ、「エレイ」に聞こえるけど) なんて略している。私としても「ロス」なんて言うよりは "LA" でいきたい気がするのだが、気障に聞こえるという以前に、多分通じにくいだろうから控えている。

それにしても、米国の地名 (米国に限らないが) は、なかなかやっかいで、日本語のカタカナ発音では、とくにアクセントに注意しないと全然通じないことが多い。ミネアポリスは、「 ミニプリス」って感じだし、シアトルは「スィルゥ」と言った方が通じるだろう。

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2007年3月30日

Risppa って、何だか怪しい!

Blog をやっている少なからぬ人は、このところ、"Risppa" なるブログサービスを宣伝するスパム・コメントにむっと来てるだろう。

私のところでも、既に何回か削除しているのだが、スパムで宣伝するブログ・サービスって、それだけで、スタート時から、自分で悪印象振りまいてしまってるんじゃあるまいか。

"Risppa Blog" でググると、約 188,000件するが、トップにくる Risppa Blog のポータル以外は、ほとんどコメント・スパムが拾われちゃったものだ。コメントの内容は、こんなのが代表的。(別に引用しなくても、多くは見慣れちゃってると思うけど)

管理人様はじめまして。
いつも楽しく拝見しています!

 このたび新しくブログサービスを始めました!

(あるいは、こんなバージョンも)

Risppa Blog(リスッパ・ブログ)」がオープンいたしました!
まだまだサービスを開始したばかりなのですが、 すでに沢山の方々にご利用いただけております。

1アカウントで無制限にブログを作れる『Risppa blog』
更新もラクラク。是非一度お試しください!
------------------------
http://blog.risppa.com/
risppamail@yahoo.co.jp
------------------------

しょっぱなの 「いつも楽しく拝見しています!」 というのが、嘘っぱちであることは、言うまでもなくみえみえで、こちらとしては、「いつも苦々しくコメントを拝見しています」 と言いたくなるぐらいのものだ。

そして、メルアドがヤフーのフリーメールというのが、お笑いぐさで、これはまあ、スパム返しのメールがどっと返されても、自分のとこのサーバの負担にはならず、ヤフーに迷惑かけちゃうだけということなわけで、どこまでも志のレベルは低い。

そして、低いのは志のレベルだけではなく、技術レベルも相当に低いようで、Risppa のポータルに飛んでみると、IE だけに最適化してあるらしく、Firefox だと、表示が見事に崩れるのだ。

トップページのヘッダ部分を Firefox で表示すると、下のようになる。サイトロゴが下の画像で隠されてしまっている。こんなお粗末なポータル、初めて見た。

03risppa2

ヘッダが崩れていれば、フッタだってもちろんのことで、こりゅあもう、処置なしというほどに、ゴチャゴチャに重なり合って、すごいことになってしまっている。下手くその素人が某 Homepage Builder を使ってサイト作りをすると、よくこんな状態になってしまっているが。

03risppa3

さらに、「Risppa ブログ利用規約」 というページに飛ぶと、よ、読めないじゃん!

03risppa4
まったくもう、Firefox での表示確認ぐらい、ちゃんとしろよ。これじゃ、ウェブ・サービスとしての最低限の用件を満たしていないだろう。こんな超テキトーなサービスに乗っかるなんて、危なくて、とてもできるもんじゃない。味噌汁で顔を洗って出直した方がいい。

ここまでダメダメだと、ブログ・サービスというのは単なる隠れ蓑で、実は何かほかに目的でもあるんじゃないかと疑ってしまう。個人情報を集めるだけ集めて、あとはバックれちゃうとか。とにかく、怪しすぎにつき、要注意。

【4月 17日 追記】

ふと思い立って確認してみたら、さすがに Risppa のポータルも、Firefox でまともに表示されるように改良されていた。きっと、このブログを見て 「やべ!」 と思ったんだろうね。

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2007年3月29日

植木等はとても上手に死んだ

日曜の夕方に「シャボン玉ホリデー」を見るのを何よりも楽しみにする子だった私にとって、植木等の死はとても大きな、しかし不思議なほど穏やかなインパクトだった。

あれだけのスーパースターだったのに、こんなに穏やかなイメージで死ねるというのは、これはもう、人徳というほかない。

強烈なイメージの「無責任男」が、こんなにも穏やかに死ねたのは、これはもう、「死」に至るプロセスをとても上手に辿ったとしか思われない。「シャボン玉ホリデー」以後の植木等は、性格俳優としてまったく違った面をアピールしつつ、今思えば、徐々に淡々と「死につつ」あった。

その間、かつて栄光に包まれたスーパースターが陥りがちな悲喜劇的な破綻を微塵も演ずることなく、時には鮮やかに、しかもあっさりと過去の栄光を再現(平成 2年の 「スーダラ伝説」)して見せたりもしたのは、実に見事なものだった。

こんなにもスマートな死への道の辿り方をすることができる人は、そう多くはいない。植木等は、とても上手に死んだ。「上手に死んだ」ということは、「素敵に生きた」ということである。

彼の死の報道で特徴的なのは、彼が浄土真宗の僧侶の息子であることが強調されていることである。仏教的なバックボーンが、彼の人生を支えていることを、誰もが認めているようだ。

まさに「諸行無常」を知りつつ、しかもそれを悲観することもなく、奢らず淡々と生きて、とても上手に死んだ、このとても大きな存在を我々は永く忘れることがなかろう。どんな人格者よりも、手本とすべき人生を示してくれたような気がするのである。

シャルドネさんは自身のブログで、「彼のおかげで、人生を悲観して過ごすことを無為だと断じることが可能になった」と述べておられる(参照)。これは最高の回向である。自我の確立期に、毎週「シャボン玉ホリデー」で彼の姿を見て、笑い転げることのできた我々の世代は、本当に幸せだった。

感謝・合掌

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2007年3月28日

掃除の功徳

私は昨日のエントリーで、「奉仕活動の必修化においても、極端な汚れ仕事は避けるべきだと書いた。しかし世の中には「裸足でトイレに入って、素手で便器をきれいにする」ことを奨励するという、徹底した人もいる。

最近注目の、イエローハット創業者、鍵山秀三郎氏の「掃除哲学」である。

鍵山氏は「掃除をすることで、世の中がよくなる」と言っておられる。これに対して合理的思考をする人は、「確かに掃除して周囲をきれいにすることはいいことだろうが、それで世の中すべてがよくなるとは、飛躍がありすぎる」と反発するだろう。

「掃除することと、世の中をよくすることは、別の問題だ」というのは、確かに理屈である。だが、「掃除で世の中がよくなる」というテーゼにだって、いくらでも理屈がつく。その理屈は、上記のリンク先に飛べば書いてある。

しかし、このケースで重要なのは理屈よりも、体験してみて、確かにそうだと実感することによる「経験知」である。その経験知を得たお話が、こちら に載っている。

私は繊維関連の業界記者としてのキャリアが長い。その経験知からすると、紡績工場でも、織布工場でも、縫製工場でも、「優秀」とされる工場の多くは、とても掃除が行き届いている。

繊維というのは綿ゴミと切っても切り離せない業界である。しかし、信じられないほどに綿ゴミの舞っていない工場というのがあり、それは決まって、とても優秀な工場である。

ただ、掃除の行き届いた工場と、生産性の高い工場というのが、必ずしもイコールというわけではない。綿ゴミが舞っていても、生産性は高いという工場もあるにはある。しかし掃除の行き届いた工場の方が、従業員が仕事を楽しんでいるという雰囲気がある。

掃除は行き届いていないけれど、生産性は高いという工場の従業員は、何とはなしに「苦役」をさせられているといった雰囲気なのだ。どうやら、人間の脳内システムというのは、掃除をすると活性化するようにプログラミングされているんじゃないかという気がする。

で、自らを振り返ると、机の上は書類が積み上げられ、本棚にもうっすらと埃が堆積し、車は泥だらけ。お恥ずかしい限りである。でも、私は道端や電車内に放置された空き缶やペットボトルを見つけたら、拾ってゴミ箱に捨てるのが習慣だよ。ささやかなお話だが。

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2007年3月27日

「ボランティア」 を必修化だって?

学校の授業で、「ボランティア活動」を必修化する動きが進んでいるそうだ。おいおい、それっておかしいだろう。「ボランティア」は「自発的」という意味なんだから、それを必修にするというのは、少なくとも教育的じゃない。

ただ、「奉仕活動」とかいうのなら、私はまんざら反対じゃない。

私は肉体労働が案外好きである。学生時代は、学習塾の講師なんてバイトもやったが、ほとんどは肉体労働だった。ちまちました塾の講師とか、カテーキョなんてのより、肉体労働の方がずっと楽しい。

その中でも清掃関連は、悪いモンじゃなかった。汗を流しているうちに受け持ち区域がすっかりきれいになるというのは、結構気持ちのいいものである。

それから農業関連も悪くない。田植えはやったことがないが、稲刈り、雑草刈りなど、都会で育った子には、かなりカタルシス的体験になるんじゃなかろうか。どんどんやってみたらいい。私が高校生ぐらいだったら、結構楽しみにしちゃうんじゃないかと思う。

私は高校時代、授業をさぼりまくっていたが、多分、奉仕活動とかだったら、さぼらずに皆出席しちゃうだろう。だって、楽しそうじゃないか。

ただ、私みたいに奉仕活動を楽しんじゃうことのできる子ばかりとも限らない。世の中には、人より余計に汗を流したら一生の損みたいに考えている子もいるから、複雑である。こうした子に「必修科目だからやれ!」 と強制したら、きっといろいろゴタクを並べて嫌がるに違いない。

