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2007年6月に作成された投稿

2007年6月30日

「優しい運転」を巡る冒険

私はマイ箸やマイバッグを使ったり、合成洗剤を使わなかったりなど、中年のオジサンとしては結構、エコ派だったりするのだが、車の運転には案外無神経だった。

とくに加速に関しては、「最初の 5秒で 20km/hになるくらいのペースを目安にして、優しい発進」 なんて、近頃初めて意識した。

試しに、自分の加速がどの程度のものかと思い、実際にやってみたら、時速 20km/h なんていうのは、最初の 1.5秒ほどで達してしまう。5秒もかけたら、下手したら 60km/h を超えてしまう。私の愛車のデミオはトルクが太いらしく、ちょっとアクセルを踏むだけで、やたら心地よい加速感なのだ。

この車に買い換えてから、青信号になって発信したととたんに他の車を引き離してしまうなあと、薄々感じてはいた。それまで、3種類の 7人乗り RV に 15年以上続けて乗ったので、加速はあまりよくなかった。だから、それまでの感覚でアクセルを踏むと、グィーン! と加速してしまうのである。

それに気づいてからは、発信するときは恐る恐るみたいな感じでアクセルを踏んでいるのだが、それでも、20km/h に達するまで 3秒ぐらいで済んでしまう。5秒かけたら、余裕で40km/h だ。

ただ、何が何でも「優しい加速」にすればいいというものでもないような気がする。例えば、渋滞直前のノロノロ運転の時など、先頭の車がやたらと「トロい」運転をしている場合が多い。その先頭が「フツー」に走ってくれさえすれば、交差点に差し掛かる度に赤信号にひっかかることもないのにと、ムッときたりする。

赤信号でアイドリングストップをする車なんてほとんどないから、全体としては、ものすごく燃費を悪化させることになると思うのだ。

状況によっては、「優し過ぎる加速」が車の流れを停滞させて、全体として排気ガスを増やしているということがあるような気がする。コトは「自分だけの燃費向上」では済まないのだ。

一昨日「エコ対策の複眼思考」のエントリーでも触れたのだが、こうした問題は本当に一筋縄ではいかないのである。一人一人が自分の頭で考えて、最適な対策を取らなければならないのだろうが、人間はそこまで賢くなろうと不断の努力をするほど偉いものでもないらしい。

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2007年6月29日

繰り返しのストレス

知人が近頃急に太ったように見えても、あまり気軽に 「ちょっと太ったんじゃない?」 なんて声を掛けてはいけない。

声をかける者にとっては 1度きりのことでも、声を掛けられる方にとっては、1度じゃ済まないのだ。おそらく、何百回、何千回にもなる。それがボディブローのように効いてしまう。

同様に、近頃頭の毛の薄くなった友人にも、あまり気軽にそれを言ってはいけない。彼は、1日に何十回も、ということは、おそらく 1ヶ月では、何百回も言われているのだ。1度当たりのショックはそれほど大きなものではないとしても、蓄積したら相当大きなストレスになる。

おそらく人間は、同じネガティブなことを複数の人間に指摘されると、かなりストレスに感じてしまうという傾向があると思う。たった 1人に言われるのなら、真面目なヤツならきちんと反省するし、やんちゃなヤツなら、「ふん、知ったことか!」 とスルーすることができる。

ところが、それを複数の人間、それも 5人とか 6人とかいう単位の人間に、短時間のうちに言われると、反省とかスルーするとかいう余裕がなくなる。むかっとくるか、へこんでしまうかのどちらかということになりやすい。

だから、よってたかって欠点を指摘するのは考え物である。欠点を直してあげたいと思っていうのでも、大抵は逆効果になる。そんなことなら、むしろそいつの 「いいところ」 を褒めてやる方がずっといい。これは、教育の基本である。

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2007年6月28日

エコ対策の複眼思考

地球温暖化が切羽詰ってくるにしたがって、マイバッグ使用だの、バイオエタノールをガソリンに混ぜるだの、いろいろなエコ対策が提案されているが、それぞれに懐疑論が付きまとう。

レジ袋を削減したところで、大した効果はないとか、バイオエタノールの需要増加に従って、トウモロコシの価格が暴騰するとか。

再生紙やペットボトルのリサイクルにしても、リサイクルする方が生産に要するエネルギーは大きいのだという指摘もある。要するに、リサイクルは逆に環境破壊につながる所業であって、どんどん採れたての原料を使うほうがいいのだというお話だ。

しかし、このあたりはちょっと待ってもらいたいという気がする。リサイクルの方がよりコストがかかったり、エネルギーを要したりするのは、現時点においては当たり前の話なのだ。

この社会の生産システムのほとんどは、リサイクルなんか考えなかった時代のコンセプトで最適化してある。それ以外のコンセプトで運用しようとしたら、ロスが発生するのは当たり前だ。

つまり、現状のリサイクルはロスが大きいと認めつつ、その上で、リサイクルが不合理なのではなく、現状のシステムが金属疲労をおこしつつあって、不合理になっているのだと考えなければならない。どっちが絶対的に正しいかではなく、歴史の流れという視点の複眼思考である。

リサイクルを前提とした生産システムに移行するには、時間がかかって当然なのだ。今はその過渡期であって、その過渡期の状況の不完全さをあげつらっていては、いつまで経ってもシステムを改良してよりよいものにすることができない。

新しいシステムというのは、いつだって試行錯誤を経て改良され、定着してきたのである。その試行錯誤を否定するのは、システムの進化そのものを否定することにつながってしまう。

人間の所業というのは、常に合理的でまっすぐな一本道というわけではない。これまでの歴史を振り返れば、そんなことは一目瞭然だ。同じようなプロセスを、今現在の我々だって辿りつつあるのである。ゴチャゴチャしてるのは過去の歴史だけと考える方が愚かというものだ。

大きな変化の際に多少の痛みを伴うのは当たり前である。その程度の痛みは覚悟しよう。人類はこれまでだってその痛みを経験してきたのであり、そのおかげで今の世の中が、我々があるのだ。自分たちだけは痛みを感じたくないというのは、勝手というものである。

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2007年6月27日

トラックバック送信代行だと

ブログをやっていると、トラックバック・スパムの多いのは今に始まったことじゃないが、このほど、トラックバック・スパムを請け負うサイトからのトラックバック・スパムというのが送信されてきて、ちょっと驚いた。

なるほど、こんなやつがいるから、うっとうしいトラックバック・スパムが多いのか。

試しに 「トラックバック送信代行」 のキーワードでググってみると、くさるほど多くのサイトがヒットする。私のところにトラックバックしてきた「請負人」のサイトには、次のような記述がある。(ちなみに、「トラックバック送信代行/請負人」  のキーワードでトップにヒットするのがそいつだ)

トラックバック送信は、アクセスを集めるには有効な方法です。

相互リンクを地道に行っていくよりもトラックバックを打った方が、より時間を短縮できて大量の被リンクを獲得することが可能の場合もあります。

トラックバック送信代行請負人のトラックバック送信代行は、ブログに関連のあるキーワードを絞り込みトラックバック送信を行います。

ふざけるのもいい加減にしてもらいたい。こんな奴を利用するほど、こちらは志が低くはないよ。そして、ウチのブログを、勝手に志の卑しい連中のための宣伝板に使うのは止めろ。

最近多いのは、単に指定のキーワードのあるエントリーに、自動的に無差別にトラックバックを送信してきたとしか思われないケースだが、なるほど、こんなやつがいるのだもの、増えるわけである。

例えば、こちらが自動車関連のエントリーを書く。最近の例でいえば、「車庫入れを自動で」なんていうエントリーをアップすると、とたんに、自動車関係の宣伝をしているだけのくだらないフェイクブログからのトラックバックが殺到する。

このような、「失礼なトラックバック」は、相手の玄関口に、自分のサイトの宣伝を勝手に無料で貼り付けておくという行為に他ならない。私の場合は、トラックバックを送られても、こちらが許可したものしか表示しない設定にしてあるから、まだいいけど。

いずれにしても、トラックバック・スパムで集めたアクセスなんていうのは、あぶく銭みたいなもので、二度と来てくれないどころか、結局は自分のサイトの評価を下げてしまうことになるだけだと知っておくべきだろう。

私としては、トラックバックする際には、相手のブログの該当エントリーにきちんとリンクして言及するのがマナーだろうと思っているが、被トラックバックの表示に関しては、こちらへのリンクがなくても、まあ、共通テーマをきちんと論じていると判断されたら、表示してあげるというところまでは妥協している。ちょっとお人好しかもしれないが。

でも、こちらのエントリーへの言及なしにトラバしてくるようなブログには、決して好印象を抱かないし、もちろん、以後こちらから積極的にアクセスしようなどとは決して思わない。

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2007年6月26日

またしても「マイ箸」にこだわってみる

今年の 1月から 「マイ箸」 を持ち始めて、半年近くになる。ここまで来ると、つい最近まで何の疑問もなく安物の割り箸を口に含んでいたことが、信じられない気がする。

近頃、「安物の割り箸免疫」が切れてしまったようなのだ。だから、たまに割り箸を使うと、明らかに違和感がある。

私の関係先のオフィスの近くに蕎麦屋がある。特別旨いというわけでもないが、値段の割には許せるそばを食わせてくれるので、昼食はそこで食うことが多い。そして、先日、マイ箸を持参するのを忘れたので、何ヶ月ぶりかで、その店の割り箸を使ってそばをたぐった。

すると、明らかにツユの味が違うのである。なんだか薬臭い「いやぁな味」がするのだ。半年近くも、しょっちゅう食いつけてきた味だから、その違いは明らかにわかる。店の割り箸の先を浸してしまったツユには、確かに、変な刺激のある夾雑物が溶け出しているのである。

ほとんどの割り箸は、防かび剤、防腐剤、農薬、漂白剤で処理されているというが、この時、確かにそうなのだろうと実感した。それらの薬品が、そばつゆの中に溶け出しているのを、私の舌は敏感に感じ取ったのである。

