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2007年4月に作成された投稿

2007年4月30日

今イチだと思うぞ 「Google トランジット」

Google がこのほど日本で先行開始した PC版の「Google トランジット」が、かなり評判がいいようだが、私の印象では、やっぱりまだベータ版の域を脱していないような気がする。

私の居住する茨城県つくばみらい市が、まだ昨年の町村合併前の「筑波郡伊奈町」でないと表示されなかったりするし(参照)。

それに、私の実家の山形県酒田市に、夕方の 4時までに着こうとすると、羽田から飛行機を使って、お昼の 2時前ぐらいにつくというコースしか提示されない。Goo の路線案内だと、3時前ぐらいにつく鉄道利用のコースも提示されるのだが。

さらに Google は、自宅からつくばエクスプレスの 「みらいだいら駅」 まで行くのに、47分かけて歩くなんていう無茶を要求してくる。終戦直後じゃあるまいし。一体いつの時代の話をしてるんだ?

確かに「Google トランジット」は 「Google マップ」と組み合わせて、かなり視覚的な表示をしてくれたりするので、ルートを直感的に捉えるにはいいかもしれない。ただし航空写真と組み合わされても、実際に地上を移動する者は鳥瞰図のイメージを提示されてもあまりイメージが湧かなかったりする。

私は、どちらかといえば Goo の乗換案内の方が、シンプルで使いやすいと思うがなあ。これは単なる「慣れ」の問題だろうか?

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2007年4月29日

確かにうっとうしい百貨店の店員

これも昨日の 「羊とプードル」 同様、当然にもネタかと思ったのだが、どうしてどうして、どうやらマジのニュースだったようだ。

声かけないでね…カードを付けて静かに買い物」 というニュースである。高島屋で、店員に声をかけられたくない客が、首にかけるためのカードなんだそうだよ。

件のニュースには、"カードの名称は 「S.E,E(シー)カード」。英語の Silent(静かな)、Easy(ゆったりとした)、Each(それぞれ)の頭文字から取った。「シーッ」と、人差し指を口元にたてるしぐさの図柄が描かれている" と紹介されている。はぁ。

それを言うなら "S.H.H(静かに、放っといて、離れてて)カード" とかにしてもらいたかったなあ。(「シーッ」 は "see" じゃなくて "shh" でしょ)

で、これをレポートした「痛いニュース」では、「付けんの恥ずかしそう」「新手の羞恥プレイ?」「罰ゲームか」などの反応が紹介されていて、どうみてもこうした感覚の方がノーマルに思われる。なにしろ、今月 4日から 27日までの間に、これを利用した客はたったの 5人だそうだし。

ただ、百貨店で店員に声をかけられたくないという心理は、十分に理解できる。元々百貨店の洋服売り場の店員は、ほとんどがメーカーからの派遣店員で、あのおばさん達は自分のメーカーの服さえ売れればいいと思っているのだから、信用しすぎるのは考え物だ。

どうみても似合いそうにない洋服を、「こちらの方が "うつり" がよろしいかと……」なんていう意味不明の言葉で薦められた経験のある人は少なくないだろう(「うつり」って、一体何だ?)。あれは要するに、自分のメーカーの商品を無理矢理売りつけたいだけなのである。

実際、強引な売りつけ方による問題もないではない。ケアラベルにドライクリーニングするように表示してあるのに、「洗濯機でも、弱水流なら大丈夫ですよ」なんて言われて真に受けて、洋服の風合いが台無しになったなんて例もある。(まあ、家庭洗濯で大丈夫なケースも多いには多いのだが)

また、ちょっとサイズが小さすぎる洋服を、「今はタイトフィットがトレンドですから」なんて言われて買ったはいいが、大事なお呼ばれの席で、ちょっとしゃがんだ途端にお尻の縫い目がビリッと裂けてしまったなんていうクレームも、それほど珍しいことではない。

とんでもない勘違いの商品説明をする店員も少なくない。とくに繊維素材の知識なんて、まったくメチャクチャだったりする。私なんぞはアパレル業界でメシを食ってン十年というその道のプロだから、「はぁ!?」と言いたくなることがしょっちゅうである。

というわけで、確かに無闇な接客はうっとうしいのだが、それを避けるためには、さらし者みたいなカードを首にかけなければならず、それが恥ずかしいからと言って遠慮すると、声かけの集中攻撃にあうなんてことになったら、たまらないなあ。

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2007年4月28日

羊とプードルとフリースの三題噺

まったくもう、確かに笑ってしまったけれど、こういう話は、来年のエイプリルフールまで取っておいて欲しかったなあ。

何かというと、「日本でプードルと偽ってヒツジが大量に売られている」 という記事である。あるネット通販会社がイギリスやオーストラリアから日本に向けて輸出していたという。

話が一部錯綜しているのだが、要約すれば、女優の川上麻衣子がテレビのトークショー(フジテレビ 「ライオンのごきげんよう」との説が有力)で、友人がインターネット通販で買ったトイプードルが、実は毛を刈り込んだ羊だったという話を語ったというのである。

そして、イギリスの大衆紙 "SUN" では、川上麻衣子自身がだまされたと報じられてしまっていて、さらに「これが放映されるや、何百人もの女性が同様の被害を警察に届け出、警察当局は被害者は 2,000人にのぼるとみている」(訳は Tokyo Fuku-bog による)というのである。(参照 - 写真が傑作なので、一見の価値あり)

ああ、やられたなあ。私の今年のエイプリルフール・ネタよりも、少しだけ手が込んでるじゃないか。よし、来年はこれを上回るネタを仕入れよう。(事実よりも大きなおっぱいを大切にする "SUN" は、毎日がエイプリルフールみたいなものだけど)

で、ジョークを 「このネタが、どうしておもしろいかっていうとね ……」 と説明するのは野暮の極みなのだが、まあ、行きがかり上、せっかくだからちょっとだけ解説させていただこう。

このネタが、日本ではともするとマジに受け取られるほどに、あるいは都市伝説に高められるほどにツボにはまってしまったのは、ひとえに日本人が「羊」という動物に馴染みがないからである。

"SUN" を毎日読んでいる英国人なら、いくらなんでも羊とトイプードルを間違えるはずがないので、すぐにジョークとわかるのだが、日本人には、このジョークが通じなかったりするのだ。(SUN も記事中で、「日本では羊が『レア』なのでだまされやすかった」と、珍しく本当の指摘をしている)

というわけで、私ののサイトの「なぜ、日本人は羊を数えても眠れない?」というコラムを思い出して頂きたい(まだ読んでいない方は、是非読んでもらいたい)。私はそこで、日本人は眠れない夜に、頭の中で羊なんていう馴染みの薄い動物を想像して律儀に数えたりなんかしたら、ますます脳が緊張を強いられて、目が冴えてしまうと指摘している。

ことほど左様に、日本人にとって羊は「エアポケット」のような存在なのだね。件のジョークがかなりマジに受け取られたということで、私の 「日本人は羊に馴染みがない」説は、かなり補強されてしまったようだ。

英国からみると、日本人は "L" と "R" の発音だけでなく (ちなみに、カタカナでは両方とも「ラム」だが、"ram" は「牡羊」で、"lamb" は「子羊」)、プードルと羊の区別もつかない民族ということになってしまった。羊は犬と違って、蹄(ひづめ)のある動物なのだということも忘れられるほどに。

で、もう一つ、これは英語でないと通じない洒落なのだが、「フリース」という言葉である。「フリース」 - "fleece"  というのは、ユニクロのフワフワした材質のジャケットで有名になってしまったが、元々の意味は、刈り取られた羊の毛のことである。

羊の毛はバリカンで刈り取ると、絡まり合って、まるでフリースジャケットみたいな状態になるのだ。で、"fleece" という言葉には、もう一つ、スラングだけど、「だまして巻き上げる」という意味もある。

それで、"METRO" の方の記事のタイトルは、"Dog owners 'fleeced' in poodle scam" (犬の持ち主は、プードル詐欺に「フリース」で丸め込まれてしまった)ということになったわけなのだね。要するに、この記事は「羊とプードルと、フリースの三題噺」だったのだ。(ああ、ジョークを説明するのって、疲れる)

まあ、同じ大衆紙でも、"METRO" の方が "SUN" よりもちょっとだけオシャレというのも、この見出しでうなずける気がする。

【5月 1日追記】

このネタには余話があるので、お時間があればご参照のほどを。(「羊とプードル」 ネタの余話

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2007年4月27日

自分で自分の首を絞める高野連

私はこのコラムで、過去に何度かアマチュア野球関係のお偉方の「超エラソー」な態度をオカズにしているが。高野連のお偉方に至っては鬼気迫るものがある。

今回の「野球特待問題」への対応(参照)なんて、自分で自分の首を絞める錯乱状態のようにみえる。

私はこの問題が取りざたされるまで、高野連が野球関連の特待制度を禁じているなんてちっとも知らなかった。だってスポーツの得意な子が、授業料を免除されたり減額してもらったりするなんて、常識だからだ。野球だけが違反だなんて言ったら、それこそスポーツ界内部での「差別」である。

高野連のお偉方だって、これまでその実態を知らなかったはずがないではないか。それがプロ野球の裏金問題の余波なのかどうかしらないが、急に固いことを言い始めた。よくよく建前先行の世界である。

「今後、きちんと授業料を払ってください」なんて言われたら、野球特待生の父兄の多くは「そんなんだったら、公立に行かすんだった」と嘆くかもしれない。「授業料は要らんから、ウチの高校においで」と誘われたからこそ、その私立校に入ったんじゃないか。

今さら「あの話はなかったことに」ということになったら、後に残るのは、高い授業料だけだ。肝心の野球の方はこのゴタゴタで身が入らないだろうし、まったくもって気の毒なことである。

それに、ほかの種目の特待制度は大手を振って残るのだから、今後、高校スポーツ界の重点は、野球からサッカーなどほかの種目に移行するだろう。スポーツは私立校の動く広告塔なのだから、野球がだめなら、ほかで宣伝するだけの話である。

そういうことになったら、高校野球のレベルは低下する。甲子園野球もつまらなくなる。ひいては、そこから選手の供給を受けるプロ野球のレベルも低迷する。そうならないための唯一の防衛策は、クラブチームの振興だ。

これからは、もしかしたら甲子園野球は役割を終了して、クラブチームのトーナメントか何かが脚光を浴びてしまうなんてことにもなりかねない。

高野連は、マーケティング的に見ると、明らかに自殺行為に走っている。

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2007年4月26日

自分だけの都合による偏見

"「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる 「正常化の偏見」" という興味深い記事を見つけた。昨年夏に書かれた記事だが、全然古くなっていない。