奉仕の楽しさを知る前に、理屈をこねるゴネ得を知ってしまうというのは、教育の本意ではなかろう。

そもそも学校での奉仕活動の必修化は、平成 12年に文部科学省で検討された際に、内閣法制局が「苦役からの自由」を定めた憲法 18条に違反する疑いがあると指摘して、ウヤムヤになってしまったという経緯がある。

私はあの時、「おいおい、ちょっとした奉仕活動が『苦役』かよ?」 と呆れてしまったことを覚えているが、まあ確かに「苦役」と受け取る層もないわけじゃないんだろうなあ。そう受け取るというのは、個人的にはかなり不幸なことだと思うけど。

それでも、「不幸な子」をより不幸にしないためにも、やはり少しは慎重に運用しなければならないだろう。そのためにも、「強制」というニュアンスは避けた方がいい。強制された奉仕活動というのは、少なくとも上品じゃない。てことは、教育的でもない。

それから、極端な汚れ仕事も考え物だろう。私なんか、家畜の糞を使った堆肥作りとか、便所掃除なんて、破れかぶれになれば、結構やけくそ的に楽しいものだということを知っているけれど、今の世の中では、そう感じられる子は少数派だろう。これも不幸なことだが。

「強制」を避けつつ、それでも楽しんじゃおうという雰囲気が作れればいいんだけれど、これが最も難しいところだ。とにかく、センスのある奉仕活動をプログラミングしてくれるコーディネーターに登場してもらいたい。

それから、こうした奉仕活動を必修化してもズルしてまともに働かない子というのも必ず出てくる。こうした子は、「奉仕」を学ぶべき授業の中で「要領」を学んじゃうんだろうなあ。これも長い目で見たら不幸なことだと思うけど。

まあ、とにかく「必修科目としての奉仕活動」というのは、運用が難しいということだ。当初の何年かは、試行錯誤が必要だろう。

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2007年3月26日

「産む機械」というビジネス

代理出産がちょっとした話題になっている。世論的には、「法整備が現実に追いついていない」として、代理出産という行為そのものはあまり疑問視されていない。

しかし、私はこれをかなり疑問に思っている。それは、女性を「産む機械」とする奇妙な「ビジネス」と化しているからだ。

「代理出産」という行為を、単に「医学的に可能だから」というだけで、簡単に認めてしまっていいのだろうか。私は「絶対反対」というわけではないが、現状としては、もっと慎重な態度で吟味すべきだと思っている。

まず、「代理出産」というシステムにおいては、出産を担当する女性は、文字通り「産む機械」として機能しているということが挙げられる。柳沢氏の「産む機械発言」に対して、あれだけヒステリックに反応したマスコミやフェミニスト達が、「代理出産」に関してはほとんど疑問視していないことに違和感を感じるのは、私だけではないようだ(参照)。

それに、この「産む機械」を利用するには、かなりの費用が必要になるようだ。「代理母ドットコム」というサイトがあって、これを見ると、代理出産というのは、ひとつのビジネスとして成立しているように見受けられる。

代理出産には、無償のボランティアの場合もあるが、多くの代理母は報酬を目当てに体を売っている。身内などの場合を除けば、何の得にもならないのに、自らの子宮を10ヶ月近くも無報酬で提供する女性など、ほとんどいないだろう。

まあ、フツーの出産だってかなりのビジネスと関連しているわけだから、目くじら立てる方がおかしいという人もいるかもしれないが、私の感覚からすると、代理出産ビジネスというのは「かなりフツーじゃない」という気がするのだ。

上述のサイトには、代理出産の費用が示されている(参照)。どのくらいかかるかというと、こんな感じだ。

  • エ-ジェンシ-料金 $30,000
  • 基本料金 $20,000~$35,000
  • 代理母へ支払う必要経費 $2,000
  • 妊婦服代(妊娠20週に達した時) $1,000
  • モック・トランスファ-に対する報酬 $250
  • トランスファ-(受精卵移植)に対する報酬 $1,000
  • 帝王切開をすることになった際の追加報酬 $1,500
  • 多胎出産に対する追加報酬(1人増える毎に) $5,000
  • 代理母が就業している場合、妊娠により休む際、その期間の給料が加算される。
  • 弁護士費用(依頼者、および代理母の弁護士)約 $6,000 ~$7,000
  • 健康保険(代理母にかける保険)約 $300/月
  • 体外受精及び受精卵移植にかかる医師の費用 $10,000~$15,000
  • 薬代 $5,000
  • エスクロ-フィ- $800
  • バックグランドチェック $150~$200
  • サイコロジカル・エバリュエーション 約 $600
  • 依頼者のサイコロジストによるカウンセリング費用 $500
  • 代理母およびその家族のためのカウンセリング/サポートグループフィー 約 $1,500
  • ドクターによる代理母及びそのパートナーの健康診断 約 $1,000
  • 代理母及びそのパートナーの血液検査費用 約 $800
  • 大ざっぱに計算しても、総額で最低でも 8万ドル以上。日本円にしたら、1000万円以上かかるということだ。

代理母への支払いだけをとっても、基本料金として、2万ドル~3万5000ドル (約 240万~420万円) 、その他付帯料金として、大体 3000ドル、そして、休業補償的に、休んでいる間の給料まで支払わなければならない。

代理母が仕事を持っている場合は、その支払いだけで、500万円以下ということにはならないだろう。そうなると、総額は 1000万円を遙かに超える。一説には、支払総額の平均は 1500万~1700万円だという。さらに、当事者のアメリカでの滞在費用などを入れたら、相当なコストになる。

もし、代理出産ではなく養子を迎えていたとしたら、たまにはささやかな贅沢を許したとしても、高校卒業ぐらいまでは十分に養える金額に相当すると思う。

つまり代理出産というのは、べらぼうな費用がかかるということで、相当な金持ちでないと無理なシステムだということだ。誤解を恐れずに言えば、「自分たちの遺伝子をもつ子供を、大金で買う」 という、かなりエゴイスティックな行為ということになる。しかも、下手をしたら生命の危険さえ伴う「代理母」という「産む機械」を金で買って。

一方では、世の中には里親を必要とする不幸な子供が大勢いるという現実もある。「親の必要な子」と「子が欲しい (「必要」ではなく、あくまでも「欲しい」)親」 とのマッチングには、絶望的なギャップがあるようだ。

【追記】

昨年秋に発表されたものだが "「美談」 ではすまない代理出産ビジネスの実態" という記事が見つかったので、参考のためリンクしておく。

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2007年3月25日

ペコちゃんの恩を、忘れるんじゃないよ

不二家が不祥事発覚で窮地に追いつめられたとき、私は妻と、「これで、不二家が潰れずに済んだとしたら、それはほとんど、ペコちゃんのおかげだろうね」と話していた。

そう、不二家はなぜか、そんなに滅茶苦茶な攻撃を受けずに済んだのである。それはペコちゃんが防御壁になってくれたのだ。

ところが、「外部から不二家を変える改革委員会」(委員長=田中一昭・拓殖大教授)が、「さらに前進するという気概を持って、新しいキャラクターを生み出すぐらいの活力が必要」なんていう提言を打ち出したんだそうだよ。

そして、それを真に受けてしまった不二家側も、新キャラ作成を検討する特別チームなんかを作ったんだそうだ。以下は Yomiuri Online からの引用である。

不二家は、若手社員を中心に「キャラクター分科会」を設置。約1年かけてキャラクター戦略を練る方針だ。同社の永森徹・特別顧問も3月1日の記者会見で「ペコは大事に守っていくが、新しい不二家を象徴するような何か視覚的なものが欲しい。ペコに並ぶキャラクターなど幅広く検討中」と話した。

改革委員会の顔を立てようなんてことで、こんなポーズを取ってみせているんだろうが、馬鹿馬鹿しい。私個人としては、ペコちゃんにはとりたてて思い入れはないけれど、市場における好感度でいえば、ペコちゃんには圧倒的なものがあるのだ。

ペコちゃんという愛されるキャラがあったからこそ、あれだけの不祥事もかかわらず、不二家は、雪印の時ほどの叩かれ方をせずに済んだのである。誰もが「不二家は悪いが、ペコちゃんは悪くない」と思っていたのだ。「ペコちゃんがかわいそう」という声も上がっていたではないか。

これは情緒的にすぎる寝ぼけたお話かもしれないが、結果論としてペコちゃんは、大きな防御壁になってくれたのだ。

これほど有力なキャラを持ちながら、「ペコに並ぶキャラクター」なんてものをこねくりあげたら、宝物をどぶに捨てるようなものである。イメージが拡散するだけでなく、市場の反発だってあり得る。悪いことは言わないから、新キャラなんて検討する前に市場調査を実施した方がいい。

その上で、「ペコちゃんへの支持が圧倒的であることが判明」とか何とか言って、ペコちゃんそのものに、新しい命を吹き込めばいいのだ。

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2007年3月24日

潮来の空気の中に時間は止まる

私が現在居住する茨城県には、潮来市というところがある。あの「潮来の伊太郎」の登場する「潮来笠」に歌われた潮来である。「潮来花嫁さん」というのもあった。

実は、私は昨日もこの潮来市に仕事がらみで行ってきたのである(参照)。行く度に思うのだが、ここは不思議な街なのである。

潮来というのは、NHK ニュースなどに登場するときには決まって「水郷観光で有名な」という枕詞が付くぐらいなので、大層観光の盛んなところと思われているフシがあるのだが、行ってみると、これほどやる気のない観光地というのも珍しい。

私は縁あって何度か潮来を訪問しており、たまたま「あやめ祭り」の真っ最中に行ったこともあるのだが、そんな時でも、観光客なんているのかいないのかわからないぐらいである。「どっと繰り出した観光客」なんていう状況は、一度も目撃していない。

