私の木造校舎体験
「風の記憶」の伊藤さんのブログで知ったのだが、私の母校、酒田東高校の新校舎が完成したのだそうだ(参照)。
「へぇ!」である。というのは、春休みに解体中であろう「旧校舎」こそが、私の世代にとっては「新校舎」だったのだ。しかも、私はその「旧・新校舎」 で学んだことすらないのだ。
私は小学校から高校まで、ずっと今にも崩れ落ちそうな木造校舎で学んだ。小学校は築 60年という、本当に、いつ天井が落ちて来ても不思議じゃない建物だった。実際、どの天井も微妙な弧を描いていて、柱から離れた真ん中ほど下に垂れ下がっていた。
窓なんていうのは、そりゃもう、隙間だらけで、地吹雪が教室の中まで吹き込むのだった。冬の朝に学校に着いて、まずすることは、机の上にうっすらと降り積もった雪を床に落とすことだった。
そんな校舎だから、小学校 6年の時の新潟地震で倒壊しなかったのが不思議なほどである。それでも揺れている最中は、天井板の隙間から 60年の歴史ある埃がもうもうと舞い落ちてきて、地獄絵図のような有様を現出した。
その小学校も、我々の代が卒業すると間もなく鉄筋の新校舎が完成した。つまり、私たちは新校舎の恩恵に一度もあずからないうちに卒業してしまったのだった。
そして進学した中学校。これも小学校に劣らぬほどのおんぼろ木造校舎だった。なお悪いことに高台にあるため、冬の季節風をまともに浴びて、吹雪の日などは校舎全体が揺れるのである。地震ならすぐに止むが、吹雪による揺れは一日中続く。
それでも、すきま風によって風圧を少しは受け流していたからか(?)倒壊せずに済んだ。その分、教室の中には雪が積もったが。
この中学校も、我々が卒業すると間もなく新校舎が完成した。そして、問題の酒田東高校である。これもそれまで同様、いかにも伝統を感じさせるといえば聞こえはいいが、要するにガタガタの木造だった。
いや、一部新校舎ができてはいた。当時、それは「理科校舎」と呼ばれていて、実験の必要な理科系の授業だけは、そこに移動して行われた。
理科校舎は旧校舎と違ってすきま風もなく、集中暖房も効いていてまるで天国だった。だた天国だけに、昼休みのあとの 5時限目などは、ほとんどの生徒は夢幻の境地で陶酔するのだった。
そして、二度あることは三度あるというように、この高校も我々が卒業すると同時に鉄筋の新校舎に建て替えられた。
というわけで、私は大学にはいるまで木造校舎しか知らず、しかも自分たちの卒業と同時に、母校はことごとく鉄筋の新校舎になるという、希有な巡り合わせの星の下に生まれているのである。なんとなく、我々の世代を象徴しているようなエピソードである。
その酒田東高校の「鉄筋の新校舎」が、今では「旧校舎」と呼ばれていて、春休みの間に取り壊されてしまうという。御用済みになるまで、わずか 35年である。我々の学んだ木造校舎は、戦前から 50年以上も無理矢理もたせたのに。
こうしてみると、木造は、ガタガタではあったが、ずいぶんエライものなのである。
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