「正常化の偏見」 とは、英語で "normalcy bias" といい、要するに、自分にとって都合がいい思い込みである。

例えば、交通事故と宝くじのそれぞれに対して抱く、期待(不安)の違いが挙げられていうる。交通事故に遭って死亡する確率は、宝くじの 1等に当選するより高いんだそうだ。

それでも人は、宝くじで大もうけして海外旅行をしたり家を買ったりすることを強烈に思い描いても、自分が今日にも交通事故で死ぬかもしれないとは、あまり考えない。また非常ベルが鳴っても、すぐに避難しようとする者は慌て者と嗤われてしまう。

人間には常にそうした意識が働いているため、コンピュータの世界においても、セキュリティ対策は遅れがちになる宿命があるようなのだ。

確かに常に取り越し苦労をしていては、日常生活もままならないし、はかないとわかっていても夢をもったりすることは、人生を楽しくしてくれたりもする。しかし、あまりに都合のよすぎる考え方ばかりしていては、リスクマネジメントが成立しない。

30年近くも前だが、東名高速の日本坂トンネルで事故による火災があり、トンネル入り口には 「進入禁止」 の表示が出されたにも関わらず、車が次々に突っ込んで、大惨事になったことがあった。これなんかは「正常化の偏見」 が最悪に働いた結果である。

この「正常化の偏見」という心の働きは、とても複雑だったりする。

例えば、横断歩道を渡るとき、私はこちらに向かってくる車のドライバーが女性だと認めたときは、その車をやり過ごしてから横断する。というのは経験知からいうのだが、女性(とくにオバサン)の場合は、横断歩道の手前で停止して歩行者を渡すという意識が皆無である場合が多い(あるいは「ほとんど」)のだ。

甚だしくは、渋滞のために車の往来がかなりゆっくりで、どうせ横断歩道を通り過ぎた辺りで止まらなければならないというようなケースでも、こちらが横断しようとすると、ものすごい目でにらまれちゃったりする。

ところが、逆の場合はこうは行かない。横断歩道を渡ろうとしているオバサンがいるので、こちらはルール通りに止まって、横断させてあげようとする。ところがオバサンは躊躇して、なかなか渡ろうとしない。

もじもじしたまま渡る様子がないので、それじゃあと、こちらがスタートしようとすると、急に意を決したように横断し始めたりするから、危なくてしょうがない。

これなんかは、交通法規よりも、自分の感覚を優先させることによるんじゃないかと思う。「正常化の偏見」が自分だけの感覚によって、もろに「偏見的」に作用した結果である。結果そのものは、都合よく現われたり(あくまでも当人にとってだが)、トンチンカンになったりする。

「歩行者がいるけど、どうせ横断なんかしないわよね」ということで、スピードダウンもせずに突破するかと思えば、逆のケースでは「横断したいんだけど、車が止まってくれるわけがないわよね」と思いこんでいるので、現実にこちらが止まってあげても、それに対する反応がメチャクチャになるわけだ。

「正常化の偏見」というのは、ほとんどの場面で日常生活を円滑にする役に立っているが、そうでない場合は、たちどころに「異常化の偏見」に変貌して、下手すると命取りになる。

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2007年4月25日

データの背後にある見えない事実

厚生労働省研究班の調べによると、自殺した人や、しようとした人の 8割は、事前に家族や友人に相談していなかったという。そして、9割は最初の試みで死んでいる。(参照

これによって「覚悟の自殺が多い」 と結論付けているのだが、このデータだけでは、必ずしもそうとは言い切れないと思う。

というのは、調査をしたのは、自殺を図って本当に死んでしまった人の遺族や関係者、そして自殺未遂者だけのようだからだ。これでは、自殺しようとは思ったが、事前に誰かに相談して、いい助言を得られたために自殺に踏み切らなかったという人のデータが、反映されていない。

自殺を考えたけれども、とても親身のアドバイスのおかげで未遂にも至らずに、頑張って生き続けてみようと思った人というのは、かなりの数に上ると思う。しかしそれはデータの背後に隠れて、見えない数字になっている。

だから、日本人が誰にも相談せずに一人だけで思い悩んで、「覚悟の自殺」を孤独に決行してしまう傾向があるとは、言い切れないだろう。

ニュースでは、「米国の研究では、自殺を図った人の約 2割が、その直前 1カ月間に精神科を受診しており、日本と大きな差があった」としている。これも裏から読めば、米国では 1ヶ月以内に精神科をj受診しても、自殺を思いとどまるに至らなかった人が 2割もいるということで、これはこれで大問題だと思う。

データというのは、解釈のしようでどんな結論でも導き出せる。ちょっと気をつけなければならない。

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2007年4月24日

人間如何に死すべきか

国立社会保障・人口問題研究所というところのウェブサイトがあって、そのトップページでは、人口ピラミッドの推移 (1930年~2055年) を、GIF アニメで見せてくれている (参照)。

で、より詳細に、例えば 今から 32年後となる 2040年の推計値というのをご覧いただきたい (参照)。愕然としないだろうか。

とにかく、32年後の日本では、60歳から 80歳ぐらいまでの年齢層が圧倒的ボリュームになる。男より長生きする女性だけをとってみると、なんと、80歳から 94歳までの年齢層が、35歳から 50歳までの年齢層とほぼ同じぐらいで、20歳から 35歳までの人口よりは確実に多くなりそうなのだ。

本当に、じいさんとばあさんばっかりの世の中になってしまうのである。

2040年というと、私はもし生きていれば 88歳になっているはずだ。今日現在、血圧もコレステロールも正常で持病もなく、ぴんぴんしているので、そのくらいまで生きる可能性はかなり高い。

ボケもせずにこのブログを毎日更新し続ければ、1万1千日以上の連続更新になる。もし、そんなことができるほどに、健康を維持し続けることができれば、それほど問題はない。しかし、それが困難なほどに健康を害しているとしたら、私は無理に治療してまで生き延びようとは、まったく思わない。

最近の医学の進歩は大したもので、遺伝子レベルでの操作を行って、たいがいの病気は治してしまったり、臓器を移植したり人工臓器を埋め込んだり、果ては ES 細胞 (胚性幹細胞) とやらで、自前の遺伝子で臓器を再生させたりすることまで可能になるらしい。

だが、人はそんなことしてまで生き延びたいのかと、私は疑問に思う。少なくとも私は、自然の寿命が尽きたらフツーに死にたいと思う。それが寿命だというなら、来年か再来年だったとしても、それはそれであきらめがつくだろう。

「長生きするのがいいことだ」という価値観は、このあたりでちょっと修正しなければならない時期が来たと思う。人間が 50歳とか 60歳とかで死んでいた時代には、百まで生きたら、それは大変なおめでたいことだった。

ところが、人間がフツーに百まで生きるようになってしまったら、そりゃ、あまりめでたいことじゃないだろう。日本人の半分以上がおぼつかない足元で、入れ歯をカクカクさせて生きている図は、あまり想像したくない。

医学は近い将来、人間をより長生きさせるためにあるのではなく、寿命を自然に全うさせるためにあるというように、目的を変えなければならない時代がくるのではないかと思うのである。

人間の体細胞が自然に新陳代謝を繰り返さなければ、健康を維持できないように、人類全体としても、自然の新陳代謝がなければ、種としての健康を維持できないだろう。個々人が長く生きりゃいいってもんじゃない。

医療が「余計なお世話」になる時代が、迫りつつある。そうした時代においては、「どうか、フツーに死なせておくれ」というのが、人間の大きな願いになる。

一昔前は「人間如何に生きるべきか」が重要な哲学だったが、今や「如何に死すべきか」が、切実なテーマになりつつある。

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2007年4月23日

ペットボトルを捨てるにも、関西はエライ!

去年の秋、ペットボトルを捨てる時には蓋を取って捨てるというマナーがほとんど守られていないことを、私は嘆いた (参照)。

しかし、今回関西に行って、コンビニのゴミ箱を見て感心してしまったのである。ごく自然にペットボトルの蓋を取って捨てるように、ゴミ箱のデザインが工夫されているのだ。

件のエントリーには、ペットボトルのリサイクル現場からも、蓋をしたまま捨てられるのは困るとの声が上がっているというコメントが寄せられた。この問題を解決できるデザインがあることを、私は初めて知った。

04pet

写真は、兵庫県明石市で見かけたコンビニの店先のゴミ箱である。ペットボトル用のゴミ箱の左側の小さな穴は、キャップを入れるようになっている。そして、右側の部分をプッシュすると、ペットボトル本体を捨てられるようになっている。

なるほど、これならペットボトルを捨てるときに、自然にキャップを取って捨てることになる。キャップを捨てる穴には蓋がなくて、本体は蓋を押さなければ捨てられないというところがミソだ。これで、捨てる時に、ちょっとだけ考えることになる。

一緒に仕事をした関西人に聞くと、多くのコンビニで、この仕様のゴミ箱が採用されているとのことである。素晴らしいじゃないか。少なくとも私は、関東でこんなスマートなアイデアを見たことがないぞ。

このゴミ箱の中がどうなっているのかまでは確かめなかったが、入り口が別でさえあれば、中は一緒でも構わないと思う。要するに、捨てるときにペットボトルから蓋が取り外されるように、自然に誘導すればいいだけのことなのだから。

何しろ、フツーの日本人は変に勤勉だから、ペッボトルを捨てる時にさえ、わざわざ蓋をして捨てるのである。それでリサイクルの時に余計な手間がかかるのだ。その余計な勤勉さを防止するために、このデザインはなかなか考えられている。

人間の「知」は、脳みその外部にあったりするのである。例えば、押して開けるドアには取っ手がなく、"PUSH" と書かれた金属やプラスチックの板が貼り付けてあるだけで、引いて開けるドアには取っ手があったりする。これによって、ドアの開け方が直感的に理解されるのだ。

リサイクルのためには、ペットボトルの蓋を取るべきだと知らない人間でも、これなら自然に蓋を取って捨てるという行動に移りやすい。脳みその外部デザインとして、これはとてもさりげなく、しかも気が利いていると思うのである。日本中に広まってもらいたいものだ。

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2007年4月22日

机の上をすっきりさせるための 12のコツ

* POP 経由で、「ごちゃごちゃした机の上をすっきりさせるための 12のコツ」 というものを知った。元は英文ページで、こちら である。

"12 Tips for an Organized Desk"-直訳すれば、「組織だったデスクにするための 12のコツ」 か。いずれにしても、米国人(多分)のことだから、ちょっと大雑把な気もするが。