JR に「潮来」という駅もあるのだが、この駅にしても、ただ単に、電車の止まるところというだけのことで、とくに観光をフィーチャーしているようには思われない。この街の観光産業なんて、本当に成立しているのかいないのか、心配になるほどである。

水郷観光の雰囲気をよく表現しているサイトがあったので、リンクさせていただこう。こちら である。写真ページを順番にクリックしていくと、あまりにものんびりした、日本の国とも思われない空気が伝わってくると思う。

せっかく「潮来笠」という一大財産があるのだから、駅前に「潮来の伊太郎」の銅像でも建てておけばよかったのにと思っていたら、駅前にではないが、最近建てられたのだそうで、ググってみたら、なるほどあった(参照)。ちなみに、「潮来花嫁さん」の方も、これとセットになって建てられたようだ(参照)。

「潮来笠」 も 「潮来花嫁さん」 も、昭和 35年のヒット曲である。それから 45年も経った一昨年に、突然思い出したように、潮来市内の前川あやめ園というところに、お揃いで銅像が建てられたというのが、何ともはや、完全に時期を逸している。

いや、時期を逸したとみるのは、部外者の視点にすぎず、実は潮来の空気の中では、45年前なんてほんの昨日のようなものなのかもしれない。うむ、きっとそうだ。そうに違いない。

それは、一度行ってみて、潮来の空気を吸ってみれば、なるほどと理解される。潮来の街はそれ自体、不思議なタイムカプセルである。特殊な時空間なのである。行けばわかる。

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2007年3月23日

「読み逃げ禁止」と「いじめ」

IT Media News の "「mixi 読み逃げ」 ってダメなの?" という記事が、期せずして大ヒットになっている。

ここでは「読み逃げ」そのものよりも、この記事が衆目の関心を引いてしまうことの底流に注目してみたい。春は眠くって、アタマ鈍って、多分尻切れトンボになりそうだけど。

mixi に限らず、「読み逃げ禁止」とか「素通り禁止」とかいうのは、「足あと」の残される日記サイト(「楽天」とか)では、以前からあって、そういうのは、ハッキリ言って馬鹿扱いされていた。

要するに、ネット・リテラシーの未熟さの現われでしかないというところがあって、ガキっぽい言い草にすぎないんだと、フツーは思われている。

で、そう思われているはずだったのに、件の記事が改めて注目されちゃっているというのは、一体どういうことなんだ? ということなのである。何となく、心の琴線に触れるところがあるんじゃあるまいか。

これって、「私は、友達のサイトを訪問したら、必ず何かコメント書き込むのに。そして、自分のサイトに書き込みがあったら、必ずレスするのに。こんなにも友達に気を使ってるのに、どうして、それをわかってくれない人がいるの?」ということなのだろうね。

「私は、私たちは、ちゃんとやってるのに、ちゃんとやってくれない人がいる」

この心理は、mixi という場ではなんとなくマゾヒスティックに機能してしまっているけれど、結局は攻撃性の裏返しだ。そして、例えば、この心的傾向が学校なんかで機能してしまうとどうなるか。それは多分、「いじめ」ということになるんじゃないかと思うのだ。

「読み逃げ禁止」と「いじめ」って、多分、同じ根っこから生じていると思う。自分のストレスを他人に投影して、悩んで見せたり、いじめて見せたりしているのだ。自分の心の制御が効かなくなっているために。

集団の中で、「自分は正しくありたい」と思う心的傾向が、ゆがんで現われるとこうなってしまう。こう言っちゃなんだけど、「読み逃げ」されてことさらにどうのこうの言うのって、「いじめ」に荷担するココロネと近い気がする。

正しくないと、攻撃されてしまうから、正しくなければいけない。自分の正しさを証明するためには、正しくない存在を攻撃しなければならない。攻撃できない場合は、ことさらに悩んで見せなければならない。

かくして、「正しくありたい」というコンプレックスが、ちっとも「正しくない」行動につながる。ああ、眠い。めっちゃ中途半端だけれど、今日はここまで。

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2007年3月22日

翻訳の難しいアメリカ小説

村上春樹訳による 『ロング・グッドバイ』が出たんだそうだ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『グレート・ギャッツビー』に続くアメリカ小説翻訳の第三弾ということになる。(この点については、最後の 「追記」 参照)

私は 「ギャッツビー」 の原書は読んでないが、『ライ麦畑』 と 『ロング・グッドバイ』は、たまたまペーパーバックで読んでいる。

書棚の中から、この 2冊はすぐに見つかった。『ライ麦畑』の表紙は、赤茶色にタイトルと著者名だけという超シンプルなデザインだが、『ロング・グッドバイ』は、かの有名なカクテル、ギムレットがフィーチャーされてスタイリッシュ。両方の著者のキャラがよく出ている。

03paperbacks

この 2冊は、23~4歳の頃に相前後して読んでいる。30年も前のペーパーバックが、書棚からすぐに見つけ出せるというのは、あれから何度も繰り返し読んでいるからだ。もちろん、通しで読み返すのではなく、部分的にだが。

「ライ麦畑」 の方は、とても読みやすい。読みやすすぎて、翻訳するのは大変だ。どう訳しても、原書の雰囲気からは離れてしまう。主人公である 16歳のホールデン・コールフィールド少年のキャラは、日本語にした途端に裏切られてしまう。

それは、このペーパーバックの表紙に、何の画像も使われていないのと同じことだと思うのだ。何らかの画像を使った途端に、それはホールデン少年のイメージを裏切ってしまう。

だから、私は野崎孝訳は何だか違うと思ったし、村上訳も「やっぱりね」という感じだった。この小説は、申し訳ないけど、英語で読むのが一番だ。

で、今度の『ロング・グッドバイ』である。これは、ちょっと読みにくい。同じスラング満載でも、『ライ麦畑』は何となくわかるが、チャンドラーの世界はかなりペダンティックなので、わからないと、さっぱりわからない。

それでも(あるいは、「それだけに」かな?)、日本語にはしやすいと思う。ホールデン君のあまりに直截的な物言いに比べて、チャンドラーの言葉にはある程度のクッションがあるからだ。

そういえば、以前、杉浦日向子さんが亡くなったとき、彼女の有名な「にじよじ」という世界のアメリカ版として、『ロング・グッドバイ』の中の一節を翻訳してとりあげたことがあった (参照)。

俺は夕方前に店を開けたばかりのバーが好きだ。店の中の空気はまだ涼しくて清潔だし、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡を覗いて、ネクタイが真っ直ぐで、髪の毛がきちんとしているかどうか確かめている。俺は、カウンターの奥の小ぎれいなボトルと光沢のあるグラスを眺めながら、これから始まる時間について考えるのが好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作ってパリッとしたマットに置き、小さく折ったナプキンを添えるのを見るのが好きだ。そして、それをゆっくりと味わう。静かなバーの夕刻の、最初の静かな一杯 − 素晴らしいじゃないか。

ありゃりゃ、我ながらベタすぎる翻訳だなあ。直訳すぎるし。清水訳なんか、多分かなり意訳してスタイリッシュにこなしてるんだろうと思う。この部分、村上訳ではどうなってるんだろう。

蛇足だが、「にじよじ」 のキーワードでググると、私のどうでもいいエントリーが 494,000件中のトップにランクされている(参照)ことを、たった今、知った。なんとも畏れ多いことである。(Google の検索結果より直接的な固定リンクは、こちら なのだが)

【追記】

「ロング・グッドバイ」 が村上春樹のアメリカ小説翻訳第三弾というのは単行本ベースで言ったつもりだったのだが (彼はそのほかにも尋常じゃないほどの数の翻訳を雑誌で発表しているので)、単行本でも、まだまだあったようだ。だから、第三弾というのは、間違いです。ごめんなさい。

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2007年3月21日

あれって、「アンダースコア」 だったのか

「 _ 」 (下線) を 「アンダーバー」 というのは、多分和製英語だろうという確信みたいなものはあったが、じゃあ、まともな英語ではどういうかというのは、この年まで知らなかった。

で、恥ずかしながら こちら のおかげで昨日初めて知った。フツーの英語では 「アンダースコア」 というようなのだ。

さらに、Wikipedia で 「アンダースコア」を引いてみて、とっくに忘れていた大昔のことを思い出してしまった。(以下、こちら より引用)

もともとは、タイプライターで下線(アンダーライン)を引くために設けられたものである。すなわち、文字を打った後で、アンダースコアを重ね打ちすることで、アンダーラインを表現していた。

ああ、そうだった、そうだった! 確かにやっていた。

前にも書いたことがあるが、私が初めてキーボード文化に触れたのは、PC やワープロ以前のお話で、英文タイプライターなのである。20代の頃に勤めていた繊維関連の新聞社で英文雑誌の編集を担当しており、それで、会社からあてがわれた骨董モノの電動タイプライターを使っていたのだ。

英文の記事を書くのにアンダーラインを引くことなんてほとんどないのだが、なんだか、ビジネスレターを書くときに、「ここはアンダーラインを引いた方がわかりやすいかな」と思ったのが、そもそもの発端である。

私は英文科に進んだわけでもないので、英語はほとんど独学みたいなものである(学校で習う英語は、あまり使い物にならないから)。 だから、タイプライターだって、手探りで習得した。何しろ骨董モノだったから、マニュアルなんてとっくの間に紛失されていたし。

ところが、まともに習ったわけじゃないから、この「アンダーライン」の引き方がわからない。打ち終わった後で定規を使って手書きしようかとも思ったが、それだとちょっと素人っぽくて格好悪い。