割り箸を当たり前に使っていた頃は、それには気付かなかった。しかし、半年近く割り箸から遠ざかった後に、久しぶりで使ってみると、その違和感は隠しようもない。

せっかく無農薬だの減農薬だのという食材を選んで食しても、安物の割り箸を使ったら、その意味がかなり薄れてしまうとみていいような気がする。

というわけで、私は今、マイ箸を使おうよと、改めて大いに勧めたい気持ちになっている。環境保護のためというのはもちろんだが、それは自分の健康のためにもなりそうだ。「環境なんか知ったことじゃないが、自分の健康だけは守りたい」というエゴイスティックな動機でも、とりあえずは、ちっとも構わないと思う。

とは言いながら、やっぱりマイ箸使用に踏み切れない人は多いだろうなあと思う。以前にも書いたが、電車で気軽に老人に席を譲ることのできない自意識過剰の人は、なかなかマイ箸も使えないだろう。

ということは、ある意味では、無理矢理にでもマイ箸を使うのは、余計な 「我(が)」に執着することを捨てるトレーニングにもなりそうだ。マイ箸を気軽に使えるようになったら、神経症とは無縁の人になれるかもしれないぞ。そして、電車で老人に席を譲ることをためらわずに済むかもしれない。

ちなみに、これまでの当ブログの 「マイ箸」 関連エントリーは、以下の通り。今回のは、第 5弾である。

 「マイ箸」 を持ち始めた
   マイ箸その後
  「マイ箸」 について再び考察
 やっぱり 「マイ箸」 でないとね

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2007年6月25日

テキストに含まれる「倍音」

内田樹先生がブログで 「倍音的エクリチュール」 という、文章表現に関する大変興味深いエントリーを書いておられる。

元々 「倍音」 とは音楽分野でよく使われる言葉で、単純な基音に対して 2以上の整数倍になっている周波数が含まれ、膨らみのある豊かな音になっていることを指す。

自然界の音は、元来、単一の周波数のみの機械的なものではなく、自然の倍音が含まれていることが多いのだが、表現力の豊かな音というのは、この倍音の響きが豊かであるとされる。人間の歌唱においても、倍音を豊かに響かせる発声法というのがある。

そして、倍音の豊かな音楽を聴くと、人間の耳は一つの音源からは一つの周波数しか聞こえないという錯覚に慣らされているため、あたかも天上から降り注ぐ妙なる音に聞こえるのである。非日常的で非常に高度なアート体験となる。

もっとも、人によってはこの倍音が聞こえないというか、きちんと認識できないという人もいる。ちょっと味気ないことである。これを内田先生は、物理的には確かに聞こえているはずの倍音を「天上の音楽」として同定できるような、因習的「天上」像を持っていない人と喝破しておられる。

で、内田先生はこの「倍音」という効果が文章においても可能かというメタファーに挑んでおられて、村上春樹の小説にはそれがあるのではないかという文学論に展開されているのである。

この「倍音的エクリチュール」 いうのは、とても壮大な可能性をもつアート論ではあるのだけれど、私はそれをちょっと矮小化して、「行間を読ませる」ということに絞って考えてみた。

私は以前、「行間を読む」というエントリーを書いている。詩人の荒川洋治氏の、「きちんとした文章なら、そのまま読めば充分であり、『行間』など発生しない」 という主張に、脊髄反射的に反応してしまったのである。

荒川氏はご自身の芸術的立場で 「きちんとした文章には 『行間』 など発生しない」 とおっしゃっているわけだが、ということは、「きちんとしていない文章」には、「行間」が発生することがあることになる。

で、私のように業界新聞や専門雑誌の記事などという、商業的テキスト(ある意味で、「きちんとしていない文章」) を書く機会の多い者には、この「行間」というのが重要な意味をもったりすることがある。

字数制限がめちゃくちゃきついので事実をほとんど書ききれないとか、ちょっと浮き世のしがらみ的差し障りがあって、あからさまには書けない事情があるとか、そんな場合には、かなり意図的にこの「行間」というのを使う場合がある。

はっきりとは書いていないのに、それとなく伝えてしまうというテクニックである。しかし、これはなかなか難しいことで、伝わらない人には全然伝わらない。「わかる人だけにわかる」という、かなりあいまいな世界のことになる。失敗すると、「楽屋落ち」にすらならない。

上述のように、「天上の音楽」として同定できるような、因習的「天上」像を持っていない人には、倍音が聞こえないということを、かなり俗っぽくしてしまったような現象が、商業的テキストにおいて発生するのである。

このアイデアを発展させると、アート的テキストにおいてもメタファーとしての「倍音」を発生させやすい条件というのが考えられる。単純に考えると、それはまず読者を絞り込むこと、そして短編にすることになるかもしれない。

「因習的天上」というコンセプトを共有する読者に絞り込めば、テキストにおける倍音は読み取られやすい。さらに、ごくシンプルな短編にして、すべてを語り尽くさないスタイルにすれば、読者は自然に「参加」的な読み方を求められ、能動的に「倍音」を読み取る感性を発揮せざるを得なくなる。

もしかして、和歌や俳句は「倍音テキスト」そのものといえるかもしれない。

私がブログのエントリーをできるだけ短く抑えたいと、繰り返し書いてきたのは、無意識的にこんなことを考えていたためではないかという気がしてくるほどである。それは、多分、後付けの理屈なのだろうが、この際、もっともらしければそれでいいのである。

それにほら、私は 「和歌ログ」 なんてこともやってるし。ますますもっともらしいからね。

【追記】

ネタだけいただいて、影でコチョコチョ書いているという印象を持たれるのは嫌なので、内田先生のブログにトラバを何度も送ってるんだけど、どうも届かないみたいなのだ。というわけで、トラバ送信、あきらめ。

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2007年6月24日

車庫入れを自動で

トヨタが 4年ほど前に開発して話題になっていた 「駐車支援システム」 が、最近ではかなり改良されているようだ。

最初はハイブリッドカーのプリウスからスタートしたのだが、今では既に「レクサス」の上級車からカローラまで 6車種に搭載されて、約 30万台が販売されているという。(参照

実は、私は車庫入れがかなり上手である。というか、基本的に駐車場に止めるときは、前進での駐車が指定されていない限り、必ずバックで駐車する。どんなにスペースに余裕があっても、空いていても、必ずそうする。

何しろ車庫入れには自信があるから、苦もなくぴったりと停められるし、出発するときにもたもたと行ったり来たりせずに、さっと出られるから、その方がずっと楽なのである。で、我が家の娘たちも、車庫入れは驚くほど上手である。

我が家の駐車場は、元々 1台分の前提でスペースが取られている。子どもたちが小さかった頃は、それぞれが 1台ずつ車をもつなんて、考えてもいなかったのだ。ところが、我が家は郊外というか田園地帯の一画を開発した住宅地なので、それぞれが車を持たないと、人間の暮らしができないのである。

というわけで、一時は、私と 3人の娘がそれぞれ 1台ずつ車をもっていたので、1台分のスペースに 4台の車を駐車していた。今は長女が東京で暮らしているので 1台減ったが、それでも、3台停めているのである。

これだけ狭いスペースに 3台もの車を押し込むと、ドアをまともに開けて乗り降りすることすらできない。そっと開けて、その隙間から体を滑り込ませるしかない。私がダイエットに気を使っているのは、そうしないと車の乗り降りができなくなるからでもある。

1台分のスペースに 3台停めなければならず、しかも家の前の道路も狭いから、バックで入らないと駐車は不可能だ。そもそも、基本的な意味合いを知らない人も結構多いのだが、バックで車庫入れするのは、狭いところではそうするほかないからである。

自動車は前輪差というものがあるから、常に頭を大袈裟に動かさないと、後ろをこすってしまうという宿命がある。だから、大袈裟に動かさなければならない頭を、先に狭いところに突っ込んでしまったら、動きがとれなくなる。

我が家の駐車場が、まさにそうなのだ。先に頭を突っ込もうにも、それすら不可能なので、バックで入れるより仕方がないのである。だから、うちの娘たちは、友達の間でも「車庫入れ名人」で通っているらしい。「もう、仲間内では、神業と言われてるよ」というわけだ。

世の中には、バックで車庫入れするのが苦手な女性が多いようだ。娘の友達なんかを見ていても、ものすごく危なっかしい。そんなドライバーには、「駐車支援システム」はとても役に立つだろう。

しかし、我が家の駐車場のようなケースには使えない。夜、空の駐車場に最初に帰ってきた車が、自動で真ん中にばっちりと停めてしまったら、残りの 2台の止まるスペースがなくなる。だから、結局手動で隅っこに停めることになる。

すでに 1台停まっている場合には、今度は、自動システムでは認識しにくいほどの狭いスペースに押し込まなければならないから、これまた手動でやるしかない。

というわけで、我が家のドライバーはどちらかが嫁に行ってしまうまで、ずっと神業を発揮し続けなければならないだろう。うちのようなケースにカスタマイズできるようになったら、このシステムも本物だが。

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2007年6月23日

数字を食ったり着たりする

ゴキブリは 1匹見つけたら 100匹いると思えという。北海道の悪徳業者が、豚の屑肉を混ぜて牛肉 100% のミンチとして出荷していたという事件にしても、そう思った方がいい。

同じようなことをしている業者がいくらでもいるのだろうと、私は確信する。確かに、違いのわかる消費者なんて滅多にいないし。

農林水産省北海道農政事務所は 1年も前から内部告発を受けて知っていたらしいが、そりゃ、動きにくかっただろう。カタいことを言い出したら、あっちこっち芋づる式に告発しなければならないだろうから。

これを言ったら怒られるかもしれないが、私は個人的には、豚の屑肉混じりの牛ミンチだろうとなんだろうと、別に大した問題じゃないと思っている。そんなに騒ぐほど、味がわかってるわけじゃないだろうよと言いたくなる。

個人的なことを言えば、私はベジタリアンというわけじゃないが、好んで牛肉を食おうという気にはならない人である。チキンとポークなら、旅先で地鶏とか黒豚とか、地元の名産があれば喜んで食ったりするが、ビーフは全然そそられない。

以前仕事の関係で、ちょっと高級なしゃぶしゃぶとかすき焼きなんかを食わなければならない機会が何度かあったが、私はサイドメニューの野菜ばっかり食っていた。だって、生の牛肉って食えばいくらでも食えるけど、しげしげと眺めると、ちょっと気持ち悪いんだもの。

