「時間」 を巡る冒険
「物理のカリスマ」 とまで言われる橋元淳一郎氏の『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書)を読んでいる。物理の用語で「禅」が語られているような印象の本である。
私は「時間」ということがよくわかっていないと自覚している。「現在」ということすら、そんなもの、実際にあるものかという気がする。
例えば、「スピッツァー望遠鏡が捉えた、美しい輝きを放つ星の生と死の舞台」というウェブページがある。NASA の赤外線宇宙望遠鏡スピッツァーが、星の爆発の残骸 Henize 206 の美しく光輝くちりやガスを捉えたものだ。
この星雲は、「数百年前に起きた星の爆発によって誕生したもの」で、その中には、「生まれたばかりの星が数多く存在している」と説明されている。しかし、この 「数百年前に起きた星の爆発」というのがくせ者で、そもそもこの Henize 206 というのは、16万 3千光年離れた大マゼラン雲にある。
ということは、我々が 「今」、最新鋭の宇宙望遠鏡で観測しているのは、16万 3千年前に起きたものということになる。それを、現在進行形で観測しているわけだ。宇宙の彼方で、「数百年前に起きた星の爆発」で生成された状況という、その「数百年」という時間は、「16万 3千年」という圧倒的な長さの時間によって、あっさりと裏切られている。
こうした「時間の裏切り」が推定されるのは、我々と Henize 206 の間に、天文学的距離が存在するためだという気がする。しかし、それほど遠くない距離、例えば「私」と「あなた」の間ですら、ほんのわずかだろうが、「時間の裏切り」は発生する。
夫と妻、恋人同士の間ですら、「時間の裏切り」は常に発生していて、それが積もり積もって喜劇や悲劇が生じる。
いや、まてよ、距離という概念ですら、相対性理論や量子論の世界では無意味なのだという。時間や空間は、無意味なのだ。宇宙の遙か彼方にある Henize 206 を前にして、「今」 という概念が無意味であると知れば、「時空」ということのナンセンスさも、なんとか実感される。
『般若心経』 では、「色即是空、空即是色」 というテーゼがある。ふぅむ、物理学がニュートンの呪縛に捉えられるずっと以前に、仏の教えは時空の無意味さにとっくに気付いていたもののようだ。
未だ生まれたこともなく、滅したこともないという如来の悟りが、宇宙の彼方から自分の脳裏に貫かれるほどの輝きを持ち始める。やっぱり、仏教は大乗までたどり着かなければ、本物じゃないのだと思う。
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コメント
おじゃまします。がんなむぅです。
一喜一憂を、素直にできる『子ども』が、最強ということでしょうか?
その場を真剣に、全力で生き抜くことを、今私はできているのでしょうか?
とりあえず、目の前の、やらなきゃならないこと。
「投票」行ってきます…。
投稿: がんなむぅ | 2007年4月 8日 10:17
がんなむぅ さん:
「その場その場」 の 「その場」 が、「今」 なのでしょうか?
「その場」 を 「今」 と認識する、そのわずかな瞬間的ズレの間にも、光は 何万キロもの彼方に失われてしまっているということです。
「今はない」 と考えるほかありません。
「時間軸の中での今」 がないならば、我々は、「もっと別の今」 を生きなければなりません。「永劫の今」 とでも言いましょうか。
今日、選挙に行けた人は、幸運ですね。茨城県では、知事選も県議会議員選挙もありません。昔の不祥事で、ずれてしまいました。
投稿: tak | 2007年4月 8日 21:27