些細な些細な仏道修行
『無門関』第七則に「趙州洗鉢」というのがある。日常の作務の中に仏道の本質はあるというふうな解説がなされている。
要するに、「仏道をお示しください」と問いかけた新参の僧に、趙州和尚が「飯を食ったら、その器を洗っときなさい」と言ったという、それだけの話なのだが。
ことの次第はこんな問答だったようなのである。
新参僧 「どうぞ仏道修行のおさしずを。」
趙州 「粥 (朝食) は食ったか?」
新参僧 「はい、いただきました。」
趙州 「そうか、それなら、鉢を洗いなさい。」
で、この新参僧は気付くところがあったというわけだ。
これに対して、『無門関』をまとめた無門和尚は「趙州はパックリと口を開いて、何もかも見せている。しかしこの新参僧は、本当に悟ったのか」と論評している。わけわからんお話だが。
これを読んで、私はこの新参僧の「浅い気付き」にも追いつかないほどの「些細な気付き」というものをなまじ得てしまったものだから、飯を食ったらさっさと食器を洗うことを自分に課している。外食の時は洗い場に入っていくわけにもいかないから、せめて洗いやすいように、きれいに食べることを心がけている。
で、無門和尚がいうには「飯を食ったら食器を洗うということは、仏道修行の肝心を口をぱっくり開けてさらけ出したほどに、あらいざらい示してしまったのだ」ということなので、いくら 「些細な気付き」 でも、私はその「仏道修行の肝心」を実践させてもらっているのだと、信じることにしている。
自分自身の気付きは些細でも、「肝心」とやらを続けてさえいれば、そのうちなんとかなるだろう。余計なことを考えているよりも、実践と継続だ。この程度で仏道修行している気になるのだから、楽といえば楽なものだ。
ちょっとだけ気をつけているのは、単なる義務とか惰性としてやるんじゃなく、「洗わせてもらってる」という意識を保つぐらいかな。これがなかなか難しくって、どうもうまくいかないのだけどね。
母の納骨式が終わったばかりのせいで、ちょっとだけ殊勝なことを書かせてもらった。悪しからず。
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