私はイナゴの佃煮は平気で食っても、しゃぶしゃぶには抵抗があるのだ。焼き肉ってのもそうで、私はこの 30年で、3度ほどしか焼き肉屋に入ったことがない。それもすべて、仕事上のお付き合いで仕方なしにである。

で、ちょっと乱暴な言い方だというのは十分に自覚した上で言うのだが、今回の事件が発覚する前には、誰一人として 「これって、ちょっと豚肉っぽくない?」 なんて言わなかったくせに、実情を知った途端に騒ぎ出すというのは、逆にちょっと恥ずかしい気がするのである。

日本人がありがたがるイタリアの織物なんて、もっとひどいところがある。「シルク 100%」という表示の服地が、実は、シルク 100%なのは縦糸だけで、横糸はポリエステルとの混紡だったりすることがいくらでもある。

それについてクレームをつけると、向こうは、「日本人はファッションを着るのか? 数字を着るのか !?」と逆ギレしたりするから、始末が悪い。しかし、百歩譲れば、それもまんざら無茶苦茶でもない言い分かもしれないなんて思ったりする。

本当のスペックが明かされるまでは、ありがたがっていたくせに、数字を知ってしまったとたんにありがたみが失せる。なるほど、数字を食ったり着たりしているのである。

それから、ソウルの露天で 3500円のヴィトンとか、5800円のロレックスとか、喜んで買っちゃったりする人は、今回のニュースで怒っちゃいけない。「洒落」 で済ましてあげなきゃいけないと思うぞ。

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2007年6月22日

十牛図解釈

「十牛図」 というものをご存知だろうか。なんでも臨済禅の奥義を牛に譬えて示したもので、私なんか口開けっ放しで呆然としてしまうほどの、深い深いものなのである。

ウェブの世界でも、これについて解説したサイトがいくらでもあるので、興味があれば、辿ってご覧いただきたい (参照)。

十牛図は一口にいうと、悟りを得ようと志すという初歩のレベルから、もはや「悟り」と呼ぶすらおこがましいほどの最高の境地に至るまでを 10段階に分け、牧童が「牛」を求めるというメタファーで図示したものだ。

で、あんまりくどくど言ってもしょうがないので、私なりのごくごく初歩的な解釈を、以下に述べようと思う。(「私なり」 なんて言ってるうちは、しょうがないんだけれど)

 壱 「尋牛 (牛を尋ねる)」
  俺だって、悟ってみたいんだもんね。

 弐 「見跡 (牛の足跡を見つける)」
  悟りの糸口が見つかったかもしれんもんね。

 参 「見牛  (牛の姿がちらりと見えた)」
  悟りってどんなもんだか、おぼろげに見えちゃった気がするもんね。

 四 「得牛 (牛を捕らえた)」
  本当に、ちょっぴり悟っちゃったかもしれないもんね。

 五 「牧牛 (牛を飼い慣らした)」
  かなり悟っちゃったような気がするもんね。

 六 「騎牛帰家 (手なずけた牛に乗って家に帰った)」
  もう、本当に深く悟っちゃったもんね。

 七 「忘牛存人 (牛を忘れた)」
  悟りなんて、忘れちゃったもんね。      

 八 「人牛倶忘 (牛も自分も忘れた)」
  悟りを忘れちゃったことも、忘れちゃったもんね。

 九 「返本還源 (もとに返る)」
  もう、「そのまんま」 だもんね。

 十  「入鄽垂手 (いい気持ちで市場に行く)」
  周りと一緒に上機嫌だもんね。

ということになる (んじゃないかなあ)。

つくづく、すごいなあと思うのは、「本当に深く悟っちゃったもんね」 というのが、10段階のうちの、たかだか 6番目の段階でしかないということだ。「悟った」と満足している自分なんてものがあるうちは、まだその程度のものらしいのである。

で、悟っちゃったことなんか忘れてしまって、その忘れたことすら忘れてしまうという、かなり幽玄の境に入っても、まだ 8番目の段階である。奥はさらに深いのだ。

その奥というのは、「そのまんま」ということ、つまり本源の自己にまっとうに立ち返り、そうなってしまうと、しまいには、別に寺に籠って修行なんてしなくても、酒瓶を腰にぶら下げて、上機嫌でスタスタと市場に行って、自由自在に楽しんでしまうんだそうだ。

最終段階に入ってしまうと、傍目には悟った聖者だか、ただの酔っぱらいだか、わかったもんじゃないが、それでも、そんじょそこらのおっさんとは、わけが違うのだろうなあ。どこが違ってるんだか、わからんけど。

一つだけ言えるのは、本当に最終段階に入ってしまうと、それは単に自分だけの境地ではなくなってしまうようなのだね。

もっときちんと学んでみたいという方は、こちら へどうぞ。

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2007年6月21日

「女女格差」 の中身

今週初めから、私が 1年半以上も前に書いた "「女女格差」と「男男格差」" に、アクセスが集中していると思ったら、6月 25日付 AERA が 「女女格差の不条理な現実」 という特集をしているのだった。

1年半前に私がつい反応した新語「女女格差」が、今頃メジャーになったようなのだ。

ただ、AERA のいう「女女格差」は、私が 1年半前に取り上げた上野千鶴子氏の記事で問題とされたこととは、中身が微妙に違うようなのである。

上野氏は、ネオリベの風潮の下で、女の中でも「勝ち組」と 「負け組」の格差が拡大しているとして、その中で 「女のなかでだれが味方で、だれが敵かはっきりしてくるだろう」と、いつもの如く、ややステロタイプなアクレッシブ感覚で歌い上げていたのだった。

一方、このたびの AERA の特集はというと、私自身は読んでなんかいないのだが、いくつかのブログの反応から察するに、ちょっと下世話の方向に振られたトーンのようなのである。

ビジトレの當間光沙さんの記事によると、例えば「職場の同僚」「大学時代の同級生」「子どもの同級生の親」同士で、「地方出身か東京出身か」「結婚しているかしていないか」「子どもがいるかいないか」「夫婦関係は良好か否か」はては「美人かそうでないか」といった、ほんと、かなり「やんなるような」レベルの「格差問題」を掘り下げているようなのである。

AERA NET 編集部の木村恵子さんのエントリーでも、「実は一番強く感じる格差は、フリーターと超セレブの差ではなく、身近にいる人との似ているようで違う、細かい差なのでは、というところから取材が出発しました」と種明かしがされている。

上野先生もびっくりである。

まあ、上野先生が戦闘的かつ非日常的テーマとして高度に図式化した「女女格差」を、AERA は腰砕けなまでに高度に日常化してしまったようなのである。あるいは「女女格差」というテーマも、1年半かかって、ここまでこなれたということなのかもしれないが。

ところで近頃、「私は仕事が好きなので…」と臆面もなく表明し、自分がいかに仕事の上で努力し、成功を勝ち取ったかを、得々と語ることのできる女性が増えている。すごいことである。今どきの男は、同じ内容のことでも、あんなにもストレートに語ることは憚られたりする。

男が同じことをしたら、「つまんねぇ仕事人間」「自慢たらしい嫌味な奴」と思われかねない。女はその辺、「仕事ができてかっこいい」なんて思われる土壌があって、ある意味ではまだ無邪気に「仕事好き」でいられるようなのだ。

そんな意味で、いわゆる(上野千鶴子氏のいうような)女の中の「勝ち組」って、結構無邪気だなあと思うのである。男はもうちょっと「てらい」があるもんなあ。(あ、誤解のなきように。悪趣味な男も腐るほどいるってことは、言うまでもなく承知してるから)

で、AERA の記事の中で、複雑な心情を吐露している層の女性って、もしかしたら、その無邪気さを潔しとしない、ややソフィスティケイティッドな精神の持ち主なのかもしれないなどと、ちょっと思ってみたりしている。

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2007年6月20日

ガソリンの 2倍の価格の水を飲む我々

「日本人は水と安全は無料と思っている」などと言われてきたが、よく検証してみると、もうそんなこともなくなって久しい。ただ、あまり明確に意識されていないだけだ。

大は国際的脅威から小はコソ泥まで、セキュリティは大問題だし、飲み水にだって、ガソリンの 2倍のお金を、我々は払っている。

かくいう私も、自分の飲んでいる水にガソリンのほぼ 2倍ものコストを払っているとは、ほとんど意識していなかった。先日、ある人に言われて、「そういえばそうだ」 とようやく気付いたぐらいである。

近頃、ガソリンの値段はリッター当たり 130円以上になっている。ところが、私がいつも買って飲んでいるミネラルウォーターは、500cc で 110~130円だ。確かに、ほぼ 2倍である。

ガソリンが少しでも値上げされると、我々はかなり敏感になって、遠出をしたときなど、1円でも安いガソリンスタンドを探したりする。そのくせ、ミネラルウォーターなどは、その辺のコンビニで気軽に買い求める。ガソリンのほぼ 2倍の値段で。

そこに気付いても、「くそ、そんなことなら、いっそガソリンを飲んでやる」ということにならないのが残念なところで、せいぜいバイオエタノール(お酒)を飲むぐらいだ。因果なことである。

石油の確保は安全保障上の大問題と言われているが、実は水の方がすごい。石油がなくても命までは取られないが、水がなくなったら、生きられないのである。その水に関して、無料とまではさすがに思わなくなったが、ガソリンの 2倍と聞いて、改めて驚くほど、我々は無意識である。

米国の穀倉地帯で、そのうち地下水脈が枯渇して、スプリンクラーで散布する水を汲み上げることができなくなりそうだと、言われ始めて何年か経つが、石油ほど騒がれたという記憶がない。不思議なことである。

水はあまりにも身近なものであり続けたために、かくまでありがたさを忘れられている。ガソリンの 2倍もの金を平気で出せるのは、一度に出費する額が小さいこともあるが、この無意識の裏返しだろう。

そのあたり、もう少し意識してみたい。

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2007年6月19日

東国原さんの宮崎を巡る冒険

東国原新知事の県産品セールスで、日本中の注目を浴びる宮崎県に先週、たった 1泊 2日の出張をしてきた。

前知事までを巻き込んだ官製談合事件が非難の的となって、「しがらみのない」 新知事が誕生しただけに、宮崎は 「一般競争入札」 推進の旗振り役になっている感がある。

確かに一般競争入札という制度は、透明性が高く、公平なものということになってはいる。しかし、そんなものには誰も馴染みがない。まともに運用したら、フェアなことになるのだろうが、そこはそれ、実際の運用となると、かなり奇々怪々なことになっているようなのである。