紹介されている 「12のコツ」 というのは、次のようなものである。翻訳はめんどうだから  POP の訳をそのまま使わせていただくことにする。

  1. いらないペンは捨ててしまおう
  2. ちょっとしたものを入れるスペースを作ろう
  3. 使うものは近くに、使わないものは遠くに
  4. 電子機器は机に置かない
  5. フォルダーは手の届く範囲に
  6. 必要文書はスキャンして保存しよう
  7. 掃除用具を常備しよう
  8. メモ帳も手元に置こう
  9. ケーブルを整理しよう
  10. 必要な「引き出し」を用意しよう
  11. 十分な照明を確保しよう
  12. 片付けながら作業しよう

こうしてみると、ほとんどは言われるまでもない当たり前のことである。この中で私が実行していないことといったら、「6. 必要文書はスキャンして保存しよう」 と 「12. 片付けながら作業しよう」 の 2つだけである。

12のうち、10項目は実行している。実行率 83.3%である。結構なものではないか。これだけ実行しているのに、何ゆえに、私の机の上はこれほどまでに乱雑なのか。

思うに、文書のスキャンなぞは、大した要素ではない。はっきり言って、3年経っても必要性が薄れない文書なんていうのは、世の中にほとんどないのである。私なんぞは、1年経った書類のほとんどは、バシバシ捨てている。だから、書類がたまりすぎて場所をとってしまうなんてことはほとんどないのだ。

私の机の上が乱雑なのは、早く言えば「片付けながら作業する」 ということをしないからである。私は台所仕事をするときなぞは、これができる。私が料理をすると、料理が出来上がったとほぼ同時に、台所の鍋や調理器具もすっかり洗われて片付けられている。はっきり言って、この手際は妻より数段上である。

ところが、デスクワークになると、これができないのである。それで気がつくとデスクの上はゴチャゴチャなのだ。不思議なことである。

ただ、私のバーチャルなデスクトップ。つまりパソコンのハードディスクの中身は、かなりすっきり整理されている。本当の机の上で探し物に手間取ることはあっても、ハードディスクの中のファイルを探すのに手間取ることはほとんどない。

人間というのは、一筋縄ではいかないものである。私は一面から見るととても整理上手な人間ということになる。しかし、私のデスクの上だけをみたら、それを信じる人は一人としていないだろう。

人を一面だけで判断してはいけないというのは、本当のことである。

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2007年4月21日

日本一シュールな法律条文

昨日の当ブログに書いた 「公選法 第141条の3」 だが、やっぱり、これって日本一変な法律条文じゃないかと思う。

選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」という条文を考えたお役人のおつむの中身は、一体どうなっていたんだろうか?

法律というのは、いろいろな条文のつぎはぎで全体が構成されている上に、時々部分的に改正されたりするので、ところどころ整合性がとれなくなる部分が多々あるらしい。いわば法律の 「バグ」 である。

Windows でいえば、いろいろなプログラムで共用される DLL が、バージョンアップが繰り返された結果、あっちのプログラムにはうまく使えるが、こっちのプログラムでは使えなくなったとか、そんな感じのことがあるようなのである。

ところが、法律というのは Windows のパッチみたいに、不都合が見つかり次第さっさと修正プログラムが提供されるというようなわけにいかず、なにしろ、法改正は議会を通過しなければならないだけに、なかなか面倒で、あちこちで変なことになっているというのは、法律の世界では常識のようなのだ。

だから「変な条文」というキーワードでググると、そんなようなお話がずいぶんひっかかってくる。ただ、かなり専門的なお話が多いので、エンタテインメントとしてはあまり楽しめない。

そんななかで、いくつかの条文同士の整合性とかいうのではなく、たったのワンセンテンスでこれだけずっこけそうになってしまう条文というのは、やっぱりこれにトドメを刺すだろうと思うのだ。

繰り返すが、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」である。もしかしたら法律って、かなりシュールレアリズムの世界なんだろうか。そうだとしたら、かなりの傑作だと思うが。(以下、条文の該当部分全文引用)

車上の選挙運動の禁止
第141条の3
 何人も、第141条 (自動車、船舶及び拡声機の使用) の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項 (連呼行為の禁止) ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

「飯を炊くために使用される釜の中では、飯を炊くことができない」とか、「計算のために使用される電卓では、計算することができない」とかいうのと同じ論理的矛盾である。私しゃ、読んでるだけで恥ずかしい。

何しろ、私はかなり法律音痴だということが立証されている(参照)ので、条文とか何とかには全然詳しくないのだが、詳しい人には、これよりシュールな条文というのがあったら教えて頂きたいぐらいのものである。

選挙関係では、私はもう一つおかしな点を見つけているので、興味がある方は こちら を参照されたい。

当ブログの、この問題の関連記事一覧 (だんだん核心に迫っているかも)

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2007年4月20日

「連呼」って、やっぱり迷信だと思う

当サイトの "選挙カーの「連呼」は「迷信」から生じているらしい" というページがにわかに脚光を浴びてしまったということは、4月 17日のエントリーに書いた。

これに対してこのほど、読者の方から "選挙カーの「連呼 は「迷信」ではありません" というご教示のメールをいただいた。

このメールで、長年の疑問がやっと解けた。やっぱり、「走行中の選挙カー」 では、連呼しかできないもののようなのだ。公選法には、以下の規定があるとご指摘頂いた。(2021年 10月 注記: 以下の文章は法律改正によって、現状には適用されない)

第141条の3 何人も、第141条(自動車、船舶及び拡声機の使用)の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項(連呼行為の禁止)ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

それにしても、法律の文章というのはわかりにくいものだとは思っていたが、すさまじいものである。なにしろ、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」 のだそうだ。これ、いくら何でもなんとかならないものだろうか。

いや、法律の内容の問題として言っているのではない (そんなの、私にはどうでもいい)。純粋に言葉の使い方の問題として、読んで恥ずかしくなるだろう。これが矛盾でなくて、何が矛盾だというのだ。誠実に考えると、遵守すること自体が無意味とさえ思える。

まあ、その恥ずかしさをぐっと堪えて解釈すれば、但し書きで、停車中の街頭演説と、(走行中ならば)連呼行為のみが認められているということのようだ。

ただし実際には、警察はこの規定を厳密に適用していないので、走行中の選挙カーで連呼に限らず政策を訴えても、摘発されることはないということのようなのである。いわゆる「運用の問題」 、つまり「お上のさじ加減」ということだ。

で、私にメールをくださった方によると、街宣車で連呼をしないで当選できるのは、すでに当選するだけの知名度があるか、組織票を持っている人、顔がいい人など、特別の理由がある人に限られるのだそうだ。

多分、この方は選挙運動を経験されているのだろう。何もない普通の人は、連呼なしでは当選できず、知名度を上げるには街宣車での連呼が一番効果的なことは、実際に選挙をやってみればわかると強調されている。

うーむ。おっしゃることはよくわかるが、それでも、私は「連呼」、もっと言えば、選挙カーでの選挙運動、いや、さらに現行の選挙制度そのものにまで、疑問を持っているのだよね。

連呼をすれば、候補者の名前はいやでも有権者の脳みそに刷り込まれる。そして、商品が宣伝で売れるように、政治家も宣伝で当選するということなのだろう。ただ、選挙というのは、その宣伝の仕方の 「しばり」 ががんじがらめになっていて、今あるやり方以外の方法が、事実上できないようになっている。

どこかのサイトで、名前の連呼をするよりも、「選挙カーに大型液晶パネルを付けて、政策のプレゼンをする方が効果的」というアイデアを見たことがあるが、多分、これは公選法に違反するとかなんとか、難癖を付けられるだろう。なにせ選挙運動にインターネットを使うことすらできないんだから。

要するにこの国では、「連呼」に限らず、「選挙そのもの」が迷信で成立しているようなものだ。現行の公選法こそが、最も強力な「守旧ファクター」だと言うほかない。

馬鹿馬鹿しい公選法ギリギリのグレーゾーンでの運動を展開するスリルを、候補者やその関係者があたかもサバイバルゲームのように楽しんでいる。まあ、確かにゾクゾクするほど興奮するだろうな。自分が立候補しているわけでもないのに、選挙になるとアドレナリン出まくりで楽しんじゃってる人もいる。そうした人を、私は何人も知っている。

で、そうしたグレーゾーンの運動を指導する選挙のプロが、幅をきかせるようになっている。選挙制度が変わってしまったら、彼らの存在価値がなくなってしまう。だから、現行の妙ちくりんな選挙制度は、彼らにとって、最大の「既得権」なのだ。ものすごい構図である。

私自身、選挙権の行使は大切だという建前に立脚して、選挙の度にきちんと投票してはいるが、その投票という行動は、はっきり言って空しい。ものすごく空しい。ああ、空しいとも。こんなんで、空しくないわけないじゃないか。悪いけど。

少なからぬ人が 「投票なんかしたって、何も変わりゃしねぇよ!」 と言いたくなる気持ちも、痛いほど理解できる。この構図に手を付けないで 「皆で投票しましょう」なんて呼びかけても、そりゃ、単なるきれい事で、投票率なんか上がるわけがないのである。

当ブログの、この問題の関連記事一覧 (だんだん核心に迫っているかも)

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2007年4月19日

自転車の歩道通行

自転車の歩道通行を一部容認する道路交通法の改正案が、国会で審議中だ (参照)。

ただ、現実には都会の交通の激しい道路の歩道は、現状でもほとんど「自転車通行可」になっているような気がするのだが。そうでもないと、自転車がフラフラと車道を通行したら、危なくてしょうがないという印象だし。

今回の改正案では「標識がなくても小学生以下と、車道通行が危険と政令で認める人」は、歩道通行が可能になる。さらに路上駐車があったり自動車通行量が多かったりで安全に通行できない場合は、誰でも歩道通行が可能になる」ということになる。

かなりゴチャゴチャしてわかりにくい。「車の往来の激しい道路では、自転車の歩道通行がデフォルトに近いものになる」ということなのかというと、それは違うらしい。産経新聞の記事では、次のように表現されている。(記事中の 「井沢さん」 は、警察庁交通企画課の課長補佐、井沢和生さん)