さんざん試行錯誤した後に、この「アンダースコア」の重ね打ちという技を発見したのだった。だから、昨日まではこのやり方が正式なモノなのか、裏技なのかも知らなかったのである。これでようやく正式なやり方とわかって、27~8年ぶりに溜飲を下げた。

重ね打ち用の記号が、PC になってもまだ残っているというのは、やはり使い道があるからだろう。それは、次のように説明されている。

アンダースコアはアスキーなどの文字コードですべての大文字よりもあとに来るので、並べ替えをするときに最後に置きたい項目の最初にこのアンダースコアを置く、というような用法がある。たとえば、「_ABC」 は、「ZBC」 よりもあとに並べ替えられる。

また、インターネットのURLやメールアドレスのようなスペースが使えないところで、かわりにアンダースコアを置くことが行われる。

いくつになっても知らないことってあるものである。スペース替わりのアンダスコアはしょっちゅう使ってきたが、ソーティングで「 Z 」よりも後に置きたいもののアタマに付けるというのは、初めて知った。

そんな時、私はこれまで「 X 」を多用していたのだった。これで 「付け足し的なモノ」 というニュアンスが表現されて、さらに大抵の項目よりは後になるのだが、「 Y 」と「 Z 」よりも後にならないのが悩みのタネだったのだ。

だったら、 「 X 」じゃなくて「 Z 」 にすればいいと言われそうだが、それでも、「 ZA 」は「 ZB 」より先になってしまい、際限がない。それで、同じ中途半端なら「 X 」 のニュアンス勝ちということで我慢していた。 

月並みな表現は好きじゃないが、「人間死ぬまで勉強」というのは、ちょっと別格である。

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2007年3月20日

戦争と平和

「今日の一撃」 がココログに移行してから書いていないので、久しぶりでこれだけは書いておかなければならない気がしてきた。

それは、「ほとんどすべての平和運動は『総論』としての視点しか持ち合わせないために、『各論』としての戦争遂行圧力に、常に負けてしまう」ということである。

戦争が好きな人は(多分、ほとんど)いない。誰だって平和を求める。商売で戦争をする軍人だって、建前上は「平和のため」に働いている。

それではなぜ、誰も求めない戦争が常に世界で勃発し、誰しもが求める平和が実現しないのか。それは、人間というのはほとんど常に、「総論賛成、各論反対」で動く習性を持っているからである。

平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる。総論は抽象的だが、各論は具体的だ。世の中というのは、せっぱ詰まってしまうと、抽象論は具体論に敵わないのである。腹が減ってしまう抽象論は、満腹にさせてくれる(という幻想を与える)具体論の前では、無力だ。

これは、理想論と現実論の相克と言ってもいいだろう。

平和運動の進むべき道は二つある。一つは、総論(抽象論/理想論) 一辺倒を離れて各論(具体論/現実論)レベルの論議に耐えうるものに進化することである。権謀術数を尽くしてでも、とにかく戦争にだけは突入せずにすむだけの具体的力をもつことだ。

これは、あるいは平和主義者の最も苦手な世界に突入することを意味するかもしれない。もしかしたら、弾丸が飛ばず、血が流れないというだけで、その実、もっとおどろおどろしい世界に手を染めなければならないかもしれないのだ。

もう一つは、戦争で得られる「具体的な利益」というのは、常に幻想であるという認識をしっかりと説くことだ。戦争の悲惨さを説くだけでは、全然足りない。戦争では誰も勝たないのである。

人がいつも 「総論賛成、各論反対」で、平和への願いを自ら裏切るのは、戦争で得られるとされる「具体的な利益」という幻想に、一時的にせよひれ伏してしまうからだ。それが幻想であるということは、世界の歴史が照明しているのだが、誰もそれをまともに説かない。

戦勝国が得をして、敗戦国が虐げられるという表面的な歴史しか説かれないから、戦争して勝てば、利益が得られると思いこむのである。しかし、それが本当なら、第二次世界大戦の戦勝国がたった 60年後に、こんなに困っていたりはしない。

結局は、人間の欲望に際限がないから、一見具体的に見える各論の幻想に負けてしまうのである。

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2007年3月19日

パソコン OS という特殊な市場

Impress Watch と goo リサーチが共同で実施した Windows Vista に関するアンケートは、 「さもありなん」
という結果になっている (参照)。私の 2月 21日のエントリーの内容が、はっきりと裏付けられたようなものだ。

要するに、Vista の登場を歓迎しているのは、マニアックなユーザーだけなのだ。

今どき、大抵の商品は、消費者のニーズをきちんと把握して開発される。その常識の通用しない商品の代表格が、パソコンの OS だ。ほとんど Windows  の独占状態にある市場だから、競争原理が働いていないのである。だから、ユーザー・ニーズはほとんど無視されて、ベンダーの都合だけで、要りもしない機能を押しつけられる。

件のアンケートによると、"既に Vista を導入しているユーザーは、Watch 読者で 11.7%、goo リサーチで 2.4%にとどまり、「特に導入を検討していない" とするユーザーは両者とも過半数を超えた」 と報告されている。

そして、まだ導入していない理由としては、「Windows Vista の特徴的な機能を不足なく動作させるためには、かなり高めのマシンスペックが要求される」 という回答が目立っているという。

つまり、Vista の導入は遅々とした歩みであり、過半数のユーザーは、とくに必要と思っていないということだ。そして、いずれ、否応なく導入せざるを得ないのはわかっているので、それは、マシンスペックが十分に向上するのを、ギリギリまでまってからにしようという、受動的な姿勢である。

しかし、これって、おかしいではないか。パソコンは、今やコンシューマー市場の商品である。コンシューマー市場で、コンシューマーに実質的選択権がなく、ほとんど「押しつけ販売」されているというのは、異常と言っていい。

今自分の使っているソフトウェアで、なくてはならぬものというのは、ワープロ、インターネット・ブラウザー、メーラー、エディター、表計算、プレゼン、ウェブ作成、画像処理のほか、季節商品としての宛名印刷ソフトぐらいのものである。後は、セキュリティ・ソフトか。

私個人としては、ワープロとウェブ作成、そして画像処理ソフトだけは、きちんとした専門のソフトが必要だと思っているが、その他のものは、ごくごく簡単なものがあればいい。今の MS Office セットは、トゥーマッチだと思っている。

見たところ、ほとんどの人はビジネス上のドキュメント作成には、Google Docs and Spreadsheet 程度以上の機能は使っていないから、ブラウザーとメーラーがあれば、オフィスワークのほとんどはこなせるに違いない。

あとは、宛名印刷ソフトとパワーポイントのビューアーがあれば、まさに十分だ。もしかしたら、宛名印刷ソフトなんていうのは、メーラーの機能に付属させられるかもしれないし。

そうなると、OS だって、ちっちゃいもので十分である。ライトユーザーとヘビーユーザーの使う OS は全然違っていてもいいじゃないか。本来は、作成したドキュメントの読み込みに互換性がありさえすれば十分なはずなのである。

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2007年3月18日

知事が長くなると

来月は「統一地方選」なんて言われているが、47都道府県のうち、知事選挙が行われるのは 13都道県しかないんだそうだ。

残り 33府県がずれてしまったのは、過去に知事が任期途中で辞職したためで、辞職理由の断然トップは、汚職などの不祥事。ほぼ 7割の府県で、そんなことがあったわけだ。

そりゃ、長い間には知事の不祥事がずいぶんあったとしても不思議じゃないが、戦後 62年の間に 33府県でそんなことがあったというのは、計算上、ほぼ 2年に 1度の割で、どっかの県の知事が (多分) 悪いことをして、詰め腹切らされたということだ。こうしてみると、かなり多い。

知事というのは、国で言えば大統領みたいなものだから、かなりの権限を持っている。だから、長く居座っているうちに、少なからずは 「雲の上の人」 になってしまう。それだけならまだいいが、周り中、イエスマンばかり侍らせて、ほぼ独裁者になってしまうケースも多い。

だから、知事なんていうのは、いくら優秀な人でも 3期 12年以上やらせちゃいけないのだ。田舎に行くと、4期 16年なんていう知事もいるが、そういう県では、大抵県政が停滞して、「あのオッサンがいるうちは、どうしようもない」 なんて思われていたりする。

で、東京はわずか 2期 8年で、そんな雰囲気になりかけているのが問題だ。さすが、石原さんだなあ。

ただ、東京は知事が変わるたびにバックグラウンドも大きく変わる場合がほとんどなので、まだ救われる。ところが田舎に行くと、「禅譲」 なんて言って、前の知事の大番頭みたいなのが、因習的システムまでそっくり引き継いだりするから、始末が悪い。

だから、田中康夫さんとか東国原さんとかみたいなのが、たまに出てきてくれないと、そうしたシステムはいつまでも崩れない。その意味では、因習を徹底的に麻痺させてしまうことが、彼らの第一の任務なのである。

その間、まともな県政の実務が一時的にやや停滞したとしても、それはそれでしょうがない。過去のツケを払っているようなものである。

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2007年3月17日

裏金騒動を裏から見る

西武ライオンズがアマチュア野球選手に裏金を渡していたことを自らゲロしたため、てんやわんやである。アマチュア野球側は声を揃えて「希望枠」の撤廃を要求している。

ふーん、アマ側はずいぶんいい子ぶってるけど、昔は関係者一同、「おねだり体質」だったこともあるはずなのにね。

そもそも、西武が自ら白状したのだって、良心の呵責に堪えかねてというよりは、その方が得だからということだ。要するに「もう、これ以上、裏金をつぎ込んでまでチームを強くしようとは思いません」ということで、もっと正直にいえば、「もう、野球につぎ込むほどの金なんか、ありません」ということになるのだろう。