土木関連の入札で、同一の業者が連続 5回最低制限価格ギリギリで落札したとか、最低制限価格にわずか百数十円上乗せした範囲内に、5社の入札金額が集中したとかいう話がいくらでも転がっている。

コンピュータ化が進んで、費用積算の誤差が小さくなったなんて言い訳されているが、普通の確率ではあり得ない現象が、当たり前に生じ過ぎである。どこかで最低制限価格が漏れていると考えるのが普通だろう。東国原知事もなかなか頭の痛いところである。

しかし、頭の痛いのは知事ばかりではなく、地元の業界も同様のようで、あまりにも短兵急に一般競争入札制度への転換が行われている反動で、地元建設業界の大手 2社が倒産してしまったと伝えられる。その下請けまで入れたら、かなりの失業者が発生しているだろう。

ある建設業者は、「そもそも、一般競争入札でコストが安く抑えられるということ自体が、錯覚だ」 と指摘する。

指名競争入札なら、業者は次回からも指名を得たいので、契約後の設計変更など、細かな部分は「サービス」として、無料で対応する。しかし、一般競争入札となると、元々の入札額がギリギリに削った金額ということもあり、手抜きはしてもサービスなんてしないというのである。

途中段階での設計変更を要求されたら、それなりの割増請求をする。ということは手抜きと割増しが発生して、結果としては踏んだり蹴ったりになる。なるほど、一筋縄ではいかない世界のようなのである。

その上、宮崎県から中央にいろいろな陳情に行っても、「お宅の県は、東国原さんががんばって地元産品のセールスが好調なんだから、補助金なんて必要ないでしょう」 などと、嫌みを言われるらしい。

自民党候補を蹴落として当選したことによる、ある種の報復的な雰囲気まであるらしいのだ。「しがらみがない」ことが、逆に新たなしがらみを発生させている。まったくもって、嫌な世界である。

余談だが、土産に宮崎のマンゴーを買って帰ろうかと思っていたのだが、空港のショップでみたら、メチャクチャ高いので、「こりゃあ、とても買えんわ!」と思った。「太陽の何とか」ブランドが付いていなくても、2個セットで、12,000円なんてことになっている。

そんなものを買って帰ったら、娘たちに、「こんなの買うぐらいなら、お小遣いちょうだい」と突っ込まれるのが確実なので、1箱 1,000円しない「完熟マンゴー入り」 という洋菓子を何箱か買った。

今、宮崎の農家はマンゴーと地鶏の増産に血道を上げているらしい。しかし、それはかなりヤバい。ブームが一巡したら、次は値崩れが待っているぞ。

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2007年6月18日

見分けが付いたら、マニアってことよ

微妙な違いの見分けがつくかつかないかというのは、結構大きなことのようなのである。

ライトノベル表紙絵のレベル低下」を論じた記事を発端として、「見分けがつかない」との指摘があり、さらに「りぼんの絵とモー娘。の顔」の例になって、「見分けるほどの興味」のあるなしという話に発展している。

なるほど、私なんかもライトノベルの表紙絵の区別がつかないし、当然、「りぼん」 (少女漫画雑誌) の絵とモー娘。の顔なんてものも、全然わからない。ただし、以前は40歳代後半(当時)にして、スピードの 4人の顔と名前の一致していることを自慢にしている時期があった。

りぼんの絵とモー娘。にしても、上述のブログで、「まあ、りぼんっ子たちには見分けが付くんだろうし、モーヲタにとっては間違えようがないんだろうけど」と、当然ではあるが重要な指摘がなされている。

それを言えば、興味のないものにはさっぱり区別がつかなくても、愛好家にとっては「なんで、違いがわからないの?」というジャンルは、その辺にいくらでもある。演歌の区別が一発でつくオヤジは、最近のロックや、とくにラップなんてのは、完全に同じに聞こえるだろう。その逆もまた真なりだろうし。

陶器や絵画のコレクションにしてもそうだろう。興味のないものには、何がどう違うのかさっぱりわからなくても、わかるものにはわかるのである。マネとモネの区別がついても、モー娘。の顔がわからないと、若い者には尊敬されなかったりする。

何においても、微妙な差異がわかるというのは、重要なポイントである。ピュアアートにしろ、ポップアートにしろ、大衆芸能にしろ、アイドル関係にしろ、つきつめれば、価値というのは微妙な差異から生じるのだ。小さな違いが大きな違いなのである。

興味のないものにとってはどうでもいいようなトリビアルなことが、マニアにとっては決定的な違いであったりする。要は、トリビアリティに夢中になれるほど好きな分野であるかどうかが、問題なのである。

そして、トリビアリティに関係なく、圧倒的な差異を感じさせることのできる存在は、マニアック以外の広い市場に訴求できる。それがスーパースターというものである。しかし、ビートルズ以後、あまりぱっとしたスーパースターが出現していないと、私は思ってしまう。

ビートルズ以後は、トリビアリティの時代なのだな。

それから、細かい話だが、ATOK で 「もーむす」 と入力して変換すると 「モー娘。」 と変換される。気に入らない表記だが、そのままにしておいた。

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2007年6月17日

都道府県名と人名

宮崎市への出張から、昨晩帰ってきた。話題の東国原知事の現地での評価は、いろいろな人に聞いてきたが、毀誉褒貶、いろいろあるみたいだ。まあ、それについては、いずれ書くこともあるだろう。

で、今日は疲れたので、ちょっと酔狂なログである。都道府県名と人名についてだ。

なんでこんなことを書く気になったかというと、宮崎県といえば、繊維業界の世界では、延岡に大工場をもつ旭化成で、旭化成といえば、その中興の祖と言われたのが、高度成長期のまっただ中に社長を勤めた宮崎輝 (みやざきかがやき) という人だからだ。

私は宮崎輝氏は宮崎県の出身とばかり思いこんでいたが、実は長崎県出身だったらしい。で、ちょっと気紛れを起こして、都道府県名の中で、人名(姓)によくあるのは何かなんてことを確認してみたくなったのだ。

都道府県名というが、「都道府」の東京、北海、大阪、京都は、たまに「おおさかさん」という人がいるぐらいで、あまり人名としては聞いたことがない。「おおさかさん」でも、字は「大坂さん」が多いと思う。昔「東京ぼん太」という芸人がいたが、あれは芸名だし。

残るは、県名である。人名としてもよく聞く県名を北から挙げると、こんなところだろう。

秋田、福島、千葉、石川、福井、富山、長野、奈良、岡山、山口、香川、福岡、長崎、熊本、宮崎

たったの 15県である。ふ~む、思ったより少ないような気がする。この中でも、石川、山口、宮崎なんかは、県名としてより人名としての方がしっくり来そうだ。これがベスト・スリーだろう。さらに福島、福井、長野、香川、長崎あたりも、かなりポピュラーである。

細かいことを言えば、「富山」 は 「とみやまさん」 と読む場合が多いように思われる。そして、こうしてみると、九州の県名は、人名としても違和感のないのが多い。

さらに、たまに耳にすることもある人名となると、こんなところだろうか。

山形 (表記は 「山縣」 の方が多いと思われる)、宮城、愛知、滋賀 (これも、表記は 「志賀」 の方がずっと多いだろう)、和歌山 (これも 「若山」 が多いだろう)、徳島。

これらを足しても、まだ 21県である。やっと全体の半分弱。案外少ないものである。

残りは、私が聞いたことがないだけで、きっと人名としてもあるんだろうが、かなり希な例だろうという名前である。

青森、岩手、新潟、群馬、栃木、茨城、埼玉、神奈川、山梨、岐阜、静岡、兵庫、三重、鳥取、島根、広島、愛媛、高知、佐賀、大分、鹿児島、沖縄。

こうしてみると、関東は人名との親和性が低いのかなあ。

元々、人名は地名から発している場合が多いのだから、畿内、山陽、九州あたりが、人名との親和性の高いのは当然かもしれず、関東の場合は、まだ歴史が浅いということなのかもしれない。

あるいは、旧国名(「大和」とか「筑紫」とか「吉備」とか「因幡」とか「三河」とか「相模」とか) でみると、また全然違ってくるかもしれないが、ただでさえ疲れてるので、今日はそこまでやる気がない。

突き詰めてみればおもしろいテーマなのかもしれないけれど。

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2007年6月16日

エネルギーを浪費しない照明

私はとても物騒だった頃のニューヨークを知っている。なにしろ、ホテルのロビーで人が撃ち殺されたのを目撃しているし (参照)。

ところが、近頃のニューヨークはとても安全になった。結構のほほんと道を歩いていても、それほどの危険は感じない。ジュリアーノ元市長の浄化作戦が功を奏している。

3年前にニューヨークに行ったとき感じたのは、夜になっても裏通りがやたらと明るいことだ。大きな照明を使った宣伝パネルが、いたるところに設置されている。これで、街の隅々まで明るくなって、犯罪防止にとても役立っているのだそうだ。

確かに、夜間照明を充実させることで犯罪はかなり抑止されるらしい。しかし、問題はそれに使われるエネルギーだ。

ただでさえ地球温暖化防止で、電力消費を控えようと呼びかけられているのに、その一方で、ふんだんに夜間照明を使うのは考え物である。夜間電力とやらで、コストは抑えられているかもしれないが、CO2 発生まで抑えられているわけじゃない。

「あちらを立てればこちらが立たず」というのは世の習いだが、これはかなりしんどい二律背反である。人の命を守ろうとすると、地球の命が危なくなる。

この問題の有効な解決策になるかもしれない開発商品を、最近、ひょんなことから知ったので、紹介しておこう。レビアという会社の「ソーラー式ルナライト」である。太陽光充電で 14時間の点灯が可能な LED フラッシュライトで、600m 以上離れても見えるのだそうだ(参照)。

既に千葉県木更津市の「中の島大橋」のほか、いろいろな施設に採用されているらしい。昼間に 6時間太陽光に当たれば、夜になってから 14時間発光するというのだから、かなり使い物になるではないか。

このルナライトを庭に設置し、夜間、光で蚊や蛾などの害虫を集めて駆除するということも可能なようで、今、北海道大学で実験中だそうだ。消費する電力はすべて太陽光発電で、殺虫剤も用いないので、環境にやさしい。