「改正法案は自転車を車道に戻し、“歩行者で込んだ歩道では自転車を降りて押す” という原則を徹底することが目的」 と井沢さんは強調する。

自転車を車道に戻す方針を打ち出せたのは、民間監視員導入など取り締まり強化で、自転車の車道通行を妨げる違法駐車が減ったことも大きい。さらに「車道の自転車レーン設置の可能性も調査しており、この結果に基づいてレーン指定などを道路管理者と検討することになる」 とも。

つまり「自転車は車道を通るもの」というデフォルトを掲げ、なおかつ「混んだ道路では危ないから、自転車は歩道を通ってもいいけど、降りて押せ」ということのようなのだ。ああ、これって、超 「本音と建前」的運用である。きちんと守るのは、かなり大変だ。

車を運転するものの立場で言うと、自転車は歩道を通行してくれる方がずっと安心だ。交通量の激しい道路で、フラフラと危なっかしく車道を通行する自転車がいると、「まったくもう、歩道を通れよ!」なんて思ってしまう。そうした道路の歩道は、ほとんどが「自転車通行可」になっているし。

ただ、自転車が歩道を通行すればしたで、歩行者の立場からするとうっとうしいのだ。歩道を通行する自転車の多くは「歩道を通らせてもらってる」という意識がとても薄く、平気で「チリンチリン」とベルを鳴らして「そこのけそこのけ、自転車が通る」という態度である。

「本来なら歩行者専用の道を、お情けで拝借させてもらっている」という意識の全然ない人が、圧倒的に多いのだ。つまり、めちゃくちゃ図々しい。私はそんな自転車は横から蹴飛ばしてやりたい衝動にかられたりする。

私は以前、東京千代田区内の道路を自転車で通行する機会がよくあった。勤務するオフィスから、司法書士のオフィスまで中途半端な距離なので、自転車で行くのが都合よかったからである。

その場合、私はルートのほとんどで、迷うことなく歩道を通行した。車道を走ったりしたら、かなり危ない。しかし歩行者の往来の多いところでは、絶対に歩行者優先を徹底した。ベルを鳴らしたことなんて一度もない。前があくのを辛抱強く待ったものだ。

ただそんな場合でも、「自転車を降りて押す」なんて必要はない。近所の学校の下校時に重なり、歩道はかなり混雑することもあったが、時々片足をついて止まったり、ノロノロ運転をするだけで、基本的には自転車から降りて押すなんて必要はまったくなかった。

「混んだ歩道では自転車から降りて押して通行する」なんてことを杓子定規的に言い出したら、都会で自転車に乗るメリットなんてなくなる。歩行者が自転車という余計な重い荷物を引っ張るだけということになるからだ。

今回の道交法改正で、この「超本音と建前」があまり厳密に適用されないことを望みたいものである(まあ、厳密に適用しようったって、無理だろうが)。要するに、自転車がちょっと「分をわきまえる」だけでいいのだ。「自転車レーン」の設置なんて、難しい場合が多いだろうし。

【4月 24日 追記】

いっくんのお父さんから、とても納得できるトラックバック (参照) をいただいたので、うれしくなって、滅多にないトラバ返しなぞをさせて頂いた。

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2007年4月18日

「しゃっくり」 の正体と止め方

昨日の TBS ラジオで、「しゃっくりの止め方」というのをやっていた。土浦協同病院の近藤司先生という方がいらして、この方はしゃっくりの権威なのだそうだ。

近藤先生がおっしゃるには、「体にある程度の刺激を与えるのが効果がある」ということで、2つのやり方が紹介されていた。

一つは、両耳に人差し指を突っ込んで、強く刺激するやり方。「痛くてたまらないほど」刺激する必要があるそうで、これを時計を見ながら、きっちりと 30秒以上続ける。これで、4回に 3回は止まるそうだ。

番組では、リスナーの中からちょうどいい具合に(?)しゃっくりが止まらなくなった人に電話してもらい、この方法を試してもらったところ、本当にすっと止まったのであった。そのリスナーの方は、「すっと空気が抜けた気がして、止まりました」とコメントしていた。

これは一人でもできる方法だが、しゃっくりが止まらずに病院に来た人には、「舌を引っ張る」という治療をするそうだ。乾いたガーゼのようなもので舌をつかみ、やはり 30秒ほど強く引っ張る。これは非常に効果的だが、かなり痛みを伴うそうで一人では難しいらしい。

私の妻が、結構しゃっくりの出る人なので、耳に指を突っ込む方法を伝授しておいた。「それでも止まらなかったら、思いっきり舌を引っ張ってあげるからね」と言うと、「そこまでされるぐらいなら、自然に止まるのを待つわ」と言っていた。私も、配偶者に閻魔大王のような振る舞いはしたくない。

しゃっくりの止め方以上に興味を覚えたのは、「しゃっくりとは何か」という問題である。これはつまるところは 「横隔膜のけいれん的運動」 だが、元々は胎児の頃の反射経験の名残であるらしい。

胎児は、母親の胎内にいる時、羊水中のごみが鼻やのどの奥に詰まると、横隔膜をけいれんさせてごみを吸い込むと同時に、ごみが肺に行かないように、瞬間的に声帯を閉じる。この一連の反射運動が、しゃっくりに相当するらしいのだ。少なからぬ妊婦は、「今、お腹の赤ちゃんがしゃっくりしてる」と、わかるらしい。

道理でしゃっくりをすると、不愉快さの一方で何ともいえず原初的で懐かしいような感覚があるような気がしていた。胎内回帰願望の一種なのかもしれない。

生まれて成長するとともにしゃっくりが減るのは、体内にこの反応を抑える「ギャバ」という一種のアミノ酸が生成されるからで、この「ギャバ」が足りないと、しゃっくりが出やすくなるという。で、「ギャバ」はチョコレートの中に多く含まれているというのである。

そう言えば、それをまんま商品名にしたチョコレートがあるな(参照)。しゃっくりの出やすい人は、これをたくさん食べるといいのかもしれない。太るリスクがあるけど。

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2007年4月17日

選挙カーの連呼は、やはり無意味だろう

昨夜遅く、米沢への日帰り出張から帰って、当サイトのアクセス解析画面をのぞいたら、"選挙カーの「連呼」は「迷信」から生じているらしい" というページに 4万 7千件以上のアクセスが記録されていてたまげた。

リンク元は Yahoo のニューストピックスのページで、バックナンバーはここにある。

今ではバックナンバーになっているが、これがリアルタイムでトップに表示されていた 「4月 16日 (月) 11時21分~12時42分」 という時間帯には、2万 5千件以上のアクセスがあったと推定される。(時間帯が半端なので、推定するしかない)

平均すると、毎分約 417件、1秒あたり約 7件のヒットである。すごいなあ。Nifty のサーバにはちょっとした負担を強いてしまったのかなあ。それにしても、Yahoo の影響力というのはすごいものだと、認めざるを得ない。

だが本当にスゴイのは Yahoo よりも、今日も今日とて日本中にまき散らされている選挙カーの連呼による騒音と、CO2 である。多くの人が 「うっせぇなぁ!」 と思っているからこそ、インターネットにアクセスして調べてみようという気にもなったのだろう。

実際にご覧いただけばすぐにわかるが、大変なアクセスを集めてしまった私のページも、選挙カーでの「連呼」に否定的な立場で論じられたものである。ここで私は、端的に次のように述べている。

「○山○夫でございます。ナニトゾ、ナニトゾよろしくお願いいたします」と繰り返されて、「はい、わかりました。あなたに一票投じましょう」なんていう有権者がどこにいるというのだ?

投票日前日に、「×野×子です。あと一歩、あと一歩のところまで来ております」と哀願されても、少なくとも私は「それはアンタの一方的な都合でしょ」と思うだけで、「それじゃあ、その『あと一歩』とやらを俺が埋めてやろうか」などとは、決して考えない。

インターネットで検索してみても、選挙カーでの連呼に触れたページの多くはは否定的な見解を述べている。それでも、大多数の候補者が相変わらず「連呼を繰り返しているのは、やはり、それが「迷信」にまで高められているためだろう。しかしそれは、選挙のプロの間でだけ信じられている「迷信」である。

統一地方選も後半戦に入り、議員選挙の局面になったので、今月初めまでの首長選挙とは、立候補者の数が格段に違う。それだけに、騒音のレベルも一挙にアップした。

騒音だけならまだいい。街を歩けば選挙カーの両側から満面作り笑顔のねえちゃんたちが、異様な白手袋の手を振ってくる。地方の狭い道だと、目と鼻の先から目線をバッチリ合わせた集中攻撃を浴びる。あれって、まともな感性の持ち主なら、かなり当惑させられる。

あんなことをされて、「おぉ、○○候補、がんばってるな」と肯定的に受け取るのは、その候補の熱心な支持者だけである。要するに、固定支持者をエンカレッジするためだけにやっているようなものだ。それ以外の人が感じるのは、不愉快さか、あるいは少なくとも気恥ずかしさである。

てことは、何の役にも立たないことに余計なコストを支払い、CO2 をまき散らしているだけである。かなり譲って、ほんの少しだけ効果があるのかもしれない。例えば、前述の如く固定支持者をエンカレッジするとか、選挙ムードを盛り上げて、投票のモチベーションを高めるとか。

しかしそのほんの少しの効果も、「やかましく連呼するヤツには、絶対に投票しない」なんて反感を買ったり、かえってしらけさせて投票率が上がらなかったりとかいう逆効果のせいで、チャラになってしまうか、あるいは、逆効果の方が大きかったりするんじゃあるまいか。

一説には「選挙区における連呼回数の多かった候補者が当選する」という、まことしやかなテーゼが力を持っているらしい。しかし、これこそ迷信の最たるものだ。

「連呼回数の多かった候補者が当選する」のではなく、もともと地縁血縁、利権、しがらみで、地盤をがんじがらめに固めた候補者が、金にものを言わせて選挙カーでの連呼を大々的に展開し、その結果かなりの浮動票を失いながらも、ある意味「順当に」当選しているだけである。

こう考えれば、日本の選挙が「一部の人たちのお祭り」に過ぎないという構造がよくわかる。なるほど、投票率が上がらないわけだ。

件の Yahoo ページに私のページとともに紹介されている「選挙と騒音」というブログには、「静かに選挙する」ためのいろいろな事例が紹介されている。本当に、我が国でも騒音と CO2 をまき散らさない選挙を考える時期に来ているんじゃないかと思う。

当ブログの、この問題の関連記事一覧 (だんだん核心に迫っているかも)