で、どうせ裏金をつぎ込むのを止めるなら、いっそのこと白状しちゃうことで大問題にしてしまい、今後は、どの球団も裏金を使うにも使えない状況にしてしまえばいいということなのではなかろうか。

「死なばもろとも」 である。1年ぐらい、ペナルティでドラフトに参加できなくなっても、長い目で見ればずっと得である。だから、今回白状しちゃったのは、自爆テロみたいなものだ。

ごくごく少数の金持ち球団以外は、裏金を使っての有望選手獲得に「もう、付き合いきれん」と思っていたのだろう。で、以前は「付き合いきれていた」けれど、近頃はどうしようもなくなってしまった西武が、「それならば」ということで、イスカリオテのユダの役割を果たしてしまったと見るのが、自然のような気がする。

要するに、以前は巨人と 2~ 3の球団がさんざん金を使ってくれて、周りの球団はコバンザメのごとくに、そのご相伴にあずかっていればよかったのだが、近頃では巨人の人気にもかげりが出たし、今までのメソッドじゃ、やっておれんということなのだろう。

だったら、戦力平準化しちゃった方が、球界も儲かるということなんだろうね。

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2007年3月16日

天気と人の心

先月までは、「寒いよ~、春はまだか~?」 なんて、今頃言うようになるとは、考えもしなかった。まったく近頃の天気は極端から極端に振れる傾向がある。

この寒さは、週末まで続くそうだ。週末といえば、もう彼岸の入りである。「毎年よ彼岸の入りが寒いのは」とは、正岡子規の句だが。

今月初めに急に寒くなったときは、毎年の「彼岸の入りの寒い」のが、3週間前倒しで来たのだと思っていた。それまでは、梅の咲くのも菜の花の咲くのも、ずっと平年より 3週間前倒しだったので、そう思ったのだ。

私は「和歌ログ」なんていう別サイトで、3年以上、写真入りで毎日和歌を詠んでいるので、そのあたりの記憶はかなりしっかりしているのだ。そして、1週間もすれば、また暖かくなると、高をくくっていた。

しかし、そうではなかったのはご存知の通り。あれからこっち、ずっと寒くて 2月と 3月が裏返ってしまっているじゃないか。

そんなわけで、最近は寄るとさわると天気の話でもちきりである。そういえばフランス人は、英国人がしきりに天気の話をするのを理解できないということを聞いたことがある。

フランスは大陸国家だから、天気も大ざっぱで、話題にするほどのおもしろさもないのだろうが、英国は日本同様に島国だから、お天気の微妙なアヤに敏感になるのである。この「微妙なアヤ」がいいのである。これが人の心をも繊細にするのである。

しかし、近頃の天気は「微妙なアヤ」ではなく、「極端さ」で話題になってしまっている。なるほど、近頃、人の心も極端になっているわけだ。

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2007年3月15日

私の木造校舎体験

風の記憶」の伊藤さんのブログで知ったのだが、私の母校、酒田東高校の新校舎が完成したのだそうだ(参照)。

「へぇ!」である。というのは、春休みに解体中であろう「旧校舎」こそが、私の世代にとっては「新校舎」だったのだ。しかも、私はその「旧・新校舎」 で学んだことすらないのである。

私は小学校から高校まで、ずっと今にも崩れ落ちそうな木造校舎で学んだ。小学校は築 60年という、本当にいつ天井が落ちて来ても不思議じゃない建物だった。実際、どの天井も微妙な弧を描いていて、柱から離れた真ん中ほど下に垂れ下がっていた。

窓なんていうのは、そりゃもう隙間だらけで、地吹雪が教室の中まで吹き込むのだった。冬の朝に学校に着いてまずすることは、机の上にうっすらと降り積もった雪を床に落とすことだった。

そんな校舎だから、小学校 6年の時の新潟地震で倒壊しなかったのが不思議なほどである。それでも揺れている最中は、天井板の隙間から 60年の歴史ある埃がもうもうと舞い落ちてきて、地獄絵図のような有様を現出した。

その小学校も、我々の代が卒業すると間もなく鉄筋の新校舎が完成した。つまり私たちは、新校舎の恩恵に一度もあずからないうちに卒業してしまったのだった。

そして進学した中学校。これも小学校に劣らぬほどのおんぼろ木造校舎だった。なお悪いことに高台にあるため、冬の季節風をまともに浴びて、吹雪の日などは校舎全体が揺れるのである。地震ならすぐに止むが、吹雪による揺れは一日中続く。

それでもすきま風によって風圧を少しは受け流していたからか(?)、倒壊せずに済んだ。その分、教室の中には雪が積もったが。

この中学校も、我々が卒業すると間もなく新校舎が完成した。そして、問題の酒田東高校である。これもそれまで同様、いかにも伝統を感じさせるといえば聞こえはいいが、要するにガタガタの木造だった。

いや、一部新校舎ができてはいた。当時それは「理科校舎」と呼ばれていて、実験の必要な理科系の授業だけは、そこに移動して行われた。

理科校舎は旧校舎と違ってすきま風もなく、集中暖房も効いていてまるで天国だった。だた天国だけに、昼休みのあとの 5時限目などは、ほとんどの生徒は夢幻の境地で陶酔するのだった。

そして、二度あることは三度あるというように、この高校も我々が卒業すると同時に鉄筋の新校舎に建て替えられた。

というわけで、私は大学に入るまでオンボロかつガタガタの木造校舎しか知らず、しかも自分たちの卒業と同時に、母校はことごとく鉄筋の新校舎になるという、希有な巡り合わせの星の下に生まれているのである。なんとなく、我々の世代を象徴しているようなエピソードである。

その酒田東高校の「鉄筋の新校舎」が、今では「旧校舎」と呼ばれていて、春休みの間に取り壊されてしまうという。御用済みになるまで、わずか 35年である。我々の学んだ木造校舎は、戦前から 50年以上も無理矢理もたせていたのに。

こうしてみると、木造は、ガタガタではあったが、ずいぶんエライものなのである。

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2007年3月14日

「自我」の認識の仕方

一昨日のエントリーで、自我の目覚めのあり方というものを書いた。「自我」の認識の第一歩が「他との違い」に立脚するのは当然だが、それ以後に微妙な違いがある。

うまく言えないが、「圧倒的主体としての自我」と、「他との関係性を通じた自我」というものに分けられそうな気がするのだ。

一昨日の例でいえば、幼い頃に「忽然として自我に目覚め」、それ以後は他がどうあろうとも、「自分は五味太郎であり続け、それ以外の何物でもない」と主張する五味太郎氏と、同じく幼い頃に 「他の人も皆、それぞれに自分自身が主人公だと思っている」ことに気付いたという小島慶子アナウンサーとの違いだ。

私自身の感覚で言わせてもらえば、「圧倒的主体としての強烈な自我」というのは、一時代前の自我なんじゃなかろうかと思う。今どき、そんなにストレートに(かなりおめでたく)「自分が自分自身であり続けられる」なんていうのは、ちょっと奇跡みたいなものだ。

自分というのは、他との関係性の中の一個でしかないというのは、ポストモダンの思潮の中の基本的な認識だと思う。「強烈な自我」というのは、いわば古き良き時代の芸術家的アイデンティティの名残である。

教育や、あるいは企業の人材募集などでも、いともおめでたく「個性」を要求する向きがあるけれど、「個性」なんてものは要求して得られるものじゃない。この時代の「個性」とは、「後で気付けば、あれがそうであったか」というようなものだ。

そうでなければ、大概のケースにおける「個性的な人材」なんていうのは、意識的、無意識的の違いはあるかもしれないが、時代の要請に合わせてマーケティング的に演出したものである。

それだからこそ、妙な「個性」の看板を安易に上げてしまうと、後で分裂症的なストレスに悩まされることになる。

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2007年3月13日

自然の帳尻合わせ

いくらなんでも、もうスタッドレスタイヤは要らないだろうと、普通のラジアルタイヤにはきかえた途端に、冬に逆戻りして、東北の日本海側には大雪注意報が出た。

まあ、関東ではもう雪は降らないだろうし、田舎に帰るのは今月末だから、多分支障はないだろうが、さすがに驚いた。

寝たきりの母を介護する父の応援のため、2か月に 1度帰郷しなければならないので、今年は冬の帰郷に備えて、生まれて初めて自分の車にスタッドレスタイヤを装着した。しかし、それが役に立ったのはたった 1度、時間にしてわずか 20分程度のことだった。

11月末に帰郷し、12月 1日に戻ってくるときに、月山越えの国道 112号線で雪にあった。その時の模様を、私のもう一つのサイト、wakalog  に収めてある(参照)が、この時、スタッドレスタイヤがかろうじて役に立ったのである。

その後は、なにしろ東京やつくば周辺では雪が一度も降らない冬になってしまったため、全然役に立たず。さらに先月中頃からは暖かくなる一方だったので、ついに今月の 5日、しびれを切らして普通のラジアルタイヤに戻してしまったのだ。

すると途端に冬に逆戻りなのだから、我ながらお笑いである。4年か 5年前、桜が咲いてから雪が降ったことがあったから、さほど珍しいことではないのかもしれないが、この冬が記録的な暖冬だっただけに、何だか初めて冬らしくなったような気さえする。

自然は、暖冬だった分を今頃になってから冷やして、年間平均気温の帳尻合わせをしようとしているのだろうか?