今年のエイプリルフール・ネタのハエ取りリボン(参照)よりは、ずっと画期的である。(実は、このネタを間に受けてしまった人がずいぶん多くいて、その中の一人からこの情報をいただいたので、罪滅ぼしの意味もあって、紹介している)

こんなような技術開発なら、どんどん進めてもらいたいと期待する。

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2007年6月15日

恐竜の運命をたどる MS

私は 「今のスペックのパソコンで、DOS を走らせたら、超高速だろうね」と時々冗談をいうのだが、ハードに強い友人に、「tak さん、それは不可能ですよ」とたしなめられた。

なんでも、DOS は今のパソコンのもつ広大なメモリー領域をコントロールできないので、起動すらできないらしいのだ。残念。

「それだったら、懐かしの Windows 3.1 でもいいよ」と言うと、「それも、基本的には DOS ですから一緒です」という。そうか、そうだよな。なるほど。

となると、Windows 95 だって怪しい。Windows 98 の SP2 以降なら大丈夫という気がするが、そこまでくると、あの不安定な Windows 9X (Me を含む) を、今さら使う気にはなれないし。

だったら、せいぜい Windows 2000か。確かに、今の手持ちのマシンで 2000を走らせたら、さぞかし速いだろう。一度走らせてみたい。あぁ、その快感を味わってみたい。

なんでまた、こんな繰言を言っているのかというと、「PC の遅さ 6割以上の利用者が不満」というニュースを読んだからである。シマンテック社が 2,000人を対象にアンケートしたところ、ユーザーの 8割以上がパソコンの動作にストレスを感じており、その最大の不満は「動作が遅い」ということで、66%のユーザーが指摘している。

66%といえば、ほぼ 3人に 2人で、よくその程度で済んだなと思うほどだが、あるいは、3人に 1人は、最新スペックの快速マシンで、Windows XP を走らせているのかもしれない。Vista だったりしたら、そんなに速くも感じないだろうと思うし。

本当に本当に思うのだが、ユーザーの多くは PC がサクサク快適に動くことを欲しているのである。そして、Vista の「エアロ なんていう一見オシャレなインターフェイスと、快速さのどっちを取るかと聞かれたら、そりゃもう、速い方を選ぶのである。少なくとも私なら。

せっかくハードが進化しているのに、OS が無駄に肥大化してスネをかじっていては、PC はいつまで経っても速くならないではないか。

スイッチを入れたらあっという間に OS が起動して、アプリケーションも一瞬の間に動くといった、ストレスのない動作環境は、作ろうと思えば作れるだろうに、ソフトがいらぬところで足を引っ張っているのである。

で、ようやくその呪縛から逃れることのできる能力をハードが持ち始めると、またぞろ、ソフトが重くなってしまうのだ。これ以上 Microsoft を食わせるためにのみ金を貢ぐのは、ごめんこうむりたいではないか。

巨大化しすぎた恐竜は、環境変化に対応できずに絶滅した。マイクロソフトの Windows と オフィスセットも、きっとそうなると、私は思っている。

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2007年6月14日

「クロスオーバー」と「エクレクティシズム」

今話題のトレンドというわけでもなんでもないのだけれど、昔から気になっていることがある。「クロスオーバー」と「エクレクティシズム(折衷主義)」の違いだ。

この 2つの言葉、かなり混同して使われている場合が多い。「異なる要素を組み合わせて、新しい感覚を出す」という意味合いだ。

Pitty Savile Row というオンライン・スーツショップの、ファッション用語解説にも、「エクレクティシズム」は、以下のように記されている (参照)。

折衷主義と訳される。さまざまなファッションの中から、自分の気に入るものだけを取り出して、独特の雰囲気で着こなすといったいわゆるクロスオーバー的着こなしがこれにあたる。

ここでも、「クロスオーバー」と「エクレクティシズム」は同じようなものとして解説されている。しかしこの言い方って、ちょっぴり乱暴すぎるんじゃあるまいか。「いわゆる」という但し書きさえ付ければいいというもんじゃない。

もともと「クロスオーバー」とは 「(陸橋を越えて)横切る」とか「鉄道のわたり線」とかいう意味である。それに対して、「エクレクティック」というのは、「取捨選択的な」という意味だ。このあたりから、両者の違いが垣間見える気がする。

「クロスオーバー」という言葉が、芸術方面で一般的に使われるようになったのは、多分、音楽の分野からだと思う。ジャズとロックを融合させた新しい音楽という意味で使われ始めたはずだ(参照)。そこから発して、ファッションなど他の分野でも、異なる要素を融合させたスタイルを指して「クロスオーバー」と言うようになったと理解している。

一方、「エクレクティシズム」 という言葉はずっと以前からあった。複数の異なる地域、異なる時代、異なる民族のスタイルを取り込んで表現する手法である。そしてここが重要ポイントなのだが、「取捨選択的な」という元々の意味合いがあるぐらいだから、「融合」なんてことには無頓着で、「異なる要素の並存」というニュアンスが強い。

06crosover

ざっくりと概念的に図示してしまうと、右図のようになるかもしれない。2つ(3つでも 4つでもいいのだが)の要素の、重なり合う部分を強調して新しい表現とするのが 「クロスオーバー」で、それに対して、むしろ重なり合わない部分の強調されるのが 「エクレクティシズム」 だ。

なるほど、「クロスオーバー・ミュージック」というジャンルの音楽を聞くと、かなりしっくりくるけれど、例えば、「上を向いて歩こう」の米国バージョンである「スキヤキ・ソング」なんて、米国人の考える東洋趣味丸出しで、日本人が聞くとかなり奇異だもんなあ。

よく映画なんかに出てくる、欧米スタイルの部屋に絵屏風や中国趣味の陶器、バリ島の民芸品なんかをゴテゴテと飾り、金髪美女が着物風のローブを羽織ってシャンパンなんか飲んでるなんてのは、典型的な「エクレクティシズム」ということになるんだろう。

となると、普通の日本家屋の「洋間」なんて、どうなるんだろう。我々にはごく普通のことだが、(強いて言えば「クロスオーバー」か) なんだろうが、欧米人には 「靴を脱ぐ」 ということだけで、それはそれは、とても異国的な「エクレクティシズム」に映っているかもしれない。

同じことでも文化によって違って見えるというのも、面白い。英国のカントリーハウスなんかは、ゴシック様式を取り入れたエクレクティシズムといわれる(参照)が、西欧建築様式の細かな違いなんてわからない日本人には、単なる「西洋建築」にしか見えないし。

そして、日本文化というのは昔から、何を取り入れても「エクレクティシズム」にしないで、「クロスオーバー」にしてしまうという特質があるんじゃないかという気がする。このあたり、ちょっとすごいことなんじゃあるまいか。

日本人、内臓の腸だけじゃなくて、感性回路の腸も長くて、消化能力が高いみたいだ。

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2007年6月13日

30ヤードも歩けない偉大なる首領様

北朝鮮の金正日総書記が体調を崩し、休憩なしでは 27メートルも歩けない状態という報道(参照)には、首をかしげてしまった。

「外出の際には途中で休めるようにいすを持った秘書が同行するほど」と報じられているが、そもそもそんな状態だったら、外出なんかできないだろうよ。普通の感覚だったら。

それでも、何しろ常識の通じない国だから、「やだもん、僕、おんもに出たいんだもん!」と駄々をこねて、無理矢理外出したがるんだろうか。外出の際には、車椅子なんかカッコ悪いと言って、虚勢を張って歩くポーズを見せたがるんだろうか。

そして、30ヤードも行かないうちに、景色でもサカナにして何かの話に打ち興じるような、何気ないそぶりを演出しながら、必死にさりげなく、椅子に座って息を整えるんだろうか。なんとまあ、ご苦労なことである。

本当にそんなに体調が悪いのかどうだか知らないが、もし本当にガタガタだったとしても、そんなそぶりは見せられないという事情があるんだろう。何しろあの国は跡目争いが大変で、日本ならさしずめ、戦国時代の大名家のような、ちょっと現代離れした状況にあるようだから。

金正日が長いことなさそうだなんてことが知れ渡ったら、冗談じゃなく後継争いが表面化して、ガタガタしているうちにクーデターとか、暴動とかが起きて、体制崩壊なんてことになりかねない。

金正日自身とその周辺のことに関しては、それはもう、身から出た錆という他ないけれど、とばっちりで命を失う人も出るだろう。それを思うと、気の毒な話だ。それに、偉大なる首領様にしても、死ぬまで元気なフリをしていなければならないなんて、ほとほと因果なことである。何度もいうように、身から出た錆だが。

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2007年6月12日

ラニーニャ発生 - 当たりそうな 「しっくり感」

私は 6月 5日に、"ラニーニャが発生するすると言われている割には、「発生した」とは全然伝えられず、わけがわからない" というようなことを書いている(参照)が、実は、遅くとも 5月には発生していたらしい。(参照

へぇ、5月下旬の時点では、「6月にも発生する見込み」(参照) なんて言ってたのにね。

まあ、あら探しは止めておこう。気象データというのは、きっとかなりデリケートなもので、いろいろと検証を重ねてからでないと、確信をもった発表ができないんだろうということで。

というわけで、ラニーニャ発生の年の夏は、日本では猛暑、小雨になりやすいんだそうだ。で、前回のラニーニャは、2005年秋から 2006年冬にかけて発生したということだが、この年の冬は、記憶にも新しい豪雪の冬だった。

あの、特急いなほが突風に煽られて脱線転覆してしまった年の冬である。本当に本当に、大変な冬だった。(なお、この件に関しては、ぜひ読んでいただきたいエントリーがあるので、よろしければ、以下をクリックしていただきたい)

 羽越線脱線事故・外伝

話は戻るが、ラニーニャが発生すると、夏はくそ暑く、冬はくそ寒くなりやすいということなのか。つまり、夏はより夏らしく、冬はより冬らしくなって、結局は「過ぎたるは及ばざるがごとし」というような傾向になるのだな。

逆にエルニーニョになると、「日本では長梅雨、冷夏、暖冬となる事が多い」と、Wikipedia には書いてある(参照)。夏らしくない夏とか、冬らしくない冬ということになるようだ。「及ばざるは過ぎたるが如し」 なんていう格言はないが、そんなようなことか。よく覚えておこう。

