「自我」の認識の仕方
一昨日のエントリーで、自我の目覚めのあり方というものを書いた。「自我」の認識の第一歩が「他との違い」に立脚するのは当然だが、それ以後に微妙な違いがある。
うまく言えないが、「圧倒的主体としての自我」と、「他との関係性を通じた自我」というものに分けられそうな気がするのだ。
一昨日の例でいえば、幼い頃に「忽然として自我に目覚め」、それ以後は他がどうあろうとも、「自分は五味太郎であり続け、それ以外の何物でもない」と主張する五味太郎氏と、同じく幼い頃に 「他の人も皆、それぞれに自分自身が主人公だと思っている」ことに気付いたという小島慶子アナウンサーとの違いだ。
私自身の感覚で言わせてもらえば、「圧倒的主体としての強烈な自我」というのは、一時代前の自我なんじゃなかろうかと思う。今どき、そんなにストレートに(かなりおめでたく)「自分が自分自身であり続けられる」なんていうのは、ちょっと奇跡みたいなものだ。
自分というのは、他との関係性の中の一個でしかないというのは、ポストモダンの思潮の中の基本的な認識だと思う。「強烈な自我」というのは、いわば古き良き時代の芸術家的アイデンティティの名残である。
教育や、あるいは企業の人材募集などでも、いともおめでたく「個性」を要求する向きがあるけれど、「個性」なんてものは要求して得られるものじゃない。この時代の「個性」とは、「後で気付けば、あれがそうであったか」というようなものだ。
そうでなければ、大概のケースにおける「個性的な人材」なんていうのは、意識的、無意識的の違いはあるかもしれないが、時代の要請に合わせてマーケティング的に演出したものである。
それだからこそ、妙な「個性」の看板を安易に上げてしまうと、後で分裂症的なストレスに悩まされることになる。
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コメント
こんにちは。
>「圧倒的主体としての自我」 と、「他のと関係性を通じた自我」
これって仏教でいう「真我」「仮我」のこと ?
で、takさんは真我論的自我観を否定しているってことなのかしら ?
なぁんて、思いました。
以上、大学の東洋思想史の講義「可」だったまこりんからでした。失礼っっ。
投稿: まこりん | 2007年3月14日 23:23
まこりん さん:
>>「圧倒的主体としての自我」 と、「他のと関係性を通じた自我」
>これって仏教でいう「真我」「仮我」のこと ?
あ、いえ、この場合は、両方とも 「仮我」です。
「圧倒的主体としての自我」というのは、
より重い業を背負って立ってるんじゃないかなあ。
その意味では、拍手拍手! ですが。
「真我」 は、業から解放されてるらしいですから。
投稿: tak | 2007年3月14日 23:39
> この場合は、両方とも 「仮我」です。
「自我」という業のエントリだったのですね。
読み返して、なんとなく、わかりました。
>「圧倒的主体としての自我」というのは、
> より重い業を背負って立ってるんじゃないかなあ。
「個性的な人」って、はたから見て、大変そうだな、って部分結構ありますものね。
投稿: まこりん | 2007年3月16日 01:00
まこりん さん:
>「自我」という業のエントリだったのですね。
>読み返して、なんとなく、わかりました。
う、う…、
そこまで明確に意図して書いたんじゃないので、
我ながら、「そうかな?…そうかも…」 という感じです。
ともあれ、新たな論の発展の方向性を示唆してもらえたようで、
感謝です。
投稿: tak | 2007年3月16日 21:52