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2007年4月16日

「気の利いたおばちゃん」 が消える不幸

首都圏 JR 駅構内のキヨスクが今、危機的状況なんだそうだ。「近頃、キヨスクのシャッターが降りっぱなしだなあ」と思っていたら、要するに、売店のおばちゃんの人員整理が進んで、補充ができてないらしい (参照)。

そうか。この分では、世の中から「気の利いたおばちゃん」が消えてしまうのだろうなあ。

新聞と雑誌と、ペットボトルのお茶を買って千円札を差し出すと、コンマ数秒で代金と釣り銭を計算し、職人的な早業で釣り銭を的確に手渡してくれる、キヨスクのおばちゃん。思えば、彼女らはかけがえのない日本の財産だったのである。

翻って、今、首都圏の駅構内で増殖している 「New Days」 なるコンビニでは、たかが新聞と雑誌とペットボトルのお茶を買うだけで、レジに行列しなければならない。この程度の買い物でレジを打たなければならないから、支払いと釣り銭の受け渡しに手間取るのは当然のことである。

さらに 「New Days」のバイトのにいちゃんは、新聞をレジ袋に入れて手渡そうなんてことをする。ただでさえ私はレジ袋なしを心がけてるのに、新聞ごときをレジ袋に入れるなんてのは想定外のことなので、財布からコインを取り出している間に、レジ袋に入れられた新聞を押しつけられる。

思わず「あ、レジ袋、要らないから」と言うと、向こうは、「あ、失礼しました」なんてことになって、袋から新聞を取り出す。そんなこんなで、手間取ることおびただしい。

この感覚、何かと似ているなあと感じていたが、その正体に思い当たった。そう、蕎麦屋のおばちゃん、いわゆる 「花番」 さんである。

席の案内、注文の取り方、さりげなく新聞を持ってきてくれる気遣い、蕎麦湯を持ってきてくれる絶妙のタイミング等々、気の利いた花番さんのいる店でたぐる蕎麦は、至福の時をもたらしてくれる。

いくら蕎麦そのものはうまくても、バイトのにいちゃん、ねえちゃんしかいない蕎麦屋は、ストレスの元である。

「大盛り一枚ね!」と注文すると、「何の大盛りですか?」なんて聞いてくる。蕎麦屋で「大盛り」と言ったら、決まってるじゃないか。それを言うと、「はぁ、『盛りそばの大盛り』ですか?」 なんて、客の方が恥ずかしくなるようなことを言い出す。さらに、「蕎麦湯お願いね」というタイミングを、こっちの方が必死に気を遣って見計らわなければならない。

ああ、この国では「ちょっとした接客」という仕事が地滑り的に崩壊しつつある。高級割烹のようなトゥーマッチはいらないけど、単にてきぱきした気持ちのいい接客を求めようとて、それは得られない世の中になりつつあるのだ。

バーコードだの、ICチップだのの便利さと引き替えに、てきぱきした気の利いたおばちゃんという人間国宝を、我々は失いつつあるようなのだ。

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2007年4月15日

医者嫌いの心情

昨日、私は 「我が家では、私の親の代から全員医者嫌い」 と書いた。「親の代から」というにはわけがある。というのは、死んだ祖母は大の医者好きだったのだ。

それも、並みの医者好きではない。本当の病気で寝たきりになるまで、休診日以外は毎日欠かさず医者に通っていたのだ。

小咄に、病院の待合室で病気自慢の年寄りたちが世間話をしていて、「そう言えば、○○さん、最近見えませんねぇ」「あの人、最近は具合が悪くて、病院に来れないんだそうですよ」というのがあるが、笑い話でなく本当にそうだったのだ。

とにかく、無病息災が嫌いで、病気でなければ気の済まない人だったのである。医者に 「どこも悪くないから、今日は注射は必要ない」と言われても、「いぃや、苦しくてしょうがないから、注射を打ってもらわないうちは家に帰れない」と、我がままを言い張る人だった。

普通に考えたら、苦しくてしょうがないはずの年寄りが、雨が降ろうと風が吹こうと、自分の足で 20分もスタスタ歩いて医者に通えるはずがないのだが、当人は「苦しくて仕方がない」と言い張るのである。

それで医者も仕方がないから、適当な注射をしてお引き取り願っていた。そのせいで後に本当に寝込んでからは、何を処方しても効かない体になってしまっていたのだが。

ある日、風邪を引いたようだと言って熱を計った祖母は、5分経って脇の下から取り出した体温計の目盛りを見てがっかりした。36度しかなかったからである。普通だったら平熱と知って安心するところだが、そうならないところが祖母のすごいところである。

「この体温計は壊れているから、隣から体温計を借りてきてくれ」というのである。さすがにあまり馬鹿馬鹿しいので、家族全員、断固として拒否したが。

このブログで、私は歯ごたえのある食べ物が好きだと何度か書いた。実際、舌の上でとろけるような大トロとか霜降りのステーキなんかは、病人じゃあるまいし、食いたくないと思っている。

それは、自分が中学生時代、共働きだった両親に代わって、超柔らかなものしか口にしない祖母のために、毎日、糊になる一歩手前のお粥とか、どろどろになる直前のうどんとかを作ってやっていたことによるトラウマのようなものなのだ。

つまり、私は「医者嫌い」というより、「自分が病気であると思うこと」を断固として拒否する心情を、身近に祖母を見ていて自然に育んでしまったのである。それは我が家の祖母以外の全員に共通した心情で、写真でしか祖母を知らない私の娘たちにまで、なぜか連綿として引き継がれている。

「病は気から」というのは逆もまた真なりで、病を拒否してしまえば、病気との縁も薄くなる。おかげで、我が家はあまり医者にかかることもなく健康なのだから、今では祖母に妙な意味で感謝してもいる。

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2007年4月14日

タミフルのグローバル・スタンダード

タミフルによる異常行動がニュースになる度に、私は 「突然高いところから飛び降りるほど元気のある若いヤツが、どうしてインフルエンザごときで医者に行って、タミフルなんか調合されてしまうんだろう」と不思議だった。

どうやらこの感覚は、へそ曲がりなんかじゃなく、グローバル・スタンダードだったようだ。

99年にスイスと北米での販売が始まって以降、世界中でタミフルの投与を受けた約 5000万人のうち、70%にあたる約 3500万人が日本で、約 1000万人が米国だったと発表された (参照)。

記事中には、「WHOの新型インフルエンザ対策部門スタッフは個人的見解と断ったうえで、『従来のインフルエンザなら若い人には基本的に投薬は必要ない』と冷ややかにみる」という言及もある。

そうだろう。そうだよなあ。少なくとも私の若い頃は、風邪を引いたぐらいのことで医者になんか行かなかった。だから、それが単なる風邪なのかインフルエンザなのかも、確認したことがない。結構ひどい症状で多分インフルエンザだったとしても、1日か 2日寝ていれば、何のことなく回復したものだ。

近頃はさすがに、ちょっとしんどい風邪の場合は、たまには医者に行くこともあるが、かかりつけの医者は漢方薬を処方してくれる人なので、市販の漢方薬を買うより医者で処方してもらう方が、保険が効いて安く済むからというみみっちい理由で医者にかかるのである。

で、もらった薬を全部服用することなんて、滅多にない。大抵は 1週間分ぐらいの薬をもらっても、2~3日で治ってしまう。

50歳を過ぎたオッサンの私が、こんなテキトーな感覚で何のことなく生き延びているのに、いい若いモンが、なんでインフルエンザごときでわざわざ医者にかかって妙な薬なんか投与されるのか、私にはちょっと理解できない世界なのである。

要するに日本人は若いモンに至るまで医者好きが多くて、医者の方はよほど新薬好きと、そういうことなんだろうなあ。我が家では、私の親の代から全員医者嫌いなんだが。

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2007年4月13日

外国語をモノにする最高の方法

外国語をモノにしようとして、週に 1~2回、英会話スクールに通ったところで、大した効果はない。最も確実な方法は、ネイティブ・スピーカーと一緒に暮らしてしまうことだ。

日本に来た留学生が急に日本語が上手になったような気がしたら、そいつは大抵日本人と同棲を始めている。

以前、外資系の団体に勤務していた頃、週に 1度の英会話レッスンに出席することが義務づけられていた。英国人の講師がわざわざ出向いてくれるという、かなり恵まれた状況にあった。

しかし週に 1度だけ英会話レッスンを受けたところで、効果なんてものはたかがしれている。10年以上も団体に勤務して、英会話レッスンを受け続けていても、やっぱり下手な人は下手だ。私なんかその団体には 3年ちょっとしか在籍しなかったが、周囲の英会話能力の平均レベルには、正直言ってちょっと失望していた。

いわんや街の英会話スクールのレベルとなると、大抵のところは、やっと道案内ができるとか、海外旅行のイミグレーションで何とかなるとか、ホテルでチェックイン、チェックアウトがどうにかできるとか、そんな程度だろうと思う。

以前、某英会話スクールの授業を体験受講してみたが、小学校レベルの内容を代わりばんこにつっかえつっかえしゃべっているだけで、外国人講師の発する単純な質問を聞き取るにも苦労するというようなものだった。

あんな程度の授業にお金を払うのは、はっきり言って馬鹿馬鹿しい。授業時間の半分以上は、一緒に受講している生徒がもたもたしゃべる怪しげな英語を聞かされるだけである。要するに時間とお金のムダだ。少なくともマン・ツー・マンでなければ、話にならない。

それだけに最も確実なのは、ネイティブ・スピーカーと一緒に暮らしてしまうことなのだ。いや、単に一緒に暮らすだけではなく、「恋に落ちる」ことも必要なのだが。

要するに英語なら英語漬けになることである。ダイエットするには結局のところカロリー制限をして運動するしかないのと同様に、外国語をモノにしたかったら、外国語を日常的に使いまくるしかない。

外国人と恋に落ちて一緒に暮らすというのは、この点で最高の方法である。自分で求めて外国語を使うのだから、逃げ道がない。かなり深いところで異文化理解もできてしまうし、さらに授業料がタダだし。

ただし、相手が日本語をモノにしたくて、日常会話に日本語を使うことを求めるという場合は、この限りではない。

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2007年4月12日

煙草を止める理由

たばこの外箱に表示される健康への警告が一昨年の 7月に大きくなって以降、警告を読んで喫煙をやめた人は 1割に止まることが、財務省の調査でわかったそうだ。(参照

6割の人は、喫煙量を減らしてさえもいなかったというが、私にしてみれば、1割が禁煙したということの方が驚きだ。

一昨年 7月から、警告表示は外箱の表裏に、それぞれ 30%以上の面積を占めることが義務づけられ、内容も、それまでの「健康を損なうおそれ」といったあいまいな表現から「肺がんの原因となる」など、具体的な表示に変更された。