私はその 6月 5日のエントリーで、以下のように書いている。

でも、私は昨日、我が家の裏の土手の道を歩いて、「この夏は猛暑になりそう」との予測を信じることにした。昨日の日射しを浴びて、なんとなくしっくり来てしまったのである。

で、どうやら、この 「しっくり感」 は当たりそうな雲行きなのである。やれやれ、こんな予感は別に当たらなくてもいいのに。

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2007年6月11日

PC と落雷被害

この 2~3日、昨年 7月 15日のエントリー「落雷でパソコンが死んだ」にアクセスが集まっている。もしかしたら、同じ被害に遭った人が多いのかもしれない。

このところ妙に雷が多くて、とくに昨日なんかは、やたらとゴロゴロ鳴っていた。あちこちで落雷被害もあったらしい。

「落雷/PC」 のキーワードでググってみたら、やや古いニュースだが、Japan.internet.com の記事が見つかった。情報機器への落雷対策について調査で、「全体の 80.6%が雷被害については知っているものの、具体的な対策を取っているのはわずか 19%」 ということがわかったというのである。

このニュースの日付は、2005年 7月 15日。奇しくも、私のパソコンが落雷で死んだちょうど 1年前である。ああ、こんなことなら、もうちょっとしっかりと意識していればよかったと、悔やんでも遅い。

落雷被害から PC その他の情報機器を守るには、ただひとえに、雷がひどくなったら、電源をコンセントから抜くことだ。しかし、雷のサージは電源コードから進入するだけではない。インターネット回線からも入ってくる。だから、ネットワーク接続のケーブルも抜かなければならない。

昨年、私のパソコンが死んだケースでは、パソコン本体の電源ユニットと、LAN カードの両方が死んでいた。つまり電源とインターネット回線(当時は ADSL)の両方からものすごい電圧がかかったということである。インターネット回線から入ったので、当然ルーターも死んでいた。

それに「マーフィーの法則」 のいう通り、間の悪いことは間の悪いタイミングで起こるもので、私はその時、パソコンの電源を抜き忘れて、2泊 3日の帰郷をしていたのである。私は 1泊以上の留守にするときには必ずパソコンの電源を抜いておく習慣なのだが、その時に限って、休止状態にしたまま電源をつなぎっぱなしだったのである。

電源さえ抜いておけば、ルーターと LAN カードの損害だけで済んだのに。おかげで新品の DELL を買って、予期せぬ散財だったのだ。

とまあ、高い授業料を払ってしまったが、昨年死んだパソコンは、今年春に、電源ユニットと LAN カードの交換で、ついに生き返ったのであった。不幸中の幸いで、マザーボードまではいかれていなかったのだ。

生き返ったパソコンは、今、階下のリビングルームで、家族用のパソコンとしてしっかりと活躍してくれている。以前の家族用は私の大昔のお古で、気が遠くなるほど動作がのろかったので、生き返ったパソコンを使う家族は、ハッピーである。

というわけで、世の中、何が幸いするかわからないのである。

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2007年6月10日

「フェアトレード」 という行き方

古い友人、mikio さんのブログ 「飯豊の空の下から…」 の 今月 6日付 「コーヒーから見える世界」 というエントリーで、恥ずかしながら、初めて 「フェアトレード」 というものを知った。

Google で調べると、「ジャパンフェアトレードセンター」 なる団体があり、それがどんなものなのか、詳しく説明してある。

その説明は、気持ちのいいほど単純明快である。フェアトレードってなに? というページには、以下のように書いてある。

途上国の底辺で働く人達が貧困から抜け出せるように、彼等から直接、より高い値段で、継続的に商品を買うことです。

直接取引きすることで、中間マージンを排除し、その分生産者が多く受け取る仕組みを作り、取引を継続することでその仕組みをゆっくり大きく育てます。

これが、Wikipedia の 「公正取引」(公平取引 = fairtrade) の説明になると、以下のようにまわりくどい。

フェアトレード (公平貿易) は国際貿易における先進国と発展途上国の公平さを求める。発展途上国の立場の弱い生産者と労働者により良い取引状況を提供して、彼らの権利を強化することで、持続可能な開発が実現出来るように貢献する。フェアトレード (公平貿易) の機構は、従来の国際貿易の規則と実態を変化させるために働きかける。

要するに、世界の貧困な生産者の自立支援のために、輸入国側の、しかもより消費者に近い立場の人間が、彼らから直接買い付けることにより、より多くのプロフィットを彼らに保障するという考え方によるもののようなのだ。

それだけに、現地の仲買人や国際流通企業など、既存のセクターにとっては商売の邪魔ということにもなりかねず、「飯豊の空の下から…」に書かれているように、NPO フェアトレード活動者が、現地ブローカーの指金で命を狙われるという事態にもなるのだろう。

なかなか複雑怪奇な世界が垣間見える。

ただし、フェアトレードにも、問題点があるようなのだ。ジャパンフェアトレードセンターのサイトには、その多くの問題が包み隠さず紹介されている (参照)。

なるほど、通常の市場経済のルールからちょっと外れている分、値段、納期、品質などの面で、不合理が発生することがままあるようだ。市場経済のルールに従えば、あまり表面化しなくてもいい問題である。

こうした問題がありながらも、フェアトレードを推し進めようとするのは、とにもかくにも、世界の富の格差を何とかしようという人道的な発想からだろう。それに、市場経済のルールでは無視されがちなエコ的発想を、フェアトレードは取り入れやすい。

あるいは市場経済自体も、従来の単なる乱暴な競争原理だけでは自らの生存そのものが危うくなることに気付いて、エコの視点を導入せざるを得なくなりつつあるという状況があるため、それにつられて、フェアトレードの視点も徐々に取り入れられるということも考えられる。

フェアトレードは、多くの問題をはらみながらも、長期的に見れば、市場経済自体が辿るべき道筋を先取りしているとみることもできるだろう。市場経済のマジョリティが長い回り道を経て追いついてみれば、フェアトレードの問題点をかなり改善したシステムとして、定着させられるような気がしないでもない。

ただし、そうなるまでには、フェアトレードの先駆者は困難な道を切り開いて進むフロンティアスピリットの発揮を求められるだろう。

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2007年6月 9日

「軍備」という名の美容院

先日、青山骨董通りの裏道を歩いていると、 "Kakimoto Arms" という名前の店がある。武器マニアの店ではなく、美容院である。

なんでまた、美容院が「カキモト軍備」なんて名前なのかと思ったが、調べてみると、日本には「アーム」または「アームズ」という名の美容院が、かなり多いようなのだ。

念のため、前提として書いておこう。"Arm" という英単語の意味はもちろん「腕」なのだが、"arms" になると、単に「腕」の複数形の他に、別の単語として、「兵器」とか「武器」とか「軍備」とかいう意味になる。

本当か嘘か知らないが、ヘミングウェイの「武器よさらば」(A Farewell to Arms)を「両腕よさようなら」と誤訳した専門家がいるという有名な笑い話があるぐらい、ややこしいことなのだが、とにかく、"arms" は、普通は 「武器」 なのである。

で、気になって「アームズ/美容院」というキーワードでググって見ると、出てくるわ出てくるわ。前述の「カキモトアームズ」はかなり有名どころらしいが、その他にも日本には、「なんとかアーム」とか「かんとかアームズ」(「アームス」 と濁らない場合も多い) とかいう美容室が、かなり多いのだ (参照)。

それにしても、北海道から九州に至るまで、武器マニアの店と間違えられそうな名前の美容院がこんなにも多いというのは、いったいどういうことなのだろうか?

で、ふと思い当たったのは、もしかしたら、「腕前」という意味のつもりで使っているんじゃあるまいかということである。しかし、英語の "arm" には、テクニックとかスキルとかいう意味合いはない。

試しに、Goo 辞書で引いてみると、「n. 腕; (動物の) 前肢(し); 腕木; (いすの) ひじ掛け; 大枝; 部門; 入江; 力, 権力.」とある。間違えないようにしていただきたいが、「ひじ掛け」の後にあるのは、「大技 (おおわざ)」ではなく、「大枝 (おおえだ)」なので、技術とは無関係である。

要するに、"arm" という言葉はほとんど形状的な意味合いが強く、象徴的な意味合いとしては、「技術」なんかじゃなく「権力」「支配力」という意味合いで用いられる。どちらかといえば、「腕ずく」というニュアンスだ。ああ、彼我のメンタリティの差を感じるなあ。西洋人の脳みそは、筋肉でできているんじゃないかと思われるほどだ。

あるいはもしかして、フランスかアメリカにでも、洒落で "Arms" という店名にした美容院があって、それにあやかっているのだろうかとも思い、"arms/beauty" でググってみたが、それらしいところでは、せいぜい脇毛処理の話がひっかかるぐらいである。

ああ、気になってしょうがない。誰か、美容院の名前の 「アームズ」 の由来を知っている人がいたら、コメント欄ででも教えてもらいたい。

【H25年 4月 5日 追記】

この名前の由来がわかったので、"「腕ずく」で仕事する美容院が日本中に溢れてるので" というタイトルの記事にした。よかったらお読みいただきたい。

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2007年6月 8日

「エビ」の字をめぐる冒険

近頃まで「エビ」という字は「海老」と「鰕」の 2文字しか意識していなかったが、かの「エビちゃん」のおかげで、「蛯」という字もあったのだと思い出した。

さらに「蝦」なんていう字まである。また、「蛭」は 1文字では「ヒル」だが、「蛭子」と書くと「えびす」になるから、複雑だ。

私は、 「海老」 は大きな "lobster" で、 「鰕」 は小さな "shrimp" だと理解していたが、それは当たらずといえども遠からずだったようだ。複数のサイトを当たって確認してみたのだが、「海老は大きな歩くタイプ、蝦は小さな泳ぐタイプ」(参照) という点で共通している。なお、中くらいのエビ (手長エビや車エビ) は、英語では  "prawn" になるのだそうだ。

中華料理では、大体「蝦」の文字が使われるらしく、これが元々の漢字であるらしい。また、「鰕」も漢字である。日本では「海老」と書き慣わして、後に「蛯」という字を作ってしまったらしい。

