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2007年4月 5日

なるほど、そりゃ「自虐史観」じゃない

「自虐史観」という言葉にずっと感じていた違和感の正体が、池田信夫 Blog の「大江健三郎という病」というエントリーを読んで 「なるほどね!」 と得心された。

この言葉自体が、見当はずれだったのだ。国家に帰属しているという意識が当人にないのなら、なるほど、そりゃ「自虐」じゃない。

国家に帰属しているという意識のない人間が、国家を批判したところで、それは当人にしてみれば、外部から「他者」をまっとうに批判しているというだけで、「自虐」という意識はまったくないだろう。むしろ「他虐」である。

「いわゆる自由主義史観」の持ち主からみたら、「いわゆる自虐史観」の持ち主というのは、文字通り「自虐的」に見えるのだろうが、その根本的な見当はずれ故に、両者の議論は最初から最後までかみ合うことがない。

私自身は、少なくとも「いわゆる自虐史観」の持ち主ではないのだが、そうした史観に対して、「どうして自らの国をそんなに悪く言わなければならないの?」と、「情緒的愛国者」の視点から非難することのナンセンスを、常に不愉快に感じてきた。いくら何でも、論点ズレ過ぎだ。

要は、「いわゆる自由主義史観」の立場にある人は、国家という視点からはとても当事者意識を強く持っていて、それに対して「いわゆる自虐史観」の立場の人は、「コスモポリタン」という美名のもとに、国家的当事者意識が全然ないということだ。

当事者意識のない立場からは、何でも好きなことが言える。今回の統一地方選でも、福祉を拡大して、教育面での助成を手厚くして、中小企業への助成もはかって、さらに公務員の待遇を維持して、それでいて、財政赤字を減らすなんていう「美しい寝言」をいけしゃあしゃあと言えるのは、初めから当選する見込みのない候補者である。

当事者意識が強すぎて、何でもかでも強引にことを推し進めるというのも考え物だが、まったく外野の立場に立ちすぎるというのも、私に言わせれば、「いい気なモンだね」ということになる。

歴史観の議論に関しては、このあたりをきちんと踏まえていなかったので、以前は「いわゆる自虐史観」が、一見「いい子ちゃん」に見えてしまうきらいがあった。ただ、この場合の 「いい子ちゃん」 とは、本当は「ナイーブ」ということなのだが。

(ここでいう「ナイーブ」とは、 この言葉の本来の意味の、「世間知らず」「子供っぽい」という意味合いで使っている。念のため)

で、大江健三郎の小説は、人並み外れたナイーブな大人の世界の表現ということで、それはそれで、私は嫌いじゃないことを明らかにしておこう。(私だって、時にはナイーブ菌に冒されるのを心地よく感じたりすることもあるし)

ただし、彼の政治的な言説や行動に関しては、当選する見込みのない候補者の「美しい寝言」レベルのものだと思っている。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

がんなむぅであります。

 我々の住む地域も、統一地方選挙があります。先に、県会議員の選挙があるのですが、出ている顔ぶれが、いまいちパッとしません。

 『若さを訴えて…』と登場している、私よりも年下の候補者ですが、顔つきが軽薄すぎて、若いことがマイナスイメージの奴もいます。

 その若い候補もオジサン(オバサン)候補にも、「美しい寝言」を言う奴が、いないんです…。

投稿: がんなむぅ | 2007年4月 6日 08:31

がんなむぅ さん:

>『若さを訴えて…』と登場している、私よりも年下の候補者ですが、顔つきが軽薄すぎて、若いことがマイナスイメージの奴もいます。

最近は、ジャニーズ系まがいみたいなのがいたりしますね。(^o^)

>その若い候補もオジサン(オバサン)候補にも、「美しい寝言」を言う奴が、いないんです…。

それは、候補者全員が、かなり本気ってことでしょうね。

知事選とか市長選とかだと、時々「美しい寝言」の「革新候補」がいたりしますけどね。
(某都知事選なんかでも、誰とは申しませんが・・・ ^^;)

投稿: tak | 2007年4月 6日 10:33

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