この結果、警告表示の変更後、今年 1月の調査時点までの約 1年半で禁煙した人は約 10%で、「喫煙本数を減らした」人が 29%だった。残りの約 60%は、全然影響されなかったというわけだ。

しかし、私は 約 40%が何らかの意味合いで、この警告表示に影響を受けたということの方を重く見たい。正直言って私は、煙草が肺がんの原因になるなんて、既に知れ渡ったことを大きな字で書くぐらいで、効果があるなんてことは期待していなかった。こんなにも抑止力があるなんて、まるで冗談みたいな気がする。

要するに、喫煙者の約 40%は、小さな字で書かれてもシカトするけど、大きな字で書かれると弱いのか。事実そのものとか理屈よりも、単純物理的プレッシャーに弱いのだね。

じゃあこれからは、字だけじゃなく、パッケージを開けた途端にセンサーが感知して、「肺がんの原因になります、肺がんの原因になります」 と、大きな声で繰り返す装置を付けたら、もっと効果があるだろう。

まあそれよりも、喫煙者が禁煙に踏み切る最も効果的な理由は、「健康を害してドクターストップがかかった」というものだ。これでようやく煙草を止めたという人を、私は何人も知っている。

そして、私は以前、このケースでの禁煙について、以下のように書いている。(参照

しかし、誤解を恐れずに言えば、私は健康が急激に悪化してドクターストップがかかり、初めて煙草を止めたという人を、むしろ内心軽蔑する者である。

それまで開き直って煙草を吸い続けていたくせに、自分の命が危ないとなって手の平返しに禁煙するとは、あまりにもエゴイスティックである。往生際が悪い。

それほど煙草が好きなら、死ぬまで吸い続けるのが、男の美学というものだろうと言いたくなる。その美学を貫き通せない者は、自分の命にはそれほど執着しながら、それまでは、平気で他人の命に害を与えていたことを、心の底から恥じるべきである。

今日は、このことをもう一度言いたくて、このエントリーを書いた。それまで副流煙でさんざん他人の命に害を与えておいて、自分の命が危ないとなるとさっさと禁煙するなんて、「私は、かくもエゴイスティックで恥知らずな人間です」 と天下に公言しているようなものだ。

ちなみに、25歳までヘビースモーカーだった私は、その年の春になる前、「他人に迷惑をかけるのがカッコ悪い」という理由で、断固として禁煙した。禁煙後 1週間は、のたうち回るほどの禁断症状に悩まされて、煙草は麻薬だとはっきり認識した。

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2007年4月11日

都知事選の総括にならない総括

東京都知事選での石原氏圧勝については、いろいろな人がもっともらしい解説をしているので、もはや「一ひねり」のしようもない。

当初、石原氏落選を期待していた(参照 1)私も、今月早々「マス・ヒステリー」ネタがらみで、白旗を揚げてしまった(参照 2)。対抗馬の浅野氏は、戦術的に頭が悪すぎた。

浅野氏は、勝手連に担ぎ出されたというイメージを演出しつつ、立候補の決意表明をした時がピークで、その後は、何の有効打も打ち出せずに、ジリ貧に陥るだけだった。彼の選挙戦術は、手垢が付きすぎていたようだ。

そもそも「勝手連に担ぎ出されて立候補決意」という演出自体も、はっきり言って見え見えのクサさが漂っていた。その後にそれなりのマニフェストでも打ち出してくれたら、この演出の「クサさ」にも目をつむってもらえたかもしれないが、それもかなわなかった。

要するに、「クサさ」だけが最後まで響いたのである。「脱政党」とやらで、政党色に染まるのを巧妙に避けたつもりが、実は「プロ市民色」に染まっただけで、その後にあせって「民主党色」にまで染まってしまったのだから、もう終わりである。

政見放送を聞いても、何ら明確な政策を打ち出せずに、キャッチフレーズとしては甚だあいまいな「変化」とやらを訴えるしかなかった。

10数年前に宮城県で通用した手法は、21世紀の東京ではまったく無力だった。ベビーフェイスでいい子ぶってさえいれば、市民の支持は得られるというのは、もはや幻想に過ぎない。

内容はどうでも「はっきりとものを言う」という姿勢さえ見せれば、大衆的支持は得られるのだという「小泉劇場」の教訓を、さっぱり生かすことができなかった。このあたりは、むしろ悪役の石原氏の方がずっとわかっていたようだ。

その石原さんだが、やっぱりこの人、おつむは単純なんだなあ。当選した途端に、恥ずかし気もなく喜色満面のはしゃぎぶりで、選挙期間中の「反省」なんて、もうどこかに飛んでいってしまったようだ。見てるこっちの方が恥ずかしいわ。

この人が「圧倒的支持」とやらを笠に着て、あと 4年間も都政を牛耳るのだ。わたしゃ東京都民じゃないから、直接的には関係ない。だから、どうなっても知らん。

私は、4月 2日のエントリーで、「東京都民の中には、12年前にあの青島幸男氏に投票するという愚を犯した人たちも、まだまだ大勢生き残っているし」と危ぶんでおいた、本当に、東京都民の中の投票率 40数%の中のほぼ 50% (要するに、有権者都民の約 2割強)の人たちのメンタリティって、よくわからない。

「東京都民の傲慢さ」と解説する人もいたが、私に言わせれば、「プチ・マス・ヒステリー」である。

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2007年4月10日

みのもんた 叩き

私はテレビなんてあまりまともに見ないので、知らなかったのだが、TBS の「朝ズバッ!」とかいう番組で、みのもんた が、不二家問題でチョンボしちゃってるらしい(参照)。

ただ、これは TBS の番組捏造糾弾というより、「みのもんた叩き」の一環のような気がする。ようやく、この動きが出てきたか。

テレビを見ていて気分が悪くなるということがあり、私の場合、その 8割方は、みのもんた の司会する番組を見ているというケースである。個人的に恨みがあるとか、そういうわけじゃないが、どうも、あのエラソーな態度は、生理的に受け付けない。たとえおごってくれると言われても、決して一緒にお酒を飲みたくないタイプだ。

仕事上でお付き合いしなければならなくて、嫌々ながらも彼に対しておべっかを使わなければならないマスコミ関係者は、本当に気の毒な限りである。

傲れるものは久しからずというが、ようやく、最近になって内部から みのもんた バッシングの動きが出てきているようだ。このオッサン、もうそろそろ化けの皮が剥がれて、長くはないんじゃなかろうか。

私なんか、一昨年の秋に、既にバッシングしているぞ (参照)。ここでちょっと、それを再録してみよう。カーラジオではからずも彼の番組を聞いちゃった時のお話だ。

彼は、ニュースにいちゃもんをつけまくっている。まず、米国からの牛肉輸入再開について、なんだかんだ言っている。こんな感じだ。(録音してたわけじゃないから、正確ではないが)

アメリカの牛は、あんまり頭数が多すぎて、管理がなってないというじゃないですか。いつの間にか、子牛が生まれてるっていう話ですよ。そんないい加減な国の牛肉、信用できませんよ! 

その点、日本の管理はしっかりしてるよ。生まれたときから耳にガチャンとシルシを付けたりして。それに比べたら、アメリカはあまりにもズサンですよ!

まあ、確かに、一理ある。いくら吉牛が復活しても、私は好んでそれを食いたいとは思わない。

その次に、最近の日本の青少年の妙な犯罪増加について切りまくっている。

若い子たちが変な犯罪に走るのは、日本の大人がしっかりしてないからですよ。本当に日本はいい加減ですから! 嘆かわしいですよ!

おいおい、「日本はしっかりしてる」 と言ったその舌の根も乾かないうちに、今度は、「日本はいい加減」かい。要するに、一つ一つが単なる言いっぱなしで、後は知らないってか。

要するに、この人、何の根拠もなく、自分だけは常に正しいと思っているようで、他人を批判しまくる割には、自分が何を言っているかなんてことには、ほとんど無頓着のようなのだ。

彼が天に向かって唾するのは、今回に限ったことじゃないのだが、不二家問題でようやくそれに大方が気付き始めたということのようだね。

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2007年4月 9日

バスタオルを洗う頻度

「入浴後のバスタオル、何回使ったら洗ってる?」という調査があって、さすが日本人、マメだなあ、「1回使ったら洗う」という回答が 39%で、トップだったそうだ。(参照

以下、「3~5回使ったら」が 26%、「2回使ったら」が 16%、そして、1週間以上洗わない派も 18%と、なかなかワイルドだ。

この記事の中で、日本最大のタオル産地、愛媛県今治市の四国タオル工業組合のコメントが出ている。

「水分を含んだタオルは、多少なりとも雑菌が繁殖します。天日干しならともかく、何日も部屋干しするのはオススメしませんね。最近は光触媒や竹の繊維を使った抗菌効果があるタオルもあるので、それを使うのも効果的ですが、やっぱり洗った清潔なタオルの方が気持ちがいいでしょう? まあ、清潔感には個人差がありますので正しい使用法をひとくちにはいえませんけど…」

まあ、モデレートなコメントだ。

以前、繊維関連の新聞社に勤めていたとき、タオル関連の特集号を発行する際に、とあるタオル・メーカーが「欧米では、バスタオルは毎日洗濯する。そうしないのは日本人だけ」と指摘したことがあり、それは本当か? ということが話題になった。

で、さすがにジャーナリストである。無駄な論議はせずに、実証的行動に出た。タオル関連を担当する記者が、ありとあらゆる伝手を辿って、日本に住む欧米人に、「あなたはバスタオルをどのくらいの頻度で洗いますか?」という聞き取り調査を行ったのだ。

その結果、最も多かったのが「1週間に 1度」という回答だった。タオル・メーカーのコメント、「ウソばっか!」である。要するに、洗濯頻度を多くして、すり切れて買い換えるという需要を狙ったものではないかと推定された。

で、私自身のことを言えば、「回答不能」 である。バスタオルなんて使わないのだ。日本男児たるもの、風呂に入って、体をぬぐって出てくるまで、タオル 1本 (本来ならば、「手ぬぐい 1本」) あれば足りるのである。

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2007年4月 8日

「時間」 を巡る冒険

「物理のカリスマ」 とまで言われる橋元淳一郎氏の『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書)を読んでいる。物理の用語で「禅」が語られているような印象の本である。