つまり、「蛯」というのは、日本で作られた漢字 - 「国字」で、これに関しては、「作業メモとか考えた事とか」 の "もじもじカフェ「日本生まれの漢字たち」" というエントリーに詳しい。以下に引用させていただこう。

室町時代の手紙の文例集「庭訓往来」に、「螧」という字が出てくる。旁の「耆」という字は「おきな」とも読む字。これが江戸時代の初期に、「蛯」に変わったらしい。識字層が拡大して 「耆」 の字を知らない人が増え、「老」 で意味が十分であると見なされたようである。宮崎県に「蛯原」、青森県に「蛯名という姓が生まれる。「節用集」 という辞書で明治初期に使われた例を調べると「蛯」である。

なるほど、上記のリンク先をみると、エビちゃんは宮崎県生まれということで、また、競馬の騎手の蛯名正義は北海道出身とある(参照)。蛯名家の先祖が、青森県から北海道に渡ったものと考えられる。歴史というのは侮れないものである。

で、 「海老」と「鰕」だが、歌舞伎の世界におもしろいエピソードが伝わっている。

安永 (1772~81) から寛政期 (1789~1801) にかけて活躍した五代目市川団十郎は、51歳にして息子の海老蔵に六代目団十郎を継がせ、自らは 「市川蔵」 と改名した。四代目以前の団十郎は、名跡を譲った後は「海老蔵」になるのが恒例だったが、彼は謙遜して、「鰕蔵」を名乗ったのだった。

その際、「祖父は名人、親父は上手。いずれも江戸の飾り海老にござりますけれども、私儀はほんの天鰕(ザコエビ)でござりますれば、魚偏に段の字を書て、鰕蔵にござります」 と、口上に述べたと伝わっている。

団十郎ともなると、謙遜してなおかつ粋である。そしてこの辺りからも、「海老」は lobster で、「鰕」は shrimp という感覚が伝わってくる。

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2007年6月 7日

アダルトはアクセスアップの特効薬だが

ブログのアクセスが、突然増えてしまう時がある。大抵、大手ニュースサイト(例えば ここ とか)からリンクされた時で、うちのブログも過去に何度かそうしたケースがあった。

しかし、大手ニュースサイトよりもすごい効き目のリンクというものがある。それは、アダルトサイトからのリンクだ。

「世界のはて」というブログの 「はてぶよりも大手ニュースサイトよりも、遥かにたくさんのアクセス数を稼げるサイト」というエントリーでも触れられているが、確かに、アダルトサイトからリンクされると、「大手ニュースサイトやはてぶとは、文字通り桁が違う」ほどのアクセスが、短期間に集中する。

私のケースは、昨年の 5月 10日 (何と、母の亡くなるちょうど 1年前じゃないか)だった。突如、ほぼ 5~6秒に 1ヒットというアクセス・ラッシュになったのである。アクセス解析の詳細な記録は保存していないが、この日の夕刻からほぼ 24時間で、約 15,000 件のアクセスを集めてしまった。

これは、「動画普及委員会」 というアダルトサイトから、5月 8日のエントリー、"「渋滞学」 ってのは、面白そうだ" にリンクしてもらったためだったのである。あんまりすごいアクセスラッシュだったので、記念にその スクリーンショット を保存してある。(扇情的なリンクがたくさんあるが、単なる画像なので、クリックしても飛ばない。そのあたりよろしく)

これについては、その翌日の記事 「アダルトサイトからリンクしてもらった」 で詳しく触れている。アクセスを飛躍的に稼ぎたかったら、アダルトサイトからリンクしてもらうに限るのだ。エロ関係の力というのは、スゴイもののようなのである。

しかし、どうすればアダルトサイトからリンクしてもらえるかというノウハウは、全然ないのである。前述のケースにしても、何でまた "「渋滞学」 ってのは、面白そうだ" なんてちょっと硬いエントリーが、他のムラムラっとしそうなサイトに混じってリンクしてもらえたのか、今でもさっぱりわからない。

要するに、アダルトサイト管理人のちょっとした気紛れに期待するしかないようなのだ。

そして、こうしたアクセスラッシュというのは、本当に一時的なもので、その集中豪雨的アクセスの数時間(あるいは数日)が過ぎ去ってしまうと、ほぼそれ以前の状態にもどってしまうのである。それは、他のニュースサイトからのリンクの場合もまったく同様だ。

短期間に 15,000 ものアクセスがあったのだから、その 10% の 1,500 人ぐらい、あるいは、5%の 750人でいいから、その後ずっと常連さんになってくれてもよさそうなものなのに、結論的には、そんなことはほとんどないのだ。まったく、薄情なものである。

で、何が言いたいのかというと、アクセスを増やしたかったら、一時的なカンフル剤みたいな大手サイトからのリンクに頼らずに、地道にまともな記事を書き続けるしかないんじゃなかろうかということなのである。

そうすれば、ほんのたまに大手サイトからリンクしてもらうこともあり、その時にどっと増えたアクセスの中から、ほんの 0.1%ぐらいは、常連さんになってくれることもあるかもしれないのだ。

それは、チラシを 500,000枚まいたら、そのうちの5,000人ぐらいは実際に来店してくれて、さらにそのうちの 5人ぐらいは常連客になってくれるかもしれないというような程度のものである。せいぜい、まともなチラシを書き続けることである。

当たり前すぎる結論で、ごめん。

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2007年6月 6日

夏は、生命活動の本場所なのだが

最近、我が家の裏の土手の道を散歩すると、夏らしさを色濃く感じる。とにかく、「生命」の気配が濃厚なのだ。

動物でも植物でも、夏は生命活動の本場所なのだろう。鳥や虫や魚の動く気配に満ち満ちているし、植物でも、緑や色とりどりの花が、鬱蒼としている。

花々の多くはは春から秋にかけて咲くが、夏に咲くのがとくに多い。夏の間のハイシーズンに紛れ込めないのが、春とか秋とかに咲くんじゃないかと思うほど、夏は花々のラッシュだ。

それに、土手の道を歩くと虫が多い。夕方なんか、虫が多すぎてジョギングなんかできないほどだ。下手に口を開けて呼吸してしまったら、小さな虫を吸い込んでしまいそうだ。

とにかく目に見える動植物のみならず、肉眼には見えない微生物に至るまで、夏が大好きのようなのだ。多くの動植物は、夏に最適化しているように思われる。

これほどまでに生命が満ちあふれる夏なのだが、我ら人間は、その暑さが苦手で、「夏痩せ」なんてものをする。

思うに我ら人間は、一年中活発に動き回るために、春と秋に最適化してしまっているんじゃなかろうか。他の動植物のように夏に最適化してしまったら、冬が寒過ぎて、凍えてしまうだろう。

他の動植物は、寒い冬の間は、冬眠するとか、卵や種、あるいは落葉した状態で越冬するとかが多いのに、人間は冬でもジタバタとしょうもない活動をして過ごす。そんな「業」のようなものを抱えているので、せっかくの生命の本場所である夏に最適化しきれないのだ。

一年中ジタバタするために、夏と冬には、多少の我慢をして乗り切らなければならない。ああ、なんと業の深いことであるか。

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2007年6月 5日

この夏は、猛暑で小雨になりそう

今年の夏は、ラニーニャ現象の影響で、猛暑・小雨になりそうだと予測されている。気象庁発表の 6-8月の 3ヶ月予報でも、関東甲信越は、気温の高い確率 50%。小雨の確率 40%とされている。(参照

それにしても、この中長期予報というやつは、本当にわかりにくいなあ。

何しろ、上記でリンクした気象庁のページを見てみると、気温に関しては、6-8月の 3ヶ月では、平年より低い確率が 20%、平年並みの確率が 30%、平年より高い確率が 50%なんだそうだ。

これって、どう読み解けばいいのかというと、平年より気温の高い確率が半分しかないというよりは、低かったり、平年並みだったりする確率の 2倍ぐらい高いというふうにみるのが妥当ということのようで、要するに気象庁は、「暑い夏になるだろう」と言いたいらしい。

ところが、過去の実績をみると、気象庁の中長期予報が当たったという確率は 50%を僅かに切るようで、つまり、当たらなかったことの方がちょっとだけ多いのだ。ということは、平年並みだったり、平年より低かったりする確率が、半分だけ担保されているということが、妙な説得力をもったりしている。

というわけで、私なんか、中長期予報は信じない人なのである。結局、わけわからんし、外れても、ちゃんと言い訳が用意されて過ぎているものを、信じろという方が無理だ。

で、今回の猛暑・小雨の予報の根拠の一つとなっているラニーニャ現象というのは、4月あたりから、6-7月に南米沖で発生する可能性が高いと、ずっと言われているのだが、6月に入った今でも、「発生した」とは伝えられていない。

どうなってるんだか、よくわからないのである。どうも、気象予報の世界というのは、専門家の独占状態になっているようで、法律的にもがんじがらめの縛りがきつい。素人が勝手なことを言ってはいけないし、玄人でもうかつなことを言っちゃいけないことになっている。

そりゃ、外れたら鬼の首でも取ったように文句を言ったり、苦情を言ってきたりするのが多いから、予報する立場の者が決定的な責任を取らないようなシステムを構築しておく必要があるのだろうが、かといって、ものすごくグレーゾーンのきつい表現ばかりするようなことでは、結局わけがわからんのだ。

明日や明後日の天気は、近頃、かなりよく当たるが、一週間先の天気となると、なかなか当たらない。ましてや、3ヶ月先の天気なんて、どうせ、当たるも八卦、当たらぬも八卦みたいな世界である。

でも、私は昨日、我が家の裏の土手の道を歩いて、「この夏は猛暑になりそう」との予測を信じることにした。昨日の日射しを浴びて、なんとなくしっくり来てしまったのである。天気なんて、要するに、しっくり来るか来ないかというお話である。で、私としては暑い夏を覚悟することに決めたと、そういうお話である。

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2007年6月 4日

「ヤンキー」 が、好きラー!?

