忽然と悟る自我、ぼんやりと感じる自我
一昨日、車を運転していたら、絵本作家の五味太郎氏がラジオでご自身の「自我の目覚め」について語っておられた。
なんでも、小学生の時分の夏休み、田んぼのあぜ道だかを歩いていると、「自分は他の誰でもない、自分なのだ」ということが、忽然としてわかったのだという。
この「忽然として」というのがいい。ホスト役の久米宏は、「そういう経験、自分にもある」と言っていたが、具体的には語らなかった。そして話を振られた小島慶子アナウンサーが「私にもある」 と、突如、具体的に語り始めた。
彼女が言うには、やはり小学生の頃、交差点で家族と一緒に信号待ちをしていたとき、「私は自分自身が主人公で、周りの人は皆、脇役だと思っていたけど、実は周囲の人のすべてが、それぞれに自分が主人公だと思っているんだ」ということが、忽然とわかったという。
五味太郎氏と小島慶子アナウンサーの違いは、とても興味深い。五味氏はあくまで、「あれからこっち、(他はどうあろうとも)自分はずっと『五味太郎』であり続けている」 と言い、小島アナウンサーは「それぞれに主人公だと思っている他人」との関係性の中で生きてきた。
今どきはやらないかもしれないが、マクルーハン的な言い方をすれば、五味流は「ホット」であり、小島流は「クール」だと思った。小島慶子、ただ者ではない。久米宏はつまらんけど。
で、ようやく私自身を語るとすれば、私は子供の頃から「どうして皆、おもしろいことをおもしろがらないんだろう?」と思っていた。自分の「おもしろがるツボ」が、どうも他人と違うようだと、常に感じていて、それがいわば、私の「自我の目覚め」のようなものだった。
だから、私のそれは、五味氏のように 「忽然」 としたものではない。いつもぼんやりと、しかし確実に感じられる「プレッシャー」のようなものだった。それ故に、他人のおもしろがるものを、自分もおもしろがるフリをしてみせることも必要だった。
なるほど、周囲のそれぞれも、皆「自分が主人公だと思っているらしい」ということも、その過程でやはり「ぼんやり」と悟られた。わたしは、案外「ぼんやり」なのである。あんなにも一見プリミティブに見える絵を描く五味氏が、実は「自我の塊」なのに。
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