私は「時間」ということがよくわかっていないと自覚している。「現在」ということすら、そんなもの、実際にあるものかという気がする。

例えば、「スピッツァー望遠鏡が捉えた、美しい輝きを放つ星の生と死の舞台」というウェブページがある。NASA の赤外線宇宙望遠鏡スピッツァーが、星の爆発の残骸 Henize 206 の美しく光輝くちりやガスを捉えたものだ。

この星雲は、「数百年前に起きた星の爆発によって誕生したもの」で、その中には、「生まれたばかりの星が数多く存在している」と説明されている。しかし、この 「数百年前に起きた星の爆発」というのがくせ者で、そもそもこの Henize 206 というのは、16万 3千光年離れた大マゼラン雲にある。

ということは、我々が 「今」、最新鋭の宇宙望遠鏡で観測しているのは、16万 3千年前に起きたものということになる。それを、現在進行形で観測しているわけだ。宇宙の彼方で、「数百年前に起きた星の爆発」で生成された状況という、その「数百年」という時間は、「16万 3千年」という圧倒的な長さの時間によって、あっさりと裏切られている。

こうした「時間の裏切り」が推定されるのは、我々と Henize 206 の間に、天文学的距離が存在するためだという気がする。しかし、それほど遠くない距離、例えば「私」と「あなた」の間ですら、ほんのわずかだろうが、「時間の裏切り」は発生する。

夫と妻、恋人同士の間ですら、「時間の裏切り」は常に発生していて、それが積もり積もって喜劇や悲劇が生じる。

いや、まてよ、距離という概念ですら、相対性理論や量子論の世界では無意味なのだという。時間や空間は、無意味なのだ。宇宙の遙か彼方にある Henize 206 を前にして、「今」 という概念が無意味であると知れば、「時空」ということのナンセンスさも、なんとか実感される。

『般若心経』 では、「色即是空、空即是色」 というテーゼがある。ふぅむ、物理学がニュートンの呪縛に捉えられるずっと以前に、仏の教えは時空の無意味さにとっくに気付いていたもののようだ。

未だ生まれたこともなく、滅したこともないという如来の悟りが、宇宙の彼方から自分の脳裏に貫かれるほどの輝きを持ち始める。やっぱり、仏教は大乗までたどり着かなければ、本物じゃないのだと思う。

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2007年4月 7日

受話器のコードのグルグル

今日のテーマは、本当に些細なことである。多くの人にとってはどうでもいいことに違いないと思う。しかし、私はこれが気になって気になって、仕方がないのだ。

何かというと、電話の受話器と本体をつなぐコードのループ(グルグル)が、途中から逆巻きになってしまうことである。

04phone_code

受話器のコードのループが、最後まで同じ向きになっているというのは、ほとんどないんじゃないかと思う。私のオフィスの電話もご多分に漏れず、途中で逆まきになっている。

私は基本的には大ざっぱな性格ではあるのだが、時々どうでもいいような細かいところが気になってしまったりする。とくに、この受話器コードの逆巻きなんかは、心の琴線に触れすぎだったりするのだ。

で、気が付くとグリグリ直しているのだが、何日か経つと、またしても逆巻きに戻ってしまったりしている。

この逆巻きが発生するのは、受話器を利き腕である右手で取って、話しながらメモをとったりするために左手に持ち替え、そのまま戻したりすると、コードにねじれが生じて、それがたまって逆巻きになってしまうのだと説明されている。(参照

しかし、逆巻きを戻すために、あんなにグリグリしなければならないのに、自然にそうなってしまうとは、実感としてはなかなかしっくりこないのである。できることなら、順巻きから逆巻きに変わってしまうその瞬間を目撃してみたいものである。

それから、コードの動きを自然にするために、途中から逆巻きにしてあるのがデフォルトだという説もあるが、そうかなあ。こんど、家電量販店の店頭で確認してみよう。

あ、それから、この受話器のグルグルのコードを、業界用語では 「カールコード」 っていうのね。勉強になった。

【4月 11日 追記】

コードの動きを自然にするために、途中から逆巻きにしてあるのがデフォルトだという説は、ウソだった。今日、家電量販店の ケーズデンキの売り場に行ったところ、ずらりと並ぶ電話機のコードで、途中から逆巻きになっているものなんて、一つもなかった。

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2007年4月 6日

野球はビッグ・ビジネスじゃなくなった

西武の裏金問題が浮上した先月、私は "アマ側はずいぶんいい子ぶってるけど、昔は関係者一同、「おねだり体質」 だったこともあるはずなのにね" と書いておいた
参照)。

で、一月も経たないうちに、それがしっかりと証明されてしまった。アマチュア野球の監督って、結構いい商売だったみたいなのだ。

西武側の発表では、アマチュア野球関係者 170人に裏金を渡していたということで、一説には、その 4割が高校野球関係者だという。だとすれば、甲子園野球出場常連校の監督(あるいは元監督)なんか、心臓がばくばくしちゃってるかもしれない。

アマチュア野球関係者って、表面的にはものすごく「清く正しく」みたいなことを言っているけれど、その実、お金が大好きで、さらにものすごくエラソーで傲慢だという印象がある。それが、今回バレバレになっちゃったわけだ。

いずれにしても、西武がこうした「自爆テロ」に出たというのは、野球というのがもう、かつてのようなビッグビジネスじゃなくたったということだ。それだけに、かつての堤義明型の金にものを言わせた俗悪な手法から決別するための、ハードランディングなのだろう。

スポーツの世界を牛耳りたいという強烈な野望をもったオッサンがいなくなったんだから、会社としても、もうこれ以上付き合いきれないというわけだ。こんな手荒なやり方で決別宣言するほどだから、元々、会社の中間クラスから下はうんざりしてたんだろうね。

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2007年4月 5日

なるほど、そりゃ「自虐史観」じゃない

「自虐史観」という言葉にずっと感じていた違和感の正体が、池田信夫 Blog の「大江健三郎という病」というエントリーを読んで 「なるほどね!」 と得心された。

この言葉自体が、見当はずれだったのだ。国家に帰属しているという意識が当人にないのなら、なるほど、そりゃ「自虐」じゃない。

国家に帰属しているという意識のない人間が、国家を批判したところで、それは当人にしてみれば、外部から「他者」をまっとうに批判しているというだけで、「自虐」という意識はまったくないだろう。むしろ「他虐」である。

「いわゆる自由主義史観」の持ち主からみたら、「いわゆる自虐史観」の持ち主というのは、文字通り「自虐的」に見えるのだろうが、その根本的な見当はずれ故に、両者の議論は最初から最後までかみ合うことがない。

私自身は、少なくとも「いわゆる自虐史観」の持ち主ではないのだが、そうした史観に対して、「どうして自らの国をそんなに悪く言わなければならないの?」と、「情緒的愛国者」の視点から非難することのナンセンスを、常に不愉快に感じてきた。いくら何でも、論点ズレ過ぎだ。

要は、「いわゆる自由主義史観」の立場にある人は、国家という視点からはとても当事者意識を強く持っていて、それに対して「いわゆる自虐史観」の立場の人は、「コスモポリタン」という美名のもとに、国家的当事者意識が全然ないということだ。

当事者意識のない立場からは、何でも好きなことが言える。今回の統一地方選でも、福祉を拡大して、教育面での助成を手厚くして、中小企業への助成もはかって、さらに公務員の待遇を維持して、それでいて、財政赤字を減らすなんていう「美しい寝言」をいけしゃあしゃあと言えるのは、初めから当選する見込みのない候補者である。

当事者意識が強すぎて、何でもかでも強引にことを推し進めるというのも考え物だが、まったく外野の立場に立ちすぎるというのも、私に言わせれば、「いい気なモンだね」ということになる。

歴史観の議論に関しては、このあたりをきちんと踏まえていなかったので、以前は「いわゆる自虐史観」が、一見「いい子ちゃん」に見えてしまうきらいがあった。ただ、この場合の 「いい子ちゃん」 とは、本当は「ナイーブ」ということなのだが。

(ここでいう「ナイーブ」とは、 この言葉の本来の意味の、「世間知らず」「子供っぽい」という意味合いで使っている。念のため)

で、大江健三郎の小説は、人並み外れたナイーブな大人の世界の表現ということで、それはそれで、私は嫌いじゃないことを明らかにしておこう。(私だって、時にはナイーブ菌に冒されるのを心地よく感じたりすることもあるし)

ただし、彼の政治的な言説や行動に関しては、当選する見込みのない候補者の「美しい寝言」レベルのものだと思っている。

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2007年4月 4日

庄内ひな街道

わが故郷、庄内は、ひな祭りの盛んな土地である。それは月遅れで祝われるので、昨日の 4月 3日がクライマックスだった。

庄内ひな街道] というイベントも、2月下旬から 4月 3日まで開催された。この期間中、庄内のいたるところで、家々に伝わる自慢のひな人形が飾り付けられた。

先月の 30日から今月 1日まで帰郷したので、ちょうど、この庄内ひな街道イベントの佳境に当たっていたのである。酒田に着いて、夕食をとった蕎麦屋にも、きれいなおひな様が飾られていた。

これがその写真である。おもしろいのは、酒田ではひな飾りのあつらえの一番下の段に、「うどがわら人形」 というのを飾る。これは酒田の郊外にあたる 鵜渡川原というところで作られていた素焼きの土人形だ。

本来は、ひな人形とは全然関係がないのだが、なぜか、酒田ではどこの家でも一緒に飾るという風習になってしまっているようだ。

博多人形と同じような作り方で、博多人形は洗練に洗練を重ねて、今や芸術品扱いだが、うどがわら人形の方は素朴なままで、民芸品そのものである。モチーフも、花嫁人形から子守り、童子、果ては米国映画のベティさんまで、実にいろいろなものが作られていて楽しい。

今回は、「傘福」 というものの展示もみた。傘福というのは、唐傘の下に布で作った 「おくるみ」 をたくさんぶら下げて飾るものだ。庄内では昔、安産や子供の成長を祈って飾り付け、神社に納めたりしたものらしい。

私が酒田で暮らしていた昭和 20~40年代には廃れていて、まったく見たことがなかったが、近年復活したようで、今回の帰郷では、山王クラブという酒田で最高の格式を誇った料亭 (今は料亭ではなくなって、酒田市の文化遺産となっている) に展示されているのを見た。

中には、蔵の奥から出てきた古い着物地をほぐした布地で作ったような、味わい深い飾りもぶら下げられていて、なかなかの見物である。

このほか、相馬楼という料亭 (これも今は文化遺産として扱われているようだ) では、酒田の旧家に伝わる超お宝的なおひな様が展示されていたが、これらは撮影禁止ということで、残念ながら、画像では紹介できない。

