« 事件は現場で起きているのだが… | トップページ | フェイク・ブログは、逆宣伝かも »

2007年5月20日

そりゃ、「斬る」方が楽さ

世の中の矛盾や問題点をバシバシと「斬る」論調は、とてももてはやされやすい。

かくいう私のブログも、ややもするとその類と思われているフシがある。「世の矛盾を爽快に斬りまくるブログ」なんて紹介されたりすると、「ありゃ、そんな風に思われてるのかなあ」なんて、戸惑ったりする。

私としては、なるべく「斬らない人」でありたいと願っている。ところが自分で表面上そう思っているだけで、実は言葉の端々で「斬りまくっている」としたら、それは私自身の不徳の致すところである。

人間、自分自身の「当事者意識」の及ぶ範囲のことについては、そうそうダイナミックに「斬りまくる」 なんてできることじゃない。自分自身を斬ることになるからだ。平気で「斬る」ことができるのは、自分が当事者ではない、「外界」だけである。

ということは私に言わせれば、平気であちこち「斬りまくる」論調を駆使することのできる人は、「当事者意識の及ぶ範囲」が狭いのである。言い方を変えれば、人間としての間口が狭いというか、ケツの穴が小さいというか、度量が小さいというか、要するに世界へのシンパシーが足りないのだ。

もし私がそんな風な論調に堕するとしたら、私自身のケツの穴が小さいということである。現に、こんな書き方をしている今、そのワナに陥る寸前のところにいる。すれすれのエッジを渡っている。かなり危ない。

世の中の諸問題を豪快に斬りまくった方が、ポピュリズムの大原則に合致して、アクセスだって増えるし、自分が偉くなったような幻想にだってとらわれて、いい気持ちになっちゃうかもしれない。しかしそれはしたくないのである。

他を「斬る」ことができるのは、自分自身は「善」だと思いこめるからである。世の中の悪や矛盾の責任は、自分にはないと思いこめるからである。幸せなことである。

親鸞上人は、自身を罪悪深重の凡夫であると言っている。他を責める前に、まず自分が悪いと言っているのである。私はこうした態度の方が、人間として誠実であると思うものである。古今東西の大聖人は、世の一切の責任は自分にあると考えたのである。

私がこんなことを言いながら、時々心ならずも、あるいはつい我慢ができずに、世の中に 斬りかかってしまうのは、要するに私自身の修行がまだまだ足りないということだ。スーダラ節の「わかっちゃいるけど、やめられない」である。

もっとも、それは植木等の父君(浄土真宗の僧侶)によると、親鸞の教えに通じるものがあるということのようなのだが(参照)、そりゃ、かなりの方便というものだろうなあ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« 事件は現場で起きているのだが… | トップページ | フェイク・ブログは、逆宣伝かも »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

お邪魔します。がんなむぅです。

 本文中に出てくる“斬る”方の『善である思い込み』と、不肖私の『善である思い込み』とは、別のように感じます。

 と書き始めて、また中途半端な、結論のない話になりそうなので、一言。


 『被害者意識』を悪用する人が、“斬ること”に長けた人だと思います。(…やっぱり中途半端だ)

投稿: がんなむぅ | 2007年5月20日 13:40

がんなむぅ さん:

>『被害者意識』を悪用する人が、“斬ること”に長けた人だと思います。

うぅむ、それも一つの典型かもしれませんね。
「弱者はいつも正しい」 という幻想がありますからね。

投稿: tak | 2007年5月20日 20:46

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: そりゃ、「斬る」方が楽さ:

« 事件は現場で起きているのだが… | トップページ | フェイク・ブログは、逆宣伝かも »