いずれにしても、自然というのは締めてみると案外帳尻は合っているのだが、よく見ると、うまく均等にかき混ぜられないという傾向をもつみたいなのである。まあ、均等になってしまったら、それはつまらないことになるだろうが。

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2007年3月12日

忽然と悟る自我、ぼんやりと感じる自我

一昨日、車を運転していたら、絵本作家の五味太郎氏がラジオでご自身の「自我の目覚め」について語っておられた。

なんでも、小学生の時分の夏休み、田んぼのあぜ道だかを歩いていると、「自分は他の誰でもない、自分なのだ」ということが、忽然としてわかったのだという。

この「忽然として」というのがいい。ホスト役の久米宏は、「そういう経験、自分にもある」と言っていたが、具体的には語らなかった。そして話を振られた小島慶子アナウンサーが「私にもある」 と、突如、具体的に語り始めた。

彼女が言うには、やはり小学生の頃、交差点で家族と一緒に信号待ちをしていたとき、「私は自分自身が主人公で、周りの人は皆、脇役だと思っていたけど、実は周囲の人のすべてが、それぞれに自分が主人公だと思っているんだ」ということが、忽然とわかったという。

五味太郎氏と小島慶子アナウンサーの違いは、とても興味深い。五味氏はあくまで、「あれからこっち、(他はどうあろうとも)自分はずっと『五味太郎』であり続けている」 と言い、小島アナウンサーは「それぞれに主人公だと思っている他人」との関係性の中で生きてきた。

今どきはやらないかもしれないが、マクルーハン的な言い方をすれば、五味流は「ホット」であり、小島流は「クール」だと思った。小島慶子、ただ者ではない。久米宏はつまらんけど。

で、ようやく私自身を語るとすれば、私は子供の頃から「どうして皆、おもしろいことをおもしろがらないんだろう?」と思っていた。自分の「おもしろがるツボ」が、どうも他人と違うようだと、常に感じていて、それがいわば、私の「自我の目覚め」のようなものだった。

だから、私のそれは、五味氏のように 「忽然」 としたものではない。いつもぼんやりと、しかし確実に感じられる「プレッシャー」のようなものだった。それ故に、他人のおもしろがるものを、自分もおもしろがるフリをしてみせることも必要だった。

なるほど、周囲のそれぞれも、皆「自分が主人公だと思っているらしい」ということも、その過程でやはり「ぼんやり」と悟られた。わたしは、案外「ぼんやり」なのである。あんなにも一見プリミティブに見える絵を描く五味氏が、実は「自我の塊」なのに。

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2007年3月11日

芸能ジャーナリズムの治外法権

川内康範というじいさんは、相当のがんこ者のようだ。私なんぞは、「いい年をして何もそこまで…」と呆れてしまうのだが、芸能ジャーナリズムの世界では、そうはいかないらしい。

ウェブ上の記事をみても、どれもみな森進一に批判的だ。それどころじゃない。森の人格攻撃にまで発展している。

ごくごくフツーに考えれば、森進一が「おふくろさん」を歌う前に、妙な前フリを付けたのが気に入らないということに過ぎないのだが、それを 30年もうやむやにしていて、今になって急に大問題にし始めたのは、やはり何か裏の事情があるとみるしかないだろう。

悪名高い JASRAC までが、「長いものには巻かれろ」とばかり、「(森氏が歌っていた歌詞の追加バージョンは) 川内氏が保有する同一性保持権を侵害して作成されたものであるとの疑義が生じている」とのコメントをしている(参照)。

その JASRAC にしてさえ、「あらかじめ改変されたバージョンを利用することが判明した場合、利用許諾はできない」が、「オリジナルバージョンの『おふくろさん』は従来通り利用できる」 としている。

「疑義が生じている」程度のレベルで、セリフ入りの「利用許諾はできない」と言い切っているのは、ちょっとどうかと思うが、セリフ無しなら問題なく「従来通り利用できる」というのは、法的に当然の見解である。

ましてや「おふくろさん」以外の、他の曲まで歌わせないなんていうのは、フツーの娑婆の論理で考えたら横暴すぎる話で、もし森側がそれをして「営業妨害」と訴えたら、多分勝訴できる。

いや、あるいは 「歌わせない」 ということ自体が何の法的根拠もないので、「営業妨害」にすらならず、単なる「嫌がらせ」のレベルかもしれない。だったら、しれっと歌って著作権料を納めちゃえばいいだけの話だ。

しかし、芸能ジャーナリズムでは、そのように書く者は誰もいない。もし本当に森がしれっと歌っちゃったりしたら、轟々の非難記事を書くだろう。よっぽど誰かさんににらまれるのがコワイのだね。芸能界というのは、法律の及ばない治外法権の世界のようなのである。

しがらみのない立場で言えば、「おふくろさん」があれだけ売れたのは、森進一が歌ったからこそである。森進一がどんなに嫌なヤツだろうが、こっちは知ったことじゃない。そのレベルの話は、内輪でやってもらいたいものである。

ただ、改めて歌詞とセリフを眺めてみてわかったのだが、確かにあのセリフは、オリジナルの歌詞に全然そぐわない、取って付けたような悪趣味バージョンではあるな。元々「くっさいセリフだな」とは思ってたけど。

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2007年3月10日

Web の世界の諸行無常

ウェブの世界はまさに諸行無常の響きに満ちていて、日々移ろいゆくものである。私が 「毎日更新の輪」 というサブサイトを作ったのは、ほぼ 3年前のことだったが、その 3年の間にずいぶん様変わりしてしまった。

当時は毎日更新なんて珍しかったが、今や、ブログ全盛で当たり前のことである。

で、今さら 「毎日更新のサイトの集う場」 なんて言ってもあまり意味のないことになってしまったので、毎日更新サイトのリストへの登録受付を、平成18年 11月 24日に中止してしまった。このサブサイトの閉鎖の準備を始めたわけだ。

とはいえ、"「毎日更新」 サイトオーナーさんへ 100の質問" という企画は、本宅サイトに移転して残してある。今時、「100の質問」 なんてはやらないが、始めてしまった手前、勝手に消滅させるわけにも行かない。

で、毎日更新サイトのリストは、今月末に消滅させるという予告をしたのだが、その前に、リンク切れや、毎日更新がされなくなってしまったサイトの確認をして、リストのメンテをしてみた。

すると、昨日まで 31の 「毎日更新サイト」 にリンクしていたのが、3分の 1以下の 10サイトに激減してしまった。内訳は、サイト消滅が 6、長らく更新されずに放置されたままのサイトが 4、時々しか更新されなくなったものが 10、非公開になったのが 1 である。

中には、毎日更新はされなくなったが、とてもおもしろいので、継続して本宅サイトのリンクページからリンクさせてもらっているものもいくつかある。ただ気になるのは、長らく放置されたままのサイトである。

サイトが消滅しているならば、自分の意志で削除したのだろうと想像されるから、まだいいのだが、以前はきちんと毎日更新されていたのに、急に放置されてしまったりすると、とくに年配のサイト・オーナーさんの場合などは、本当に心配になってしまう。

とくに、悠游の砂場 で、ハッピーリタイア生活の中で、毎日美しい花の写真をアップしてくれていた悠游さんの更新が途絶えてから、もう 3ヶ月を過ぎた。いったいどうされてしまったのだろう。消息をご存知の方がいたら、教えてもらいたいぐらいのものである。

長らくのお休みから不死鳥の如く蘇られた alex さんのような方もおられるので、あまり心配しすぎるのも考え物なのだが。

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2007年3月 9日

「つくばうどん」 という新名物

先月半ばのニュースらしいので、今頃取り上げるのもナンなのだが、今日初めて知ったので、書いてみたくなった。「つくばうどん」 というものが登場するらしいのである。

「つくばエクスプレス」 の開業で、つくば周辺がやたらと盛り上がっているのだが、それに乗って新名物を企画したというのだ。

どこに特徴があるのかというと、どうやら「具」にあるらしいのである。それを「つくばうどん」というネーミングにうまくこじつけている。

「つくば」の「つ」は筑波地鶏のつくね、「く」はきのこやごぼうの黒野菜、「ば」はローズポークのばら肉と、ちょっと苦しいかもしれないが、筑波山周辺の特産物を使っている。

写真では、ちょっと見、「けんちんそば」をうどんに置き換えたみたいなイメージである。元々、茨城県はけんちんそばの本場なので、こんな感じのメニューは自然に考案されたのかもしれない。

ただ、ニュースでは具ばっかり紹介されて、肝心の麺については一言も触れられていない。どんな感じの麺になるのだろうか。うどんに限らず麺類というのは、いくら具がうまくても、麺がしっかりしていないとどうしようもない。一度食べてみるまでは、何とも評価のしようがないのである。

ところで、もうちょっと調べてみたら(参照)、この「つくばうどん」というのは、筑波山温泉旅館組合青年部(蔵本剛部長)の企画によるものだそうで、実はバームクーヘンの「つくばうむ」、筑波山からの夜景をPRした「つくば大星雲」に続く第三弾なんだそうだ。

へぇ、すぐ近くでこんなプロモーションをしているなんて、全然知らなかった。つくばうむの方はどうだか知らないけれど、筑波山からの夜景は確かにオススメなので、見に来てもらっても損はないと思う。

ただ、プロモーションを運営する筑波山温泉旅館協同組合の公式ページというのをみても、つくばうどんも、つくばうむも、つくば大星雲も、一言も触れられていないのが、「いかにも」という気がする。

同組合青年部、蔵本部長は「今、筑波山が変わらないと、いつ変わるのか」と危機感を募らせているというが、このあたりから変わらないと、ちょっと先行きが心配だ。

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2007年3月 8日

「モノ」 にはまる人と、はまらない人

alex さんが 「もともと、カメラ・パソコン・オーディオ・楽器・オートバイなどのひとつにはまる人間はその他のものにもはまる共通点があるのだという」と書いておられる (参照)。