コンビニの前でウンコ座りしてる若者に、西城秀樹が「好きラー!」と叫んだのがニュースになったのかと思ったら、違ってた。

Goo トップページ、「注目のトップニュース」 の欄に、"「ヤンキースキラー」 ヒデキ絶賛" と載っていたので、つい勘違いしてしまったのだが、この表記、やっぱりおかしいよなあ。

で、クリックしてみたら、下の方の画像でおわかりのように、「ヤンキースキラー」 ではなく、「ヤンキース・キラー」 と、いわゆる 「ナカグロ」 が入っていて、「ヒデキ」は「ヒデキ」でも、ニューヨーク・ヤンキースをキリキリ舞いさせた岡島秀樹投手のことだとわかったのである。

06yankee1

06yankee2 

想像するに、元々の記事ではナカグロ入りの 「ヤンキース・キラー」 だったのが、インターネット配信の際に、急いだ担当者がナカグロを入れ忘れて、見出しを入力しちゃったんじゃないかと思う。まあ、よくあることだけど。

で、表記の問題だが、大方の日本人は 「ヤンキース・キラー」 と、ナカグロを入れてくれさえすれば、西城秀樹がヤンキーを絶賛したんじゃないということはわかると思うのだが、ことはもう少し複雑なのだ。

Recordonline.com の記事を見てもらえばわかるように、正しい英語の表記は、"Yankee killer" なのである。"Yankees Killer" じゃないのだ。(「ヤンキー」 と、単数形になる)

 06yankee3  

 これは、英語では名詞を形容詞的に用いるときは単数形になるという文法規則によっているもので、例えば、ヤンキースのホーム球場は、「ヤンキース・スタジアム」 ではなく 「ヤンキー・スタジアム」 である。

で、この一応正しい英語をそのまま日本語のカタカナにすると、「ヤンキー・キラー」 になるのだが、こうすると、なんだか穏やかじゃないムードに包まれてしまう。米国人専門の殺し屋か、コンビニの前でウンコ座りしてる若い子専門の殺し屋みたいに思われかねない。あるいは、なぜかヤンキーにモテモテの女の子とか。

こんな場合にはあえて、英語としては間違いだが、 「ヤンキース・キラー」 と表記する方が、日本語としてはなんとなくしっくりくるということがあるので、ナカグロさえ付けてくれれば、あまり無闇なツッコミはしなくていいと思う。(ただし固有名詞の「ヤンキー・スタジアム」は間違えないでもらいたいが)

まあ、細かいことを言えば、無声音で終わってるんじゃないから、「ヤンキース」じゃなくて、「ヤンキーズ」であるべきだとか、いろいろあるのだが、それは置いておこう。(実感的には「ヤンキース」 に聞こえるしね)

とにかく言葉の表記というものは、とくに翻訳が混じってしまうと、本当に難しいところがあるのだ。

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2007年6月 3日

やっぱり 「マイ箸」 でないとね

今年の 1月からマイ箸を持ち始めて(参照)、もうかれこれ 5ヶ月近くになる。ここまでくると、もう元には戻れない。

最近では、いかにも安物の割り箸を見ると、「こんなん、使って大丈夫かなあ?」という気になる。そしてこの感覚が、単なる気のせいではなく、根拠のあることだとわかった。

中国製の安物の割り箸は、実は、薬品漬けであるらしい。中国製品は、キクラゲやペットフードや薬や粉ミルクで危険性が次々に明るみに出ているので、割り箸がへんてこな薬品漬けであっても、今さら驚かないが。

楽しい株式会社(という社名)の、CERES 竹割り箸を訴求するウェブページ(参照)を見ると、従来品の割り箸というのは、防かび剤、防腐剤、農薬、漂白剤で処理されているらしい。

このウェブページでは、従来品の割り箸を 15膳、金魚鉢の中に沈めておくと、3日後に水が黒く濁り、1週間で金魚が死んでしまったと報告されている。自分でやったわけじゃないから、完璧に信用するわけじゃないが、まんざらデタラメでもなさそうな気がする。

それにどんな割り箸でも、従来品なら多少は薬品処理されているのかもしれないが、中国製は限度知らずなんじゃあるまいかなんて、疑心暗鬼になってしまう。そして、外食産業で使われている安物の割り箸は、ほとんどが中国製なのだ。それを考えると、ちょっとコワイ。マイ箸にしておいてよかった。

私はそもそもは、環境保全に微力ながら貢献しようと思ってマイ箸にしたのだが、それは我が身の健康を守るためにも役立っているようなのだ。

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2007年6月 2日

日本人は Yahoo がお好き

日経リサーチが 5月30日に発表した調査結果によると、日本のインターネット・ユーザーの 6割が Yahoo!JAPAN をスタートページに設定しているという。(参照

半分以上が、Yahoo Japan を起点としているわけだ。ざっとみても、Google の 7倍近くである。すごいなあ。

ちなみに、私の場合は、「スタートページは何?」 という質問はあまり意味をなさない。かなり以前からタブ・ブラウザーの Firefox を使っているので、単数形の 「スタートページ」 ではなく、複数形の 「スタートページズ」 になってしまっているのだ。Firefox を起動させると、一挙に 9つのタブに 9つのサイトが表示される。

これは、ブロードバンドなればこその荒技で、ADSL 時代でもあまりストレスは感じなかったが、FTTH 化してからは、ますますあっという間に表示されるようになった。6.0 以前のバージョンの IE を使っている人は、この感覚は理解できないだろうなあ。

ところで、件の調査結果に関する疑問なのだが、6割の人がスタートページに使っているという Yahoo! JAPAN だが、このうちの、何割が My Yahoo なんだろう? ちなみに、私は My Yahoo を設定してあるのだが、自分の「スタートページズ」の 9サイトには入れていない。

周囲を見渡すと、確かに Yahoo Japan をスタートページにしているらしい人は、かなり多く見かけるが、My Yahoo にしてある人は、あまり見たことがない。私は、Yahoo をスタートページにするなら、My Yahoo にしなければ、その意義は半減すると思うのだがなあ。

ところで Yahoo がこんなに強いのは、日本の特殊事情であるらしい。米国では、Google がかなり強いらしいから。

で、私は米国で Google が強いのは、表示が軽いからじゃないかと思っている。米国は、インターネット・ユーザーは多いが、ブロードバンド普及率はそれほど高くない。多分、市内電話が定額制という地域が多いので、一度ダイヤルアップでつないでしまえば、ほとんど常時接続みたいなものだからかもしれない。

だから、米国人は割と軽いサイトが好きである。画像なんかあまり使わずに、テキスト主体のデザインが多いのだ。Google のデザインなんて、多分、米国人好みなのかもしれない。

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2007年6月 1日

「カンタンケータイ」 への疑問

シニア層は 「携帯電話で残された最後の "新規契約市場"」 なのでそうで、携帯各社は、いわゆる 「カンタンケータイ」 で、新規ユーザー獲得を狙っているんだそうだ。(参照

だが、断言してもいいけど、この試みは、思うような成果を上げられないだろう。年寄りは「簡単なら使う」というわけじゃないのだ。

ケータイは、今や生活必需品と化したかのように思われる。まだケータイを持たなかった 10数年前は、そんなものなくても、全然不便を感じなかったのに、今ではたまにケータイを忘れて外出したりすると、一日中、漠然とした不安感にさいなまされたりする。

こんなような実感があるから、「ケータイは持ってて当たり前」と思っている人間は、「お年寄りにも使いやすいケータイ」なんてものを開発しようとする。そんなケータイがあったら、おじいちゃんやおばあちゃんは、喜んで使ってくれるだろうと。

しかし、それはほとんど幻想である。

「ケータイが当たり前の時代」 となった今日、それでもケータイを持たないということを選択している層というのは、「そんなものなくても、全然不便を感じない」という、我々が 10数年前に抱いていたイメージの方に、より「しっくりくる」ものを感じているのだ。

その状態に「しっくり」きてるんだから、「ほぉら、こんなにカンタンでしょ。家庭電話とほとんど変わらない操作方法なんだから、おじいちゃんだって、楽に使えるわよ」なんて言われても、それは余計なお世話なのである。逆に馬鹿にされているような気さえする。

家庭電話と変わらない操作方法なら、家庭電話を使えばいいじゃないかと、彼らはごく当然のことを考えるのである。「外出先で便利」なんて言われても、一人で外出するのは、近所の買い物か、散歩ぐらいのもので、遠出するときには大抵、誰かケータイを持ったものが一緒にいる。自分で慣れないものをもつ必要なんて、全然ない。

例えば、私の父などは、大分前に妹からケータイをプレゼントされたが、その電源を入れたことすら滅多になく、「使わんものに基本料払うのもアホらしい」と、つい最近、解約してしまった。

身近にも、家族から無理矢理ケータイを持たされながら、「かかってくるのがうっとうしいから」と、誰にも自分の番号を教えないという人が、何人かいる。こういう人は、大抵バッグの奥とか、デスクの引き出しの中とかにしまっていて、かかってきても気付かないなんてことが多い。

だから、例え番号を知っていても、「どうせかけても出ないから」と、誰もかけなくなる。宝の持ち腐れだ。要するに、価値観が違うのである。

総務省の「平成17年通信利用動向調査」によると、65-69歳のケータイ普及率は 48.3%なんだそうだ。この 48.3%の中でも、まともに使っている人は、七掛けか八掛けぐらいかもしれないが。

それでも、シニア層でも多分、3分の 1 ぐらいは、必要と感じて、別に「カンタンケータイ」でなくても、とっくに使いこなしているのである。その中には、機能を絞った「カンタンケータイ」では、逆に不便を感じる人も少なからずいるだろう。

「カンタンケータイ」がまったく無意味というわけではない。それを必要とする市場もなくはないのだろう。それでも、それによってシニア市場が大きく変わるなんて期待は、持たない方がいい。いくらカンタンでも、いらないものはいらないのだ。

【追記】

このエントリーをアップしてから、ふと気付いたのだが、ケータイ屋さんは、年寄りがケータイを使いこなそうが、引き出しの奥にしまい込んでいようが、関係ないんだろう。

要するに、息子、娘の世代が、「おじいちゃんにもケータイ持ってもらおう」と考えて、プレゼントするという、そのギフト需要がありさえすればいいと。そうすれば、全然使わなくても基本料金だけは入ってくるから。

なるほど、要は、本当にシニア世代が使うかどうかではなく、「これなら、おじいちゃんもきっと使ってくれるかも」という幻想を抱かせることが重要なのだな。

でも、それはまさに 「幻想」 なのだ。前述のうちの父の例をみてもわかるけど。

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