酒田の港が栄えていた江戸時代から明治にかけては、豪商や豪農が競って京都や江戸から豪華なひな人形を取り寄せて飾っていたようで、それらが残っているわけだ。多分、値段を付けたら目玉が飛び出しそうなくらいになるだろう。

というわけで、昨日までのほぼ 1ヶ月半ぐらいの時期、庄内はとても華やかな雰囲気に包まれていたわけだ。

【追記】

済みません。このページの画像は NIFTY ホームページからこのブログに移転する際に失われてしまったようなのです。どなたかぴったりの画像をおもちの方がいらしたら、提供頂けるとありがたいです。

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2007年4月 3日

まんざらウソというわけでも…

4月 1日付の 「地方空港とハエ取りリボン」 だが、意識してもっともらしい書き方をしすぎたせいか、すんなり信じてしまわれた方が多いようで、逆にちょっとあせっている。

今さら言うのもなんなのだが、あれはエイプリルフール・ネタなので、そのあたり、なにぶんよろしく願いたいのである。

一昨年から思うところあって、エイプリルフール・ネタにはことのほか力を入れている。もう恒例になったと自分では思ってしまっていたので、大方は「また始まった」とばかりに、それなりのツッコミを入れてくれるものと期待していた。

ところが、4月 1日当日寄せられたコメントには全然ツッコミ感がないので、ちょっと不安になってしまったのである。「もしかして、そのまんま信じちゃった人が結構いるんじゃあるまいか?」と。

私は、いくら何でもネタと察してもらえるように、一応、次のような極端な記述を混ぜておいた。

春から秋にかけて、地方の空港を利用すると、真っ黒なリボン状のものが、空港ロビーの天井から何本もぶら下がっているのに気付くだろう。あれがハエ取りリボンである。

今どき、いくらなんでも、空港ロビーの天井から真っ黒になったハエ取りリボンが何本もぶら下がっている光景なんてあり得ない。「何をアホな!」とツッコミを入れてもらえると思ったのだが、思いのほかすんなり受け取られてしまった形跡があって、冷や汗を流している。

ウチの読者は、根が素直な方が多いのか、あるいは地方空港なんてあまり利用されないのか、どっちかわからないが、いずれにしても困ったことになってしまったのである。

当日のエントリーの末尾に、翌日付の「追記」としてエイプリルフール・ネタであることは、一応書き添えておいた。しかし、一度読んでしまった過去ログを読み返す人なんてあまりいないだろうから、下手したら、誤解が解けずにそのままになってしまいかねない。そこで、本日きちんとお断りしておかなければと思ってしまった次第なのである。

ただ、このネタ、完全なウソというわけでもない。実は、我が郷土の庄内空港が 16年前に開港したばかりの時には、「確かに、ロビーにハエ取りリボンがぶら下がっていた」という複数の証言があるのである。

私は庄内空港を利用したことがないので、自分の目で見たことはないのだが、どうやら、まんざらなかったことというわけでもないようなのだ。というわけで、これに免じてお許し頂きたい。何やらお怒りのululun さんも。

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2007年4月 2日

「強制するまでもない」 ことだったんだろう

教科書検定で、沖縄戦の集団自決が「日本軍に強いられたもの」とはいえないとして、修正される動きが目立っている。

軍による強制の有無については、いろいろな見解があり、すべてのケースを一括りに論じることも不可能だろうが、私は少なくとも「公式の命令」はなかったろうと思っている。

しかし、公式の命令がなかったということが、即ち住民が勝手に集団自決したということではない。要するに、「強制するまでもないこと」だったんだろうということだ。公式に命令したことではないが、「お前ら、わかってんだろうな」的な視線がいろいろな方向から浴びせられていたということだ。

「お前ら、わかてんだろうな」という視線は、軍部からのみ一方的に浴びせられていたわけではないだろう。住民相互のレベルでも、おそらくあったはずなのだ。だからこそ、そんなにも見事に集団自決が遂行された。

あの戦争は、一種のマス・ヒステリーだったんだと、私は解釈している。決して軍部だけが暴走したわけではない。軍部に人材を供給していたのは、国民である。国民の大部分が、戦争をしたくてたまらなかったのだ。「鬼畜米英」「打ちてし止まん」の大合唱をしていたのは国民である。

以前にも書いたが、私の父は特攻隊崩れである。志願して予科練に行き、そこで特攻隊に選抜された。とはいいながら、当時既に乗れる飛行機はなく、地上戦で爆薬を背負って敵陣に肉弾攻撃をする訓練に明け暮れていた。幸か不幸か、本土に米軍が上陸する前に戦争が終わったので、私という人間もこの世に存在するのだが。

父が特攻隊に選抜されたのは、志願したからである。志願したのは「全員志願するというのが、わかりきっていたから」だ。建前で志願したところで、実際に選抜される確率は低い。案に相違して、発表された特攻隊の中に自分の名前を見たときは、「背中からどっと冷や汗が流れた」という。

その瞬間、周りから「おめでとう」の祝福が押し寄せ、胴上げされた。宙を舞いながら、父は「何がめでたいものか」と思った。ところが地面に降りた瞬間には、既に死ぬ覚悟が決まっていたと述懐する。

選択の余地もなく特攻隊に「志願」し、死ぬと決まると「おめでとう」と祝福の胴上げをされるという、まさに「マス・ヒステリー」としか言いようのない状況が、当時あったのだ。

その狂気を、「悲惨」とみるか、「美しい」とみるかは、自由である。強制すべきことではない。かくいう私も、確かに「悲惨」とは思うが、ある種の「美しさ」みたいなものを、僅かながら、そこに見てしまうことを否定できない。

「誤りであった」と決めつけることは簡単である。しかし、事はそんなに単純ではない。決めつけは、マスヒステリーの第一歩である。複雑さを複雑さのままに受け入れることが、歴史の教訓を本当に生かすことだと思うのだ。そうしてこそ、本当に冷静な判断を下すことができる。

ところで、今回の東京都知事選で、私はつい最近まで、石原氏の三選はないだろうと思っていた。ところが、ここに来て、自分の予想に自信がなくなった。浅野氏のインパクトが、思ったよりずっと小さいからである。

浅野氏は、戦術的な誤りを犯していると思う。「ベビーフェイス」でありすぎるのだ。石原氏の「ヒール人気」は、まだそれを上回っているようだ。それに、東京都民の中には、12年前にあの青島幸男氏に投票するという愚を犯した人たちも、まだまだ大勢生き残っているし。

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2007年4月 1日

地方空港とハエ取りリボン

「ハエ取りリボン」 という商品をご存じだろうか。リボン状の粘着テープを天井から吊し、飛び交うハエをくっつけてしまうものだ (参照)。

高度成長期以前は日本中で普通に使われたが、最近は滅多に見られなくなった。しかし、ここ 10年ほど、ハエ取りリボンの生産量が再び増加し、隠れたヒット商品となっている。

先月、某社の社内報企画で、衛生と環境保全の関連をテーマにした特集に関わり、大阪和泉市にある安政 3年創業の老舗にして国内シェア 45%の最大手、大日本蝿取紙本舗(株) の取材をして、このことを知った。

ハエ取りリボンは人体に害を与えない害虫駆除グッズとして、再び脚光を浴び始めているというのである。

取材に応じてくれた同社の服部専務によると、ハエ取りリボンの需要は 10年ほど前に底をつき、一時は廃業寸前まで追い込まれたが、それ以降はV字回復的な持ち直しで、とくにここ 2~3年は、1年中生産ラインをフル稼働させても需要に応じきれないほどだという。

この時ならぬ需要増加の最大要因は、地方空港が増えたことである。最近、不必要なほどの数の地方空港が次々に開港しているが、そのほとんどは、典型的な田園地帯にある。

その周囲の田んぼや畑は、最近有機農業の台頭によって、鶏糞や堆肥などの自然肥料を大量に使う傾向がある。有機米や有機野菜は、市場で高値で取引されるため、今や農家にとって最も重要な作物になっているのだ。

このため、空港周辺では春から秋にかけて自然肥料に群がって大量のハエが発生する。しかしそれを駆除しようにも、殺虫剤を大量散布するわけにはいかない事情がある。

それは、空港利用者の健康を守るためということもあるが、最大の理由は、空港で殺虫剤を大量使用すると、周囲に漏れだしてしまい、近隣の農家が、ドル箱の 「有機米」や 「有機野菜」のブランドを使えなってしまうことだ。つまり、農家の営業妨害になるのである。

しかし、空港ビル内をうなりを立てて飛び交うハエの大群に手をこまねいているわけにはいかない。そこで窮余の一策として考えられたのが、ハエ取りリボンを大量にぶら下げるという方法だったのである。

春から秋にかけて地方の空港を利用すると、真っ黒なリボン状のものが、空港ロビーの天井から何本もぶら下がっているのに気付くだろう。あれがハエ取りリボンである。真っ黒に見えるのは、表面にびっしりとくっついたハエなのだ。

私の故郷の庄内空港に問い合わせたところ、年間のハエ取りリボン使用量は、約 240ダース、金額にして 100万円以上になるという。月に 2度の交換作業は、空港職員総出で半日を要するそうだ。

ざっと計算すると、日本中で生産されるハエ取りリボンの 80%以上は、地方空港の需要ということになるようだ。世の中、何が幸いするかわからない。

こうして一時の危機を脱したハエ取りリボン業界だが、その生産は機械化が遅れており、しかも若年労働者が不足しているため、最近では逆に、供給不足が恒常的に続いている。地方空港では、端境期の冬の間に大量に買い占める動きを見せているほどだ。

大日本蝿取紙本舗では昨年、中国上海に生産工場を移転し、生産を拡大しようと計画したが、中国ではハエは殺虫剤の大量散布で駆除すればいいという考えが支配的なため、そんな産業を導入しても自国の利益につながらないと判断した模様で、許可が下りなかった。

服部専務は、「中国でもハエ取りリボンの有用性に気付くぐらいにならないと、地球規模での環境汚染は続く」とコメントしている。

ちなみに九州地方の空港では、今年最初のハエ取りリボン設置を、今日 4月 1日に行なうそうだ。そうか、なるほど。

【4月 2日 追記】

えぇと、恐れ入りますが、これは改めて申し上げるまでもなく、エイプリルフールのネタということで、ご容赦願います。

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