「モノ趣味で、多少なりともメカ好き」 ということであり、alex さんは、ご自身が 「明らかにこの種の人間だろう」と述べておられる。

「モノにはまる」 という心情は、私も十分に理解できる。しかし「理解できる」 ということと、自分もそうであるということとは明確に一線を画している。

そう、確かに 「理解できる」 のである。私自身ももしかしたら「モノにはまる人生」を送っていたかもしれないのだ。しかし、私はそれを拒んだ。つまり、「モノにこだわらない人生」を意識的に選択したのだと思っている。

私とて、若い頃に音楽をやっていた頃は、マーチンの D-28 が欲しかった。フェンダーの テレキャスターだって欲しかった。しかし、お金がなくて買えなかった。

ただし、よく放浪や山登りをしていた頃は、バックパックはフレーム・パックの本家本元、ケルティを買った。ドルがまだ高かったので、国産の安物フレーム・パックの 3倍ぐらいの値段だったが、格段に背負いやすく疲れないので、投資してしまった。

私がモノにこだわったというのは、これぐらいである。この頃に、さらにテントはノースフェイスだ、ウェアはシェラデザインズだと凝りまくっていたら、私も立派な「モノ派」になっていただろうが、幸か不幸か、そうはならなかった。

基本的に金がなかったのである。金がないのに、音楽はやりたい、山には登りたいとなったら、道具は安物で済ませるしかないのである。つまり、「モノ」とか「道具」とかを愛するよりも、まずそれらによって可能となることを「したい」のである。

結果、私は車は動いて曲がって止まればいい、服は着られればいい、カメラは小さくて写ればいい、楽器やオーディオは鳴ればいい、PC はサクサク動けばいいという人間になってしまった。

欲しいのは機能であって、その機能が得られるのであれば、「モノ」自体はどんな代替品でも構わないということになってしまった。高級万年筆やボールペンでなくても、コンビニで 100円程度で売ってるボールペンでいい。

丸善の文具売り場なんてのは、目の毒である。さっさと通り過ぎるに越したことはない。

とはいえ、私は 「モノにはまる」 という人生を選択することもできたのである。それはそれでなかなか甘美なものだろうと思う。人生の転機というのは、案外紙一重のものだ。

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2007年3月 7日

石原慎太郎は、これで終わりということで

どんなに人格のできた人でも、トップの座に長く座り続けると、いつの間にか周り中イエスマンばかりになり、自分でも気付かないうちに、傲慢な存在になってしまいがちなものだ。

普通、政治家は 3期ぐらい勤めると危険信号が灯ってしまう場合が多いが、2期勤めただけでこんなになるのは珍しい。

誰のことかってのは、言わずもがな。石原都知事のことである。私は東京都民じゃないので、直接には関係ないが、仕事関係はほとんど東京都なので、黙っているわけにも行かない。

石原氏の前の青島さんはもう、論外として、その前の鈴木俊一氏は、結構まともな都政をしてくれた人だと思う。それでも、3期勤めるうちにやっぱり雲の上の人になってしまった。都民の率直な声は届かなくなり、バブルに乗っかって余計なことばかりするようになった。

青島さんの唯一の功績は、鈴木さんの計画していた「都市博」を中止したことである。私は当時、都内の某業界団体に勤務していたので、そんな余計なイベントを強行されていたら、役にも立たないことに無理矢理付き合わされて、非常にうっとうしいことになるところだった。

で、石原氏は、都市博なんてもんじゃない。オリンピックを招致しようとしているのである。北京の後の後に、またしても東アジアでの開催なんて、難しいに決まってるじゃん。そんなことに無駄金使って、どうしようというのだ。

いずれにしても、既に東京都庁内の空気はかなり悪い。率直な声は都知事には届かないような雰囲気になってしまっている。気分はもう既に、4期か 5期ぐらい勤めた終身都知事みたいな感じである。たった 2期でこんなになるというのは、まあ、大したものだ。

石原氏が都知事になりたての頃は、それなりに功績があったと思う。だらけきっていた都庁の空気はぴしっとして、緊張感がみなぎっていた。人間的には好きじゃないが、当時の功績は認めたい。

しかし、そろそろお役目ご苦労さんの時である。次の選挙ではしっかりと落選して、縁側で猫でも撫でていてもらいたい。もう 75歳なんだから。

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2007年3月 6日

Outlook Express を何とかしてくれ

ウェブサイトの受注先で、パソコンの具合がおかしいから見てくれという。私はシステムのメンテまでは受注してないのだが、行きがかり上、半日がかりで復旧させた。

あらかた復旧させると、近頃、メールの送受信ができないから、それも見てくれろという。メーラーは、悪名高い Outlook Espress だ。

私は、ビジネスでまともにメールを活用したいなら、Outlook Express は使うなと言いたい。こんないい加減なメーラーで、お金のやりとりをする仕事をしようなんていうのは、危なくてしかたがない。

以前に仕事を請け負っていた某オフィスでも、「重たいファイルを Outlook Express でダウンロードしようとしたら、途中で止まっちゃって、にっちもさっちも行かなくなったから、何とかしてくれ」 という依頼が、2ヶ月に 1度ぐらいはあった。

こっちは彼らのウェブ・サーバの中身を直接コントロールしていたわけじゃないが、ID と パスワードを聞いて、Netscape メーラー (今は Thunderbird だが)を設定し、ちょいちょいとアクセスすると、サクサクっとダウンロードできて、問題はすぐに解決するのである。

「だから、Outlook Express なんかじゃなくて、他のメーラーを使ってよ」と頼むのだが、なぜか聞いてもらえない。他に無料の選択肢がいくらでもあるのに、私としては理解できないお話である。

で、今回もみてみると、送信トレイにちょっとした添付ファイルの付いたメールが 8通たまっている。要するに Outlook Express は、たった 8通の未送信メールをもてあまして、フリーズしまくっていたのである。

で、送信トレイの中身を一時的に消去したら、なんのことなく受送信ができてしまった。あまりのことに、Thunderbird をダウンロードして、アカウントを設定してあげようとしたのだが、この人、自分のアカウントのパスワードを忘れてしまったという。おいおい。

世の中、なんだかんだ言っても、結構平和なものである。

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2007年3月 5日

K-1 の 3試合観戦記

近頃の K-1、つまらんなんて言いながら、ついまたテレビ観戦してしまった。格闘技中毒である。ただ、見始めたのが 9時頃からだったので、一番の好勝負だった(らしい)カラエフ 対 バダ・ハリ は見逃してしまった。残念。

で、見たのは 武蔵 対 藤本、バンナ 対 澤屋敷、シュルト 対 セフォー の 3試合のみ。

武蔵 対 藤本 は、もう初めから藤本が勝つと予想していた。武蔵はもう、とっくにピークを過ぎている。元々あまり威力のないパンチとキックのヒット・アンド・アウェイのみを武器に、ホームタウン・ディシジョンで勝ってきた選手なのだから、フットワークが衰えたら勝てる要素はない。

それにこの試合、本戦の判定がドローというのは、疑問が残る。終始攻勢だったのは藤本である。有効打のみを評価するという K-1 方式とはいえ、最終ラウンド終了直前のラッシュは十分に有効だったのだから、あれでドローはひどすぎだろう。

あのまま延長戦に突入したら、ブーイング必至だったが、角田審判長(という立場だったっけ?)がリングに登場して、両者の消極的な戦法を熱烈批判。これで見事に判定への不満をそらしてしまった。

ちょっとわざとらしいギミックだったが、延長で藤本がミルコばり(ちょっとほめすぎ? の左ハイキックで KO しちゃったから、まあ、結果オーライか。かなり複雑な気分だけど。

K-1  2戦目という澤屋敷がバンナに勝ってしまったのは、本当に本当に驚きだが、バンナは、左肩あたりの妙な湿疹ぽい痕といい、キックをまったく出せなかった動きといい、コンディションがかなりおかしかったのは確かだろう。

それに、澤屋敷のぐるぐる逃げ回ってカウンターだけを狙う戦法が、次からも通用するとは思えない。次に当たる対戦者は、カウンターを食わないように一応追いかけているふりだけして、相手の消極的姿勢をアピールすればいい。そうすれば、澤屋敷の減点ということになって、判定勝ちできる。

シュルト 対 セフォーは、さすがに体力差でシュルトの勝ち。シュルトは、昨年は体がぶよぶよで動きも鈍く、ピークを過ぎてしまったのかと思わせたが、今回は少しだけ締まっていた。とはいえ、全盛期の動きじゃない。

モチベーションがかなり低下しているんじゃあるまいか。だから近頃の彼の試合は、とてもつまらないのだ。

ああ、PRIDE が見たいなあ。

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2007年3月 4日

「マイ箸」について再び考察

1月 19日に「マイ箸を持ち始めた」という記事を書き、一昨日には「マイ箸その後」として、ちょっと自分で突っ込んでみた。

こうしてみると、「マイ箸」 ってなかなか突っ込みどころのあるテーマである。環境保護、日本文化、マナー、自意識過剰という切り口、そして継続のためのノウハウなどなど。

自然環境保護という観点からすると、「割り箸は間伐材を使用しているので、森林保護に貢献している」などという説は、もはや過去の遺物となっていて、今や、中国製が 90%以上に達し、彼の地における皆伐方式による森林破壊の元凶になっているという事実がある。

割り箸はできるだけ使わない方がいいというのは、もはや自明の理である。

それでもなおかつ割り箸の使用が一向に減らないのは、「外食において箸を使い捨てにするのは重要な日本文化」というバックグラウンドゆえに、「外食でマイ箸を使うのは、案外『勇気』が要る」ことによる。

一昨日のエントリーで書いたように、外食でマイ箸を使うのは、案外気恥ずかしいものなのである。それは、箸という道具の性格上、自分の目の前の至近距離で使うため、ものすごく自意識に訴えかけてくるのである。他からはそんなに気にされないのに、自分だけはものすごく気になるのだ。

これは、いいこととわかっているのに、電車で老人に席を譲ることをためらってしまう「自意識過剰」みたいなところがあると、一昨日書いた。本当に、電車で席を譲れないタイプの人は、多分、マイ箸を使えないだろうと思う。

逆に言えば、積極的に電車で席を譲るタイプの人は、マイ箸も大丈夫だろうということだ。気持ちの問題としては。あるいは、割り箸に近い雰囲気の、白木に近い塗りの箸を使うと、抵抗が少ないかもしれない。

ここから先は、気持ちの問題よりもう一歩踏み込んで、継続のノウハウである。マイ箸を継続するには、常に携帯するという当たり前のことが重要になる。昼飯を食いに行くのにしょっちゅうマイ箸を忘れていては、「マイ箸を使ってます」とは言えない。

それだけに、「携帯しやすい」ということが必須のポイントである。あまり長いものや、大袈裟な箸箱、綺麗なだけで使いづらい箸袋などは、おすすめできない。

そして、使ったマイ箸の処理も問題になる。昼飯に使って、そのまま家に持ち帰って洗うことができれば問題ないが、晩飯にも使うときはどうするかということになる。私の場合は、ハンカチでよく拭いて箸箱にしまい、晩飯でも必要ならば、そのまま使っている。

衛生問題を過剰に問題にするなら、多分、細菌が増えていないわけはないと思うのだが、別にそれで病気になるわけでもない。ペットボトルの飲料を一日かけて飲み干すのと、どっちが衛生的かという程度の問題だと思う。

どうしても気になるなら、アルコールに浸したガーゼなんかを常に持ち歩いて (蒸発しないように密閉容器が必要だが)、それで拭き取ればいいと思う。いちいちアルコール付きのペーパータオルなんか使ったら、環境保護の視点からはあまり意味がない。

マイ箸の歴史はスタートしたばかりのようなものなので、各人がいろいろなスタイルやノウハウを作り上げつつある段階にあると思う。精神論だけに終わらず、ノウハウ交換をしなければ、このムーブメントは根付かないと思う。

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2007年3月 3日

FTTH 接続騒動

我が家のインターネット接続が、昨日から NTT 東日本の B フレッツになった。これでようやく FTTH の仲間入りである。

2月 1日から、うちの地域も光ファイバーでカバーされていていたのだが、かなりの順番待ちがあって、我が家の工事が終了したのが、昨日の午後のことである。

私が家に帰ってきたのは夜になってからで、既に「ひかり電話」への分岐とブロードバンド・ルーターを兼ねたデバイスが、ピカピカ光っていた。

ひかり電話は既に稼働しているが、インターネット接続の設定は自分でやるということらしい。そりゃそうだ。パスワードもあるしね。

で、ブラウザを立ち上げてルーターの設定をしようとしたら、妻が「これを使うと、とても簡単にできると言ってたわよ」と、1枚の CD を差し出した。ここで、ハードなオタクだったら、「ふん、そんなガキンチョ向けのもの使わないよ!」なんて思うところだが、私は何しろ楽なものが大好きだから、さっそくセットしてみたのである。

そうすると、設定画面ともいえないほどの単純な画面が出てきて、私のプロバイダ接続に関する ID とパスワード、そして DNS を入力すると、それであっという間に設定が終了した。簡単すぎである。

ところが問題はそこからだ。「終了」ボタンを押して、ルータの内部で処理が済んだら、ルーターの 「PPP」 という表示ランプが緑色に点灯するというのだが、これが全然点灯しないのである。一体、これは何なんだ。多少時間がかかる場合もあるということだが、5分経っても、10分経っても点灯しない。

ははあ、もしかして、Nifty の接続サービスが、ADSL コースのままだからではあるまいかと、モバイルのノート PC を取り出して、PHS 接続で、オンラインのコース変更を申し込もうとした。

ところが、Nifty のサイトで B フレッツへの変更を申し込もうとすると、コンサルティングを受けて、NTT の工事を終了してからでなければならないので、まずコンサルティングを受ける日程の予約をしなければならないとある。

こっちは B フレッツは既に開通済みだっていうのに。本当にもう、話が通じないんだから。

前の画面に戻って、「既に B フレッツが開通している場合」 というコースを選択しても、どうしても途中から同じ画面に誘導される。「お前が 『既に B フレッツが開通している場合』と言ったくせに、なんでこうなるんだ!」とぶち切れかかる。

さっさとコース変更だけ受け付けてくれればいいのである。とはいえ、他に受け付ける画面が見当たらないので、そのまま申し込んで終了して、ふとルーターを見ると、あれだけ点かなかった 「PPP」 のランプが点灯している。

ありゃ? とばかりに、デスクトップでブラウザを立ち上げたら、何のことなく、快速のインターネット接続が実現していた。

で、面倒なのは、すぐに届いた Nifty からのメールである。コンサルティング希望日に NTT から連絡が入りますなんてことが書いてある。てことは、インターネットが接続されたのは、さっきの申し込みでコース変更が受け付けれられたためではないというのは明らかだ。

要するに、光ファイバーというのは、つながったら速いが、つながるまでは遅いもののようなのである。

で、しょうがないから、コンサルティング云々は要らないから、「コース変更」だけ受け付けてくれとのメールを返送したのだが、Nifty というところは、光ファイバーへの変更は、全部事前に自分のところを通さないといけないと思っているようなのである。

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2007年3月 2日

マイ箸その後

今年の 1月 19日に 「マイ箸を持ち始めた」 というエントリーを書いて、思っていた以上の反響があったのだが、ほぼ 1ヶ月半経った今でも、ちゃんと使い続けている。

最初は、自分だけおもむろにふところから箸を出すのがちょっと気恥ずかしかったが、今ではすっかり慣れてしまった。

正直なところ、本当は初めのうちはマイ箸を使うというのは変てこなプレッシャーがあった。多分、いいこととはわかっていながら、電車で老人に席を譲ることができないとか、道端のゴミを拾って屑篭に捨てることができないという、変に自意識過剰な人は、マイ箸なんて使えないんじゃないかと思う。

私なんかは、電車で席に座っていて、近くに老人が立ちでもしたら、ほぼ脊髄反射的に席を譲ってしまうという、ごくごくシンプルな頭の構造をしている。その私にして、最初に一人で蕎麦屋に入り、蕎麦と一緒に出された割り箸を断って引き取ってもらい、おもむろにマイ箸を取り出して食べ始めた時は、なんだか照れくさい気がした。

実際にマイ箸を使い始めてみて、どうしてマイ箸が広まらないのかが、なんとなく実感できた。要するに照れくさいのである。周り中から変な目で見られているような気がするのである。素直に割り箸を使う方が、ずっと気が楽なのである。

しかし、はっきり言ってそんな気がするのは、自意識過剰以外の何物でもない。マイ箸というのは、常に自分の目の前の至近距離で使うので、自分にとってはものすごく目立つのだが、周囲には自分で思っているほどには目立たないのだ。どうってことはないのである。

慣れてしまえば、全然フツーのことになる。最初のプレッシャーをいかに乗り越えるかというのが、老人に席を譲るにも、マイ箸を使うにも、肝心なところである。

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2007年3月 1日

地デジ開始で、社会が変わる?

元々テレビなんてほとんど見ないので、2011年(あと 4年後か)以後は、BS と DVD と Youtube で済ませようと思っていたのだが、家族はそれは嫌だというのである。

個人的には、テレビを見るだけのために、何十万円もかけるというのは、まったく馬鹿馬鹿しい気がするのだけれどね。

私は今でも、ニュースのインプットは、インターネットとラジオと新聞からが 90%以上だし、どうしても動画入りでニュースを見たかったら、Yahoo の動画ニュースという手がある。(この方が、好きな時間に見られる)

他のテレビ番組なんて、見なくても死にゃしないし、むしろ見ない方が有益な時間が生み出せる。どちらかというとラジオの方が仕事しながら耳だけ傾ければ済むので、私にはありがたい。DVD ならパソコンで見ちゃうし。

で、積極的に「地デジ難民」化の道を選ぼうかと思っていたのだが、家族はどうもそれでは承知しないのである。やっぱり既存のテレビ番組を見たいし、同じ見るなら大画面で見たいらしいのである。ふぅむ。

考えてみるに、地デジ放送開始で、テレビに対するアティテュードは二極化しそうな気がするのである。

テレビを見るなら、居間の大型テレビの前に家族が集まるという状況と、あるいはいっそテレビ離れしてしまって、個々人がインターネット経由で動画情報を得るという二つの方向に、現実に我が家は分化しそうな勢いなのである。

地デジ対応テレビが、アナログの小型テレビみたいに 1万円や 2万円で買えるなんて時代には、まだしばらくならないだろう。そうなれば、現在自分の部屋で小さな個人用テレビを見ている少年少女は「家庭内地デジ難民」化してしまって、自分の部屋から出て居間に戻るしかない。

多分一時的な現象ではあるだろうが、まるで昭和の時代の古き良き家族のような光景がよみがえる。

一方、一人でアパート住まいしている地方出身の貧乏学生の多くは、これはもう、軽い気持ちで地デジ難民化しちゃうだろうが、それでも困らないだろう。この層に対応したインターネット・サービスが増えるだろうし。(近頃初めて知った "Rimo" をもっと拡充したようなやつとか)

2011年の地デジ移行で、多分、既存のテレビ離れが部分的に進みつつ、一方で、より多様な動画サービスが登場することになるだろう。既存のアナログテレビのコンセプトがそのままデジタル化されて、まったく安泰のまま続くなんてことには、おそらくならない。

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